(おろかもの fool, knave)
愚か者(fool)は心の中で言った、 正義などというものはありはしない、と。 ときには声に出してそう言うこともあった。 そして、次のように真剣に主張した。 「自分の生存と幸福は自分自身に任されているのだから、 各人が自分の生存と幸福の役に立つと思われることを行なわない理由はない。 またそこで、約束をすることもしないことも、 約束を守ることも守らないことも、 自分の役に立つ場合は理性に反することではない」と。 愚か者はこう言うが、彼は約束があるべきでないと言うわけではない。 約束がときに守られ、ときに破られることを否定しているわけでもない。 また、約束の違反が不正義と呼ばれ、約束の遵守が正義と呼ばれることを 否定しているわけでもない。 ただ彼は、不正義が(…)、 各人に自分自身の善の追求を命じる理性に反しないこともあるのではないかと 問うているのである。
---ホッブズ
所有権を尊重しなくては、社会は存続しえないことを認めたとしよう。 しかし、人の世は不完全な仕方で運営されているため、 賢明なならず者(sensible knave)は、特定の事例において、こう考えるかもしれない。 「ここで不公平あるいは不誠実な行為をしても、 社会的紐帯や結びつきをひどく損なうことなしに、 自分の財産をかなりふやすことができるだろう。 『正直なのが一番』というのは一般的な規則としては善いが、 例外はたくさんあるものだ」と。 そして、彼は、一般的な規則に従うが、すべての例外を利用する、 非常に賢明な人だとみなされるかもしれない。
---ヒューム
愚か者たちの世界では、 道徳の枠内で利益最大化を試み、契約を守ることは割に合わない。 そのような状況においては、道徳的であることは合理的ではない。
倫理学の世界では、単なる馬鹿のことを指すのではなく、 ばれないなら不正を行なった方が自分の得になるんじゃないかと考える不逞の輩の ことを指す。 この愚か者の考えは、言い換えると、 道徳的であることが自己利益に反することがあるのではないか、 という考えであり、しばしば道徳性と(経済的)合理性の対立としても述べられる。
「不逞の輩」と書いたが、倫理学(哲学)では長いあいだ 「なぜばれないなら悪いことをしちゃいけないんだ?」というのが 大きな問いとなっており、なかなか決定的な答が出せないでいる。 『国家』におけるソクラテス(プラトン)の答えは、 「不正なことをやると自分にとって結局マイナスになる」(バレるかもしれないし、 バレなくてもいつもビクビクしなければならなくなる。 また、不正なことをやっていると「魂の健康」が損なわれる、など) というものである。基本的には、ヒューム、 ホッブズなども同じような議論を展開している。
最近ではシンガーやゴティエがこの問題を扱っている。 センは「合理的な愚か者」という論文で、いわゆる「経済人」がわれわれの現実の姿を 描いているかどうかを問題にしているが、 元ネタはホッブズやヒュームの上のような人間像にある。 また、経済学では、この愚か者の存在や発想が提起する問題を、 「フリーライダー(ただ乗りする人)問題」として取り上げている。
13/Jun/2004; 19/Jun/2004
上の引用は以下の著作から。