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香取研究室は、医学誌・盲人史・東洋医学研究をメインにしています。

按摩盲人史・鍼灸按摩史研究室

1)按摩史盲人史 鍼灸・按摩史 Q&A 2014

第1編 盲人史・鍼灸・按摩史の概要


第1章 盲人史の基本的事項

盲人史を理解するために最低限、知っておいてほしい事項をまず書きました。

1.盲人の名前

「杉山 和一」・「塙 保己一(はなわ ほきいち)」など、「一」がつく人が多いのに気づくと思います。さらに調べると「城」で始まる人と、「一」で終わる人の2通りに分けられます。それは、南北朝の時代、琵琶の名演奏者に城一(じょういち)という人がいたことに由来します。

城一の弟子たちが「城方流(じょうかたりゅう、八坂方・やさかかた)」と「一方流(いちかたりゅう)」に分かれた名残です。城方流(じょうかたりゅう)であれば「城管(じょうかん)」「城泉(じょうせん)」などと付き、一方流では「和一」・「保己一(ほきいち)」などと付く、という具合です。

古い文献では、「都」という字がついているケースがありますが、文献の中に「いち」とルビがついてあるものがあり、「春都」は「はるいち」と読むのだと分かります。

2.歴史上の盲人の職業
古くは呪術的宗教者である盲僧・祈祷師として活躍しました。その後13世紀から14世紀に琵琶を弾奏しながら平家物語を語る平曲弾奏や、曽我物語を語る瞽女(ごぜ)が存在しました。


 さらに江戸時代には鍼・按摩、浄瑠璃、琴(筝曲)、三味線などの芸能へと、活躍の場を徐々に広げていきました。
 芸能面では、長唄・常盤津(ときわづ)・謎解き話芸・狂言・尺八・歌念仏・舞曲・声帯模写等の諸芸能に活躍した盲人が多くいました。
なお、箏(琴)では八橋検校城談(やつはしけんぎょうじょうだん・1614−1685年)が有名です。

釣谷 真弓『八橋検校十三の謎 ー近世箏曲の祖』(アルテス・パブリッシング)は、興味深く八橋検校を理解できる書物です。

 また、江戸時代には、幕府の盲人保護政策として高利貸しが認められました。


3.当道座(とうどうざ)とは
盲人達は、13世紀から14世紀ごろに当道座という音楽集団を作り、この集団に属することで身を守り、社会的地位を高めようとしました。当道座は平曲の琵琶法師としての芸能集団であり、その特徴は以下のようにまとめられます。

(1)階級制度である

(2)師弟制度である

(3)京都を中心とした全国組織である

この本拠地は「当道職屋敷(とうどうしきやしき)」と呼ばれ、現在の下京区仏光寺通東洞院東入にあったといわれています。

明治4年(1871年)11月3日、太政官布告によって廃止されるまで、当道座は盲人をまとめ、権利を守る重要な集団でしました。

その痕跡は、洛央小学校の片隅に碑文があることで確かめることができます。平成23年10月28日に現地を訪れてみました。
にぎやかな町中にあり、小学生の元気な声も響いていました。

4.検校(けんぎょう)とは
当道座の最高の盲官です。盲官とは当道座を維持する役目の者たちで、江戸時代の封建社会を象徴するように、座内も階級制度でした。

 盲官は4つに分かれていて、下から座頭→勾当(こうとう)→別当→検校となります。更に4つの盲官の中が、16階73刻に分かれていました。
最も下が初心・無官、一つ上が打掛(うちがけ)です。

1刻上がるごとにお金を上納するしきたりだったようで、この点は今の華道・茶道の家元制度のようです。

なお、検校まで昇ると719両かかるとの計算があります。上納されたお金は京都の職(しき)屋敷に納められ、配分されました。当道座に定員はなかったので、数多くの盲人が入ればそれだけ座が潤いました。また、官位昇進の速度・年齢の制限もなく、その財力により一夜にして検校となる者もいました。
江戸時代に、大金が出来た盲人は昇進のために京都に上りました。中には不幸にして大金を携えていたので強盗に襲われて死んでしまう事件もありました。

5.当道座への入門
古い式目では、10才以下は親が決め、11才以上は本人次第となっていました。
寛文10年(1670年)6月23日に式目が改められ、15才以上が本人の心次第となりました。

6.歴史にみる盲人の服装

生活の豊かでない盲人を除くと、名のある盲人は歴史上、琵琶法師・勧進などの僧の系譜を引くことから僧体をとりました。盲官となると、身分の違いを明らかにするために服装や杖が決められていました。

具体的には、服装は階級が上がるにつれて綿布・浅黄→紫素絹→緋(ひ・あか)の衣、杖は白色の樫木のL字杖→黒塗の棒→鳩目塗の両橦木(しゅもく、T字杖)などと決められていました。

平成23年10月28日に京都府盲に所蔵されている元松阪検校の所有という検校杖(けんぎょうづえ)を見せて頂きました。螺鈿(らでん)の両橦木(しゅもく、T字杖で、3段で分かれていて、回してはめ込むものでしました。全長は135センチメートルと意外に長いのもので初めて触らせていただきました。
京都府盲の資料室に記して感謝申し上げます。

7.鍼の刺し方(刺鍼法)

刺鍼法には大きく三つあります。

一つめは、中国から最初に伝えられた方法=撚鍼法(捻鍼・ねんしん・ひねりばり)です。これは道具を何も使わず身体に挿入する方法で、下手な人がやると切皮(鍼が皮膚に侵入する)時に大変痛いものです。

