(じゆうしゅぎ liberalism)
Liberalism is the conjunction of two ideals. The first is that of individual liberty: liberty of thought, speech, religion, and political action; freedom from government interference with privacy, personal life, and the exercise of individual inclination. The second ideal is that of a democratic society controlled by its citizens and serving their needs, in which inequalities of political and economic power and social position are not excessive. Means of promoting the second ideal include progressive taxation, public provision of a social minimum, and insulation of political affairs from the excessive influence of private wealth. To approach either of these ideals is very difficult. To pursue both of them inevitable results in serious dilemmas. In such cases liberalism tends to give priority to the respect for certain personal rights, even at substantial cost in the realization of other goods such as efficiency, equality, and social stability.
---Thomas Nagel
リベラリズムと正義の理念とが内在的に結合して いるということを奇異なこと、理解し難いことと感じる人々は現在の日本にお いて少なくない。リベラリズムは自由・寛容・開放性・多様性・進取等々のプ ラス・シンボルと結び付けられるのに対し、正義の方は束縛・独善・偏狭・狂 信・迫害等々のマイナス・シンボルと結び付けられることが多い。その結果、 しばしば同一人物の内に「リベラル好き」と「正義嫌い」とが共存する。
---井上達夫
もしあなたがリベラリストならば、 貧者をみて次のようにいわれるであろう。 彼または彼女が貧しくなったのは、 生まれた環境が悪かった、 十分な教育を受けられなかった、 健康を害した、 人種差別を受けた、 性差別を受けたなど、 なんらかの理由があってのことである。 しかも、いま裕福な人でも、 もう一度生まれ変わるとすれば、不幸な境遇におちいる可能性は けっしてゼロではありえまい。その意味で、 失業保険、医療保険、その他の社会保障政策など、 めぐまれない人びとを救う社会的装置は、 民主主義社会においては必要にして不可欠であると同時に、 そうした装置をしつらえることについて、社会的な合意を形成しやすい、と。
---佐和隆光
「愛とか友情とかリベラルとかソフトクリームのようだ。 おてんとうさまが出たらとけるのではないか。甘っちょろすぎる」
---中曽根康弘元首相、鳩山由紀夫さきがけ代表幹事による新党構想について
「現在の米国で民主党政治家がリベラルというレッテルをはられることは ダイナマイトのような危険をはらむ。米国民のうち自分自身をリベラル派だと みなすのは全体の19%ほどに過ぎず、大多数にとってリベラリズムは過度に 高い税金、過度の社会福祉、安全保障への無知なハト派的態度を連想させる」
---マーク・ペン、クリントン前政権の世論調査担当官
自分にとって不快な表現であっても、不快感を表明するのはともかく、 少なくとも抹殺することに手を貸してはならない。 これがリベラルや進歩派や民主派を名乗る以上、 最低限の認識だろうと思うのだが、我が国では全然違うようである。
---永山薫
理想的な自由主義社会とは、 社会のすべての成員(すくなくとも判断能力のある成人)が、 他者に危害を与えない限りにおいて、 自分の考えにしたがって自分の人生を決めることができる社会である。 言葉をかえて言うと、政府が「かくかくしかじかの生き方をしなさい」 という押しつけを個人に対して行なわない社会である (これを政府の中立性と言う)。
たとえば、このような自由主義社会では、 他者に明確な危害を与えない限りにおいて、 どのような宗教を信じようと自由だし、 どのような政党に属しようと自由である。 引越しも自由にできるし、 どのような本を出版しても読んでもかまわない。 強制されて学者になったり、強制されて床屋になったりすることはなく、 どのような職業に就こうと個人の自由である。 各人は自分の人生設計を自由に追求することができる。
このように書くと自由主義はバラ色の世界のようだが、 実際のところ、このような社会を作るためにはいろいろ問題がある。
一つの大きな問題は経済的な問題で、 もしわたしが学者になりたいと思っても貧乏であり、 そのため学者になるための教育を受けることができなければ、 自由に自分の人生設計を追求することはできない。 つまり、お金がないと自由は有効に利用できない、 あるいはさらに言えば、お金がないと自由ではない。
たとえば、次の新聞記事からの引用を読んでほしい。
売春は経済的価値を持つため、中国政府はそれを黙認している。 たとえば、売春に携わる女性の多くは、 困窮している農村部で暮らす家族の生計を支えている。
シェンチェンは香港のすぐ隣にあり、 新しい高層ビルが立ち並ぶ活気のある街である。 そこにあるクラブ・バタフライというカラオケ・バーにいる24才の女性・パンは、 大学で勉強することをあきらめ、 彼女の故郷である西方の都市・重慶を去り、シェンチェンで売春の仕事をはじめた。 彼女がそうしたのは、弟に学業を続けさせるためである。 いま彼女は故郷に毎月300ドルもの仕送りをしている。 両親には、ウェイトレスとして働いていると言ってある。 「中国では、娘はあんまり重要じゃないんです」と彼女は言う。 「重要なのは息子です。わたしがここに来て仕事を見つける以外には、 弟が学業を続ける方法はないのです」
`Sex trade thrives in freewheeling China' in The Guardian Weekly, Jan. 16-22 2003 (33).
