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香取研究室は、医学誌・盲人史・東洋医学をメインに研究しています。

江戸幕府医療制度研究室

◆1.幕府の医療制度は医官か医員か

 江戸幕府の医療制度は、ある時期を画して成立したものではない。これを何と呼んでいいのか。
 幕府の初期に朝廷の医師=医官が幕府にも登用されたが、次第に町医などが登用されていった。
 先行論文には「医官」制度とするものもあるが、筆者は疑問を抱いている。
筆者は医官=、「官」を用いるならば律令に倣わなければならないと考える。何故、性格に医官が使われなかったか、混用されていったのか。
 まず、律令・医疾令と江戸幕府の医療制度の違いについて確認しておかねばならない。
久志本常孝は「徳川幕府の医事制度が時期を劃して確立されたとか,はじめから厳密に法制化されたものというよりも.むしろ日常の必要の積み重ねと,先代からの仕来りをもとにし,さらに当時の身分制度や.人間関係のようなものまでを複雑に絡ませながら成長したものでこれらの要素を無視して安易に公式化することは必ずしも正鵠をうがつものとはいえない」(8)と指摘している。将軍個人のお抱えの医師から膨大化する大奥や家臣団の治療のために石段が次第に増加して完成していった。
 ※久志本常孝「徳川幕府における医師の身分と職制について」(東京慈恵医科大学雑誌,1974;89(3),129-141,のち古医学月報,1975-1976;22,1-2.23,2-3.26,3-4.27,3.28,4-6.29,5.)

 今更指摘することではないが、律令と 江戸幕府の医療は明らかに違い、宮内省典薬寮の支配ではなく、若年寄支配が医師を支配している(表1)。律令では「生」から学び続けて昇進していくが、江戸期にはもちろん朝廷からの医師も存在するが、著名な医師の門弟、独学して幕府の医師に登用されている事例が多い。診療科目も呪禁など道教的な医術が消え医療科目の分立と統合が見える。
 では、江戸幕府の医療制度は律令と全く違うのに「医官」を用いるのであろうか。

 1つ目の理由は、先にもみたように史料に見えるから。
 2つ目の理由は、徳川家康も他の戦国大名と同様に個人的なお抱えの医師を持っていたが、幕府の樹立と共に朝廷の医官や著名な医師を暫時登用していった。そのために、医官が存在することになった。曲直瀬・半井家が代表的であるが、朝廷と幕府の2つに仕えていた。律令官制の典薬頭を冠している。この後は幕府の安定・発展と共に医療の必要性の拡大という一面と、医療が世襲により必ずしも有能な者が出てこないと言う側面から能力主義で免許制度でもなく、実力ある者を突如として幅広い階層から医師を登用していくことになった。そのために医疾令とは異なる医療制度の奥医師・奥詰医師・番医師・寄合医師・小普請医師・御目見医師などの医療制度を編成していくことになった。

 最後に医官を用いた理由は、戦国期以来の官職の乱用にある。日本歴史学上の論説に「武家官位制」の業績がある。日本中世からの武家にとって官位はその権威付けや統治効果を上げるものとして、朝廷の権威=官位・官職を利用した。戦国期には、官職を乱用し農民も戦時は兵士として働くために律令の官職の「右衛門」・「兵衛」なども実体のないまま使われるようニなっていった。戦国大名も「織田上総介」・「筑羽柴前守」などを私用していた。
江戸幕府は、官職の乱用を廃止し、領地の安堵・俸給下賜と共に叙位の下賜により大名・旗本を統制していた。医師も同様で法橋→法眼→法印を授けて権威付けと序列を統制した。
 一方、朝廷は官位・官職を与えることでその任命寮で日常を賄っていたのである。
 江戸幕府の家臣団は、幕府の役職を持ちながら官位・官職を持つ。たとえば、南町奉行で有名な大岡忠相(1677-1752年)(10)は、従5位下越前守であるが誰もが朝廷の官人とは思わないであろう(*)。そして、武家を「医と称しても考えないであろう。医師も誤解泣く幕府の役職として考えるなら、「武家官位制」の範疇でとらえなむければならないのではないか。
 幕府の医師を出身別に整理しても、医師は官吏の医師ばかりではなく、広範囲の階層から登用し、無位無官の者も多い。 ここで、武家官位制について、宮沢誠1「幕藩制的武家官位の成立」(史観:.1979;101,51)を紹介してみる。「徳川氏による官位執奏権の掌握は、慶長11(1606)年に、上洛して参内した家康が、武家の官位は幕府の推挙によって叙任するように申し入れたのを手初めに、豊臣氏滅亡まで精力的に推し進められた。(中略)。一方、武家官位の独立化は、慶長16(1611)年に、武家官位を員外にするように奏話し許可されたことによって端緒がひらかれ、それはさらに、元和一(一六一五)年の「禁中並公家諸法度」第七条の「武家之官位者、可為公家当官之外事」【武家の官位は、公家当官の外たるべき事】に結実していくのである。」と簡潔にまとめられている。また、この武家官位制と医療も無関係ではなかった。『慶長日件録』(11)慶長十年(一六〇六)四月十四日条に、

 次大樹(徳川家康)へ参、有暫御出、予也有御尋之義、子細者、近日医者衆院号称之衆繁多也、為勅命
 如此哉、私ニ如此義歟、如此繁多ニハ有間敷被 思召之由也、予尤之由申之、内々可得勅意也、其旨以
 伝奏御尋可有之云々、
 【意訳】
 「次に大樹(徳川家康)様のところに参ると、しばらく待っていると家康様が出てこられ、御尋ねがあり、それは近頃医師の者共がやたらに院号をつけて○○院と称する者が多いというがどうなのか。

  更には、院号は天皇の勅命で称することができ、院号の適当なる医師ならばそれ以前に申しいで、内々  勅意をえて伝奏していただき御尋ねいただかねばならないだろうとの事だった」。

 日記の筆者船橋秀賢は家康から医師が院号を称し過ぎる傾向にあり、しかも天皇の勅命で称す者ばかりでないので、今後天皇の内意を受けるようにとのことである。この記事の後に医者の院号も同様に武家官位に従うことが推察される。『禁中ならびに武家諸法度』の武家の叙位・任官は乱用することを禁止し、江戸幕府が行うようになった。これは、幕府のお抱えの医師も同様で準拠していったことを推測指せる。朝廷より叙位・任官される場合もあるが、ほとんど幕府が行っている。法印に叙任した時に院号を称する場合、その称号も幕府の許しを得ている。

 富士川游『日本医学史』(11)の中でも「医員」という用語を使っている。医員の字を『徳川実紀』・『続徳川実紀』で見ると、初見は慶長十年(一六〇五)此年条に「医員曲直瀬養安院」とあり、この記載以後全時代を通じてみられ、初期にかぎり医員と「医官」とは同義語である。

 医員は、法印・法眼の管位・格式や奥医師(または侍医・近習医師・御側医師)・典薬頭、御番医師、寄合医師・小普請医師・御目見医師等の身分・役職や本道(内科)・外科(瘍科)・鍼科・口科・眼科・児科・産科の医療科目にとらわれず全般に使われている。これを『続徳川実紀』文久2年12月6日条を参考にあげてみる。
  奥医師
    法印  大膳亮 章庵
     「弘玄院ト伺」
    法印  竹内 玄同
    「渭川院ト伺」
    法印  戸塚 静海
    「静春院ト伺」
    法印  津軽 玄意
    「良春院ト伺」
    法眼
    奥医師  緒方洪庵
    法眼   石井 玄貞
     右於奥相済。

 このように、幕府の医師は、武家官位制下に準拠して「医家官位制」ともいうべき医官の法橋・法眼・法印の官職に任ぜられることで統率されていた。

 歴史学では幕府の職名は「官」より「役」として使われている。例えば、渡辺1郎 編『徳川幕府大名旗本役職武鑑』全4冊(東京:柏書房;1967)、笹間良彦『江戸幕府役職集成』(東京:雄山閣;1987)、川口謙二・他『江戸時代役職事典』(東京:東京美術;1981)、新人物往来社編『江戸役人役職大事典』(東京,新人物往来社;1995)、水谷三公『江戸の役人事情−『よしの冊子』の世界−『(東京,筑摩書房;2000)、中江克己『江戸人面白なんでも事典』(東京,PHP研究所;2010)などの書籍がある。
 以上示してきたように、医師も役職として考え、それを総括する用語として「医員」を提唱する。
 ※武家官位制度の論文

 @下村效.豊臣氏官位制度の成立と発展-公家成・諸大夫成・豊臣授姓,日本史研究:1994;377,521-557.(のち下村效「日本中世の法と経済」東京.続群書類従完成会;1998).
 A三鬼清一郎.織豊期における官位制論をめぐって,歴史科学:2002;171,12-21.
 B堀越祐一.豊臣期における武家官位制と氏姓授与,(歴史評論:2003;640,55-66.
 C黒田基樹.慶長期大名の氏姓と官位,日本史研究:1997;414,1-26.
 D木下聡,中世武家官位の研究.東京:吉川弘文館;2011
 E堀新.近世武家官位の成立と展開−大名の官位を中心に−;山本博文編.新しい近世史@国家と秩序,東京,新人物往来社; 1996,185-229.
 F堀新.近世武家官位試論,歴史学研究:1997;703,90-99.
 G水林彪.武家官位制−幕藩制確立期の武家官位制の構造分析;石上英一他編,講座・前近代の天皇 第3巻(天皇と社会諸集団);1993,154-197.
 H宮沢誠一.幕藩制的武家官位の成立,史観:101;1979,43-57.
 I李啓煌.近世武家官位制の成立過程について,史林:1991;74(6).10-24
 J池享.武家官位制再論,日本歴史:1996;577,42-63.
 K鶴田啓.近世大名の官位叙任過程−対馬藩主宗義倫・義誠の事例を中心に,日本歴史:1996;577,64-81.
 L藤田覚.近世武家官位の叙任手続きについて―諸大夫の場合―,日本歴史:1997;586,18-33.
 M橋本政宣 編.近世武家官位の研究,東京続群書類従完成会;1999.
 N箱石大,幕末期武家官位制の改変,日本歴史:1996;577,82-100.