二つめは、戦国時代に御薗意斎(みその いさい、1557−1616)が創始したという打鍼法(だしん・うちばり)です。これは金(きん)の鍼を使い、主に腹部の硬い部分に鍼を立てて木槌で鍼の頭を少しずつ叩いていく方法です。天皇寵愛の牡丹が枯れそうなのを鍼で治したというので「御薗(みその)」の名前を授かり、代々宮中の鍼医として活躍し、子孫が明治期に京都府盲で教員となったといいます。その後、時代の波の中で使用する人が次第に少なくなり、現在はほとんどみられません。

三つめは、杉山 和一(1610―1694)が大成した管鍼法(かんしん・くだばり)です。いわば御薗意斎の打鍼法を、盲人が使いやすいように管で鍼をリードさせ、木槌の代わりに指で鍼の頭を叩く方法です。
 師匠の入江流の伝承でもありました。

後者二つは、日本独自の刺し方です。

 以下の書籍を参考にしてください。
京都府医師会医学史編纂室 編『京都の医学史 本文編』(思文閣出版、1147-1157頁、1980年)
 〃『京都の医学史 資料篇』(思文閣出版、1980年)
 松本弘巳『刺鍼技術史』(谷口書店、1991年)なる書籍もあります。
東京九鍼研究会編『ビジュアルでわかる九鍼実技解説 九鍼の歴史から治療の実際まで』(緑書房、2012年)


8.幕府に登用された盲人
 江戸幕府には、鍼医師として12人、平曲2人、鼓弓1人、俳諧1人、不明1人の計15人が知られています。
 ここでは、鍼医の名前を述べてみたいと思います。
 

 山川城管(貞久、?〜1643年) 
 江戸幕府の旗本であったが、中途失明し鍼医となった。3代将軍徳川家光のブレーン=談伴衆でもあった。
 学友の澤登 寛聡「「平塚明神併別と城管寺縁起絵巻の成立」(東京都北区『文化財研究紀要』第6集、1993年)を参照下さい。


 杉山和一
 5代将軍徳川綱吉に召し出され、度々鍼施術を行ったが、御殿医とはならず、「扶持検校」として勤めた・


盲人の医員…10家
  三島検校安一(やすいち)
 杉岡検校語一(つげいち)
 杉島検校不一(ふいち)
 杉枝検校真一(さないち)
 島浦検校益一、(えきいち)
  板花検校喜津一(きついち)
 島崎検校登栄一(とえいち)
 石坂検校志米一、(しめいち)
  (以上杉山門弟)
 平塚惣検校東栄一
  (幕末の杉山流)
 芦原検校英俊一(源道)

 横田観風『鍼道発秘講義 葦原源道著『鍼道発秘』解説』(医道の日本社、)
 横田観風『新版・鍼道発秘講義』(日本の医学社、2006年1月)

 ※栗本杉説俊行(晴眼の鍼医、杉山和一の弟子)

 後にも掲載してありますが、大名諸家に登用された弟子達も紹介しておきます。

◆ 大名の鍼医、4名

(1) 徳山 ゑ一
出羽国米沢藩上杉綱憲

(2) 松山 てる一
加賀国金沢藩前田綱紀

(3) 本川(もとかわ)自哲
肥前国大村藩大村氏

(4) 美尾都(みおいち)
肥前国大村藩大村氏

◆ 大名の按摩医、2名

(1) 美津都(みついち)座頭
(2) 春都(はるいち)座頭

いずれも、因幡国鳥取藩池田氏


第2章 杉山 和一について

盲学校の職業教育に鍼・按摩が存在するのは杉山 和一(1610―1694)の存在があったらばこそ、といえます。和一が江戸時代に、盲人へ鍼・按摩の教育を施し、盲人の職業として鍼・按摩を定着させたことが、明治の盲学校設立後の職業教育に鍼・按摩が取り入れられた経緯へとつながっていきました。以下、和一について説明したいと思います。

まず、和一の業績をまとめてみました。

(1)鍼の刺鍼技術の一つである管鍼法(かんしんほう)の大成。

(2)鍼・按摩の教育と施設の設置(杉山流鍼治導引稽古所)。

(3)鍼灸・按摩を盲人の職業として確立させた。

(4)弟子達を幕府や諸大名の医師に仕官させた(杉山自身は医員に登用されず)。

(5)将軍綱吉に寵愛され、その庇護下に当道座(盲人の芸能集団)組織を再編。

(6)当道座の中心を関東にも設けた(関東惣検校、惣録屋敷)。

最近、様々な史料が公開され、入江流(いりえりゅう)の鍼術との関係が明確になり、和一が管鍼術を創始したことはなく、その大成や伝播に功績があったとなりつつあります。

次に、和一の一生を表1にまとめてみました。なお、和一の肖像は、藤浪 剛一 著『医家先哲肖像集』 刀江書院(1936年)で確認することができます。多くの盲人と同様、坊主頭に僧体の姿だったようです。