(元はThe Washington Postの記事)
自分自身は大学教育をあきらめ、 貧しい家庭に育った弟を大学にやるために売春することを 選ぶこの女性は、誰に強制されたわけでもないかもしれないが、 はたして自由主義が擁護する自己決定をしていると言えるだろうか。 むしろ、貧しいがゆえに(また女性差別のゆえに)、 自分自身の本当にしたいことをあきらめ、 やりたくない仕事をなかば強制されたのではないか。 この例からわかるのは、 自由な選択をするための前提条件として、 経済的に十分に選択可能な選択肢がある程度用意されている必要があるということである(追記)。
したがって、 政府としては税金を使って公教育を充実させるという手段があるわけだが、 これは他方で他の人々の経済的自由を制限することになる。 ノージックの挑発的な言葉を使うと 「労働によって得た収入に税金をかけることは、強制労働をさせるに等しい」 (R. Nozick, Anarchy, State, and Utopia, Blackwell, 1974, p. 169)。 もちろんノージックほど過激な主張をする人間はまれだが、 自由主義社会においても富の再分配という形で経済的自由の制限が 存在することはたしかであり、なぜ再分配が許されるのか、 そしてどの程度の再分配が許されるのかというのは大きな問題である。
また、自由主義が想定している個人はあまりに個人主義的であるという批判もある。 いわゆる共同体主義 (communitarianism)によれば、 自由主義は原子のように 「共同体から切り離された個人」(atomismと呼ばれる) を仮定しており、この人間観が現在の社会問題の多くの原因とされる。 それゆえ、自由主義的な中立的立場に対して、 われわれはもっと共同体の伝統的な価値観を大切にしなければならない、 言いかえると、政府あるいは社会は個人に「かくかくしかじかの生き方をしなさい」 という勧告あるいは強制を(ある程度)行なうことができると主張される。
リバタリアニズム、 善に対する正の優越、 『自由論』も参照せよ。 ついでに、Michael Freeden, Ideology and Political Theory (『イデオロギーと政治理論』) 第6章の要約も参照せよ。
(10/Apr/2001, 28/Jan/2003追記)
追記 この場合、女性の自己決定権(選べる選択肢の数)を制限しているのは経済的事 情です。これほど明瞭ではないけれども、不妊治療の場合にも、このように自 己決定権を制限する事情が働いているのではないか、すなわち、治療によって 産むという選択肢を選ぶよう(そして、治療を受けないで産まないという選択 肢を選ばないよう)有形無形の圧力がかかっているのではないか、という問い を発するのが、 わたしの理解するかぎりでのフェミ的な思考だと思います。
自己決定が善いもの(価値があるもの)であるためには、 十分に選択肢の幅が開かれている必要があります。 上の女性の例で、売春して弟を助けるという以外に選択肢が開かれていなければ、 彼女はたとえ自己決定していたとしても、 その自己決定にたいした価値があるとは言えないでしょう。家に食べものが残っ ていないから、外食しに外に出たらレストランが一軒しかなかったとしたら、 銃を突きつけられて「金を出せ」と言われてしぶしぶお金を出すのとほとんど 変わりません。
不妊治療や援助交際の場合は、女性は望んで(欲求して)それをやっているのだ、 と言われるかもしれません。しかし、 もしそれ以外に実質的に選びうる選択肢がなければ、 本人が望んでいるかどうかは大して重要なことではなく、 むしろそのように欲求するように社会によって教育されたのだ (あるいは、自分で自分を欺いたのだ)と言えるかもしれません。
(21/Aug/2004 追記)
冒頭の引用は以下の著作から。