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◆2.江戸幕府の医療に関する書籍
   江戸幕府の医療に関する書籍
                    香取俊光
 ※私の蔵書から江戸時代の医療に関すると思う物をランダムに並べてみた。
富士川游 日本医学史(決定版) 形成社
大島蘭三郎 近世医学史から 形成社
服部敏良 江戸時代医学史の研究 吉川弘文館/1978
矢数道明 近世漢方医学史 ー曲直瀬道三とその学統ー 名著出版
京都国立博物館 監修 医学に関する古美術聚英 便利堂
新村 拓 日本医療史 吉川弘文館
山本和利 編 医学生からみる医学史 診断と治療社【2005】
青木 歳幸 江戸時代の医学 吉川弘文館/2012年
海原 亮 近世医療の社会史 吉川弘文館
鈴木 則子 江戸の流行り病 吉川弘文館
山崎 幹夫 薬と日本人 吉川弘文館

酒井シヅ 日本医療史 東京書籍
藤浪 剛一 医家先哲肖像集 国書刊行会

 吉村 昭 日本医家伝(日本近代黎明期) 講談社


日本学士院 編 明治前 日本医学史 第1巻 全5巻 補訂復刻版 日本古医学資料センター
日本学士院 編, 明治前 日本医学史 第2巻 全5巻 補訂復刻版 日本古医学資料センター
日本学士院 編, 明治前 日本医学史 第3巻 全5巻 補訂復刻版 日本古医学資料センター
日本学士院 編, 明治前 日本医学史 第4巻 全5巻 補訂復刻版 日本古医学資料センター
日本学士院 編, 明治前 日本医学史 第5巻 全5巻 補訂復刻版 日本古医学資料センター

フィリップ・シャルリエ, 吉田 春美 死体が語る歴史 古病理が明かす世界ー 河出書房新社
篠田 達明 病気が変えた日本史 2004年 NHK出版

篠田 達明 日本史有名人の臨終カルテ 新人物往来社
篠田 達明 日本史有名人の臨終図鑑1 新人物往来社
篠田 達明 日本史有名人の臨終図鑑2 新人物往来社
吉岡 信 江戸の生薬屋【きぐすりや】 新装版 青蛙房
 橘 輝政 古代から幕末まで 日本医学先人伝 医事薬業新報社
竹内 孝一 江戸・明治の医具の変遷(図解) 鍼・華岡流器械より引札・看板まで(私のコレクションより) 自費出版
荒川 緑 江戸時代鍼灸文献序跋集 日本内経学会
小野 さなたか 江戸の町医者
君塚美美子 編 紀州藩医・泰淵の日記 かのう書房
山崎栄作 徳川幕府奥医師 渋江長伯集 資料編 自費出版
山崎栄作 渋江長伯シリーズ上 東遊奇勝 自費出版
青木 昇 幕府医師団と奥医師 自費出版
菅野 則子 江戸の村医者 新日本出版社
本田覚庵日記 くにたち中央図書館
丸山 清康 群馬の医史 群馬県医師会
石島 弘 水戸藩医学史 ぺりかん社
大坂医師番付集成  思文閣出版社
中野 操 大坂名医伝  思文閣出版社
濱 光治 浪速の町医師 上田秋成 思文閣出版社
立川 昭二 江戸病草紙 筑摩学芸文庫
原 種行 近世科学史 山雅房
近世科学思想・下 日本思想大系 岩波書店
上田三平著・三浦三郎編 増補改訂 日本薬園史の研究 渡辺書店
鈴木 尚・他編 増上寺徳川将軍家とその遺品・遺体/1996 東京大学出版会
鈴木 隆雄 骨から見た日本人 古病理学が語る歴史/2010 講談社学術文庫
鈴木 隆雄 骨が語る―スケルトン探偵報告書―/2000 大修館
鈴木 正夫 江戸の町は骨だらけ/2006 おおくら出版
谷畑 美帆 江戸八百八町に骨が舞う 人骨から解く病気と社会 歴史文化ライブラリー/2006 吉川弘文館
氏言う 幹と 大江戸死体考 - 人斬り浅右衛門の時代 - 平凡社/1999
北条 元一 米沢藩医史私選 米沢市医師会
山崎佐 江戸期日本医事法制の研究 中外医学社/1953
山崎 佐 各藩医学教育の展望 国土社
大村市医師会 大村医史 大村市医師会
深川 晨堂 大村藩の医学 大村藩之医学出版会
油井 富雄 浅田宗伯 ー現代に蘇る漢方医学会の巨星 医療タイムス社
青柳清一 近代医療のあけぼの ー幕末・明治の医事制度 思文閣


森 潤三郎 多紀氏の事蹟 思文閣出版
二宮陸雄 東翁蛭田玄仙とその産科 蛭田玄仙顕彰建碑会
実学資料研究会編 実学史研究T 思文閣出版
実学資料研究会編 実学史研究 U 境町と和算 思文閣出版
実学資料研究会編 実学史研究 V 思文閣出版
実学資料研究会編 実学史研究 W 南部盲暦 思文閣出版
実学資料研究会編 実学史研究 X 蘭山先生日記 1 思文閣出版
実学資料研究会編 実学史研究 Y 下野の種痘 栗崎 思文閣出版
実学資料研究会編 実学史研究 Z 蘭山先生日記 3 思文閣出版
 実学資料研究会編 実学史研究]  思文閣出版

幕末の蘭学者
石田純郎 編著 緒方洪庵の蘭学 思文閣出版
緒方富雄 緒方洪庵伝 岩波書店
米田 該典 洪庵のくすり箱 大阪大学出版会
小川 鼎三 佐藤泰然伝 泰然歿後百年記念出版 順天堂史編纂委員会
小川鼎三 編 昭和43年11月7日 生誕100年記念 佐藤達次郎略伝 順天堂大学
日本医史学会 佐倉順天堂 ー近代医学発祥の地 日本医史学会
杉本つとむ 江戸蘭方医からのメッセージ ぺりかん
田崎 哲郎 在村の蘭学 名著出版
梅渓 昇 大坂学問史の周辺 思文閣出版
杉本つとむ 図録 蘭学事始  早稲田大学出版部
片桐一男 杉田玄白 人物叢書 吉川弘文館
酒井シヅ・杉田玄白(1733-1817) 新装版 解体新書 講談社学術文庫
国公立所蔵史料刊行会 本に見る 日本近世医学史 ー日本医学の夜明けー 日本世論調査研究所
佐藤 昌介 洋学史論考 思文閣出版
今泉 源吉 蘭学の家 桂川家の人々 正篇 篠崎書林
今泉 源吉 蘭学の家 桂川家の人々 続篇 篠崎書林
戸沢 行夫 オランダ流御典医 桂川家の世界 築地書館
川島真人 蘭学の泉 ここに湧く ー豊前・中津医学史散歩ー 西日本臨床医学研究所
伊東榮 伊東玄卜伝 八瀬書店
梅渓 昇 洪庵・適塾の研究 思文閣出版
梅渓 昇 緒方洪庵と適塾生 ー「日間瑣事備忘」にみえるー 思文閣出版
西岡 まさ子 緒方洪庵の妻 河出書房新社
洋学史研究会 編 大槻玄沢の研究 思文閣出版
大槻茂雄 編 磐水存響 乾・坤 思文閣出版
司馬 遼太郎 胡蝶の夢1 新潮文庫
吉村昭 暁の旅人【松本良順】 講談社文庫
篠田達明 空の石碑 ー幕府医官・松本良順 nhk出版
吉村昭 夜明けの雷鳴 ―医師・高松凌雲【、2003年】 文藝春秋、のち文春文庫
林洋海 医傑 凌雲【2010年】 三修社
篠田達明 白い激流・明治の医官相良知安【1997年】 新人物往来社
唐沢 信安 済生学舎と長谷川泰 日本医事新報社

杉立 義一 京の医史跡探訪 思文閣出版
京都府医師会 編 京都の医学史 本文片/1980 思文閣出版
京都府医師会 編 京都の医学史 資料篇/1980 思文閣出版


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◆3.江戸幕府の医師達の調べ方
  
  江戸幕府の医師達の調べ方

 ホームページに私の知り得たことをアップしていますと全国から色々なお問い合わせがあります。

 それが私の研究を大いに前進させたり、不明なことを明らかにするきっかけになることも多くありました。

 皆様が江戸幕府の医師達を調べるにはどうすれば良いでしょうか。

服部 敏良 医学 日本史小百科 近藤出版社
服部敏良 鎌倉時代医学史の研究
服部敏良 室町 安土桃山時代医学史の研究 吉川弘文館
服部敏良 江戸時代医学史の研究 吉川弘文館
青木 歳幸 江戸時代の医学 吉川弘文館/2012年
海原 亮 近世医療の社会史 吉川弘文館
鈴木 則子 江戸の流行り病 吉川弘文館
服部 敏良 医学史研究余録 吉川弘文館
酒井シヅ 監修・日本医師会編集 医界風土記 関東・甲信越篇 思文閣出版
酒井 シヅ 監修・日本医師会 編集 医界風土記 近畿篇 思文閣出版
酒井 シヅ 監修・日本医師会 編集 医界風土記 九州・沖縄篇 思文閣出版
酒井 シヅ監修・日本医師会編集 医界風土記 中国・四国篇 思文閣出版社
酒井シヅ監修 医界風土記 中部篇 思文閣出版
酒井シヅ 監修・日本医師会編集 医界風土記 北海道・東北篇 思文閣出版
青木國雄 医外な物語 名古屋大学出版会
諏訪邦夫 訳 新訳 医学を変えた発見の物語 中外医学社
大塚 恭男 医学史こぼれ話 臨床情報センター
酒井シヅ 病が語る日本史 講談社文庫
フィリップ・シャルリエ, 吉田 春美 死体が語る歴史 古病理が明かす世界ー 河出書房新社
篠田 達明 病気が変えた日本史 2004年 NHK出版
篠田 達明 歴代天皇のカルテ 新潮新書
篠田 達明 日本史有名人の臨終カルテ 新人物往来社
篠田 達明 日本史有名人の臨終図鑑1 新人物往来社
篠田 達明 日本史有名人の臨終図鑑2 新人物往来社
骨は語る徳川将軍・大名家の人びと 医学史・将軍1
谷畑 美帆 江戸八百八町に骨が舞う 人骨から解く病気と社会 歴史文化ライブラリー 吉川弘文館
立川 昭二 江戸病草紙 筑摩学芸文庫
中野 操 大坂名医伝  思文閣出版社
菅野 則子 江戸の村医者 新日本出版社
青木 昇 幕府医師団と奥医師 自費出版
君塚美美子 編 紀州藩医・泰淵の日記 かのう書房
山崎栄作 徳川幕府奥医師 渋江長伯集 資料編 自費出版
山崎栄作 渋江長伯シリーズ上 東遊奇勝 自費出版


 専門的に江戸幕府の医師達を調べるには幕府の公的日記の『徳川実紀』10巻、『続徳川実紀』五巻(吉川弘文館)が基本となります。
 しかし、『続徳川実紀』が『徳川実紀』に比べて簡素で天保年間や元治・慶応に数ヶ月の欠損の部分があったりする。

 徳川実紀研究会 編『徳川実紀索引 人名篇』上・下巻(吉川弘文館)
医師たちの件名があまり記載がない。

幕臣の家系図を調べるには、

 林亮勝、坂本正仁『干城録』全15巻(人間社)
 太田資宗 他編『寛永諸家系図伝』全15巻(続群書類従完成会、医師は第15巻)
 高柳光寿、堀田正敦 他編『新訂 寛政重修諸家譜』全22冊(続群書類従完成会、家紋1冊、索引4冊)

 幕末に新規採用の医師や藩医・お目見医師などは幕臣でないので調べられない。

 江戸の中期・文化年間までに家系が断絶したものは、斎木一馬他編『断家譜』全3巻(続群書類従完成会、1969年)を見てみる。

 手に入り図来駕系譜週として影印版の内閣文庫所蔵『譜牒餘録』上中下巻・全3巻(国立校文書館)もある。

 医師は記載されていないが、関連する幕臣の役職を調べるには根岸衛奮『大日本近世史料 柳営補任』全8巻(東京大学出版会)がある。

 拙稿 江戸幕府の医療制度に関する史料(1)ー元禄13年『侍医分限記』ー(『日本医史学雑誌』35−3、1989年)
 拙稿 元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料 ー附 『隆光僧正日記』医師・医事索引ー(『理療の科学』第二十巻第一号、一九九七年)
 拙稿 江戸幕府の医療制度に関する史料(4)ー文化6年6月録『官医分限帳』ー(『日本医史学雑誌』36−4、1990年)
 拙稿 江戸幕府の医療制度に関する史料(5)ー文政度『官医分限帳』ー (『日本医史学雑誌』37−3、1991年)

