(ちょっかんしゅぎ intuitionism)
英文学者福原麟太郎教授は説かれた。スベキダ・スベキデナイと論ずる余地なく、 スル・シナイ、と決まったことが人の世にはあるのだ、と。 それを直覚するのが道理の感覚である。
---芳賀やすし
直覚主義は政治的保守主義の逃げ場である。 宗教的寛容や離婚法の自由化など、 社会変革を訴える功利主義的な議論に対して、 保守主義者は、自分たちが抱く道徳的嫌悪の感情を引き合いに出し、 自分たちの感情は、道徳的真理のアプリオリな知覚を反映しているのだと 主張した。 ベンタムもミルも、道徳的議論の仮装をまとった このような偏見のオンパレードを許さなかった。 彼らの一致した意見によると、 道徳的主張が正当化されるのは経験に訴えることのできる基準によって のみであり、 内面の確信のアプリオリな基準とされるものに訴えることでは正当化され なかった。
---Elizabeth S. Anderson
歴史を振り返ってみると、 直観主義は非常に奇妙な現象--非常に鋭い洞察を含んでいると同時に、 まったく何も明らかにしない著作群--だったように思われる。 そのため、それをどうやって説明したらよいのか、 その始まりが何だったのか説明するのに困るのである。
---G.J. Warnock
基本的な道徳規則の正しさは、 論証によって証明することはできず、 むしろ胸に手をあててよく考えればわかるものだ、とする立場。 通常、道徳的に腐敗した人々から 「おれはちっともわからんぞ」と言って反論される。直覚主義とも。 (07/27/99)
直観主義にもいろいろな種類があると言われる。 たとえばジョン・ロールズが問題にする直観主義は、 (1)特定の状況において衝突する可能性がある複数の道徳原則が存在し、 (2)それらの原則間の優先順位を決めるための実質的な基準やプロセスは存在せず、 その状況においてどの原則の考慮が優先するかを決めるのはわれわれの直観だとする立場である (J. Ralws, A Theory of Justice revised ed., Harvard UP, 1999, p. 30)。
ロールズは同じ頁の注18で別の種類の直観主義、 すなわち認識論的な種類の直観主義も論じている。 これは、道徳原則の正しさは自明的かつ必然的にわかるという立場である。 ロールズはムーアやロスや その他の古典的な思想家をこちらに入れ、上のタイプの直観主義者として ブライアン・バリーやリチャード・ブラントなどを挙げている。
(11/Oct/2008追記)
G・J・ウォーノックによれば、 ムーアやプリチャード といった直観主義者の思考法は、次のようなものである。
彼らの考えによると、 一般に形容詞は事物の性質を指し示す。 たとえば、「水仙は黄色い」と言えば、「黄色い」という形容詞は、 水仙の持つ「黄色さ」という性質を指す。 そこで同様に、「善い」や「正しい」という形容詞も、 事物や行為が持つ「善さ」または「正しさ」という性質を指すとされる。
しかし、「善さ」や「正しさ」といった性質は 「快さ」や「望ましさ」などの自然的な性質と同一視することはできないため、 彼らは「善さ」や「正しさ」を非自然的な性質(あるいは、道徳的な性質) と見なし、それらは直観によって把握されると考えた。
ウォーノックの考えでは、 直観主義は道徳的なものと非道徳的なものとの区別を主張した点は評価できるが、 この考え方には以下の三つの問題点がある。 一つは「善さ」や「正しさ」などの道徳的性質と、 「黄色さ」や「快さ」などの非道徳的な性質の区別をしたのはいいが、 道徳的性質と非道徳的な性質の関係を考慮していない点。 「善さ」と「快さ」を同一視することはできないとしても、 道徳的性質と非道徳的性質の間には何らかの依存関係がある と思われる。 (ロスはこの点を若干考慮している)
もう一つは、 「黄色さ」を直観するのと「善さ」を直観するのとでは決定的に違いがあるという点。 「水仙の黄色さ」は通常の観察によって調べることができるが、 「ソクラテスの善さ」は同様な観察によって調べることができない。 直観主義者はその区別をあいまいにし、 あたかも道徳的な議論は起こりえないかのように見せかけている。
三つ目は、 直観主義者によれば「善い」や「正しい」というような形容詞は 事物や行為についての情報を与える働きをするとされるが、 その情報とわれわれの行為との関係が説明されていない、という点。 直観主義者によれば「ある行為はわたしの義務である」 という情報はわたしにその行為をするよう促すが、 「ある行為は水曜日に始まる」という情報は わたしのその行為をするように促すわけではない。 この違いがどのように説明されるのか、 直観主義者は決定的に説明不足である。
このような直観主義者の間違いは、「善い」や「悪い」という形容詞が、 「黄色い」や「赤い」と同じように、 主語について何かを記述していると考えられたことが 一因だと考えられる。 これは、「判断というのは、主語について何かを語ることだ」 と理解されていた当時の哲学的思考の限界を反映していると言える (ウォーノックは、それ以外に、 ムーアやロスが当時の道徳に疑問を抱いていなかったから このように「道徳には理論は不要だ」 という理論で満足していたのだろうと説明している)。 直観主義の次に登場する情動説は、 論理実証主義や オースティンらの発話行為の知見を生かして、 「善い」や「正しい」といった形容詞は主語について何かを記述しているのではなく (あるいは単に記述するだけではなく)、命令したり、推奨したりしている という理論を展開した。
19/Nov/2004加筆修正
参考文献
(31/May/2000 追記)
冒頭の引用は以下の著作から。