(ちしき knowledge)
この木はこの山の中にひとりさびしく立っている。 これは人間と動物を超えて、高々と生長した。
たとえこの木が語ろうとしても、 かれを理解できるものはいないだろう。 それほどまでに、高々と生長した。
いま、この木は待ちに待っている。 ---何をいったい待っているのか? この木は雲の座にあまりにも近く達している。 この木はおそらく稲妻に打たれるのを待っているのだ。---ニーチェ、『ツァラトゥストラ』、「山上の木」より
智慧はどこで見出され/悟りのある場所はどこなのか。
人はそこに行く道を知らず/生ける者の地で見出すことはできない。
淵は言う、それはわたしの中にはないと。
海も言う、それはわたしとともにないと。
それを獲るための純金はなく/その値いとなる銀を量ることもできない。
オフィルの金もその支払いに足りず/貴紅玉髄もサファイアも足りない。
金も瑠璃もその値いに足りず/貴橄欖石の器物もその代価とならない。
さんごも水晶も言うに足らず/一袋の智慧は一つなぎの真珠にまさる。---関根正雄訳、『旧訳聖書 ヨブ記』、岩波クラシックス、1983年、101頁
哲学の始めを見るがいい、 それは人間相互における矛盾の認識であり、 矛盾の出て来る根源の探求であり、 単に思われるということに対する非難と不信とであり、 また思われるということについて、 それが正しいかどうかの何か研究であり、 また例えば重量の場合に、秤を発見し、 曲直の場合に定規を発見するように何か基準を発見することだ。
---エピクテートス
真知とも。 世間の人々は、 「知っていること」というほどの意味で使うが、 哲学や倫理学の世界では、「真理を知っていること」、 あるいは「絶対確実な知」を指し、 不確実な知である「思いなし」 と対比されるので注意が必要である。 たとえばロックが用いる knowledgeとopinionの区別は、 ギリシア語のepistemeとdoxaの区別に対応する と言える。 (08/04/99)
「思いなし」というのは、 一般に「知識」よりも低い評価を受けるわけであるが、 「思いなし」の中でも「正しい思いなし」は ある程度の評価を受ける。 「正しい思いなし」とは、たとえば民間療法のように、 根拠はよくわからないがとにかくこうすれば病気が治る、 というような、 「理由は述べられないが正しい(真なる)意見」のことを指す。 理由が述べられるようであれば、 それは「正しい思いなし」から「知識」へと昇格される。 (08/18/99 追記)
倫理学において、この「思いなし」に当たるのは直観(intuition)である。 通常、直観は、道徳的問題についての非反省的な(=よく考えていない、反射的な) 答えのことを指すが、直観主義の立場では、 上の「正しい思いなし」と同様に、 直観は「それ以上理由を必要としない真なる知識」として扱われる。 (11/Jun/2004 追記)