 入門書としては、
 橋本博編『増補 改訂 大武鑑 全3巻』(名著刊行会、1965年)
 渡辺一郎編『徳川幕府大名旗本役職武鑑 全4冊』(柏書房、1967年)等の『武鑑』がある。

 医師の姓名・身分・給料・住居を知ることができるが、誤りもあったり年ごとに記載形式も統一せず、後半の武鑑は当時のものを影印しているので活用しずらい。

 医師の屋敷を調べるのには
 朝倉治彦監修『江戸城下武家屋敷名鑑 上巻 人名篇』・『江戸城下武家屋敷名鑑 下巻 地域・年代篇』(江戸城下武家屋敷名鑑 下巻 地域・年代篇)

 朝倉治彦監修・解説『江戸城下変遷絵図集 御府内沿革図書』全20冊(原書房)

 成美堂出版編集部『江戸散歩・東京散歩 改訂版―切り絵図・古地図で楽しむ、最新東京地図』(成美堂)
 白石 つとむ 編『江戸切絵図と東京名所絵』(小学館)、人文社編集部『切絵図・現代図で歩く 江戸東京散歩 』(人文社)など古地図を使用した一般書が沢山出版されている。
 
また、医師とは言え霞を食べて生きてはいけないので医療報酬や、給料、所領を下賜される場合がある。この所領がどこであったのかを調べるのは苦労が多い。その所領は、
 木村 礎校訂『旧高旧領取調帳 全6巻(東北編・関東編・中部編・近畿編・中国四国篇・九州篇)』(近藤出版、1969〜79年。のち東京堂出版、1995年)を1頁ずつめくりながら村々はどこかと調べる。
 北島正元校訂『武蔵田園簿』近藤出版社、1977年()、鈴木 寿校訂『御家人分限帳』(近藤出版社、1984年)
 関東近世史研究会校訂『関東甲豆郷帳』(近藤出版社、1988年)でこまめに追求していく。

意外に江戸後期の史料が膨大なわりにはまとまりなく、全体像をつかみずらい感じを受けている。

 幕末の貴重な史料の宝庫の一つに『多聞櫓文書』(国立公文書館所蔵)がある。『寛政譜』の編纂後の医師達の史料が多数含まれている。しかし、これは原本の史料なので、一般的には使うのに困難である。

本史料を使い出版されたものに小西四郎監修・熊井保・大貫妙子編『江戸幕臣人名事典』全四巻(新人物往来社、一九八九年。以後『幕臣』と略す)・熊井保編『改訂新版 江戸幕臣人名事典』全一巻(新人物往来社、一九九八年。以下、『新幕臣』と略す)がある。両書の間には若干の移動や削除がある。また、両書には多くの旗本が記載され医師だけ見るには不便であったり、何点かの記載洩れや同内容の史料は採用されていないなどの点がある。

 武蔵野国内を中心とした旗本の所領や屋敷は埼玉県史編纂室『旧旗下相知行調』(埼玉県史刊行協力会、1986年)で詳細に分かるが、医師団の一部にすぎない。
 所領の村の概要を調べるのには、各県市町村史で細かく見ることもある
 自治体史の刊行の有無や書誌事項について調べたい時は、
 国立国会図書館で確認できます。(特に記載のない限り、東京本館人文総合情報室開架資料です。請求記号が版によって異なるものは、最新版の請求記号のみ記載しています。)
は、次のような文献目録などで
国立国会図書館リサーチ・ナビ

『全国地方史誌総目録』 北海道・東北・関東・北陸・甲信越、東海・近畿・中国・四国・九州・沖縄 日外アソシエーツ 2007
 これには冊子上下2冊かCD版(各地方毎に近世・近代)の2形態がある。
明治以降2007年3月までに刊行された自治体史を採録しています。各文献の採録対象年代を明記しています。

 『大日本地誌大系 新編相模国風土記稿』全7巻(雄山閣出版)、『大日本地誌大系
 新編武蔵風土記稿』全13巻(雄山閣出版、1996年)
 小野文雄編『武蔵国村明細帳集成』(武蔵国村明細帳集成刊行会)
 青山 孝慈著『相模国村明細帳集成』全3冊(岩田書院、2001年)
 小沢治郎左衛門『上総国町村誌』全2巻(名著出版)
 
 全部の医師ではないが、細かな医師の情報を調べるのに国立公文書館所蔵の『明細短冊』という古文書がある。
 国立公文書館編『内閣文庫江戸城多聞櫓文書目録 明細短冊の部』(同館、1980年)、
 この史料を使い翻刻・出版したものに小西四郎監修・熊井保・大貫妙子編『江戸幕臣人名事典』全四巻(新人物往来社、一九八九年)・
 これを再編集した熊井保編『改訂新版 江戸幕臣人名事典』全一巻(新人物往来社、一九九八年)
 細かく出身・系譜・給料・年齢経歴などが分かるが全員ではない。貴重な史料なので、近日中に紹介しようと準備している。
 
石井良助監修・小川恭一編著『江戸幕府旗本人名事典』全5巻(原書房)
 竹内誠・深井雅海・太田尚宏・白根孝胤共編『徳川幕臣人名辞典』(東京堂出版、2010年)は知りたい医師がなかなか記載がなく、いづれにしても全体像がつかみずらい。
 
 医師の所領が判明したら、それをさらに追求してみたくなります。

 各地方の県史・市史などのこまめな探索の必要があります。
 また、簡単にみつからない場合は、
 医師の名前が判明していましたら、
木村 礎 校訂 旧高旧領取調帳 全6巻 東北編・関東編・中部編・近畿編・中国四国篇・九州篇 東京堂出版
関東近世史研究会 校訂 関東甲豆郷帳
近藤出版
辻 達也 校訂 享保通鑑 近藤出版
北島正元 校訂 武蔵田園簿 近藤出版
藤野 保 校訂 徳川加除封録 近藤出版

旧武蔵国内では、
埼玉県史編纂室 旧旗下相知行調 埼玉県史刊行協力会
埼玉県史編纂室 分限帳集成 埼玉県史刊行協力会



 

村の明細を知りたいときは、

長坂慶子 大日本地誌大系R新編相模国風土記稿 全7巻 雄山閣出版

大日本地誌大系 新編武蔵風土記稿 全13巻 雄山閣出版

小野文雄編 武蔵国村明細帳集成 武蔵国村明細帳集成刊行会

青山 孝慈著 相模国村明細帳集成 全3冊・2001年7月刊 岩田書院

小沢治郎左衛門 上総国町村誌 上・下巻 名著出版

萩原 進監修 上野国郡村誌 1 勢多郡(1) 群馬県文化事業振興会

萩原 進監修 上野国郡村誌 2 勢多郡(2)
萩原 進 監修 上野国郡村誌 3
萩原 進 監修 上野国郡村誌 4 群馬郡(1)
萩原 進 監修 上野国郡村誌 5 群馬郡(2)
萩原 進 監修 上野国郡村誌 6 群馬郡(3)
萩原 進監修 上野国郡村誌 7 多野郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 8 甘楽郡(1)
萩原 進監修 上野国郡村誌 9 甘楽郡(2)
萩原 進監修 上野国郡村誌 10 碓井郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 11 吾妻郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 12 利根郡(1)
萩原 進監修 上野国郡村誌 13 利根郡(2)
萩原 進監修 上野国郡村誌 14 佐波郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 15 新田郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 16 山田郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 17 邑楽郡
萩原 進監修 上野国郡村誌 18 総索引


【事例】
 『竹田宮内卿明細短冊』(内閣文庫所蔵、江戸城多聞櫓文書四三〇七)を見ますと、「高千石 上野国」とあり、上の國=群馬県に関して調べ始めました。
 この史料は、『江戸幕臣人名事典』全四巻(三巻四二頁、『改訂新版 江戸幕臣人名事典』六三九頁に翻刻されていました。
 次に、『寛永諸家系図伝』十五巻一三九頁、『寛政重修諸家譜』十二巻一六七頁にあり、系譜や事跡は分かりましたが、所領については分からないままでした。
 所領はどこか、『関東甲豆郷帳』・『旧高旧領取調帳 関東篇』を見ましたが、見つかりませんでした。
 あきらめてしばらくいましたが、書庫を見渡していてピンときて、
萩原 進監修 上野国郡村誌 18 総索引をめくってみました。
 以下のことが分かりました。
 甘楽郡神成(かんなり)村・一宮町・富岡町に所領がありました。

上野国郡村誌 8-170
甘楽郡神成(かんなり)村
寛延元年百四石五斗三升三勺
→岩鼻支配所 823.2480
8-265 甘楽郡一宮町
元禄二年*五拾石
→岩花支配所 651.2800
8−284 甘楽郡富岡町
元禄四年五百四拾五石余、明治元年岩鼻県
→岩花支配所 1297.3870




 これにより、これらの所領が全て富岡市内にあることから、富岡市に問い合わせて『富岡市史』を購入して、細かな史料を探したという事例です。
 何かヒントとなる本や史料に出会うと芋づる式に分かることがあります。


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◆4.元禄時代の鍼・灸・按摩・医学史料 ー附 『隆光僧正日記』医師・医事索引ー
 『理療の科学』20-1、PP.25-51、一九九七年 掲載
   ー附 『隆光僧正日記』医師・医事索引ー
                香取 俊光

 筆者は、江戸幕府の医療制度・鍼灸・盲人について研究しているが、その史料はほとんど公的史料で、無味乾燥な感じで使っている。また、一方からの視点なので、できうるならば生々しい史料に出会いたいと願っている。

 盲人や鍼について研究しようとしたら、すぐに盲人鍼医杉山和 1610〜94年)が思い出される。和一は、江戸幕府5代将軍徳川吉(在職・1680〜1709年。家光の第4子。母桂昌院。幼名徳松。1646〜1709年)の時代である。綱吉は、筆者の故郷群馬県、館林城主より将軍となった人物でもあったので、筆者にとってはこの時代がより一層親しみを持たせる。そこで、この時代に興味を持って史料を見付けると、『隆光僧正日記(2)』に出会った。

 この日記の筆者護持院(知足院)住職隆光僧正(1649〜1724年)は、主に幕府の爛熟期の元禄時代(1688-1704年)に活躍した人物である。隆光は、5代将軍綱吉の生母桂昌院(1621〜1705年、お国、京都堀川通西藪町八百屋仁左衛門娘、家光側室)の信任が厚く、柳沢吉保(1648〜1712年)と共に側近で文治主義を徹底させ、生類憐れみの令の発案者としても有名である。日記を読んだ限りでは純真な感じで、小説やドラマに登場するイメージとは違う。CD-ROM『広辞苑』第4版で「護持院」をクリックすると「東京都千代田区にあった真言宗の寺。1688年(元禄1)徳川綱吉が寝殿の鬼門鎮護のために湯島の知足院を移して建立。隆光の開山。1717年(享保2)焼失、名を護国寺に移した。焼け跡は火除地(ひよけち)とされ、護持院原といった。1868年(明治1)廃止。」とある。

 日記の内容は、政治・宗教の両分野の記事が多いが、それに交り綱吉・桂昌院・柳沢吉保・諸大名・近親・同僚の僧侶、そして隆光自身の病気・病状・治療・鍼・灸・按摩等について生々しく書かれている。医学史上でも重要な内容を含んでいる。ただ、残念なことは同時期の杉山和一に対面したことはあるだろうに、その記事が一つもないことである。

