ギュゲスの指輪

(ぎゅげすのゆびわ Gyges' ring)

`It's amazing what you can do when you don't have to look at yourself in the mirror any more.'

---Sebastian Caine, in Hollow Man

われわれが道徳に気を使うのは、道徳それ自身のためにではなく、 われわれに自分の仲間を支配する力がないからであり、 また彼らと接触しないで済むほど自己充足しているわけではないからである。 自分の目的を他人に頼らないで達成できるか、 あるいは他人を服従させることによって達成できる人は、 決して道徳の制約に従うことに同意しないであろう。 そんな人は不合理である--狂気の沙汰である。

---ゴーティエ


プラトンの『国家』第2巻において、 《不正を行なうことは自己利益に反する》という ソクラテスの立場に対して、 グラウコンがその反証例として出してくる物語に出てくる小道具。 ギュゲスはこの指輪の玉受けの部分をひねると、 自分が見えなくなることを知り、 彼が使えていたリュディア王の妻を寝とった上に、 王を殺害して王座に着いてしまう。

この例を用いてグラウコンは、 人々は《不正がばれたら困る》と考えて しぶしぶ道徳に従っているのであり、 もし不正がばれないのであれば誰でも不正を行なう方が得だと 考えるだろう、と論じる。

これに対してソクラテスは、有名な国家と魂についての議論によって反駁を試みる。 すなわち彼は、 国家と個人を「理性(支配階級)」「気概(防衛階級)」「欲求(商業階級)」 の三部分に分けて、それらが調和した状態を「正義」と呼び このような調和がない腐った状態は、国家であれ個人であれ、 生きるにあたいしないと論じる。(第3巻、第4巻)

このようにソクラテス(プラトン)は、 「たとえ神も人も見ていなくても、 道徳的に行為しなければいけないのはなぜか」 という問いに対して、 「不正なことをすると、たとえおとがめをうけなくても、 性格が歪んでしまい、けっきょくは損をすることになる」 という風に答える。たしかにこの議論は一理あるが、 「なんで道徳的に行為しなければいけないのか」 という問いに対する答えとしては今ひとつ説得力に欠ける。

たとえば、万引をしてもぜったいに見つからない保証がある場合、 「性格が歪むから」という説得はどのていど効果があるだろうか。 「性格が歪んでもいいからステレオが欲しい」 「もう十分性格が歪んでいるから関係ない」 「性格が歪む歪まないは人の勝手だろう」 といろいろな反論が予期される。 受験におけるカンニングについても同じことが言える。 絶対にバレないという保証があった場合に、 なぜカンニングすべきではないのだろうか。

また、もちろんカントであれば、 「なぜ道徳的に行為すべきかという問いに、 損をするから、得をするからという答え方するのはけしからん」 と怒るだろう。

なお、この物語が提起する問題は、 合理性と道徳の関係というテーマで現代でもさかんに論じられている。 囚人のジレンマも参照せよ。 (11/27/99; 02/Mar/2001追記; 02/Apr/2006追記)


参考文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sun Apr 2 23:35:26 JST 2006