おれ思うんだけどさあ、倫理学でさ、いろんなむつかしい問題とか意見の違いっ てあるじゃない。あ、それってもちろん倫理学に限らず哲学の他の分野でもあ ることだけどさ。それでさ、倫理学の歴史ってのはそういうむつかしい問題と か意見の対立に満ちあふれてるでしょ。けど、なんでそんなむつかしいことに なるのかって言うとさ、「これから解き明かそうとする問いがどういう問いな のか」をちゃんと考えもせずにさ、答えを出そうとするからなんだよね、たい ていの場合。学校のテストで問題をよく読まずに解答するバカいるでしょ、あ れとおんなじなわけ。「ああ、むつかしかった」とか言って額の汗ぬぐってさ。 問題読まなきゃ解けるわけないっつーのっ。このばがっ。
けどさ、もし哲学者たちがさ、ある問いに答えようとする前に「その問いがど んな問いなのか」を明らかにしようと努力してもさ、どれだけこの種の誤りの 原因が取り除けるかは、おれ知らないよ。だって分析とか区別っていう作業は すごくむつかしいことが多いじゃない。必らず発見しなきゃいけないことをいっ くらがんばっても見つけられないことって多いでしょ? けどまあおれって楽天 家だからさ、そういう「見つけてやるぞっ」ってな意気込みがあればさ、たい ていはうまくいくと思うんだよね。つまりさ、「まず問いについてよく考えよ うとする姿勢」があればさ、哲学の超むつかしい問題や意見の対立なんかはきっ と解決すると思うんだよね。
なんにしろさ、哲学者たちってのは、こういう姿勢を持ってないやつが多くっ て困るわけ。だからさ、いやこの「問いについてよく考えること」を省略して るのが必ずしも誤り原因じゃないかも知れないんだけどさ、とにかくそういう 抜けた哲学者たちは「正しい」と言っても「正しくない」って言っても不正解 になるような問いに対してさ、必死に答えを出そうとするわけなんだよね。な んでどっちの答えも正しくないのかって言うとさ、こういう抜けた哲学者の頭 の中にある問いは、分析してみると実は一つの問いではなくって、たくさんの 問いに分けられるわけ。それでその分けられた問いのうちのいくつかは「正し くない」って答えるのが正解でさ、他のやつは「正しい」って答えるのが正解 なの。あれえ、おれ、なんかデカルトとおんなじこと言ってない?
ま、それでさ、おれはこの本ではさ、道徳哲学者たちがいつも答えます答えま すって選挙公約みたいに言ってる問いをさ、はっきりと二つに分けてるの。け どさ、おれがこの本の中で言ってるようにさ、やっぱりたいていの道徳哲学者 はこの二つの問いをまぜこぜに考えたり、別の問いとごっちゃにしたりしてき たわけなんだよね。その二つの問いってのはこういう風な形の問いなの。
問1「それ自身のために存在すべきものとはどのようなものか?」
問2「われわれが行なうべき行動とはどのようなものか?」
え、問2は何となくわかるけど、問1は何のことか全然わからん? これはあれ です、たとえばさ、「汚い服をきれいにするためにあったらいいものってなー んだ?」っていうなぞなぞを出すと、幼稚園児でも「せんたくきっ」って答え るよね。それとかさ、「エイズにかからないためにあったらいいものってなー んだ?」っていうなぞなぞ出したら、近ごろの小学生ならちゃんと「こんどぉ むっ」って答えるよね。けど問1は、そういう、「ある目的のための手段とし て存在すべきものは何か」という問いではなく、「何の手段でもないようなも ので、それ自身のためだけに存在すべきものは何か」というなぞなぞなんです。 つまり、「何のため」っていうことが、「それ自身のため」としか答えられな いようなもので「存在すべきだ」っていうものは何なのか、っていうなぞなぞ なんです。でもさ、具体的に理解しにくいのは当たり前で、この問いに対する 答えがすぐに出ればだれも苦労はしないよ。
要するにおれはさ、あるものについて、「それがそれ自身のために存在すべき であるかどうか」、あるいは「それがそれ自身として善いものであるかどう か」、はたまた「それが内在的価値を持つかどうか」っていう問いをするとき にさ、あ、これみんな問1の言い換えね、その問いが一体どういう問いなのか をこの本で明らかにしようとしてるの。またさ、ある行動に関してさ、「われ われはその行動をなすべきかどうか」、あるいは「それは正しい行動であるか どうか」はたまた「その行動は義務であるかどうか」っていう問いをするとき にさ、あ、これもみんな問2の言い換えです、その問いが一体どういう問いな のかもさ、この本で明らかにしようとしてるの。
G. E. Moore, Principia Ethica, Preface, p. vii-viii.
27/Jan/1997; 26/May/2001更新