 本日記の生々しい内容は、主に元禄年間(1688-1704年)なので、この当時の鍼・灸・按摩の記事を中心に医学史料を紹介する。
 最初に、本人は深刻であったろうが、読み手のこちらにとってはその情景がリアルに想像できて滑稽な記事を紹介する。『隆光僧正日記』宝永4年(1707)6月4日条に、
  一 四日、(徳川綱吉)御能被遊、西之丸御    簾中様(徳川家宣正室近衛基  ひろこ   
熈女熈子)御馳   走也、大納言(徳川家宣)様ハ不被為入也、    (中略)、覚王(院最純)・金地(院元云)・護   持(院快意)・進休(庵英岳)・観理(院智英)   ・住心(院実興)・大護(院尋祐)・四ケ寺罷出、   護国(寺亮貞)ハ田虫頭面ニ出、薬付見苦候故、   不被罷出、備後守(牧野成貞)殿被出、木工   頭(大久保忠朝)殿ハ不被出、拝領物無之、
と、隆光等の僧侶が綱吉の能を拝見し、当時西の丸にいた次期6代将軍家宣の正室近 ひろこ衛熈子のご馳走を受けたが、護国寺快意は顏に田虫ができ、薬を付けたために見苦しく、御前に出ていけなかったというのである。何とも気の毒な話しではあるが、当時の衛生状態の悪さを想像させるとともに護国寺快意の哀れな姿が浮かんでくる。ちなみに、隆光は最初に「護持院」の住職と書いたが、この記事の前の同年2月25日に隠居し成満院の住職となっており、護持院の後任は護国寺快意が勤めている。

 また、江戸幕府の公的な史料『徳川実紀』(吉川弘文館)元禄7年(1694)正月6日条に、
   寺社の拜賀あり。
と、僧侶や神主が綱吉に年賀の挨拶をしたとしかないが、『隆光僧正日記』の同日条には、
   一 六日、諸寺社御礼、四日雨降五日より
    晴天ニ而無風暖気也、九っ半過諸寺社御    
    礼相済、御礼過、於御前長短之昆布出、    
    短長各一枚取之、頂戴懐中、朔日より毎日餅被召上候故ニ御痞被成候故、御礼之時    
    剋御延引之由被仰也、如例御老中、御三    人方年礼勤之、暮六っ過ニ帰寺、
と、僧侶や神主が綱吉に正月6日に年賀の挨拶に出かけたが、綱吉より年賀にそれぞれ昆布の下賜があり、各自長短1つづつ懐に入れた。その際、綱吉が元旦より4日まで毎日餅を食べてつかえ痞ができ、お礼を述べる時間が延期されたというのである。綱吉の人間らしい一面がかいま見られる。その後、『徳川実紀』同年2月17日条には、
   紅葉山 御宮に。阿部豊後守正武代参。
と、綱吉が江戸城西の丸の小山の紅葉山東照宮に参詣に行くわけであったが、阿部豊後守正武が代参したとある。『隆光僧正日記』の同日条には、
   一 十七日、例之時剋登城仕之処ニ、御疝気    指出御針被成候、御気力御勝不被成候ニ付、    今日之御聴聞廿日迄御延引可被 成候、    明十八日四っ時分登城可仕之旨被仰付也、
と、隆光が定時の登城をしたところ、綱吉に疝気(腹痛・下痢・手足の冷え)が発症して針治療を受けた。それでも気力が勝れないので、この日に予定されていた御前の勉強会が20日まで延期され、隆光は18日に登城するように命じられたというのである。本日記により綱吉が東照宮参詣ができなかった理由が疝気の発症だったことが分かる。綱吉に鍼を施術した人物は明確ではないが、『徳川実紀』同年3月10日条に、
   奥医依田玄春某。歌学者北村季吟。針医杉   山惣検校和一に三百俵づゝ。森専益正慶。   三島検校(安一)に二百俵づゝ加秩たまふ。
とあり、杉山和一とその弟子三島安一(1644〜1720年)と他の医師達が給料の加増に預かっている。他の医師とともに杉山・三島が、綱吉の治療を行い、その褒美として杉山に300俵、三島に200俵の給料の加増があったと考えられる。

 続いて灸の史料を紹介するが、隆光の暑気中りの記事の前後に見えるので合わせて紹介する。『隆光僧正日記』元禄11年(1698)7月1日条に、
   一 朔日、月並之御礼如常、愚腹中不勝、    押而相勤、去廿八日以後暑気甚、今日中 于暑気、気色不快、
と、6月28日よりの猛暑により7月1日に暑気中りとなり、毎月定例の綱吉への拝謁は勤めたが、一日中お腹が勝れず不快だったという。翌2日条には、
   一 二日、四っ時寒気来大熱出、養安院(曲    直瀬正珍)薬用、八っ時熱覚、腹中ハ不留、
と、隆光が暑気中りのために4つ時(午前10時頃)に寒気と大熱(高熱)を発し、曲直瀬正珍(まなせまさてる)の調合した薬を服用し、8つ時(午後2時頃)にはまた熱を感じ、お腹のものは留まっていなかったという。翌々日の4日条には、
   一 四日、松平右京(太夫輝貞)殿より手紙    来、喜知姫君様御吐乳被遊候ニ付、御枕加    持可被仰付候、腹中故難勤候ハヽ、護国寺(快意)江可被仰付之旨也、愚返答、殊之外草臥罷在候、明日之登城無覚束奉存候、護国寺へ可被仰付被下候、
と、いまだ下痢の状態が続き、そこに尾張権中納言綱誠より加持の依頼がきた。内容は、綱吉の養女に出した娘喜知姫(きちひめ、1966〜68年)が、乳を吐いたので枕元での平癒の加持を依頼するとのことであった。しかし、隆光はそんな状態なので、代わりに護国寺快意が派遣された。翌5日条には、
   一 五日、朝五っ時護国寺登城之処ニ、喜知    姫君様先刻狂風被為発之由、護国寺加持    之内、御灸仕ニ無御覚、
と、護国寺快宸ェ朝5つ時(午前8時頃)に登城し加持に当たったが、喜知姫は狂風だというのでお灸もしたが効果がなかった。隆光の下痢はこの後良くなったようで、翌6日には「登城罷成候程ニ力付候由言上」と登城できるほどになり、隆光が喜知姫の加持に登城した。しかし、喜知姫はその他の僧の加持も空しく、7日には3才にて死亡している。
 また、元禄16年10月18日条には、
   一 十八日、(中略)暮六っ前三之丸おりう    とのより文来、一位様七っ時御灸治被成    候所ニ、右の御手足しびれ、御景色悪敷被    成御座候由申来、早々罷帰、薬師千座開
    白、二座修之、其次寺中相替、夜中運座    ニ可修之旨申付、三之丸へ罷出、御枕加持    相勤、九っ時退出、
とあり、桂昌院がお灸をしたところ、かえって右の手足が痺れ、気分も不快となり、隆光に加持の依頼があり、寺中での加持もしたが、さらには桂昌院の枕元での加持も行うことになった。宝永6年8月19日条には、
   一 十九日、六っ半頃より本多淡路守(忠     周)殿江参、次大護院(澄意)江参、次上野    御仏殿参詣、香典金子三百疋献上、次根    生院(頼雅)へ参、次慈徳庵へ参、次駿河    台へ参、七っ半頃より牧野大学殿へ参、    幸右衛門一礼申入、罷帰、灸治致ス、
と、夏であり、8ケ所の訪問をしたために足に灸をしたのかと想像させる。

