菜食主義

(さいしょくしゅぎ vegetarianism)

今日まで、人類の大部分が奴隷という名のもとに、 今日の英国における下等な動物とまったく同じ法的扱いを受けてきた。 そして残念ながら、多くの地域においては現在もそうありつづけている。 やがて来るであろう、動物たちが、 暴政が原因で彼らに与えられることのなかった権利を獲得する日が。 フランス人は、肌の色が黒いからといって、 ある人間を法の保護もなしに残酷な人間の気まぐれにゆだねてよいことには ならないことにすでに気がついた。 やがて来るであろう、足が何本あるかとか、毛皮かどうかとか、 尻尾が生えているかどうかとかは、 動物を奴隷と同様な運命にゆだねてよい理由にはならないことに気づく日が。 人間と動物との間に越えられぬ一線を引くような理由が何か他にあるだろうか? 理性の能力だろうか、あるいはひょっとすると、会話の能力だろうか? しかし十分に成長した馬や犬は、 生後一日、一週間、いや一ヶ月経った赤ん坊よりもはるかに理性的で、 たくみに意志疎通を行なうことができる。 しかし、たとえそうでなかったとしても、 それがいったい何だというのであろう? 問題は、動物が理性を用いることができるか、 あるいは、会話することができるかではなく、 苦痛を感じることができるかなのである。

---ベンタム

祖父たちの持っていた偏見を批判するのは我々にとって容易なことである。 そうした偏見からは我々の父親自身が自由になっているのである。 これよりもずっと困難なのは、 我々自身の見解から距離をおいて、 我々の持っている信念と価値の内に潜んでいる偏見を感情に囚われることなく捜し出せるようになることである。

---ピーター・シンガー

Richard Ryder, one of the contributors to Animals, Men and Morals, uses the term "speciesism" to describe the belief that we are entitled to treat members of other species in a way in which it would be wrong to treat members of our own species. The term is not euphonious, but it neatly makes the analogy with racism. The nonracist would do well to bear the analogy in mind when he is inclined to defend human behavior toward nonhumans. "Shouldn't we worry about improving the lot of our own species before we concern ourselves with other species?" he may ask. If we substitute "race" for "species" we shall see that the question is better not asked. "Is a vegetarian diet nutritionally adequate?" resembles the slaveowner's claim that he and the whole economy of the South would be ruined without slave labor. There is even a parallel with skeptical doubts about whether animals suffer, for some defenders of slavery professed to doubt whether blacks really suffer in the way whites do.

---Peter Singer

To borrow a phrase from the twentieth century English philosopher Sir W. D. Ross, our treatment of animals, both for Kant and Aquinas, is "a practice ground for moral virtue." The moral game is played between human players or, on the theistic view, human players plus God. The way we treat animals is a sort of moral warmup, character calisthenics, as it were, for the moral game in which animals themselves play no part.

---Tom Regan

Were Bentham in his grave ... he would most certainly roll over at the mere mention of animal rights!

---Tom Regan

Often those who claim that animals possess rights do not mean what they claim -- they simply misuse the language of rights to express their belief that we have important, stringent, commonly neglected duties in respect of animals. Others who appear to wish to maintain that animals possess moral rights, seem on closer scrutiny really wish simply to argue that animals ought to be accorded legal rights, legal rights to life, freedom from avoidable suffering, and the like.

---H. J. McCloskey

Those who propose that animals have rights have a deficient appreciation of the basic forms of human good. [...] The basic human goods are not abstract forms, such as `life' or `conscious life': they are good as aspects of the flourishing of a person. And if the proponents of animal rights point to very young babies, or very old and decayed or mentally defective persons (or to someone asleep?), and ask how their state differs empirically from that of flourishing, friendly, and clever dog, and demand to know why the former are accorded the respect due to right-holders while the latter is not, we must reply that respect for human good reasonably extends as far as human being, and is not to be extinguished by the circumstance that the incidents or `accidents' of affairs have deprived a particular human being of the opportunity of a full flourishing.

---John Finnis

[In the mid-70's] most Americans associated vegetarianism with the counterculture, a fad for potaddled hippies in beads and sandals chanting "om" between crunching on those leaves they weren't smoking. Merely confessing I was vegetarian meant being seen, at best, as some earnest, other-worldly fringe figure, probably full of dubiously utopian ideas about world peace and the environment.