年 月 日 で き ご と  和一年齢  (数え年)
1603(慶長8) 2月12日 徳川家康が征夷大将軍となり、幕府を開く(62才、江戸幕府の成立)。 −
1604(慶長9) 2月4日 江戸の日本橋を五街道の起点とし、諸道を整備する。 −
1605(慶長10) 4月16日 家康は将軍職を徳川秀忠に譲ることにし、この日秀忠が征夷大将軍に任命される(2代将軍)。 − 「徳川家康」から「徳川」を取る。
1610(慶長15) − 和一、伊勢国津藩(藩主・藤堂高虎)の家臣杉山権右衛門重政の長男として生まれる(戌年)。 1 「戌年生まれ」から「生まれ」を取る。
1612(慶長17) 3月21日 幕府がキリスト教の布教を禁止する。 3 「江戸を取る。」
1614(慶長19) 11月15日 家康、諸大名に大坂城を攻めることを命じる(大阪冬の陣始まる)。 4 「攻めることをを」→「を」を1つ取る。「大阪冬の陣」は「坂」に変更。
1615(元和元) 4月6日 家康、ふたたび諸大名に大坂城を攻めることを命じる(大坂夏の陣始まる)。 6

1615(元和元) 7月7日 幕府が武家諸法度を制定し、諸大名や家臣の決まりを定める。 6 「江戸」を取る。
7月17日 幕府が禁中並 公家諸法度を制定し、天皇・貴族・僧侶の決まりを定める。 ルビは「きんちゅうならびにくげしょはっと」。「江戸」を取る。
不明 − 和一、失明する(5才か10才)。 −
1616(元和2) 4月17日 家康が駿府城で没する。 7
不明 − 和一、江戸の山瀬啄一の弟子となる。 − ルビは、やませたくいち(ルビは均等割付にせず漢字に対応する位置に全てする。)
不明・伝説 − 和一、江ノ島の岩屋で管鍼法を考え出す。 − ルビはかんしんほう。「江の島」→「江ノ島」。
不明 − 和一、江島神社の恭順院に鍼術を学ぶ。 − ルビは、きょうじゅんいん
不明 − 和一、京都の入江豊明に鍼術を学ぶ。 − ルビは、いりえとよあき
不明 − 和一、江戸に帰り名声を上げる。 −
不明・伝説 − 和一、江ノ島道(藤沢宿から江ノ島)沿いに道標を建てる。その中に「願主 麹町に住む」とある。 − →ルビを「えのしまどう」、「ふじさわじゅく」、どうひょう、がんしゅ こうじまち。「江の島道」→「江ノ島道」、「江の島」→「江ノ島」。
1623(元和9) 7月27日 徳川家光、上洛し伏見城で将軍宣下を受け、3代将軍になる。 14 ルビは、じょうらくせんげ
1630(寛永7) 10月5日 藤堂高虎、江戸の藩邸で没する(75才)。 21
1635(寛永12) 6月12日 幕府が武家諸法度を改め、参勤交代を制度化する。 27 ぶけしょはっと、さんきんこうたい。「江戸」を取る。
1637(寛永14) 10月25日 過酷な政治とキリシタンの弾圧に、九州の島原半島と天草諸島の農民とキリシタンが反乱を起こす(島原の乱)。 28 かこく、だんあつ
1639(寛永16) 7月4日 幕府、キリシタンの増加をおそれポルトガル船の来航を禁止し、貿易国を中国とオランダに限定する。また、海外渡航も禁止する(鎖国の開始)。 30 「江戸」を取る。
1645(正保2) ー "後に和一の弟子となる三島 安一が生まれる。 安位置は、本国は伊豆国三島。父は西谷縫殿助某で、母は常陸国真太群宍塚の天貝氏の女として生まれる。 "
1646(正保3) 1月8日 徳川綱吉、生まれる(戌年)。 37 いぬどし
1651(慶安4) 8月18日 徳川家綱、4代将軍となる。 42
1657(明暦3) 1月18日 本郷の本妙寺より出火した火事で江戸の大半が焼け、多くの死傷者が出る(振り袖火事)。死者の供養のため両国に回向院が建てられる。 48 えこういんん
1658(万治元) 11月23日 和一の鍼の師、山瀬琢一が検校となる。 49 追加
1663(寛文3) 5月 幕府が武家諸法度で殉死を禁止する。 54 ルビはじゅんし。「江戸」を取る。
1670(寛文10) 正月元日 和一、検校となる。 61 けんぎょう、昇進は「となる」がよいか
1676(延宝4) 11月11日 和一、伊勢国津藩2代藩主・藤堂 高次(とうどう たかつぐ)を治療する。 67
12月20日 藤堂高次没する(74才)。 とうどうたかひさ  藤堂高久(藤堂高次の長男を足すことに賛同
1677(延宝5) 7月25日 大久保加賀守忠朝(おおくぼ かがのかみ ただとも)、老中となる。 68 かがのかみ、ろうじゅう
1680(延宝8) 2月11日 和一、江戸城に登城し、家綱を治療する。そのため、鳥取藩への診療ができなくなる。 71 「4代将軍徳川」を取る。
3月8日 和一、弟子の美津都(みついち)を伴い、鳥取藩の芝(千代田区丸の内)にある上屋敷を訪れる。美津都が藩主・池田光仲(いけだ みつなか)を按摩する。 みついち。「藩主池田」→「藩主・池田」
3月18日 和一の弟子美津都が鳥取藩に登用される。和一、藩主・池田光仲にお礼を申し上げる。 「藩主池田」→「藩主・池田」
3月28日 和一、家綱に初見する。 しょけん。「4代将軍徳川」を取る。
5月8日 家綱没する(40才)。 「徳川家綱」から「徳川」を取る。
8月23日 徳川綱吉、5代将軍となる。
1682(天和2) 和一、将軍綱吉から鍼術振興を命じられる?(『皇国名医伝』のみ確認) 家塾を杉山流鍼治導引稽古所として改める? 73
1683(天和3) ー 座等意津一の不行跡について、岩船検校城泉(?~1687)が座頭仲間の法に従い簀巻きにして佃島沖にて沈める。
1684(天和4) 4月27日 和一の弟子春都、鳥取藩に登用される。 75 はるいち
1684(貞享元) 12月22日 和一、相模国大住郡大神村(神奈川県平塚市)座頭密通事件の裁決をする。 ざとう、おおがみむら、みっつう
1685(貞享2) 正月3日 和一、江戸城の黒書院勝手で綱吉に年始の御目見をする。 76
1685(貞享2) 正月8日 和一、綱吉に召されて仕える。
8月5日 和一、幕府に召出され、月給20口を与えられる。
8月 和一、道三河岸(大手町)に116坪余りの屋敷を賜う。 どうさんがし、おおてまち、たまう
1686(貞享3) − 大久保加賀守忠朝、下総国(千葉県)佐倉から相模国(神奈川県)小田原の藩主となる。 77 ルビはかがのかみ、しもうさ
1687(貞享4) 正月元日 和一の弟子杉岡つげ一が検校となる。 78 しょうるいあわれみのれい
正月14日 三島安一が検校となる(43才)。
2月27日 最初の生類憐れみの令が出される。以後たびたび発布される。 やくどし、ごまどう。「将軍綱吉」から「将軍」を取る。「江の島」→「江ノ島」。
7月18日 岩船検校城泉、京都において没する。
ー この年、綱吉は42才の厄年にあたる。和一は江ノ島下の宮に護摩堂を建てて、綱吉の厄除けの祈願をする。
正月元日 和一の弟子・杉岡五一、検校となる。
ー "この年、和一の弟子4人が大名諸家に仕えていることが確認される。  松平上野守(内藤正勝)殿御内 杉島勾当(不一)  藤堂和泉守(高久)殿御内 杉浦勾当(五一)"
1688(元禄元) 11月12日 柳沢保明(のちに吉保)が側用人となる。 79 やすあき、よしやす
1689(元禄2) 正月元日 和一の弟子・杉島不一、検校となる。 80 たかじょうまち
5月7日 和一、鷹匠町(神田小川町)に530坪余りの屋敷を賜う。
10月9日 和一、鍼治の効果が大なので、常に綱吉の治療に召される。褒美に月給が廃止され、代わって年俸300俵をもらうようになる。 「廃止され年俸」→「廃止され、代わって年俸」と加える。
1690(元禄3) 7月吉日 "和一の弟子三嶋検校安一(46歳)華鬘(けまん)を某所に奉納。
茨城県水戸市兼子國廣氏所蔵。

