危害防止原理

(きがいぼうしげんり The Harm Principle)

「この惑星上のいかなる住人も、ほんのちょっとばかりの自分の空間を もつ権利があると思います。そして、他人の空間を侵害するようなことは良くない。 カリフォルニアがどんなところか、 どうしてカリフォルニアはこんなに住みやすいのか、 私がいつも言っているのはこの点です。 ここの住人は、誰かに自分の価値体系に踏み込まれでもしない限り、 まずもって他人の価値体系のことなど気にしないで暮らしてゆけます。 ここで皆が心得てしる大雑把なルールは、こうです。 金と好きな人を手に入れたのなら何をやっても結構。 ただしよその誰かの財産に傷をつけたり、 安眠妨害をしたり、ひとのプライバシーに鼻をつっこんだりはしないこと。 これで万事オーケー。家の中でなら、マリファナ吸って麻薬を打って どんな馬鹿をやらかそうとも、どうぞご勝手に。 しかし路上でそれをやらないように。私の子どもに見せないように。 どうぞご自分ひとりでおやりください。それなら文句なしです」

---ロバート・N・ベラー

My freedom to swing my fist ends where your nose begins.


ジョン・ステュアート・ミルが定式化した原理。 危害原理、自由原理(The Principle of Liberty)などとも呼ばれる。

この原理によれば、一般に、 政府や世論によって禁止することが許されるのは、 他人に危害を与える行為だけである。 ミルは『自由論』において、次のように述べている。 「人類が、個人的にまたは集団的に、 だれかの行動の自由に正当に干渉しうる唯一の目的は、 自己防衛だということである。すなわち、文明社会の成員に対し、 彼の意志に反して、正当に権力を行使しうる唯一の目的は、 他者にたいする危害の防止である」(ミル 1979: 224)

この引用の直後にミルが述べているように、 「あなたのためなんだから」 という理由でまわりの人が強制的に何かをやらせたり、 やらせなかったりすること (パターナリズム)は、 よくないことになる。 ただし、強制することはダメでも、 説得したり泣いて頼んだりすることはダメなわけではない。

「他人に危害を加えないかぎり、個人は何をしてもよい」 というこの原則の背後には、 「各人は自分の幸福についてだれよりもよく知っているのだから、 自分のことは自分で決めるのが一番だ」 という前提がある。 すなわち、 人々は基本的には他人に干渉されない方が、 自分の幸福をよりよく追求することができるという仮定である。

たとえば、 「哲学は体に悪いし、発狂するかもしれないからやめなさい」 という説得をする人がいたとすると、ミルの危害原理を使って、 「それはあなたの考えであって、わたしは納得が行きません。 あなたが哲学をやると発狂するのかもしれませんが、 わたしは哲学をやればやるほど幸せになると考えています。 わたしの考えのあやまりを指摘できないかぎり、 わたしはわたしの好きなようにやらせていただきます」 と反論することができる。

この原理が当てはまらない例外は、子供や狂人、 また、ミルによれば未開人である。 というのは、こういった種類の人々に関しては、 「各人の好きに行為させれば、自分の幸福をよりよく促進することができる」 という上記の前提があてはまらないと考えられるからである。

以上のミルの危害防止原理は、 加藤尚武によって次のように定式化されている。 「自由主義の原則は、要約すると、 『(1)判断能力のある大人なら、 (2)自分の生命、身体、財産にかんして、 (3)他人に危害を及ぼさない限り、 (4)たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、 (5)自己決定の権限を持つ』となる」(加藤 1997: 167)

この原理の大きな問題点は、 「危害」が何をさすのかがあいまいであることである。 たとえば哲学をやって家族に極貧生活を強いることは危害か、 ヌーディストが全裸で外を歩くことは危害か、 など具体的な事例を考えてみると、 なかなか答がでないことがわかる。 その他、「他人とは誰か」(とくに人工妊娠中絶について問題になる)、 なぜパターナリズムは正当化されないのか、などがある (サイモン・リーの文献を参照せよ)。

自由主義、 『自由論』の項も参照せよ。

関連文献

01/Feb/2001; 18/Jan/2002; 20/Feb/2003追記


功利主義と危害原理

ミルの危害原理は、彼の功利主義と両立しない、 という批判がある。すなわち、 危害原理は個人の自由の領域(政府や他人が干渉できる領域と、 できない領域)を設定する原理だが、 功利主義は全体の幸福が促進されるならば、 功利主義はそのような自由な領域を侵害することを許すだろうという批判である。 一例としてハートの文章を以下に引用しておく。 彼の批判を一言で要約すると、「自由原理(危害原理)は一般的福利の 集合的原理ではなく、配分にかかわる原理である」(下記の翻訳の90頁)、 すなわち、 危害原理は功利主義と相容れない配分的正義を内蔵しているということになる。

ミルが個人の自由を議論するに至ったとき、 個人の自由が(法によってであれ、社会的圧力によってであれ)干渉ないし制限 されうるのは個人の行動が他者に害を与える場合に限られる、と主張したのであるが、 他方、厳密に功利主義的最大化の立場をとれば、社会全体の集合的福祉が 個人の自由の制限により増大するときは、当の自由の制限は常に許容されねば ならないだろう。この点ミルの自由論は、功利主義の最大化原理から顕著に 逸脱しており、その効果は、各々の個人について、他者に害を与えることのない 彼の行動範囲の全体に対し自由の領域を確保する、ということにある。 それは、このような保護を個人の自由それ自体に対し 与えるのであるから、あらゆる個人は自由の同等の領域を確保され、 かくして平等の処置が確保されることになる。 これに対し純粋の功利主義は、決して処遇の平等性を一つの独立した価値 として尊重することはない。(中略) 彼の理論が功利主義の最大化原理から著しく逸脱していることに変りはない。

H・L・A・ハート、『権利・功利・自由』、小林公・森村進訳、木鐸社、 1987年、52頁 (89-94頁も参照せよ)

11/Jun/2001


冒頭の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Fri Dec 10 17:29:29 JST 2004