 食中りについては、同14年4月27日条に、
   一 廿七日、早朝腹気味悪敷故、用所へ罷越、腹中瀉、昨夜之食、ならちや・あかさ(あかざ・藜)の浸し物、かうの物(香の物)也、あかさのひたし物あたると覚    ゆ、如例堂相勤、朝飯少給候以後又大瀉    し、さむけつよく気色不勝、依之、被夜    着平臥ス、今日論日也、四っ時ニ至而、    もはや智積院(尊戒)・四ケ寺被参、論議    可始哉窺之、依之起出、寒け、気色弥不    勝、押而論議相勤、論議以後誓願院(江    戸浅草)へ罷越筈也、然共気色殊之外不    快、寒け強く腹中不快故、遂断不参、安    田求馬召寄薬調合申付、求馬脈不合点之    由申、先薬一服用之、則養安院(曲直瀬    正珍)へ申遣、八っ時養安院被参、薬用    之、度数暮迄十四度、養安院合点不参之    由、七っ時又見廻薬加減、夜ニ入又被参薬    加減、夜中四十参度、廿八日ニ至而早朝ニ    養安院被参薬加減、五っ時過通玄(数原宗    達)・長順(曽谷玄鳳)被参、通玄薬、度數    弥増、依之、養安院其旨言上、依之、通    玄・長順・鏡庵(木村鎌庵季益カ)・益庵    (佐合宗諄)・忠庵(村田昌伯)、以上六人    被仰付、昼夜相詰療之、通玄取匙、気力    草臥候条、腹中ニ不構独参湯用之、尤廿七    日以後無食気、おもゆ時々用之、独参湯    一服余用之処ニ吐逆出、依之止之、加減之    薬用之、猶人参五分入、廿八日七っ時よ    り度数減ス、廿八日之度数五十五度、廿    八日夜中九度、依之、食気少出、廿八日    七っ時上使被下、松前作右衛門殿(当広)、    水干粉壹箱被下之、出羽守殿(柳沢吉保)    ょり藪田五郎右衛門相詰、又手医師被差    超、又宋仙院(橘元常)被参、
と、昨夜食べた藜(畑地に自生するアカザ科の一年草)に中り、早朝よりお腹の具合が悪く、トイレに行くと下痢だった。朝食を少し食べたが、その後下痢をし、寒気・気分不快となり、夜用の着物を着て寝てしまった。4つ時(午前10時頃)になると論議の日だったので智積院尊戒等が来て、どうするか問い合わせられたので起き出し、寒気や気分不快であったが、無理をして論議を勤めた。その後、浅草の誓願寺に行く予定であったが、ことのほか寒気が強く、気分不快・お難も心配であったので行くことを断った。そこで、安田求馬某を呼んで薬の調合を頼んだ。安田は脈を診て診察するのは不得意なので薬だけをおいていき、隆光はそれを服用してみた。さらに、曲直瀬正珍(まさてる)を呼び、8つ時(午後2寺頃)に来診し薬を処方してくれた。服薬しだが、暗くなるまでに下痢の回数が14回あり、曲直瀬は7つ時(午後4持頃)に再び来診したときにその状態を聞いて不審がり、薬の分量を加減した。それでも、夜中に下痢が43回あった。28日に数原宗達(すはらむねみち)・曽谷玄鳳(そだにげんぽ)が来診し、曽谷の薬を服薬しだが、かえって下痢の回数が増えてしまった。これにより、曲直瀬は病状を綱吉に申し上げ、それによって、数原・曽谷・木村鎌庵季益(けんあんすえます)・佐合宗諄(さごうむねあつ)・村田昌伯(むらたまさなか)の6人の幕府の医員が医師団として派遣された。昼夜にわたり診療が続けられ、数原が匙加減(薬の調合)の責任者となった。しかし、隆光は気力が出ずに寝ていた。数原の処方は、腹中の様子に構わず独参湯(朝鮮人参だけ)を用いた。隆光は、27日以後食欲不振で、おもゆを少々食べただけであった。独参湯の効き目はなく、服薬したところ吐逆してしまった。これによって一時止め、薬を加減して用い、その中に人参を五分入れた。28日の七っ時(午後4時)より下痢の数は減り、28日の回数は55回であった。28日の夜中に9回の下痢があったが、食欲は少し出てきた。綱吉からもお見舞いが来て水干粉1箱が送られた。柳沢吉保よりも手医師が派遣され、さらに幕府よりは橘元常(たちばなもとつね)か派遣された。このように大分重症であり、綱吉は医師団を派遣して隆光の治療に当たらせた。隆光の普段の食事を見ると、奈良茶、お浸し、お新香と質素なものであり、僧侶だったことを思い直した。食中りの症状は、翌月の5月5日頃が峠で、6日には快方に向かい、11日には全快している。5月1日より5日条を見ると、
   一 朔日、御奉書被下、御檜重被下之、宋    仙院被参、                一 二日、御奉書被下、           一 三日、右同前、             一 四日、右同前、干瓢一箱被下之、  と、毎日綱吉より隆光に見舞いがあり、6日条に
は、
   一 六日、右同前、御医師衆昼夜被相詰候    事、もはや御止被成可被下之旨、出羽守    殿断申、              と、隆光は昼夜に詰めて診療に当った医師はもう無用と断り、翌日7日条には、            一 七日、今日より医師衆被罷帰、養安院    (曲直瀬正珍)・通玄(数原宗達)・長順(曽    谷玄鳳)ハ毎日見廻、
と、7日よりは昼夜に詰めた医師は帰り、曲直瀬・数原・曽谷の3人が回診することとなった。11日には全快の礼状を綱吉に出し、12日には御礼のために登城し、
   一 十二日、四っ時過登城、御檜重献上、    御目見御礼申上、御懇意之上意也、為御    祝儀黄金五枚・真綿百把被下之、直ニ三之    丸(桂昌院)様へ罷越、縮緬献上、御懇意    儀也、為御祝儀白銀廿枚・帷子十被下之、    出羽守殿(柳沢吉保)・右京(松平輝貞)殿    へ直ニ御礼ニ罷越、両所へさあや三卷つゝ    遣之、黒田豊前守(直邦)殿へ二卷遣之、    養安院(曲直瀬正珍)・通玄(数原宗達)・    長順(曽谷玄鳳)へ白銀三枚つゝ遣之、鏡    庵(木村鎌庵季益)・益庵(佐合宗諄)・忠    庵(村田昌伯)へハ金子五百疋つゝ遣之、     (後略)
と、綱吉や桂昌院・柳沢吉保等へのお礼と、医師団の中心曲直瀬・数原・曽田に白銀3枚ずつ、その他の医師には金子500疋ずつのお礼が行われた。これによって、断片的ではあるが当時の医療報酬の程度が知り得たことになる。
 按摩についての史料は、『隆光僧正日記』宝永2年(1705)4月21日条に、              一 廿一日、(中略)(綱吉が)一位様(桂昌     院)御寝所へ被為成、御脈御窺被成、御腹   
 ・御背四半時程御按摩被遊、(後略)
と、綱吉が母の桂昌院のつかえ 痞に際
し脈を取り、さらに自身がお腹や背中に30分(4半時)程按摩をしたという。記事は25日にも続き、
   一 廿五日、(中略)(綱吉が桂昌院の)御脈    御窺、御腹・御背四半時程御按摩被遊、    御出被成、御膳被召上、暫時御咄被成、    又(桂昌院の)御寝所へ被為入、御按摩被    成、御医師衆被為召、御穿議被遊、御薬    加減被仰出、(後略)
と、綱吉は21日と同様に母の見舞いをし、脈を診たり、また30分程お腹や背中に按摩をし、その後表に出てきて食事をして暫く談笑したが、再び母の寝室に行き按摩をした。そして、医師達を呼び、母の治療について相談の上処方を指示したという。さらに3日後の28日には、
   一 廿八日、(中略)一位様(桂昌院)之御腹    ・御背御按摩被成、(後略)
と、綱吉はまたもや母のお腹や背中を按摩したというのである。また、閏4月朔日・7日・10日・15日・21日・28日条の6回も綱吉が死期間近な母のために按摩を施している記事もあり、
   一 朔日、三之丸(桂昌院)へ被為成、直ニ相    詰、八っ時御入御、於寝所ニ御按摩被遊、    (後略)
   一 四日、三之丸へ御成、相詰、八っ時前    被為成、御按摩被遊、御膳過御仕舞被遊    又御按摩、(後略)
一 七日、三之丸へ御成、相詰、御按摩被
    遊、御仕舞被遊、(後略)
   一 十日、三之丸へ御成、御按摩被遊、
    御仕舞無之、(後略)
   一 十五日、(中略)三之丸へ被為成、(中     略)御仕舞被遊、御按摩も被遊、(後略)
   一 廿一日、三之丸へ御成、相詰、(中略)    御按摩・御碁被遊、御仕舞無之、(後略)
   一 廿八日、月並之御礼如常、御礼過三之    丸へ御成、相詰、御按摩被遊、碁被遊、
    御仕舞無之、( 後略)
と、いずれも綱吉が参の丸の桂昌院のところを尋ね熱心に按摩を施している。綱吉の按摩は、さするくらいのものとは思うが、親孝行の一念とはいえ将軍自身が按摩をしている様子は大変興味深い。ちなみに、桂昌院はこのすく後の6月22日に逝去している。『徳川実紀』同日条には、
   廿二日よべ  從一位桂昌院殿うせさせ給   ふ。よて群臣執政(綱吉)に謁し御気色うか   ゞひ奉る。  尼公(桂昌院)の御遺骸増上   寺に納め進らするにより。秋元但馬守喬知。   少老井上大和守正岑。作事奉行曲淵越前守   重羽。小普請奉行間宮播磨守信明其事ども   奉り。寺社奉行久世讃岐守重之。留守居松   前伊豆守嘉広。勘定奉行戸川日向守安広も   同じくあづかるべしと命ぜられ。松平周防   守康員。有馬大吉寿純。松平采女正定基。   参       (辻番)     
浦壱岐守明敬は辻固にさゝれ。
黒田甲斐   守長重は山門。遠山和泉守友春は表門。松   平縫殿頭乗真は裏門。戸田淡路守氏成は本   堂裏口の警衛にあてらる。けふよりは営樂   七日。音楽十六日停廃せらる。
と、桂昌院の死亡と家臣の綱吉へのお悔やみがあり、墓地の芝増上(4)            
寺まで要所の警備について書か
れている。概要は分かるが事務的で殺風景な感じがする。本日記の同日条をみると、
   一 廿二日、朝六っ半過、又護国寺(尋祐)    下屋敷へ告来、如昨夜何も早々罷出、進    休庵(英岳)ハ当寺ニ逗留也、公方様(徳川    綱吉)可被為成之旨、御供触有之、然共、    美濃守(柳沢吉保)殿何も令相談、此時節    御成被遊候而ハ、一位様も御臨終之御障    ニ可被為成候、公方様も別而御愁傷可被    遊候間、御成之御左右申上間布(敷)之旨、    談合相究、其上、一位様兼而御臨終之節、    御側ニ相詰候人数御究被為置候条、公方様    御臨終之節被為成候而ハ、一位様之思召ニ    相背候条、旁可為無用之旨也、護国・進    休・愚衲(隆光)御側ニ罷在、臨終御正念御    祈祷抽丹精、貞誉大僧正(了也)、伝通院    (祐天)、朝五っ半時被参、十念御授ケ被    申上、正念ニ御受被遊、随呼吸伝通院念仏    称之、少も不御苦悩、四っ時御逝去也、    理趣経一巻等誦之、貞誉・伝通念仏被申、    其内誓願寺・安養院被参、其後、増上寺    方丈(門秀)被参、八っ時分護国(寺尋祐)    ・進休(庵英岳)・備後殿(牧野成貞)同道    ニ而御本丸へ参、於御休息ニ(徳川綱吉に)    御目見、御悔申上、御愁嘆不被遊候様ニ、    随分御イサメ申上、
と、桂昌院の臨終に際して、隆光等の僧が詰めていて、子供の綱吉の気持ちを周りが推し量ったり、桂昌院の気持ちに沿って綱吉の立ち会いを拒んだり、落胆する綱吉を隆光が諫めるところなど、揺れる心情の情景がリアルで生々しい。
 また、日記中に幕府の医員以外に大名のお抱えの医師が登場し、「手医師」・「手医者」・「扶持人」・「家医師」と表現されている。その実態は余り知られいないので、これまで度々登場した側用人柳沢吉保(改名以前は吉明)のお抱え医師の史料があるので紹介する。本日記宝永元年(1704)6月29日条に、
   一 廿九日、(中略)愚衲眼病不勝ニ付松平美    濃守(柳沢吉保)殿より岡村休円被遣、今    日より休円療治、休円者美濃殿御扶持人    也、
