(ちょっかん intuition)
「直観」というのは、感覚の変りやすい証しでもなく、 虚構の想像力の誤れる判断でもなくて、純粋なかつ注意せる精神の把握、 しかも理解するところについて何の疑いをも残さぬほど容易な判明な把握である。 換言すれば、ただ理性の光からのみ生まれ、演繹よりも単純であるがゆえに 一層確実であるところの、純粋なかつ注意せる精神の不可疑の把握、である(…)。 かくてすべての人は精神を以って直観することができる、 みずからが存在すること、みずからが思惟すること、 三角形がただ三つの線によって限界づけられること、 球がただ一つの面によって限界づけられること、など。
---デカルト
「なぜ"直感"ではなくて"直観"なのですか?」(略)
私の言う「直観」とは、そういうもの [=直感、すなわち一瞬の閃きでスッカリ感じ取ってしまうこと] ではないのである。
では、「直観」とは何か? 自分の頭だけで徹底的に考え、 考え尽くして、自分なりの「考えの道筋」を作っていくと、 じきに「その道筋をスキップして飛び跳ねて、 向こうに行ってしまっても大丈夫」という具合に頭の中が動くようになる。 そうすると、問題を見た途端に、その起点と終点とを一気に 結びつけられるようになる。 つまり、途中でいろいろ計算したり、理路整然と論理を構築したりすることなく、 問題の本質がズバリとわかるようになるのである。こういう頭の中の動きを、 私は「直観」と呼ぶ。
これは言い換えると、物事を徹底的によく考え、 考えぬいた人だけが「直観」を体得できるということである。(略)
「直観」の「観」という字は「わかる」という意味である。 「感じる」ではない。だから、「直感」ではなくて「直観」なのである。---畑村洋太郎
What I am saying, in brief, is this. Advances in our understanding of ethics do not themselves directly imply any normative conclusions, but they undermine some conceptions of doing ethics which themselves have normative conclusions. Those conceptions of ethics tend to be too respectful of our intuitions. Our better understanding of ethics gives us grounds for being less respectful of them.
---Peter Singer
見て直ちに明晰判明にわかることを、「直観によって知る」という。 「直ちに」というのは、数学における証明などが必要なく、 もう自明としか言いようがない仕方でわかってしまうということである。
倫理においても同様の直観(倫理的直観)がある。 これは、 その状況を見れば直ちにすべきことがわかってしまうということである。 功利主義者のような経験主義に コミットしている人々は一般に、この倫理的直観は、 そろばんが得意になってくると四ケタの足し算引き算でも暗算で できるようになるのと同じで、 これまでの経験(修業)の結果と見て、何ら特別なものとは考えない。 そして、しばしば直観とは先入見の言い換えにすぎないとみなす。
一方、直観主義にコミットしている人々は、 このような直観をそのような経験の単なる積み重ねとは見ずに、 何か特別な認識論的地位を与えようとする。 すなわち、何か特別な感覚器官があるとか、 理性的直観によって正しいものが直接的に把握されるだとか、 そういうようなことを主張する。
少なくともシジウィックの頃までは、 イギリス倫理学の大きな対立軸は「功利主義」対「直観主義」 という風に理解されていた。 しかし、その後いつからか正確には知らないが、 「功利主義」対「義務論」という風に変わった。 しかし、基本的には義務論は直観主義の名前が変わったものである。
08/Nov/2004
上の引用は以下の著作から。