靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

東京開封府

今ここに《水滸》連環画巻四 誤入白虎堂という冊子が有ります。一九八五年六月の四川美術出版社発行です。巻四というからにはシリーズです。当時,全部揃えたいとは思ったんですが,無理でした。上海の新華書店は発行済みの書物の注文は取り合ってくれなかったし,神保町ではついに見かけなかった。
で,なんで今頃になって話題にするのかと言うと,徒然なるままに頁をくっていて,下のような絵に気がついたからです。魯智深が東京大相国寺をめざしてやってきたときの繁華街の様子です。
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これが清明上河図の酒楼にもとづいていることに,やっと気がつきました。清明上河図は開封の春の景色ということになっていて,東京はつまり開封府なんだから当たり前なんですがね。
で,この画巻の改編原稿あるいは絵画の作者は,この酒楼の名を「香☐正店」と考えているらしい。

沽酒市脯不食

『論語』郷党に「市場で売っているような酒や乾し肉は用いない」とある。
正義に「酒は自分で作らなければ混ぜものが無いとも限らぬからである,乾し肉は自分で作らなければ何の肉とも知れぬからである」と言う。

鼠の草子

屠蘇の肴に御伽草子,今年は子年なので鼠の草子なんぞを。

ネズミの権の頭は,清水の観音に祈ったおかげで,人間の娘を妻として屋敷に迎えることができた。ところが,留守の間に障子の隙から家来たちの有様をのぞき見た姫君は,自分がネズミと結婚していたことを悟って屋敷から逃げ出す。権の頭は別れを嘆き悲しんで,世を儚んで,出家する。剃髪して「ねん阿弥」,その五戒を授かったときに申しけるは:
あらありがたの御ことや。もっともたもちは申すべし。さりながら,すこしづつは御許し候へ。まづ第一に殺生戒は,海老、雑魚、蝗のたぐひ,口のまずき折節は,そつそと殺して給はらん,御許し給ふべし。第二偸盗戒は,御存じのごとく,蔵々室々の傍にて,俵兵糧食ひあけて,こぼれものをば御免あれ。そのほか,御寺方にてすまひせば,おこが、栗、柿、飴、おこし、胡桃、納豆、香の物、燈火の油筒,余る所を御免あれ。第三に邪淫戒をば,御心安くおぼしめせ。姫君に離れ参らせて,いかでさること候ふべし。さりながら,月に四五度は御免あれ,上人と談合申すべし。第四に妄語戒,自然猫の御坊とあひ候はば,はかりことを申すべし。第五飲酒戒は,御存じのごとく,それがしは御酒ばかりにて,命を続け申し候ふ。酒樽、酒甕の下にてたべ,酔ふほど給はり候ふまじ。大盃にあらずとも,十杯ばかりは御免あれ。かくのごとく御許し候はば,五戒においては,御心安くおぼしめせ,深くたもち申すべし。

よいことあるように

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悲しみなんてわからない

例えば ちっちゃな女の子が
お母さんとクリスマスのお買いものに出て
プレゼントのおもちゃもさることながら
サンタさんからもらった赤い風船に
うきうきしながら帰る途中で
うっかりひょんとしたすきに
手から離れたその赤い風船は
しだいしだいに青空にすいこまれていく
それを泣くでもなく 呆然と見あげている
ちっちゃな女の子の悲しみは わかるような気がする
あるいはまた
買ってもらったおもちゃを意気揚々と
説明しようと思っていた相手の不在がしれたときの
しょんぼりも わかるような気がする
いやそれよりも
帰り道で見つけた宝物 例えば石ころとか木ぎれとかを
自慢できる友達が もういないと気付いたときには
その宝物はとたんに色あせて がっかりする

健身球!?

12月15日の夜は,久しぶりに前後不覚になりました。案の定,JR駅を下りてから,道に迷って交番でたずねました。まあ,それくらいは良いとして,朝になってコートのポケットに,不思議なものが入ってました。多分,中国の健身球だと思うんだけど,これについての話題とか,全く記憶に有りません。この間に何か不穏当なことなど有りましたら,平にご容赦を。

万物相関

天人相関という言葉はあまり好きではない。どうしてだろう。人は天の気を受けて生まれ、生命とは身体を流れる気の働きのことであり,身体の気の流れは,天の気の運行に影響される,というよりも寧ろさらに一体であるとは思うのに……。どうして,天人相関という言葉を気嫌いするのだろう。つらつら思い量るに,天が人を支配し,あるいは特別に野心の有るものは天に影響を与え,支配しようとする,などと連想するからかも知れない。考えてみると,万物は天地宇宙の気の移り変わりの諸相である。あるときは形をなし、運動し変化しつつ存続して、ついには形を散じて気に帰る。何も天と人を特別扱いにすることはない。いっそのこと万物相関と言い換えようか。天と人の,二者の対立などと感じるのはビョーキというものだとは思うけれど,少なくとも,私自身はこっち(万物相関)のほうが好みのようである。しかしまあ考えてみれば,ものごとが場に影響され影響するというのは,洋の東西,時の古今を問わず,当然の常識である。何も「万物相関」などと言挙げすることも無いかも知れない。

おひさしぶりです

今日,『中医薬文化』の2007年第5期がとどいて,頁を開いたら,表紙裏に凌耀星先生の写真がありました。「医中婺女 海上三星」のひとりということです。89歳だそうです。おひさしぶりです。お元気そうです。長生きも芸のうちという言葉があるそうですが,特に医療の世界ではそうあるべきなんでしょうね。なかなかそうもいかないようですが。特に日本の針灸界には,自分の病弱から志したという人が多かったらしいですから。 『説文解字』:婺,不繇也。段玉裁注云:繇者,隨從也。不繇者,不隨從也。

方外

阮歩兵が母を喪い,裴令公が往ってそれを弔った。阮は酔っぱらっていて,ざんばら髪で寝台に坐り,足を投げ出して哭してもいなかった。裴はやってくると,敷物から地に下りて,哭し弔い畢わると,そのまま帰った。あるひとが裴に問うた。「およそ弔いというものは,主人が哭し,それから客人が礼をなすことになっています。いま阮が哭しもしないのに,貴君が哭したのは何故なのですか」 裴は言った。「阮は方外の人である。だから礼制にこだわることはない。私などは俗中の人である。それで儀軌をもって自任しているのです」 時の人は二人ともにその道に中っていると感嘆した。(世說新語・任誕)

また:
阮籍當葬母,蒸一肥豚,飲酒二斗,然後臨訣,直言「窮矣!」 都得一號,因吐血,廢頓良久.

可謂孝乎

『孝經』諫諍章第十五
曾子曰:「若夫慈愛、恭敬、安親、揚名,則聞命矣!敢問:子從父之令,可謂孝乎?」
子曰:「是何言與!是何言與!昔者天子有爭臣七人,雖無道,不失天下;諸侯有爭臣五人,雖無道,不失其國;大夫有爭臣三人,雖無道,不失其家;士有爭友,則身不離於令名;父有爭子,則身不陷於不義。故當不義,則子不可以不爭於父,臣不可以不爭於君。故當不義則爭之,從父之令,又焉得爲孝乎?」
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