靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

あけまして

恭賀新禧 萬事如意
阮家の人々はみな酒が強かった。だから、仲容は一族がみな集まると、普通の杯を用いずに、大甕になみなみと酒を注ぎ入れ、そのまわりに車座になって向かいあってぐいぐい飲んだ。時には豚どもも飲みに来たが、さっさと迎え入れて、そのまま一緒に飲んだ。

座中願陪者不辭
今年もよろしくお願いします。

はつゆき

初雪です と言っても こんな程度

俗賊!

キャラクターやストーリーが原作を逸脱している。中国文化への侮辱だ。

あんた本気でそんなこと言っているのかい?あなたの言い方のほうがよっぽど,中国文化に対して侮辱的ですぜ。中国文化はそんなヤワなものではなかろうに。

不可不治

……自ずから訛謬有り、過ちて鄙俗を成す。亂の旁を舌と爲し、輯の下に耳無く、黿鼉 龜に從ひ、奮奪 雚に從ひ、席中 帶を加へ、惡の上に西を安んじ、鼓外皮を設け、鑿の頭 毀を生じ、離は則ち禹を配し、壑は乃ち豁を施し、巫に經の旁を混じ、皋は澤の片を分ち、獵は化して獦と爲し、寵は變じて竉と成り、業の左に片を益し、靈の底に器を著く。率の字は自ずから律の音有り、强ひて改めて別と爲し、單の字は自ずから善の音有り、輒ち析ちて異と成す。此の如きの類は治めざるべからず。……(『顔子家訓』書證篇より)

今、仁和寺本『太素』の巻二十一と二十七の飜字の作業が最終段階に入っていますが、結局どうしたいのかというと、つまり顏之推先生にあんまり叱られないですむようなものに仕上げたいということです。もっとも、顏之推先生自身が、「正に從へば則ち人の識らざるを懼れ、俗に隨へば則ち意にその非を嫌し、略ここに筆を下すを得ず。見る所漸く廣くして更に通變を知り、前の執を救い、將に半ならんと欲す。」と言ってます。我々なんかとてもとても。

文明論の衝突

よく文明の衝突などという的はずれな議論を耳にするが、現在の地球上には西欧近代科学文明の発展型である現代文明以外に、いかなる文明も存在してはいない。それを端的に示すのは、優劣の差がはっきり出る軍事力の形態である。ジェット戦闘機、ヘリコプター、ロケット弾、ミサイル、戦車、野砲、機関銃、自動小銃、水上艦艇、潜水艦、レーダー、核兵器など、各国の軍隊が装備する兵器、及びその運用に不可欠なコンピューターなどは、その一切が西洋近代科学文明に源を持つ。戦争しようとする場合、何民族であろうと、何教徒であろうと、西欧近代科学文明が生み出した兵器を使用しない軍隊は存在しない。(『古代中国の宇宙論』 浅野裕一著 岩波書店 まえがき より)

いや、明解なもんですな。もっとも、その現代科学の粋である圧倒的な軍隊を率いたアメリカさんが、わけのわからん殉教の価値に裏付けられた抵抗に手を焼いているわけだけどね。とはいうものの、自爆させるのも西欧系現代科学に基づく爆弾だわねえ。あの飛行機も、勿論、西欧系現代科学。
 

不信仰告白

私には諸先生、諸先輩に言いたくて言えなかったことが有る。それは伝統医学を志す人のかなりに見られる、極端な事実と妄想の混淆である。何も鍼灸に志す人だけの話ではない。伝統医学の臨床の上手という人の話をしばらく聞いていると、その人が古い医書に書かれたことを全く無批判に信じ切っていることを知って愕然とすることがある。この日本では、古医書とは信仰の対象か、訓読して終わる臨床家のお飾りレベルのものであるようだ。でもそれでは、占いとお呪いの世界を脱却し、もう一つの医学をめざすことなどはできはしない。

