第六章 哲学的自由主義の挑戦:現代の米国変種の文脈化

・ここ25年間における、アカデミズムでのリベラルの再生。米東海岸から世界へ発信。アカデミズムの領域にとどまる傾向が強く、政治家や活動家のあいだに広がる十全な意味でのイデオロギーと言えないところが特徴(リベラル派の政治行動との緊張関係の存在)。

・本章の二つの課題:
(1)この自称「自由主義」を、これまでの章で明らかにした自由主義イデオロギーの諸特徴に照らして評価
(2)米国の自由主義の伝統におけるその位置づけの評価

・哲学的自由主義の「哲学的な(=非イデオロギー的な)」特徴:非歴史的、概念の純粋主義(自由主義の共時的特徴をきれいに取り出そうとする)
→なぜ諸イデオロギーを研究するこの本で「哲学的」自由主義を取り上げるのか:
・最近ではもっともよく洗練され議論されている自由主義理論だから
・マルクス主義などの諸イデオロギーを復活させようとするアカデミズムの潮流から生じた思想だから
・マルクス主義のように、いくつかの代表的テキストをめぐって議論が反復されているから
・その結果、理論とイデオロギーの区別があいまいなかたちで提示され、
・また、マルクス主義のように、通時的な思想の伝統から切り離すかたちで提示されているから
・より重要な理由としては、米国の自由主義の伝統をカント的伝統として読み違えた哲学的自由主義と本当はロック的な米国の自由主義との比較が、自由主義イデオロギーの研究にとっておもしろいから




(a) 政治的自由主義とその制約

・哲学的自由主義の代表者と目されるロールズ。哲学的自由主義の中心的な論点を提示したが、あとになって(完全に転向したわけではないが)いくつかの重要な修正を行なった。

・本節では『政治的自由主義』(1993、ただし収録されている論文はほとんど80年代のもの)を『正義論』(1971)や他の哲学的自由主義者のテキストとの関連で評価する。

・正と善の区別(228-9):
・公正としての正義は、社会制度によって体現されるようなあらゆる善(善き生)の概念に先行する
・正義論は、人々が実現したいと願っている生活設計のあり方をあらかじめ決めてしまうことなく、普遍化することができる
・正の理論は善についての「薄い理論」によって基礎づけられている、すなわち正の理論にはいくつかの価値が想定されているが、これは(どのような善の構想を持っている人にも)普遍的に受け入れられるものとして提示されている

・1980年代以前のロールズに対してよくなされた批判:善の「薄い理論」は普遍化できない;共同体から切り離された空虚な個人を仮定している(サンデルのunencumbered self、テイラーのatomismの批判)
→これに対するロールズ自身の修正を検討するのはタメになる。とくに検討の焦点となるのは:
・「善の薄い理論=イデオロギーの中核、善の十全な理論=イデオロギーの全体像」という対応関係があるか
・薄い理論と十全な理論を*切り離して*、前者を普遍化できるものとする、という主張は正当化できるか
・ロールズの自由主義理解

・1980年代以降のロールズの譲歩(229-230):善の「薄い理論」は、「包括的」ではないが「政治的」な自由主義を含意しているので、普遍的とは言えない(1988年の`The Priority of Right and Ideas of the Good');すなわち、許容可能な善の構想には制限が課される。しかし、たとえこの「薄い理論」に含まれている基礎的価値が自由主義的なものであるとしても、それによって特定の政治的見解が支持されるわけではない。
→この「政治的」自由主義の正体はいかなるものか
→ロールズの「政治的」自由主義は本当に「薄い」のか;この政治的自由主義の基礎の上にさまざまな政治的見解が確立されうるのか

・善の「薄い理論」によってはいかなる特定の政治的見解も前提されないというロールズの主張は誤り。
・イデオロギーの中核概念は、たしかに*それだけを取り出せば*、さまざまな解釈が可能な不明確なもの。しかし、言語的にも政治的にもそれだけを取り出すことは不可能。
・「薄い理論」とされる『正義論』の正義の二原理の辞書的優先性(平等な諸自由の原理が、格差原理と機会均等原理という再配分の原理に常に優先)によって、「公正としての正義」の概念の脱論争化、および特定のイデオロギー形態の生成がすでに始まっている
・worst-offの利益に資する再配分が認められるのは、基礎的諸自由その他の遂行が促進される社会的制度から生じる場合のみ
・市民的平等に基づく地位の方が、経済的不平等に基づく地位よりも望ましいものとして脱論争化されている。
・『正義論』より後の著作になると、中核にある概念同士による脱論争化がよりはっきりしてくる。
・先行する章で特定した自由主義的な特徴は、自由、発展、個人主義、理性、一般利益、社会性(社交性)、権力の制限された政府であったが、これはファシズムやある種の保守主義や無政府主義やほとんどのマルクス主義などに伴うイデオロギー的立場を排除している。同じことがロールズの「薄い」政治的自由主義についても当てはまることがわかるだろう。