---Shashi Tharoor


肉を食べないこと。哺乳類や鳥類は食べずに魚だけ食べる人や、 肉は食べないが乳製品は食べる人、あるいは肉は食べないが 毛皮のコートを着る人なども、広く菜食主義者(vegetarian)と呼ばれる。

これに対して、上記のような動物の搾取を一切認めない立場を 完全菜食主義、あるいは絶対菜食主義(veganism)と呼ぶ。 (この立場を取る人をveganと言う)。

以下の説明はほとんど一次文献に当たらずに書いてあるので、 すくなからず不正確なところがあると思う。 そのうちもっときちんと書くつもり。

なぜ菜食主義か

人々は、宗教的理由、健康上の理由、嗜好(肉は嫌い)など、 いろいろな理由から菜食主義者になるわけだが、 現代の倫理学においては、功利主義による 正当化と権利論(義務論)による正当化がある。

功利主義論

この立場は、簡単に言えば、動物も人間と同様に快苦を感じる、 あるいは欲求を持つがゆえに、 われわれは人間だけでなく動物の幸福も考慮に入れて行動すべきだ (もうすこし厳密に言えば、功利計算をするさいに彼らの快苦 あるいは選好も計算に入れるべきだ) というものである。われらがベンタムが 18世紀の終わりにすでにこの趣旨の発言をしているが、 ピーター・シンガーの『動物の解放』 (Animal Liberation, 1976)がこの代表的な立場である。

たとえば、奴隷の幸福を一切考慮に入れなければ、 奴隷制は正当化されるだろう。胎児の幸福を一切考慮に入れなければ、 人工妊娠中絶は(母体に対する危険を除けば)まったく問題ないであろう。 しかし、もし奴隷や胎児の幸福を無視すべきでないのであれば、 なぜ動物の幸福は無視してよいのだろうか。 (人間と人間以外の動物をこのように差別することを、 シンガーは種差別speciesismと呼んで非難する。 上の引用を参照せよ)

筆者が子供のころ、貝をバター炒めにしている母親に、 なぜ人間は貝を殺して食べるのか、と尋ねたところ、 「貝は人間に食べられるのが幸せだ」という答をもらい、 そのときはそういうものかと納得した記憶がある。 しかし、今から考えるとこれは大嘘で、 人間に火あぶりにされて幸せなわけがない。 とくに、経営上の理由から狭い建物にぎっしりと住まわされロクに運動できず 薬漬けにされているニワトリやウシ、 化粧品の実験のために目をむりやり開けさせられて液体を落とされるウサギ、 人間の楽しみのために犬に追いかけられたあと銃で撃ちころされるキツネなどを 考えたとき、これらの動物が幸せな生を送ったなどというのは人間の独善に過ぎない。 (ただし、シンガーは中枢神経の発達していない貝あたりになると 快苦を感じないので、食べてもよいと考えている)

権利論

人間とそれ以外の動物を厳格に区別するキリスト教の伝統では、 動物を人間の手段として扱うことは何も問題がなかったわけだが、 菜食主義の権利論的な正当化によれば、 権利は人にだけではなく、動物にも与えられるべきであり、 それゆえ動物を単に手段としてではなく内在的価値を 持った存在として尊重しなければならない。 アンドリュー・リンジー(Animal Rights 1976)やトム・リーガン (The Case for Animal Rights 1983)が代表的な立場である。

だが、何(誰)がどのような道徳的権利を 持つかというのは解決不能なほど (実際に解決不能だと思う)多種多様な議論があり、 たとえばフィニスのような自然法論者は、 動物も感覚を持っているからといって権利を与えようとするのは間違いであり、 道徳的存在としての人間しか権利は持ちえないと言いはっている。

その他

輪廻(生まれかわり)を信じていたピタゴラスは、自分の教団において 菜食主義を実践していた。

動物を虐待する人間は、他の人間に対しても冷酷になるというので、 カントは動物を尊重する義務は、 人間に対する義務から派生的に出てくると考えた。 ただし、だからと言って動物を食べてはいけないとはカントは 考えていなかったようである。 アクィナスも同様の考え方をしていた。

