(ないざいてきかち intrinsic value)
To borrow a phrase from the twentieth century English philosopher Sir W. D. Ross, our treatment of animals, both for Kant and Aquinas, is "a practice ground for moral virtue." The moral game is played between human players or, on the theistic view, human players plus God. The way we treat animals is a sort of moral warmup, character calisthenics, as it were, for the moral game in which animals themselves play no part.
---Tom Regan
[I]t is surely a strange reversal of the natural order of thought to say that our admiring an action either is, or is what necessitates, its being good. We think of its goodness as what we admire in it, and as something it would have even if no one admired it, something that it has in itself.
---W. D. Ross
Let us imagine one world exceedingly beautiful. Imagine it as beautiful as you can... And then imagine the ugliest world you can possibly conceive. Imagine it simply one heap of filth... The only thing we are not entitled to imagine is that any human being ever has or ever, by any possibility, can, live in either [world], can ever see and enjoy the beauty of the one or hate the foulness of the other. Well, even so, supposing them quite apart from any possible contemplation by human beings; still, is it irrational to hold that it is better that the beautiful world should exist, than the one which is ugly?
---G. E. Moore
あるものが内在的価値を持つとは、それ自体に価値があることである。 自体的価値などとも呼ばれる。 対義語は、道具的価値(手段的価値 instrumental value)で、 道具的価値を持つものは、 なにか別の目的を達成するための手段として価値があるということである。
たとえば、薬が価値があるのは、 「健康のために役立つ」からであり、 したがって薬の価値は道具的である。 それに対し、健康はそれ自体として重宝される場合があり、 その意味では健康は内在的価値を持つ。
またたとえば、 カントやアクィナスは、 動物を虐待すべきではないと考えたが、それは動物を虐待する人は、 人間に対しても冷酷になり、人間(や神)に対する義務を果たすことが できなくなると考えたからであった。この場合、 動物は手段として重要なのであり、それ自体として価値があるわけではない。 それゆえ、カントやアクィナスは動物に道具的価値を認めたが、 内在的価値は認めなかったことになる。
しかし、あるものが内在的価値を持つのか、道具的価値を持つのかは、 人によって異なる場合がある。 たとえば、「健康であることはお金をもうけるための条件にすぎない」 と考える人にとっては、健康は道具的価値しかもたないといえる。 また、そういう人は、お金を道具的価値と考えているかもしれないし、 あるいはそれ自体で価値があると考えているかもしれない。 (守銭奴は、お金という本来は道具的価値しか持たないはずのものを、 内在的価値を持つものと考える例としてよく挙げられる)
また、知識や自由や平等、民主主義が内在的価値を持つのか、 あるいは道具的価値しか持たないのか、 というのはよく議論になるテーマの一つである。
内在的価値の議論は価値の客観性の議論と混同されやすい。上記のロスの引用も、 あるものがよいのは、「よい」と評価する者がいるからそうなのか、あるいは そのものがよいから「よい」と評価するのか、という価値の主観性・客観性を めぐる論争と理解できる。谷本光男によれば、自然の内在的価値をめぐる 環境倫理の議論でこの混同が顕著である。詳しくは谷本(2003)を見よ。
05/Feb/2001; 15/Jun/2001更新; 28/May/2013更新
上の引用は以下の著作から。