1691(元禄4) 7月18日 和一、江戸城中勝手向まで輿に乗ることを許される。 82
8月22日 和一の弟子杉岡つげ一・三島安一が大奥の治療を命じられ、月給20口を与えられ、医員に召出される。 ルビは「みしまやすいち」、「おおおく」。
1691(元禄4) 12月2日 和一と弟子の三島安一が綱吉の治療に当たり、その褒美としてそれぞれに年俸200俵が加えられる。 82
1692(元禄5) 4月17日 和一は江ノ島弁天の護摩堂を祈祷所とすることを願い、許される。江ノ島東岸の漁師町(藤沢市江ノ島)に朱印地10石8斗6升余りを賜う。 83 石・斗・升にこく、と、しょうのルビを。「江の島弁天」→「江ノ島弁天」、「江の島東岸」→「江ノ島東岸」
5月9日 和一、綱吉の治療をし、精勤の褒美に27番目検校より関東総検校に任命される。
5月9日 和一、綱吉から当道座の式目(決まり)を改正するように命令される。 ルビは「とうどうざ」、「しきもく」。
1692(元禄5) 6月9日 和一自身が総検校就任のお礼に京都に上らなければならなかったが、綱吉の治療を昼夜にわたり行っているため暇がなく、職事が代行して京都に上る。和一は、治療をしているが奥医師ではなく「扶持検校」という立場である。 83 「総検校のお礼に」→「総検校就任のお礼に」
9月29日 和一、死ぬまで緋衣・紋白を許される。 ひのころも、もんぱく
9月29日 和一、京都職屋敷に添えて拝領地を賜う。 しきやしき
和一、当道座の新式目(決まり)を作成し、幕府に提出する。
12月15日 和一の弟子栗本俊行、老中・小田原藩主・大久保忠朝家医から幕府寄合医員に召出され、年俸200俵をもらう(俊行は晴眼者)。
1693(元禄6) 正月26日 栗本俊行が奥医となる。 84
5月16日 和一、南本所一ッ目に1860坪余りの屋敷を賜う。
6月18日 和一、綱吉から弁財天像を賜い、本所一ツ目の屋敷の一部を弁天社として認められる(現在の江島杉山神社)。
7月7日 鳥取藩主・池田光仲、鳥取城で没する(64才)。 「藩主池田」→「藩主・池田」
11月10日 栗本俊行、奥医の役料100俵をもらう。
12月9日 杉岡つげ一、行状がわるく幕府の医員をやめさせられ、藤堂高久に預けられる。
12月11日 栗本俊行、年俸100俵が加増され印籠3つをもらう(年俸合計300俵、奥医役料100俵、借宅三番町一色数馬屋敷の向い。
ー この年、江ノ島下の宮に三重塔
ー この年、三島安一が奥医師に任命される。
− この年、和位置と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する。
1694(元禄7) 3月10日 和一と三島安一が綱吉の治療にあたる。その褒美として給料を和一に300俵(計800俵)、安一に200俵が加えられる。 85
6月26日 和一、没する(85才)。江の島下の宮に葬られる。に本所二ッ目の弥勒寺にも墓を建てる。
7月11日 和一の養子安兵衛昌長が家を継ぎ小普請となる。
8月12日 和一の養子安兵衛昌長が綱吉に初見する。 ー
8月19日 和一に代わって三島安一が2代目関東総検校になる。
この年 和一の弟子杉枝真一、柳沢保明(吉保)の家臣として勤める。 ー
1695(元禄8) 1月9日 綱吉の50才の慶賀の宴が江戸城中で行われる。 ー けいが、うたげ
9月吉祥日 三島安一が綱吉50才にあたり健康・長寿の祷願のため、大日如来像を建立する(土浦市大聖寺現存)。 とうがん、つちうら、だいしょうじ、きっしょうび
1696(元禄9) 5月11日 三島安一が小谷方の母高岳院を治療し効果があり、褒美として年俸100俵が加増される。 − ルビは「こたにのかた」。
1697(元禄10) 7月26日 幕府、旗本に対して地方直しを始める。和一の養子安兵衛昌長の俸禄も所領に直され、上野国内に800石を与えられる。 ー
1700(元禄13) ー 柳沢吉保の正室・(曽雌)定子が江ノ島の和一の墓の前に灯篭2基を寄進する(和一の七回忌)。 −
1701(元禄14) 2月4日 江戸城で播磨国(兵庫県)赤穂藩主浅野内匠頭長矩が吉良上野介義央を斬りつける。 − →年が明朝体
6月1日 三島安一、綱吉より「大弁才天」の掛物一幅を賜う(57才、東京都江島杉山神社に所蔵)。
12月2日 杉枝真一、綱吉が柳沢吉保宅に御成の時に初見する。
1702(元禄15) 12月3日 三島安一、月給が廃止され領地に代えられる。この時、200石を加えられ、合計500石の領地を武蔵国(東京都・埼玉県)に与えられる(58才)。 −
12月15日 赤穂浪士が本所松坂町吉良邸に討ち入る。
12月28日 栗本俊行没する(59才)。本所妙源寺に葬られる。 「松坂町」の「町」に「ちょう」とルビ。
1703年(元禄16) 正月元日 和一の弟子島崎登栄一、検校となる。
1703年(元禄16) 三島安一、駿河台に屋敷を拝領する(59才)。 屋敷渡預絵図証文
1703年(元禄16) 12月15日 三島安一、法眼に叙される(60才)。
1704(宝永元) ー 杉島不一、桜田の館で家宣に仕えていたが、家宣が西城に入るときに従い、医員に登用され西城に勤仕し月俸20口を賜う。 −
1705(宝永2) 閏4月19日 杉島不一、廩米150俵を加増される。
1706(宝永3) 10月19日 和一の弟子杉枝真一・島浦益一(子孫は和田)、検校となる。