# ロールズは政治的自由主義によって一つの特定の政治的見解が採用されることを否定しているのか(ある程度の中立性)、それともさまざまな政治的見解に対していかなるバイアスや限定がかかることも否定しているのか(完全な中立性)。フリーデンはここで後者の強い解釈を取っているように見える。

・ロールズの政治的自由主義に登場する諸概念(231-2):立憲民主政体、合理的で自由かつ平等な人格、権利・諸自由・機会、重なり合うコンセンサスoverlapping consensus、公正な社会的協調に必要な礼儀や寛容といった政治的徳、正義の感覚と善の構想を作れる道徳能力の発達と十全な遂行
・これらはすでに挙げた自由主義の中核概念以上に入念な特徴づけ;すでに挙げた8つ(上の7つ+寛容)のうち、7つがロールズの政治的自由主義の議論に挙げられており、平等、民主政治、権利と機会の割り当てといった隣接概念も登場している。
・個性はなぜか*包括的な*自由主義の理想の方に割りふられている。(`Justice as Fairness')

# overlapping consensusについては注18 (231)。

・ロールズの政治的自由主義は彼の言う意味での「包括的」(=「人の非政治的行動の大部分に影響を与える、人間生活にとって何が重要かという構想や、個人的徳や性格の理想」)ではないかもしれないが、かなりきっちりした骨組みとなっており、いろいろな仕方で肉付けができるとはいえ、その肉付けの仕方には制約がかかる。

・「人間的卓越性」は、「成長」や「発展」といった善の薄い理論に含まれる概念の特定の脱論争化。「人間的卓越性」は善の包括的理論に入れられるので、中立な政府が強制・促進すべきものではないが、「成長」や「発展」は政府が保証すべきものとされる。このように、ロールズの政治的自由主義のかばんの中にはいろんなものが入りすぎていて、とても中立とはいえない。
→ロールズは、政治的信念体系の論理的構造を、文化的構造から切り離して論じられると考えているようだが、《論理的基礎構造に何を含めるかに(意識的、無意識的な)文化的選好が入り込んでくる》というイデオロギーの特性を自分の理論も有していることを理解していない(232-3)。


(b) 政治的なものを切り取り出す?

・ロールズの政治的正義または政治的自由主義が許容できる善の包括的構想は、ロールズが考えている以上に狭い(233-4):
・政治的自由主義は文化的にも論理的にも「包括的な」自由主義(と、それと重なりを持つ種類の社会主義と保守主義)しか許容しない;たとえば、自由を合理性と結びつけることをしない種類のたいていの保守主義、自由を立憲的な権力構造と解することを非常に嫌う種類の社会主義などは排除される。
・政治的自由主義はある種の「包括的な」自由主義さえ排除する。ロールズの「公正な社会的協調」の脱論争化の仕方が、ある種の自由主義的共同体主義を排除することがのちに示される。

・政治的構想と包括的理論の区別を、政治的価値と非政治的価値によって区別するロールズのやり方は支持するのが困難:
・自由は純粋に政治的な構想か;政治的価値は、道徳・宗教・哲学といった(非政治的)視点から独立に作られるわけではない。
・逆に、成長の概念は哲学的ではなく、政治的でないのか;成長の概念は、なぜか、社会的・政治的文脈からも切り離され、歴史性からも切り離された「内在的な道徳的能力の発展」によって脱論争化されている。
→政治的なものの領域とその文脈をこのように縮小させることは、自由主義的伝統に反する。

・ドゥウォーキンの私的選好(自分に関する選好)と外的選好(他人に関する選好)の区別についても類似の批判が当てはまる(234-5);ドゥウォーキンは権利章典によって外的選好を多数決による政治的意思決定(「政治的なもの」)から排除しようとするが、本書のイデオロギーに関する議論からして、四つの理由で困難。
(省略。要するに、政治的と非政治的の区別が論争になるのと同様に、私的選好と外的選好の区別自体が論争になるという話)
# Dworkin, `Liberalism'はA Matter of Principleに採録。

・そもそも政治は外的選好が衝突する場なんだから、外的選好の実践と選択は政治的なものである:
・たとえば、ホームレスに家を与えるべきだという外的選好と、市場経済の万能性に対する信念からそういうことはやめるべきだという外的選好の対立
・すべての外的選好が「平等な配慮」の概念に反するものではない
・ある選好が私的か外的か、平等な配慮に反するかどうかは論争の余地があるのだから、権利章典によって政治の領域から排除するのはおかしい
→政治的なものを狭めることの困難さ

