デカルト

(でかると Descartes, Rene')

デカルトは、哲学において「一生に一度は」すべてをくつがえして新たに土台 から建て直すべきであるという。すべてを一度白紙にもどして考え直すという のが彼の「疑い」の目指すところだった。

---野田又夫

どこかの森に迷いこんだ旅人たちは、 あちらへ向かったり、こちらへ向かったりして迷い歩くべきではなく、 いわんやまた一つの場所にとどまっているべきでもなく、 つねに同じ方向に、できるかぎりまっすぐに進むべきであって、 その方向を彼らに選ばせたものが はじめはたんなる偶然にすぎなかったかもしれぬにしても、 少々の理由ではその方向を変えるべきではないのである。

---デカルト

より困難なものを、より美しきものと見ること、 これが人類の通弊である。

---デカルト

ともかくも、事物の真理を探ねるのに、方法なしでやるくらいなら、 それを全く企てない方が遥かにましなのである。 というのは、そういう無秩序な研究や不明瞭な省察によって自然的 光明が曇らされ精神が盲にされるにきまっているからである。

---デカルト

アルキメデスが、地球全体をその場所からよそへ動かすために求めたものは、 確固不動の一点だけであった。 したがって私も、たとえほんのわずかでも、 何か確実でゆるぎのないものを見いだすならば、 大きな希望をいだいてよいはずである。

---デカルト

「直観」というのは、感覚の変りやすい証しでもなく、 虚構の想像力の誤れる判断でもなくて、純粋なかつ注意せる精神の把握、 しかも理解するところについて何の疑いをも残さぬほど容易な判明な把握である。 換言すれば、ただ理性の光からのみ生まれ、演繹よりも単純であるがゆえに 一層確実であるところの、純粋なかつ注意せる精神の不可疑の把握、である(…)。 かくてすべての人は精神を以って直観することができる、 みずからが存在すること、みずからが思惟すること、 三角形がただ三つの線によって限界づけられること、 球がただ一つの面によって限界づけられること、など。

---デカルト

古人の書物は読むべきである。というのは、 かほど多くの人々の仕事をわれらが利用しうるということは、 すでに正しく発見されたことを知るためにも、 またすべての学問において今後発見すべきものとしていったい何が残っているかを 覚るためにも、非常な利益だからである。 しかしながら、これらの書物をあまり熱心に読むことの結果として、 誤謬の汚点が、いかにそれを拒否し警戒していても、 われわれに染みつくかも知れぬ、という危険は大いにある。

---デカルト

かれらは自分が何かを知らぬと告白することを学者にはふさわしかぬことだと 信じたから、自己の虚構の学説を粉飾するに慣れて、 果ては次第にみずからもそれを信じ込んでしまい、 かくて人にもそれを真理として勧めるに至ったのである。

---デカルト

真を偽から区別できないで、 疑わしいものを確実なものと認めざるをえぬに至るくらいならば、 全く研究しない方がましである。

---デカルト

ところで、哲学することなしに生きてゆこうとするのは、 まさしく、目を閉じてけっして開こうとしないのと同じことです。

---デカルト


フランスの哲学者(1596-1650)。 ラテン名はRenatus Cartesius。 デカルト主義者はカルテジアン(Cartesian)と呼ばれる。 近代哲学の基礎をつくったとされる偉い人。 哲学者であると同時に科学者、医者でもあったが、 自分の病気について誤診をして死んでしまった。 (懐疑主義の項も参照せよ)

主著は『方法序説』(1637)、『省察』(1641)、 『哲学原理』(1644)など。 『方法序説』は平易で哲学入門としても読めるので、 とくに初学者はぜひ読むべし。 (05/14/99)

くれぐれも「デスカルテス」と呼ばないように注意しよう。 (03/May/2000)


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Feb 4 10:23:31 JST 2015