1706(宝永3) 12月11日 三島安一、法印(元興院)に叙される(62才)。
1706(宝永3) 12月11日 杉枝真一、綱吉が柳沢吉保宅に御成の時に幕府の奥医に召し出され、月給20口をもらう。
1708(宝永5) 7月2日 島浦益一が幕府の医員に召し出される。月給20口を与えられ、西城大奥に候せられる。 −
1709(宝永6) 1月10日 第5代将軍綱吉没する(64才)。 − 「徳川」を取る。
2月21日 三島安一、寄合医師となる(65才)。
2月21日 杉枝真一、寄合医師となる。
10月15日 和一の弟子・板花検校喜津一、家宣に初見する。
10月19日 三島安一が総検校辞職の願いを出す。辞職は許されるが、治療は続けるように命ぜられる(65才)。代わって島浦益一が3代目関東総検校となる。
11月1日 島浦検校益一(300俵)・板花検校喜津一(月俸20口)、鍼治を善くするにより召し出され奥医並となる。
11月13日 島浦益一の2代目和田春徹直秀家宣に初見する。
1711(正徳元) 12月6日 板花検校喜津一、千駄ヶ谷抱屋敷の内500坪を拝領屋敷に仰せつけられる。
1711(正徳元) 12月15日 島浦検校益一、するがたいに534坪8合の屋敷を拝領する。
1712(正徳2) 10月14日 第6代将軍家宣薨去。
1713(正徳3) 11月29日 杉島不一、奥医師に准ぜられ、勤めを辞し小普請医師となり、この日に隠居(致仕)する。
1716(正徳6) (享保元) 4月30日 第7代将軍家継続薨去。
5月16日 島浦益一、家継の薨去に及び寄合医師に列す。 ー 武鑑
12月16日 板花検校喜津一、廩米200俵を賜う。 ー
ー 島浦益一、麹町に住居する。 ー 武鑑
1717(享保2) ー この年、和市の子孫と三島安一の屋敷が鷹匠町(神田小川町)に隣接して存在する。
1717(享保2) 2月27日 島浦総検校益一、駿河台屋敷付として内藤宿に屋敷440坪を拝領する。
1718(享保3) しょうがつ22日 杉島不一、没し市ヶ谷の長延寺に葬られれる(68才)。
1720(享保5) 4月4日 "三島 安一が没する。谷中(やなか、現在の台東区にある)の元興寺加納院(がんこうじ、かのういん)に葬られる(76才)。 後年、家系断絶により生地の常陸国信太郡宍塚(ひたちのくにしだぐんししづか)村(現在は土浦市郡宍塚字西屋敷の共同墓地のうち、雨貝家の墓所)に改葬する。 " − やなか、がんこうじ、かのういん
1721(享保6) 6月29日 板花喜津一が没し、麻布の本光寺に葬られる(70才)。
1723(享保8) 2月9日 杉枝検校真一、広敷の療用を承り、家重・家継の母月光院(勝田氏)・吉宗の母浄円院(巨勢氏)等の治療に当る。
1723(享保8) 3月15日 杉枝検校真一、長福君(家重)御不予のの治療に当たり、その褒賞に金5枚を賜う。
1723(享保8) 12月28日 杉枝検校真一、多くで治療をし褒賞を賜う。
1723(享保8) この年年 島浦益一当道座の、職・十老と争う(最初田浦・湊・里見が三カ状の願書を職・十老も同心し幕府に提出したが、島浦は二・三カ条目は納得したが一カ条目は幕府より仰付られていらい年久しく自分まで勤めてきたことなので納得できないという))。
1725(享保10) 8月15日 杉枝検校真一、廩米200俵を賜い月俸は収められる。
1728(享保13) 12月7日 和田春徹直秀、天英院(家宣室)の広敷に候し、月俸10口を賜う。
1729(享保14) 4月13日 島浦益一、西城奥医に准ぜられる。
1730(享保15) 4月13日 島崎登栄一、盲人にて大納言殿(家重)の鍼治を善くするにより医員に召し出され年俸20口を賜う。
1730(享保15) 5月15日 島崎登栄一、吉宗に初見する。のち御方々の療治を承り、また西城の大奥も承る。
1732(享保17) 7月21日 島浦益一の3代目和田春長正、吉宗に初見する(15才)。
1736(元文元) 2月22日 島浦益一、隠居(致仕)したが、なお西城大奥の療治を承り、2代目和田春徹直秀が家を継ぎ、直秀のいままでの月俸十口を益一が養老の料として賜う。また、江戸に惣検校を置くことを止め、惣検校を京都の職検校に返すこととなる。
1736(元文元) 3月23日 島浦益一、隠居に月、島崎登一が初代江戸惣録に任ぜられる。
1737(元文3) 6月 杉枝真一、5代目惣録となる。
1738(元文3) 12月1日 和田春徹直秀、父島浦益一に先立ち手没する。
1738(元文3) 12月27日 和田春長正直、遺跡を継ぎ小普請医師となる。
1739(元文4) 2月朔日 杉枝真一、5代目惣録を辞す。
1739(元文4) 5月21日 和田春長正直、二丸広敷の療治を勤める。
1740(元文5) 正月5日 島浦益一、一橋宗尹の痘瘡に際し鍼治療をし、治癒の酒湯の祝いに巻物を賜う。
1741(寛保元) 4月5日 杉枝真一、致仕する。これ以前に綱吉自筆の「福禄」の二字を賜う。
1742(寛保2) 8月29日 島崎登栄一、没し牛込の浄輪寺に葬られる(68才)。
1742(寛保2) 11月5日 島崎登栄一2代目栄元片成、新たに鍼医に召し出されて10口を賜う。のち一ツ橋の館に附属させられた。
1743(寛保3) 9月28日 島浦益一、没して浅草正法寺に葬られる
1747(延享4) 9月23日 杉枝真一、没して駒込の高林寺に葬られる(74才)。