新しい北京

どちらも2006年9月25日現在の北京の琉璃廠の近くです。

上の写真,中国の大都市がどんどん真新しくなっていく,と言っても,北京のど真ん中にこういうのが有るんですからね,今のところは。何だか,ほっとしました。
下の写真は,歩道のまず80%くらいを占める階段が有って,ただ昇って降りるだけです。北京のトマソンなんだけど,厳密には無用の長物ではない。画面左側の店の入り口の高さに合わせてあって,この階段が無ければお店に入れない。だけど歩行者にとっては……。この青年もただ昇って降りてきただけです。別にお店から出てきたわけじゃない。

孫子発掘物語

先月、岩波書店から発行された『孫子発掘物語』に次のような記事が有りました。p.244~

……一九九六年一二月八日、中国文物界でもっとも権威ある新聞『中国文物報』は「孫武兵法八二篇はまったくの偽造」と題する長文を発表し、激しく非難した。

「……人民に害をもたらす違法犯罪行為は、偽や質の悪い商品よりはるかにその危害は大きい。現在すでに出版されている『孫武子全集』(銀雀山漢墓出土の『孫子兵法』およびニセの『孫武兵法』などを含む)はまことに玉石混淆であり、その結果は人に損害を与えるのをどうして止められようか。古代兵学研究、軍事史及び中国歴史研究全体に多大の妨害、破壊作用をもたらす。……」

この『孫武子全集』の出版元が、実は学苑出版社なんです。早く忘れたい、忘れてもらいたい事実でしょうね。

シコシコ

稼ぐのが目的であれば,稼いでいる先生方がたくさんいるグループに参加すれば良い。これは比較的簡単である。ちょっと観察すれば稼いでいるかどうかはわかる。稼ぐためのカラクリというものも、多分有るんだろう。病気を治して患者から感謝されるのが目的となるとちょっと難しくなる。繁盛しているからといって、患者を治しているからとは限らない。まあ、長い目でみれば治しているから繁盛しているんだろうけれど、偽医者は大抵繁盛しすぎてばれる。そこまで言わなくても、患者も治療家も、治ると錯覚しているだけかも知れない。よしんば確かに治しているとして、グループに参加すれば先生と同じように治せるようになる、というのは少なくとも錯覚である。主導者と同じレベルまで一般会員を引き上げるための教育マニュアルを持っているグループなどは、無いといっては拙いかも知れないけれど、ごく珍しいだろう。どうして治るのか、いろんな方法で突き詰めて、それに則って治療したいという人もいる。だけど、これは殆ど絶望的である。運が良ければ、朧気に真理らしきものが見えてくるかも知れないけれど、その時にはそれに則って修行するには年を取りすぎている可能性が高い。でも、それ以外にはどうしようもない、度し難い、因果な性格というものは有るわけで、そういう人はシコシコと寂しい日々を送るより仕様がない。馬鹿にされるのは致し方ないとして、非難される謂われは無い。

針灸に関して分かっていることなんてほんの僅かだと思っています。それでも治しているのは詐欺師的な才能が有るか、それとも豊かな応用力のお蔭です。誤解の無いように断っておきますが、詐欺師的な才能で治そうが、真理を突いて治そうが、患者にとっては同じことです。詐欺師的な才能を批難しているのではなくて、嫉んでいる、あるいは羨んでいるのです。

学と術

学と術の両輪などと,気安く言うけれど,そもそも術なんて文章化できるんですかね。と言うか,文章化できる人なんてそうそういるもんなんですかね。「言われる通りにしたら治りました(治ったみたいです),センセイありがとう」が関の山じゃないか。

むかし,ある先生に「一緒にやるのは古典の勉強だ,臨床はそれぞれが勝手にやっていればいい」と言われたことが有ります。意味分かりますか。その先生の弟子なら分かると思うけど。

古い医学を全く信じていない古典医学研究家と,ろくに古典の読めない古典派臨床家と。それはまあ臨床家の方がマシなんでしょうねえ。

考えてみると研究対象を最初から信じ切っている研究家というのも異(偉?)なもの。研究した上で,これは信じられる,これは信じられない,というのが普通じゃないのかな。ただ,最初から信じ切っている人の方が臨床家には向いているかも知れない。
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