(むーあ Moore, George Edward)
It is not the business of the ethical philosopher to give personal advice or exhortation.
---G.E. Moore
[T]he local ladies were scandalized to see the distinguished philosopher G. E. Moore actually wheeling his children about in a pram.
---Mary Midgley, Owl of Minerva: A Memoir
英国の哲学者(1873-1958)。 シジウィックの弟子。 主著は『倫理学原理』 (Principia Ethica)で、 「善さ」を「快さ」や「望まれるもの」 などによって定義しようとするこれまでの試みをすべて 自然主義的誤謬として退け、 「善さ」は定義できず、直観によってしか捉えられない、 と論じた。すなわち、 われわれは友情や美しさが「善いもの」であることは直観によってわかるが、 「善さ」そのものは説明できないといういうことである。 ただし、「正しさ」は「善さ」を用いて定義することが可能であり、 可能なかぎり多くの量の善を生み出す行為が正しいとされる。
善についてのムーアの理論は、 その後の倫理学においてほとんど完膚なきまでに論駁されたと言えるが、 やはり20世紀の倫理学--少なくともその前半-- の方向性を定めたという点で、偉い人と言えそうである。
ムーアの議論に対する批判については、 自然主義的誤謬、 直観主義の項を参照せよ。
04/20/99; 19/Nov/2004追記
ムーアがやりたかったのは、 ソクラテス が実践していたことと似ている (たとえば『メノン』の冒頭を見よ)。 すなわち、ムーアは、「正しさ」や「善さ」について明確な理解なしに、 「かくかくしかじかは正しい」とか「かくかくしかじか(のみが)善い」 などという主張がなされるのに疑問を持ったのだ。 そこで彼はまず、「正しいとは何なのか」「善いとは何なのか」 というソクラテス的な本質への問いを立てた。 言いかえれば、「正しさ」や、「善さ」の定義を求めたのである。 彼の考えでは、これらの問いにしっかりした答えを与えることができなければ、 「かくかくしかじかは正しい」とか「かくかくしかじか(のみが)善い」 という主張は土台の不確かなものでしかないのであった。
ムーアによれば、 「善いとは何なのか」という問いの方が、 「正しいとは何なのか」という問いに先立つ。 というのは、ある行為が正しいのは、 それが「善いもの」を最大限促進する場合だからである。 そこでまず彼は「善さ」の定義を試みるが、 彼によれば、定義とはある複合的な観念を それを構成する単純観念を枚挙することによって説明することであるが、 「善さ」の観念は単純観念であるから定義することはできない。 われわれは、「黄色」の観念と同様に、 「善さ」の観念を直観することはできても定義することはできないのである。 (この考え方はロックの観念論を踏まえている) それゆえ、ムーアの考えでは、 「善さ」を定義してこようとしたこれまでの倫理学説はことごとく誤り (自然主義的誤謬)を犯しているのである。 (12/24/99 追記)
ムーアは『倫理学原理』の冒頭で バトラーの `Every thing is what it is, and not another thing.' という言葉を引用している。 これは「AはAであり非Aではない」という意味であり、 同一律の表現として古くから知られているものである。 バトラーはこの表現のすぐあとに、 「行為の善悪は快苦を伴なうかどうかによってではなく、 行為そのものの本質によって決まる」 という趣旨のことを述べている(『15の説教』序文)。 ムーアがバトラーのこの議論から大きな影響を受けたのは明らかで、 それは、この同一律の表現が「善は善であり快ではない」 という形を取ると自然主義的誤謬の議論になることからも理解されよう。 (02/Apr/2000 追記)
上の引用は以下の著作から。