月給について
1口=1人扶持と同じ意味です。1口は、一日に米5合として計算してください。


表1の中で、特に指摘しておきたいことが三つあります。
(1)和一が文献上に初めて登場するのは、61才に検校へ昇進した時

(2)和一が綱吉に仕えたのは1685年(貞享2年)、当時76才

(3)和一は、高齢になってから活躍したこと



和一の一生を簡単に振り返ると、次のような内容になるかと思います。

これまで挙げた内容と重複する部分が多々ありますが、ご容赦ください。

和一は、1610年に伊勢国(今の三重県津市)に生まれました。

5才または10才頃に失明し、15才前後で当道座へ入門し、一方流妙観派の平曲を学びました。その後、鍼の修行のため江戸の山瀬 啄一へ弟子入りしたものの、なかなか修行が進まず、啄一の元を去ることになりました。

和一は失意のうちに実家へ帰ることとなり、途中、信仰していた江ノ島へ立ち寄りました。そこで弁天の岩屋に21日間篭もり、その結果、刺鍼法の一つである『管鍼術』を考案できたというのです。

その後、京都へ上り、入江 豊明(いりえ とよあき)の許で修行を重ねた後に江戸へ戻り、名声を高めていきました。


 大浦慈観著・長野 仁編『皆伝・入江流鍼術ー入江中務少輔御相伝針之書の復刻と研究ー』(六然社、2002年)が発刊され、入江流とは伝説の師匠ではなく、実際の人物でしかも鍼術の内容が和一独創の考えではなく、入江流の応用であることも明らかになってきました。

大浦慈観氏から「『杉山流家譜』―杉山流の系譜と伝授方式を開示した新資料」(『日本東洋医学雑誌』60巻別冊、2008年)やその翻刻のデータを供与いただいた。

 詳しい伝授者の系譜を知ることができます。これまでは、盲人の山瀬検校琢一の名しか知られていませんでしました。

@杉山和一に先立つ鍼法伝授者について
〔A〕阿弥陀院(不明)→龍安寺殿(細川勝元)→天行寺(加賀天行寺)→鍼恵(鍼徳)→徳明(光樹院徳明維遠)→常善(園田常善法眼道保)→和一
〔B〕入江中務少輔頼明(入江流開祖)→片岡源太夫宗勝(2代目、入江中務良明か?)→佐川貿内則義(3代目、入江中務豊明か?)→山瀬検校琢一→和一
〔C〕?寿軒圭菴(?寿軒圭菴元影、『鍼灸大和文』著)→和一