と、吉保家の眼科医岡村休円某が登場し、隆光の眼病の治療に当たり、翌7月4日条には、
   一 四日、眼病為御尋(綱吉より)御奉書到    来、葛一箱被下之、(後略)
と、綱吉よりお見舞いが届いた。翌日5日条には、
一 五日、眼病休円療治不相応ニ付、從美濃    守(柳沢吉保)殿馬島瑞安(盛範)・赤松休    庵(則光)両人被差遣、両人共目見之、瑞    安療治也、
と、岡村の治療が不相応なので、幕府の眼科医馬島瑞安盛範と赤松休庵則光が遣わされ、馬島の治療を受けた。元禄7年(1894)の『柳沢保      (5)      
明家中分限帳』の中に、吉保お
抱え医師の11人の名前があり、
     御医師
  一十両廿人扶持   長坂 長春
  一参十人扶持    市川 玄俊
  一十人扶持     平井 立三
  一五拾人扶持    本郷 順庵
  一廿人扶持     中谷 順庵
  一廿人扶持     田村 周達
  一拾人扶持     岡村 休円
  一弐拾人扶持    吉松 友甫
  一拾五石四人扶持  丸山 景貞
  一拾人扶持     三間 玄室
  一弐拾人扶持    大高 為春
と、先の岡村休円は10人扶持の給料であったことが分かる。医師の全体の給料をみると、10人扶持が最低で最高は15石4人扶持とさほど高いものではなかった。ただし、先に隆光の食中りのお礼の通り診療報酬が別にあった。吉保にはこの他に医師がおり、『徳川実紀』元禄7年(1694)11月9日条に、
   市医木村春湖某。中村玄悦兼照。木村養運   輝安。吉田         (これかず)  
一庵宗貞。小島昌怡維和。柳沢
   出羽守保明が医小林(小森) (よりふさ)         
西倫頼英。外科   浅井休沢
某石川良順某召出され。医員加へ   らる。
と、吉保お抱えの小児科医小森西 よりふさ(6)         
倫頼英は本日記中に登場する中
村兼照等の医師とともに幕府の医員に登用され、同月15日条には、
   こたび召出されし医員初見し奉る。
と、綱吉に初見の礼を取っている。宝永2年(1705)閏4月6日条には、
   松平(柳沢)美濃守吉保瘍医丸山昌貞玄棟。   (市瘍医)鹿倉以仙有信。市井眼科平田友益   某各其業を精研すとて。(綱吉に)見参ゆる   さるべしと仰下さる。
と、先の11人の中の「丸山景貞」本人か子供かは分からないが瘍医       はるむね(7)     
(外科)の昌貞玄棟が綱吉に始めて
拝謁し、9月朔日条には、
   松平(柳沢)美濃守吉保が瘍医丸山昌貞玄棟。   市医鹿倉以仙有信召出され。あらたに二百   俵づゝ給ひ番命ぜらる。
と、先に拝謁が一緒であった町の   ししくらありのぶ       
外科医鹿倉有信とともに幕府の
医員に取り立てられた。また、同5年2月3日条には、
   吉保家医平井立三。相原松悦。立野通庵。   久志本三庵。藤本理庵初見し奉る。
ともあり、相原松悦(あいはらしょうえつ)・立野通庵(たつのつうあん)・久志本三庵(くしもとさんあん)・藤本理庵(ふじもとりあん)の4人も抱えられていたことが分かる。藩医の中からも小森や丸山のように幕府に登用される者もいた。吉保ほどではなかったとしても、大名は自前の医師を抱えていた。
 また、吉保は盲人も抱えてお
(8)り、
      兵部様御広式(敷)番
    (中略)
   一拾両五人扶持  由 一
   一拾両五人扶持  三和一
            (真一カ)
   一拾両五人扶持  清 一
と、吉保の子兵部吉里の広敷(奥向き)番として3人の盲人の名がある。この盲人達は、鍼医の他に教養・芸能に長けた者で、遊び相手であり、家庭教師でもあった。『徳川実紀』元禄7年(1694)11月3日条には、
   (徳川綱吉)柳沢出羽守保明が邸にならせ給   ふ。御講書。申楽等例のごとし。又家臣十   人論語。書経。礼記等を進講す。また瞽者   一人大学の序を諳誦し鍼書を講ず。(中略)   瞽者にも無紋の時服一襲下さる。
と、綱吉が吉保の邸宅に赴いた時、勉強会の中で吉保のお抱えの盲            そらよみ
人の一人が『大学』の序を諳誦
し、鍼書を講じ、褒美に紋の付いていない季節の服を1着下されたという。『徳川実紀』同14年12月3日条にも、
   (徳川綱吉)柳沢美濃守吉保が邸に臨駕あり。   (中略)御講書など例のごとし。けふ恩賜に   浴する家臣十五人。瞽者一人医書を講じて。   これも時服たまふ。
とあり、やはり綱吉が吉保の邸宅に定例の勉強会のために赴き、吉保お抱えの盲人が医書を講じ、褒美に季節の服を下されたという。医書・鍼書が素問・霊枢のようなものであったかは分からないが、高い教養を身につけていたことが分かる。『徳川実紀』宝永3年(1706)12月11日条に、
   瞽師三島惣検校安一は法印になり。(柳沢)   吉保が家の瞽師杉枝検校真一召出され月俸   廿口賜ふ。
と、先の三島安一は法印に昇進し         さないち  
、吉保家の盲人杉枝真一(1673〜174
7年)が幕府に召されて医師に加えられ、月俸20口を賜ったのである。先の3人の盲人の内「三和一」が杉枝真一であった。『徳川実紀』宝永5年(1708)12月3日条には、
   (徳川綱吉)松平(柳沢)美濃守吉保がもとに   臨賀あり。(中略)御講説。進講例のごとく   ありて。経隆。時睦も論語を講ず。次に久   遠寺日亨出て観世音字義を講じ。瞽者徒然   草を講じ。又家臣等剣術を御覧にそなふ。
ともあって、吉保家の盲人が『徒然草』を講じている。示した史料は吉保家の盲人達だけではあるが、鍼書や他の医学・『大学』・『徒然草』などの古典を暗記し、鍼医・教養人として活躍していたことが分かる。
 蛇足ではあるが、吉保の邸宅について、 『隆光僧正日記』元禄15年(1702)4月5日6日条に、
   一 五日、(中略)、今夜九っ半時過、松平    美濃守(吉保)殿宅出火、御成御殿迄不残    焼失、明六っ時火消、
   一 六日、為窺火事之御機嫌五っ半頃登城、    (中略)、美濃守殿へ見廻ニ罷越、美濃守殿    遠慮ハ御免也、(後略)
と、5日の深夜9っ半過(午前1時頃)に吉保の屋敷が火事となり御成り御殿まで焼失するという全焼の状態で、明6っ時(午前6時頃)に鎮火した。隆光は、6日の5っ半(午前8時)頃に綱吉に御機嫌窺いに登城し、その後吉保にお見舞いに寄った。柳沢には出火の責任は問わないとの仰せがあった。『徳川実紀』5日条には若干のニュアンスの違った内容が見え、
   この夜松平美濃守吉保が邸出火してことご   とく焼亡して。行殿も災にかゝる。この事   により消防命ぜらるゝ諸大名あまたあり。   阿部豊後守正武。少老稲垣対馬守重富。大   目付。目付まかり消防の指揮す。小納戸松   前陸奥守当広をもて吉保をとはせ給ひ。夜   具等をたまふ。 御所には明日花の宴ある   べき恩あらましなりしがとゞめらる。
と、綱吉が柳沢の出火を大変心配し、諸大名や幕府の大目付・目付を派遣して消火にあたらせいる。そして、江戸城内で明日行われる予定の花見まで延期している。『隆光僧正日記』同5月9日条には、
   一 九日、(中略)、松平美濃守殿御移徙、    八っ時也、依之、七っ時祝儀ニ罷越、(中    略)、又以使僧美濃守殿へ紗綾五巻・昆布    壱箱送之、(後略)、
と、柳沢は火事の後に別宅に避難していたのか9日に引っ越しがあり、同7月19日条には、
   一 十九日、松平美濃守殿より役者呼ニ来、    月輪院参、来八月御殿御住建之吉日之儀、    十一日・十二日・十四日・十五日之内考    候様ニ申来、八月十一日吉日之旨、以書付    申遣、
と、屋敷に綱吉御成用の御殿を再建するに際し、隆光にその吉日を問い合わせてきた。隆光は、翌8月の11日が吉日と返事した。この鍬入れ式の記事は見えないが、同9月14日条には、
   一 十四日、松平美濃守殿御成御殿安鎮修    之、安鎮万タラ(曼陀羅)納之、御休息ニ     而修之、御棟上ニ納之、曼荼羅(曼陀羅)    ハ此方ニ而申付、絵出来、早速平岡宇右    衛門(資因)方へ遣之、表具并ニ箱・銅箱等    彼方ニ而出来、明六っ時罷越、五っ半時    過仕廻、直ニ居宅へ罷越、料理出、美濃守    殿引物一種持参、料理過而伊勢守(柳沢    吉里)殿被罷出、四っ時過罷帰、(後略)、
と、御殿の棟上げの日で、隆光は安鎮法を修め、安鎮曼陀羅を納めた。吉保方にては、料理と引き出物があった。
 また、別邸六義園(りくぎえん)につて、『徳川実紀』元禄8年(1695)4月21日条には、
   此日柳沢出羽守保明に。染井村にて別墾の   地四万七千坪給ふ。これ後に山林泉石の景   致を構へ六義園と称し。 霊元上皇御題詠   を給ひて。名園と世にもてはやせし所なり。
と、47,000坪の土地を綱吉より賜った吉保が庭園を造り、霊元上皇が詠まれた六義園の詩歌によってさらに名声が高まったという。現在も東京都文京区駒込に回遊式庭園として遺っている。
 『徳川実紀』宝永6年(1709)3月12日条には、
   松平(柳沢)美濃守吉保が道三河岸。常磐橋   の邸宅并に京加茂川の宅地を召上られ。
とあり、道三河岸と常磐橋の屋敷・京都加茂川の宅地が没収された。綱吉の寵愛の下に優雅な生活をしていた吉保も将軍の交代により憂き目にあうことになった。吉保の屋敷の見取り図は紹介できないが、『江戸城下武家屋敷名鑑』上巻・人名扁で調べて見ると次の5つの図がある。
  @元禄年中(1688-1704)…神田橋門内(千代田 区大手町1丁目) → 図1
A元禄11年(1698)…常磐橋門内(千代田区大 手町2丁目) →  図2
  B元禄14年(1701)…常磐橋門内(千代田区大 手町2丁目) → 図3
  C同…神田橋門外(千代田区内神田1〜3丁目、 鍛冶町1・2丁目、中央区日本橋本石町4丁目、日 本橋室町4丁目) → 図4
  D元禄11年(1698)…浅草の内(台東区柳橋2丁  目) → 図5
 @ABは年代は違うが、同じ場所を違った角度から描いたもので、神田橋の門を南に入った門前が吉保の屋敷で(図1)、屋敷の南の道を鍵の手に東に行った(一端東に行き南に曲がり、また東に曲がる)門が常磐橋門である(図2)。その南の道を少し西に行き、南に曲がってふつかった橋が道三橋であり、道三橋の東北の所に今大路道三親顕の屋敷がある(図3)。これが先に召し上げられた「常磐橋」の屋敷と考えられる。絵図より言えることは、神田橋門・常磐橋両門前の屋敷という、江戸城の戦略の拠点を綱吉より預けられ吉保は、本当に綱吉に信任されていたということである。道三河岸の屋敷は、ここのことをいうのかは不明である。また、神田橋門の南側の吉保の屋敷のさらに南にかんだ御殿があり、ここは綱吉の将軍就任以前の屋敷であった。Cの神田橋門外の屋敷は。神田橋門を北に出て、北東に延びる道を進むと曲直瀬養安院正珍町屋敷・松平右京太夫輝貞・吉保宅と続く3軒目の屋敷で、神田橋門をわずかに隔てたところである。吉保の屋敷の裏(北東)には、人見長齋(玄徳行高・ひとみげんとくゆきたか)・森専益正慶(もりせんえきまさよし)・長島道仙瑞得(ながしまどうせんずいとく)の3人の医員の屋敷がある。綱吉は、よく松平輝貞の屋敷にお成りになっているが、この屋敷であろうか。
 以上、紹介してきた本日記は、このようにリアルで、筆者の興味を十分に満たしてくれるものである。今後の研究のために、本日記の医師・医事索引を作成したので紹介する。脱漏や誤りについて、ご叱正くだされば幸いである。