反論

動物を苦しませずに殺すのならいいのか

悪質な農家は別として、ニワトリにとっては、 野山を歩きまわってオオカミなどの他の動物に殺されるよりも、 清潔で環境のよい農場で暮らして、 年を取る前に痛みを極力感じないような仕方で殺された方が幸福だと 言えるかもしれない。だとすれば、 良心的な農家で育ったニワトリの肉を買って食べることは問題ないのではないか。

たしかに、山に野放しにされて一生を暮らすニワトリよりも、 良心的な農家で育って人生の半ばで殺されるニワトリの方が幸せかもしれない。 (ニワトリが自由を大切にしているとすればそのかぎりではないが) しかし、そのようなニワトリにとってもっと幸せなのは、 そのような良心的な農家で一生を全うすることだろう。 ニワトリは老いるよりもピンピンしているときに殺された方が幸せだ、 と主張する人は、人間についても同じ議論ができるかどうか考えてみればよい。

(ただし、動物は人間とちがって未来(や過去)について考えることがないので、 病気などで死ぬよりも健康なときに瞬時に殺した方が幸せだ、 と主張する人は多い。これについてはもう少し検討する必要がある)

菜食主義者はライオンがシマウマを食べるのをやめさせるべきか

権利論にせよ、功利主義論にせよ、人間が動物を虐待したり食べたりするのが いけないのであれば、ライオンがシマウマを食べるのはやめさせるべきで、 ネコがネズミを殺すのもやめさせるべきであると主張する人がいるかもしれない。 その通りだと思う。

これに対して、 ライオンがシマウマを殺すのは本能だからしかたがないと反論する菜食主義者 がいるかもしれないが、これは論点を取り違えており、 問題はライオンとシマウマがどうすべきかというよりも、 ライオンがシマウマを殺して食べるという事実に直面して 人間がどう行動すべきか、ということなのである。 もし動物の幸福あるいは権利が大切であるならば、 人間が介入してでも--たとえばライオンとシマウマを隔離することによって-- ライオンがシマウマを殺すのをやめさせるべきではないのか。 (ライオンはかわりに大豆でできたベジ・シマウマを食べてもらう)

もちろんこれはやりはじめたらきりがないが、 しかし、「それは自然のなりゆきだから仕方がない」 と言わずに(ちなみにこの手の「自然に訴える議論」は倫理学においては もっとも悪質な議論である)、 あわれなシマウマをできるかぎりで助けるべきではないのだろうか。

(ライオンがシマウマを殺さないとシマウマが異常に増えてしまう、 という反論に対しては、ライオンによって残酷に殺されるよりも、 人間の手によって断種などの措置を取った方がシマウマは幸福である、 と論じることができよう)

菜食主義者はアラスカに住むイヌイット(エスキモー)が 鯨を殺すのをやめさせるべきか

日本に住む人々は、菜食主義者になるかどうかを選択できるが、 野菜がほとんどあるいはまったく育たないような環境に住む人々は肉を食べ ざるをえない。

これに対しては、一つの答は、イヌイットは日本人のように選択肢がないのであれば、 それは仕方がない、しかし、だからといって選択肢を持つ日本人が 菜食主義者にならなくてよいことにはならない、というものであろう。 もっと極端な立場では、じゃあイヌイットはそこに住むべきではない、 日本かどこかに移住すべきだ、と論じられる。

菜食主義者は野菜を食べるのもやめるべきか

「生き物を食べてはいけないのであれば、 野菜も生き物だから菜食主義者は野菜も食べるべきではない」 という反論もよくある反論である。

功利主義者であれば、 野菜は少なくとも動物と同じ意味での快苦を感じることはないので、 キャベツやトマトを食べることはまったく問題ないと答えるであろう。 もちろん、だからといって、食べ物は世界中で不足しているのだから、 キャベツを千切りにしたあとにそのまま食べずにゴミ箱に捨てるのが 望ましいことにはならない。

権利論者は、 「キャベツを単に手段としてではなく、目的として扱うべきである」 というような主張をせずにすむためには、 動物に権利を与える理由をどこに置くかが問題になる。 リーガンなどの権利論者は、個人あるいは人格に内在的価値を認め、 さらに多くの動物も人格 (欲求や感覚、信念や記憶や自己意識を持つ存在)として理解することによって、 動物に権利を認めようとする。

なお、 権利論による功利主義の批判についてはベンタム功利主義の項などを参照せよ。

15/Jun/2001


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Oct 25 10:27:20 JST 2017