 また、和一の門下から別れたものとして、杉山流と杉山真伝流の2流をあげています。

〔A〕「杉山流」…惣録屋敷管轄下の鍼治学問所で教えられる狭義
〔B〕「杉山真伝流」…和田家の奥義…巻物は、和田(島浦)家四代目正胤の時に流出し、大正〜昭和初期に鈴木慶助の手に渡り、天野黄陽氏に伝えられた

 3代目総検校島浦益一(和田一)は、和一・安一の教義を大成し『杉山真伝流』の秘伝書を完成した人物です。子孫も和田と復姓して幕末まで幕府の鍼科の中心的存在でもあり、真伝流を継承した家柄でもありました。
 私は幕府に提出した系譜から、その先祖の出身をあやふやにしてきました。
 残された史料に『杉山真伝流鍼治手術詳義』というものがあります。これは米沢の大沢周益)が筆記したとあり、米沢に和一の弟子が登用されて広がったものと考えていました。

 また、杉浦逸雄「市立米沢図書館所蔵『内題杉山先生御伝記』の紹介」(2013年10月19日日本盲教育史研究会第2回研究会 レジュメ)にも、以下の記事があります。
「◎嶋浦益一
 出羽国米沢,遠山村の生まれ。和田紀四郎橘の正安の長男。
 宝永6年10月19日 三代目惣検校となる。この頃所々に学問所・出張稽古所つくられる。」

 このことから、益一が米沢藩の出身であることが理解できました。


 次に、伝授の段階がどんな完成系をもっていたかも分かるようになりました(大浦論文)。
 @杉山流を名乗り治療が許可されるまでの流れ…社約→句読→正誤→講書→刺法」の各段階
 A「杉山流の上手」として一家の法を伝える…「紀録→神鍼→疑問」の段階を経、奥儀が伝えられる。

島浦和田一 撰『秘傳・杉山眞傳流(杉山検校没後三百十年大祭記念)』(杉山遺徳顕彰会、2004年)が発刊され、いよいよ鍼術の内容が明確になってきました。

 再び和一について考えてみたいと思います。
史料上に初めて登場するのは、和一が61才、1670年(寛文10年)に検校へ昇進した時の記事です。このころ和一は鍼師としてより名声を高め、1676年(延宝4年)、和一が67才の時には、生まれ故郷である伊勢国の領主、藤堂 高久を治療しています。また、弟子達の教育も進め、多くの弟子を鍼師として各領主に仕官させたりもしました。1684年(貞享元年)、75才の時には当道座内部での地位も高まり、関東の盲人の取り締まりを担うようになりました。

和一の評判はいよいよ将軍綱吉の耳にも届き、1684年(貞享元年)、1月8日、76才にして召し出されました。皆さんが考えるより随分高齢だと思います。この時、和一は医員として登用されてはいませんでしたが、昼夜綱吉の側に仕え、鍼や按摩を施しました。和一は綱吉に寵愛され、関東惣検校に任命されて盲人を全国的に統括したり、江戸城の近くに屋敷を賜ったり、後に約2000坪もの屋敷を拝領したりしています。

この2000坪の屋敷については有名なエピソードがあります。綱吉に「欲しいものは何か」と聞かれ、和一は「一つ目が欲しい」と答えました。綱吉は目の代わりに本所一つ目にある土地を和一へ与えました。そこには江ノ島神社の分社と当道座の役所が置かれ、神社には杉山流鍼治稽古所もありました。

その場所は現在の江島杉山神社(東京都墨田区)に当たり、両国駅から南へ15分ほど歩いたところです(国技館の反対側)。また、1694年(元禄7年)6月26日、和一は85才で没しましたが、和一の位牌所と管鍼法大成の関係から、江島杉山神社の敷地に岩屋があります。

和一の墓は2箇所あります。一つは、江島杉山神社の東にある弥勒寺に(徒歩約10分)、もう一つは江ノ島にある江ノ島神社です。江ノ島の墓の近くには、和一がつまずいて管鍼法を創案したという「福石」もあります。
 大正12年6月24日に江ノ島の墓所を発掘したところ、中より和一の遺体を発見した(嶋浦和田一(益一)『』秘傳・杉山眞傳流(杉山検校没後三百十年大祭記念)』、桜雲会、2004年)。


第3章 和一の弟子と子孫

仕官した和一の弟子は合計15名でしました。内訳は、幕府の鍼科医員が9名、諸大名の鍼医が4名、同じく按摩医が2名でした。

幕府の鍼科医員となった弟子9名中、5名の子孫が幕末まで役職を務め、中には晴眼者の弟子もいました(栗本 俊行など)。また、石坂 志米一の子孫には、幕末にシーボルトに鍼を教えたといわれる宗哲がいます。

和一自身は実子がなく、弟を養子を迎えましたが、その子孫達は鍼医を継がず、武士として明治に至りました。これについては後で詳しく述べたいと思います。

第4章 和一が賜った俸禄・所領とその変遷

【杉山検校遺徳顕彰会『杉山和一生誕400年記念誌』(杉山検校遺徳顕彰会、2004年)に投稿】
 和一は、次の年次的な経過で米による俸禄を増加させ、最終的には廩米(りんまい)八百俵となり没しました。
 1685(貞享2)1月8日に綱吉に召し出される→同年8月5日月俸20口→1689(元禄2)10月9日月俸が廃止され年俸300俵→1691(元禄4)12月2日200俵加増→(1692(元禄5)5月9日関東総検校)→1694(元禄7)3月10日300俵加増(合計800俵)→1694(元禄7)6月26日没する(85才)