    凡例
 一、人名の部・医事の部の2部に分けた。
 一、項目は通用の音読みで五十音順に配列した。
 一、姓名不明や通称のみのものは『新訂 寛政重修諸家譜』全22冊(続群書類従完成会)で補い、「→」でその人物を示した。
 一、医師で系図が判明する者は、各自の最後に< >の中に系図と巻数・頁を次のように示した。
  『寛永諸家系図伝』第15(続群書類従完成会、1994年) → 永N頁
  『新訂 寛政重修諸家譜』 → 政22頁
  『断家譜』全3巻(続群書類従完成会) → 
 断@頁
 一、「医事の部」では、特に詳細な注釈を加えず該当冊数と頁を示すに止どめたものもある。
 一、項目の後の@〜Bの丸数字は、本日記の冊数1〜3冊を示し、その後に該当頁を記した。さらにその後の( )内の数字は、その頁に出てきた項目の回数を示した。
 一、本日記3冊の所収年代を示す。
 第1冊…元禄5年(1692)〜同11年(1698 )
 第2冊…元禄12年(1699)〜宝永元年(1704)
 第3冊…宝永2年(1705)〜同6年(1709)
 *鶴姫…紀伊徳川綱教夫人

   《人名の部》
あかまつきゅうあんのりみつ赤松休庵則光(眼科)  隆光眼
病診察A271
  <政S42>
いまおおじどうさんちかあきら今大路道三親顕 (典薬頭)  隆
光津軽信政・信  寿を招き同道訪問@160、岡部美濃守長泰振舞  隆光同席@163、隆光を初て訪問B90、隆光を  訪問B152 <永N123、政I88>
いぜきしょうはくすけはる井関正伯祐甫  素問につき返
答B61
  <政R208>
うえだ  せしんあんとうれき上田施針庵東歴  鶴姫馳走の能
拝見A228
  <政S371 >
益庵  →  佐合益庵宗諄を見よ。
太田謙光院某  参百石加増(桂昌院治療賞)A
  244 <政22370、断@219>
岡村休円某(柳沢美濃守吉明扶持人、眼科)  隆  光眼病治療A270(3)、同治療不相応A271
玄建子)  隆光を
訪問A153
  <政22381>
奥山りつあんはるたつ立庵玄建(謙徳院)  隆光と
子息を招く@
  167、千代姫治療・逝去@308、隆光下屋敷へ
  訪問A208、藤堂和泉守高久治療A208、隆光  を訪問A208、鶴姫馳走の能拝見A228、河辺  長右衛門治療A244、同難治A245、鶴姫風気  治療A257・259、同薬相応・通じ参度・むく  み減るA258、桂昌院機嫌不勝につき今日より  薬献上B33/A
  208 <政22381>
木下順庵(じょあんもりひさ恕庵守庸カ)  中庸講
釈@72
  <永N134、政P214>
木村けんあん鎌庵(謙庵)すえます季益  隆光痢病
治療A102、同礼  A104 <政21214>
木村春興 →  木村春湖某カ
木村春湖某  隆光招く@170
  <政22397>
鏡庵(鎌庵カ)  →  木村鎌庵季益を見よ。
久志本左京子息  →  久志本民部常信を見よ。
くしもとさきょうのすけつねかつ久志本左京亮常勝(分家、御匙医
師)  隆光母
  (河辺氏)病再発治療@239、八百石加増B107
  <政Q110>
久志本みんぶ つねのぶ民部常信(常勝子息)  禄
二百俵拝領B107  <政Q110> 
顕光院  →  太田謙光院某を見よ。
顕徳院  →  奥山立庵玄建を見よ。
玄東(保科肥後守正容手医師)  保科肥後守正容随  従@154
川野正庵  →  河野松庵通房を見よ。
こうのしょうあんみちふさ河野松庵通房  素問につき返
答B61 
  <永N117、政I223>
さごう えきあんむねあつ佐合益庵宗諄  隆光痢病治療
A102、同礼A104  <政S369>
さとう けいなんすけのり佐藤慶南祐天(外科)  隆光を訪
問A92、隆光腫  物治療B222 <政21171>
しぶえしょうけんなおはる渋江松軒直治  南部隼人実新
疱瘡治療A80
  <永N188、政I47>
春庵  本多能登守忠常・淡路守忠周隆光訪問・  取持@161
須原通玄  →  数原通玄宗達を見よ。
すはら つうげんむねみち数原通玄宗達  本庄因幡守宗
資中気治療・独参  湯投与・いよいよ上気A4、隆光痢病治療A   102(4)、103、同痢病治療礼A104、隆光食傷  治療A139(2)、参百石加増(桂昌院治療賞)A  244、鶴姫疱瘡治療B259 <政S358>
正順(保科肥後守正容手医師)  保科肥後守正容  随従@154
清芳院(盛方院)  →  吉田盛方院浄仙を見よ。
せのおしょうたくあつのり瀬尾昌宅淳範(奥医者)  隆光腫
物治療B222、
  <政22384、断B207>
宗仙院  →  橘隆庵元常を見よ。
宋仙院  →  橘隆庵元常を見よ。
祖谷長順  →  曽谷長順玄鳳を見よ。
そだにちょうじゅんげんぽう曽谷長順玄鳳(分家)  隆光痢
病治療A102(2)、  103、同礼A104、参百石加増(桂昌院治療賞)  A244 <政L1>
たけだじぶきょう竹田治部卿さだよし定快(法印)  隆光食
もたれ薬投与A  224、参百石加増(桂昌院治療賞)A244 
  <永N139、政K167>
より橘に改姓
、宗仙院、宋仙   院)  隆光弟子明教光蓮治療@107、本多能  登守忠常・淡路守忠周隆光訪問の取持@161、  本庄因幡守宗資中気治療A4、法印叙任(柳沢  吉保治療賞)A60、増上寺白玄吐血・下血治療  A61、隆光痢病治療A102(3)、隆光を訪問A  153、鶴姫馳走の能拝見、A228、河辺長右衛  門治療A244(2)、245、素問につき返答B61、  隆光を訪問B62、護国寺尊祐半身不随治療B  260 <政S362>
忠庵  →  村田忠庵昌伯を見よ。
長順  →  曽谷長順玄鳳を見よ。
通玄  →  須原(数原)通玄宗達を見よ。
道卓(前田肥前守綱政家来医師)  藩主に随伴@  145
東歴 →  上田施針庵東歴を見よ。
中井驢庵  →  半井驢庵成明を見ょ。
永島道仙  →  長島道仙瑞得を見よ。
ながしまどうせんずいとく長島道仙瑞得  隆光弟子明教
光蓮治療@107、隆  光招く@283・B291、隆光より心易き衆とし  て饗応招待B239、隆光を訪問B275
  <政218>
永島的庵  →  長島的庵秀世を見よ。
ながしまてきあんひでよ長島的庵秀世(瑞得子)  隆光を
始めて訪問B
  166 <政218>
なかむらげんえつかねてる中村玄悦兼照  素問につき返
答B61
  <政2171>
なからい ろあんしげあき半井驢庵成明(典薬頭)  隆光招
く@283、隆光を  訪問B62、205、206、284 
  <永N111、政J192>
の ま あんせつしげゆき野間安説成之  隆光と子息を
招く@167
  <永N93、政L350>
はたじゅみょういいんたねきよ秦寿命院子清  細川越中守
綱利下屋敷隆光に  同伴@152、隆光を訪問A96、B200、取持B  204 <永N169、政I327>
ばんどうよ えいはん伴道与栄藩  牧野備後守成貞
護持院参詣相伴@
  39 <政22289>
平田友益(道有カ)某  隆光眼病治療A267、隆光  を訪問B244、隆光  始めて訪問B274(2)
  <永N204、政P216>
まじまずいあんもりのり馬島瑞安盛範(眼科)  隆光眼病
診察A271、同治
  療A271 <政22234>
ますだじゅとくよしさだ増田寿徳良貞  隆光招く@291
、勝手に詰めるA  60、料理取持B146、隆光を訪問B152、B
  228 <政21120>
増山寿徳  →  増田寿徳良貞カ。
ま な せ ようあんいんまさてる曲直瀬養安院正珍(法印)  隆光
腫物内薬投与@  117、隆光暑気当治療@292、隆光痢病治療A  102(4)、103、同礼A104、隆光を訪問A153・  B287、28(2)、隆光腹薬投与A214、隆光食も  たれ薬投与(人参四分入)A224、参百石加増   (桂昌院治療賞)A244、素問につき返答B61、  隆光痢病治療B144(3)、進休庵英岳治療・難  治B236、綱吉麻疹前兆につき護持院快意と密  談B249、隆光より父子招かれるB282 
  <永N127、政I92>
正珍子)  隆
光より父子招か  れるB282、B287 <永N127、政I92>
むらたちゅうあんまさなか村田忠庵昌伯  隆光痢病治療
A102、同礼A104
  <政S1>
薬師寺宗仙院  →  橘隆庵元常を見よ。
安田求馬某  隆光痢病薬調合A101・102
山本隆仙(ゆうせんみちよし友仙道栄カ、鍼科)  
隆光弟子明教光  蓮治療@107 <政21343>
友益  →  平田友益某を見よ。
祐盛(曲直瀬養安院正珍弟子)  師匠と同道隆光  を訪問B282
養安院  →  曲直瀬養安院正珍を見よ。
陽徳院  →  依田陽徳院某を見よ。
よしだ じあん まさかつ吉田自庵昌全(外科)   隆光腫
物外治@117
  <政22354>
よしだしゅうちくむねとも吉田周竹宗知  鶴姫病状報告
A258
<政F236>
よしだせいほういんじょうせん吉田盛方院浄仙  増上寺白玄
吐血・下血治療A  61 <永N150、政D269>
よ だ ようとくいん依田陽徳院某  参百石加増A24
4
  <政22363>
立庵  →  奥山立庵玄建を見よ。