 江戸幕府の武士は@所領だけ、A所領と廩米、B廩米だけの3形態の俸給を与えられていました。
和一は先のB廩米だけの俸禄でした。
 そして、和一の子孫は医業を継がずに武士として勤めました。
 子孫は廩米800俵を800石の所領に替えられ江戸時代を終えたのでした。

 もう少し詳しく述べると、和一の死亡に際し、実子がなく、安兵衛昌長が養子となりました。1694年(元禄7)7月11日に遺跡(廩米800俵)を継いだが医業ではなく武士として勤めました。
当初は、小普請(こぶしん)となり、8月12日に綱吉に初見(しょけん)し、1697年(元禄10)7月26日に米800俵を廃止し、改められ上野国(こうずけのくに、群馬県)内に800石の所領を賜りました。これが幕末までの領地高でした。

 この所領替えはいわゆる「元禄地方直し(じかたなおし)」という政策で、旗本全体に対し、廩米を所領へ移行させる政策でした。これにより、幕府は直接に米を支出することがなくなり財政再建の一手段となっていました。

これと共に、村の支配は、一村一領主から「相給(あいきゅう)」という複数領主への分散が勧められました。相給により、一村の飢饉や災害で領主が財政困難にならず、複数村で一分の村が飢饉や災害になっても大きな財政困難にならないための工夫でした。
 和一は俸給で廩米でしたが、和一を嗣いだ安兵衛昌長(養子)は所領に改められました。
幕府の政策で俸給は所領となり、上野国(こうずけのくに)内に賜りました。
検校の家系とはいえ、幕府の家臣なのでその同行は他の家臣団と同様であることの一面が推測できます。

和一の子孫が賜った所領の村は、元禄15年(1702)時点で9箇所だったことが分かっています。
大まかには、現在の群馬県中央部(中毛)から西部(西毛)、利根川沿いの南部の村に散在しており、多胡(たご)・緑野(みどの)・新田(にった)・佐位(さい)・群馬の五郡の中にありました。

領地が800石を超えるのは、かなり裕福な方で、収穫高であり、これに年貢をかけていきます。なお、1868年(明治元)になると所管の変更があったものと考えられます。

多胡郡・緑野郡

現在の多野郡(神流町:かんなまちと読む、上野村)、高崎市の一部(八幡町・吉井町・新町)、藤岡市

新田郡
現在の太田市(新田町・尾島町・薮塚本町)、みどり市(笠懸町)

佐位郡
現在の伊勢崎市全域(平成の大合併後の状態)

群馬郡
該当区域が広い。現在の高崎市中心部〜西部・北部、吾妻郡の一部、前橋市(元総社町近辺)、佐波郡玉村町付近



表3.杉山家の領地高・年次的推移
* 1行目に村名(現在の地名)を記載。
* 2行目で、元禄15年(1702年)、元禄16年(1703年)、天保年間(1830―1843)、幕末の順に記載。
* 表中の「――」は、そのころ領有していなかったことを表します。


新田郡備前島村(太田市備前島町)
417.732の内 139.244 139余、8軒 139.244

佐井郡今泉村(伊勢崎市今泉)
542.970の内 84.4734 ―― ――

佐位郡保泉村(ほずみむら)(伊勢崎市境保泉)
379.939の内 58.813 58余、7軒 ――

群馬郡東明屋(あきや)村(高崎市箕郷町東明屋:みさとまち ひがしあきや)
361.119の内 110.4896 110余、17軒 ――

群馬郡池端村(前橋市池端)
350.555の内 29.6941 25余、5軒 29.6941

群馬郡下野田村(北群馬郡吉岡町下野田)
562.782の内 187.594 187余、26軒 ――

群馬郡宮沢村(高崎市宮沢町)
321.612の内 107.204 107余、32軒 ――

多胡郡黒熊村(高崎市吉井町黒熊)
391.879の内 130.6264 130余、11軒 ――

緑野(みどの)郡西平井村(藤岡市西平井)
1310.260の内 202.736 202余、14軒 ――

合計
(内 800石) 1046.8745 958余、120軒 168.9381

2)文献目録
1.『新訂寛政重修諸家譜』第21(398〜400頁、続群書類従完成会) 杉山家の系図
2.『杉山検校伝』(河越恭平、杉山検校遺徳顕彰会、1956年) 所載の杉山家伝来の系図
3.『徳川実紀』6篇(国史大系編修会編) 徳川幕府の公式記録として参照
4.『新訂増補国史大系』(吉川弘文館)
5.『関東甲豆郷帳』(関東近世史研究会校訂、近藤出版社、1988年)
6.『上野一国高辻』全2冊
7.『上野国村高記』 文献6と7は元禄15年から16年ごろの状況を知るのに利用
8.『上野国御改革村高帳(上)(下)』(岡田昭二)『群馬歴史民俗』 第11号・第12号(1989・1990年) 上の文献8と9は天保年間の状況を知るのに利用
9.『尾島町誌・通史編』上巻(新田郡尾島町)
10.『旧高旧領取調帳』関東編(近藤出版社、1980年) 上の文献10と11は、幕末から明治初期の状況を知るのに利用