    《医事の部》
按摩  綱吉桂昌院に按摩を施すB26(4)、27、
  28(4)、29(2)、30、34
医師  柳沢出羽守吉保家医師B102
医師衆  桂昌院痞の処方会議B26・103、綱吉麻  疹前兆につき知らずB249
医者  素問につき返答B61
医者衆  本庄因幡守宗資中気治療A4、鶴路姫疱  瘡本うみに付気遣うA86、誓  願寺疝気治療A281 、桂昌院危篤・脈不変B  36
打身の薬  隆光拝領@129・B53、隆光母拝領@  130、隆光南部信濃守のために拝領A128
延齢丹  隆光拝領B53
加減薬  橘隆庵元常独参湯の加減薬投与@107
眼病  隆光日頃発症・治療A267、同柳沢吉保お  尋ねA267、同ご用早退A(3)269・270、同表  ご用勤めずA270、同綱吉見舞いA267・269・  271、同治療A270・271、牧野備後守成貞罹患  B33、同病気を押して出仕B34(2)
灸  喜知姫狂風に施灸@292、桂昌院施灸後手足  しびれ・気色不快A232、隆光施灸するB295
近所の医者  護国寺尊祐半身不随治療B260
薬  近江惣持寺拝領@124、小池坊英岳弟子貫栄  拝領A18
薬代  隆光綱吉に薬代として帯び献上B52
口曲み弁舌難調  牧野備後守成貞罹患@60
下血  増上寺白玄症状A61
家来の医師  松平肥前守(前田綱政)家来の医師  道卓@145、津軽越中守信政家来の医師両人@  160
口中痛  牧野備後守成貞罹患B25、隆光罹患B  200
月水不順  鶴姫症状A85
済生丹  隆光拝領@109・A10・B53
地黄丸  隆光拝領@52・174・A167・B102、覚  王院拝領B102
酒湯  →  疱瘡を見よ。
消食丸  隆光三剤拝領A10
暑気中り  隆光発症@292
食傷  隆光罹患A138
食もたれ  隆光罹患A223
歯痛  柳沢出羽守保明強@140
すじはり筋張  綱吉煩B106
頭痛  牧野備後守成貞症状@31・A127、柳沢出  羽守保明強@140、綱吉症状@167・B106、隆  光罹患B173
赤龍丹  隆光拝領@109、釈迦院有雅拝領@109
疝気  綱吉発症針治療@95、同快然・しかし腹  中はすっきりせず@96、同発症@124、同発症  ・腹痛・便痢灑@154、同発症@156・A63・  B106、小池坊卓玄罹患@161、隆光罹患・足  痛A266、誓願寺某俄に発症・治療・快然A   281
桑膏  隆光拝領@106
蘓香円  隆光拝領B53
素問  松平右京大夫輝貞儒者講釈・医者へ不審  問答B61
大黄  打身の薬の薬味・腹中下る@129
田虫  護国寺頭面発症・治療B146
痰気  綱吉罹患A259
中風  大相模大聖寺某罹患@57
つかえ痞  柳沢出羽守保明罹患@105
、綱吉発症@124、  桂昌院差張B25、同快然B25、同弥快然B26、  同再発し綱吉上聞し脈を取り按摩を施すB26、  綱吉罹患B106
常の服用藥  小池坊亮貞拝領A208
手医師  保科肥後守正容手医師玄東・正順@
  154、柳沢出羽守吉保手医師B102
手医者  本庄因幡守宗資中気治療A4
独参湯  橘隆庵元常投与@107、数原通玄宗達投  与A4(中気薬)
吐逆  桂昌院症状A226、
吐血  増上寺白玄症状A61
人参  隆光十両拝領A167、隆光小池坊亮貞のた  めに請うA208、小池坊亮貞拝領A208、食も  たれ薬四分入りA224、隆光五十本拝領B53、  隆光五十本拝領B223
熱病  栗本宇平太罹患・死去A153
針  綱吉疝気発症治療@95
はりぐすり振薬  隆光拝領B53
腫物  柳沢出羽守保明発症@101、隆光左内股発  症@117、綱吉額に発症@278、綱吉発症A
  104、綱吉罹患@92・173、隆光同快復祈祷@  92、牧野備後守成貞罹患A242、隆光罹患B   222・同綱吉見舞い品B223、同快気B223、隆  光本庄内膳正宗長見舞いA239
病気加持・祈祷  綱吉腫物@92、本庄因幡守宗  資中気A4、朽木主水周綱奥方(南部直政女)A  152、河辺長右衛門病気A244、鶴姫病気A
  250・257、綱吉麻疹B247〜250、八重疱瘡B  56、浄光院疱瘡B258
ふうき風気(風邪)  桂昌院発症・頭痛
・快然(2)A179、  清浄院罹患A220、護国寺某罹患A250、進休  庵英岳罹患B44、綱吉罹患B106(2)、同本復  B107、同罹患B246、同作日より顏色悪しB
  247、隆光少々風気B167、大流行(大名六十   人)B169・170、上方も流行B170
腹中水瀉  綱吉罹患@167・168、同快然@170
腹中不快  桂昌院症状A64、隆光症状A214
吹出物  綱吉発症A161
豊心丹  釈迦院有雅拝領@109、隆光拝領@174  ・A10・B53、隆光西新井大師参詣・土産A  99
疱瘡  南部隼人実新診療A80、鶴姫罹患・治療  ・加持A85〜86、同本復A89、八重姫罹患B  56、酒湯B58、保科久千正邦逝去B244、浄光  院罹患B257、同隆光祈祷B258、
麻疹  隆光本多監物忠貞見舞いB239、綱吉前兆  B247、同につき護持院快意と曲直瀬正珍と密  談B249、同医師衆知らずB249、同発症B
  249、同酒湯B251
満狂風  家千代逝去B161
脈  綱吉が桂昌院の脈を窺うB26(2)
薬草喩品  上野門跡公弁法親王講談@42
薬湯  本庄因幡守宗資入浴後逝去A23
養胃散  隆光三剤拝領A10
腰痛  隆光俄に発症・行歩なりがたしA262、牧  野備後守成貞罹患B70
痢通  隆光症状B144
痢病  隆光罹患・治療・御礼A101〜104・B
  144、桂昌院罹患A226
龍脳丸  隆光拝領@109 ・B53、釈迦院有雅有  雅拝領@109、智積院尊戒拝領@294
和中散  隆光拝領@106

参考文献・注
 (1)綱吉と杉山については、拙稿「杉山和一 その文献と伝説(『理療の科学』第18巻第1号、1994年)・同「杉山和一の屋敷と杉山流鍼治講習所について(1)(2)」(『医道の日本』54ー10・55ー7、1995年・1996年)の中を参照されたい。
 (2)永島福太郎他校訂『隆光僧正日記』全3冊(史料纂集、続群書類従完成会、1969〜70年)。本日記3巻61頁に登場した河野松庵通房家については、拙稿「江戸幕府の医療制度に関する史料(3)ー河野平之丞家由緒書などー」(『日本医史学雑誌』36-3、1990年)を参照されたい。喜知姫など将軍家の系譜について調べるには、『徳川諸家系 譜』全3卷(続群書類従完成会)があり、本稿作成に当たり特に注記しなかったが参考に した。
 (3)曲直瀬家やこの食中りの記事については、拙稿「国立公文書館所蔵『曲直瀬養安院由緒書』など」(『漢方の臨床』36-10 、1989年)。
 (4)桂昌院の遺骨については、鈴木尚「庶民派美人の典型、5代綱吉の実母 ー3代家光の側室、桂昌院ー」(『骨は語る徳川将軍・大名の人びと』、124〜頁、東京大学出版会、1985年)があり、歴史好きで医学に医学に造詣が深ければ興味深い内容である。また、専門的な増上寺の将軍家の遺跡の発掘調査報告書に鈴木尚他編『増上寺徳川将軍墓とその遺体』(東京大学出版会、1957年)がある。
 (5)埼玉県史調査報告書『分限帳集成』(埼玉県民部県史編さん室、76頁、1982年)。柳沢の昇進や川越藩については、須田茂『武蔵国藩史総覧』(299〜304頁、聚海書林、1989年)が参考となる。
 筆者はかつて、君塚美恵子編『紀州藩医 泰淵の日記』(かのう書房、1991年)について紹介したが(『日本医史学雑誌』39-2、273頁、1993年)、本日記は藩医の実態を伝えるものである。
 (6)小森西倫よりふさ頼英は、『新訂寛
政重修諸家譜』第22、341頁参照。
 (7)丸山昌貞はるむね玄棟は、『新訂寛
政重修諸家譜』第21、62頁参照。
 (8)『分限帳集成』(79頁)。杉枝家については、拙稿「江戸幕府における鍼科と盲人の鍼科登用に関する研究」(長尾榮一教授退官記念論文集『鍼灸按摩史論考』、73〜76頁、桜雲会、1994年)や「江戸幕府の医療制度に関する史料(6)ー鍼科医員島浦(和田)・島崎・杉枝・栗本家系図『官医家譜』などー」(『日本医史学雑 誌』41-4、1995年)を参照されたい。


  群馬県立盲学校教諭


【以下の絵図は省略】 
図1,元禄年中(1688-1704)神田橋門内の図 (『江戸城下変遷絵図集』第1巻、17頁)より


図2,元禄11年(1698) 常磐場諮門内の図
 (『江戸城下変遷絵図集』第5巻、69頁)より


図3,元禄14年(1701) 常磐場諮門内の図
 (『江戸城下変遷絵図集』第16巻、59頁)より


図4,元禄年中(1688-1704)神田橋門外の図
 (『江戸城下変遷絵図集』第5巻、95頁)より


図5,元禄11年(1698) 浅草の内の図
 (『江戸城下変遷絵図集』第16巻、85頁)より





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◆5. 表:律令と江戸幕府の医師の比較
 
律令と江戸幕府の医師の比較
事項 律令 医疾令 江戸幕府の医療
身分 官職 武家官位制
律令定員外任官
管轄 宮内省典薬寮 若年寄
官職 生、博師

典薬の下主典・少属・大属・少允・大允・助・頭

法橋→法眼→法印
役職  ー 侍医→奥医師、奥詰、番医師、寄合、、御目見小普請
内科〕・外科(〔瘍科〕・鍼科・口科・眼科・小児科・産科〔婦人科
職制 職制の上下あり 待遇の差はあるが職制の上下はない
診療科目 医(内科、外科、小児科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科)、女医(婦人科)、鍼科、按摩科、呪禁 内科、外科、小児科、眼科、口科、婦人か、鍼科、
女医 婦人かを担う 存在しない?
医師の出自 民間から試験・教育→著名な医師 医官・著名な医家の門弟・社人・寺僧・盲人・茶坊主・町人など独学・私塾・実践で治療成績の高い者
治療の対象 朝廷内 将軍→江戸城内大奥・・家臣
医師採択の理由 教育→能力ある医師 将軍のお抱え→大奥などへの治療のために膨大な医師団と能力ある医師の採用


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◆6.表:寛永諸家譜分析
 
NO 医師名 診療科目 出自 寛永諸系図伝 15巻の頁
1 半井驢庵 内科 医官・典薬 111〜117
2 今大路道三 内科 医官・典薬 123〜127
3 曲直瀬養安院 内科 医官 127〜129
4 片山与安 内科 医官 176〜181
5 久志本内蔵允 内科 医官(禰宜) 181〜187
6 坂上(田村)安栖 内科 戦国大名侍医(後北条) 175〜176
7 渋江長喜 内科 戦国大名侍医(後北条) 188〜189
8 塙 泰春 小児科 戦国大名侍医(織田・豊臣) 216〜217
9 細川紹高 眼科 戦国大名侍医(織田・豊臣) 231〜242
10 岡 道琢 内科 戦国大名侍医(豊臣) 129〜130
11 武藤田沢()清雲 内科 戦国大名侍医(豊臣) 135〜138
12 竹田定宣 内科 戦国大名侍医(豊臣) 139〜144
13 (三雲)施薬院 内科 戦国大名侍医(豊臣) 164〜168
14 寿命院(秦寿命院) 内科 戦国大名侍医(豊臣) 169〜174
15 吉田策庵 小児科 戦国大名侍医(豊臣) 205〜207
16 奥 宗印 外科(南蛮) 名医の門弟(堺の庄田宗心) 228〜230
17 南倉(森)専益 内科 名医の門弟(竹田定加) 162〜163
18 岡本玄冶 内科 名医の門弟(曲直瀬延寿院→医官) 190〜192
19 畠山玄昌 内科 名医の門弟(曲直瀬延寿院→医官) 200〜201
20 池田道陸 内科 名医の門弟(武士→曲曲直瀬一渓道三) 203
21 仲(の平田道有 内科 名医の門弟(武士→曲曲直瀬一渓道三) 204
22 内田元庵 内科 名医の門弟(武士→曲直瀬延寿院) 130
23 高木玄済 内科 名医の門弟(武士→曲直瀬延寿院) 131〜133
24 野間玄琢 内科 名医の門弟(武士→曲直瀬延寿院) 193〜194
25 清水亀庵 内科 名医の門弟(和気通仙院瑞桂) 118〜119
26 山下宗琢 内科 京医 121〜122
27 木下道円 内科 京医 134〜134
28 坂 上池院 内科 京医 145〜147
29 坂 寿三 鍼科 京医 147〜150
30 坂(吉田)盛方院 内科 京医 150〜154
31 吉田意安 内科 京医 155〜162
32 武田道安 内科 京医 195〜199
33 人見元徳 小児科 京医 208〜209
34 安倍長徳院 小児科 京医 210〜211
35 金保(兼康) 口科 京医 245〜248
36 河野松安 内科 町医 117〜118
37 大田次兵衛 小児科 町医 218〜220
38 伊達本覚 眼科 町医 243〜244
39 笠原養泉 眼科 町医(堺) 244〜245
40 熊谷伯安 外科 町医(駿府) 221〜223
41 江藤良庵 内科 町医(武士から) 120
42 奈須玄竹 内科 町医(武士から) 201〜202
43 岡 甫庵 小児科 町医(武士から) 212
44 山田如成 小児科 町医(武士から) 213〜215
45 望月甫庵 外科 町医(武士から) 224〜225
46 河島了後 外科 町医(武士から) 225〜226
47 津軽左馬 外科 町医(武士から) 226〜228


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◆7.投稿09 江戸幕府の医療制度 坂4家系図
 
























































































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香取研究室