・包括的な自由主義についてのロールズの見解にも類似した問題がある:包括的な自由主義の例として、自律や個性の価値を重視したミルの理論を挙げている;自律や個性は人生の大部分に関わるから包括的とされる
・ロールズは包括的な理論はすべて完成主義的だと考えているが、ミルの理論は改善主義であり、完成主義ではない
・さらに、個性はミルの自由主義においては中核にあるものであり、ロールズの政治的自由主義のように中核から排除できるものではない
・その意味で、ロールズの言う自由主義の伝統は、英国や大陸系の伝統ではなく、米国の伝統と考えられる
→(まとめ)ロールズが自由主義にはいろいろあるというのは正しい。しかし、政治的自由主義を包括的な自由主義から切り離して、他の理論と結びつけることができると考えるとか、(ロールズにとっては*政治*哲学であり、フリーデンにとってはイデオロギーの一つである)自由主義の中で政治的価値と非政治的価値を区別するとか、自由主義の中心的価値を包括的自由主義の方に入れてしまうとかいうのは問題(236)。


(c) カント的地平

・ロールズの政治理論にはカント的な人間本性理解がある(236-7):
・各人は自由で平等な理性的存在者であり、その目的は尊重を要求する
・各人がこの意味で平等であるという意味で彼の政治理論は普遍主義的

・自律を自由の中心的側面とする今日の見方もカントの議論に負っている(237-8):
・自律の三つのレベル:合理的自律(合理的選択モデルが前提する人間像)、政治的自律(正義の原理を守り、諸権利の保護の下で行動)、人生全体に適用される倫理的価値としての自律
→しかし、カントのように自由を特定の理性観と結びつけて理解する仕方は、自由主義の伝統の一つでしかない;ある条件の元では他律が自由につながるとか、自由の非合理な領域の可能性などを排除している

・他の自由主義の語彙において「自律」が出てこないという事実は、その理論の中にその概念が存在しないことにはならないにしても、あまり重視されていないのかもしれないという疑いが生じる:
・自由、独立(自立)、自足といった概念は自律のいくつかの側面にしか対応しない
・ロールズは「正義の原理を宣言できる合理的な個人」という概念に含まれている自律の概念を特定し、これが彼の政治的自由主義に含まれているとする
・この自律概念が含意する人間観は、自律を至上目的や実践的な生活の仕方と考えないような人間観を持つ自由主義を排除するかもしれない

・カントはヨーロッパ思想において大きな力を持ったが、英国や米国の自由主義の思想に大きな力を持ったとは言えない(238-9)。ロールズが言い出すまで、米国の自由主義をロックではなくカントと結び付けて話す人はいなかった。

・ロールズが米国自由主義の歴史を書き換えようとして、非歴史的な哲学者であるカントを選んだのは意義深い;その結果、歴史が脱歴史化したイデオロギー的立場が生じた;現代の道徳哲学は自分こそが「自由主義」そのものである、と主張している;このような自由主義は米国の自由主義の伝統にどのような影響をもたらすであろうか(239-240)。

・もし哲学的自由主義が成功したならば、西洋自由主義の伝統は新しい経験的地平から再解釈されることになるだろう;そのときは、ロールズ派の自由主義者たちは、自分たちが自由主義の伝統で軽視されてきたカント的普遍主義と抽象的合理性、中立的国家と人格の中心概念としての自律といった事柄を再び中心に据えたと言えるだろう;実は自由主義は英国経験主義の伝統のみによって達成され国外へ輸出されたわけではなく、自由主義の大陸啓蒙理論のブランドも重要な役割を果たしていたことになるだろう。
→これはまだ推測的な歴史にすぎないが、歴史を逆向きを読むことも、歴史を創造する過程の一部である(240-1)


(d) 平等は自由主義の中核的概念か?

・哲学的自由主義のカント的ニュアンスは平等概念に優先権を与える普遍主義を前面に押し出した;平等概念を自由主義の中核に置く、自由主義の伝統とは異なるドゥウォーキンの見解(241):
・政治思想の「構成」部分と「派生」部分を区別(「中核」、「隣接」「周縁」にほぼ対応)し、自由主義の構成的原理は(次のような)特定の平等概念だとする
・市民は政府によって「平等な配慮と尊重」を受けるものとされる
・市場による資源の大体平等な配分;代議制民主政;多数決制度に(外的選好を排除するような)制約を課す権利章典
・ドゥウォーキンは米国自由主義のイデオロギーを*記述*しているのか、「真正で整合性のある政治的道徳」という規範を*宣言*しているのかあいまいだが、全般的には後者と考えられる;ただしこの規範は《リベラリズムはかなり昔からほぼ同じ形を保ってきた》という議論の余地がある非歴史的な立場と結びついて理解されている

・リベラリズムの構成的原理を「平等な配慮と尊重」とすることに対する三つの疑問(242-3)
1) 自由を自由主義の構成的原理としないことは分析的説得力に欠ける:ドゥウォーキンは自由と平等が同時に構成的原理となることはできないと考えているが、それらが中核概念として共存することはある程度は可能である
2) 自由を自由主義の構成的原理としないことは歴史的説得力に欠ける:歴史的に見て、自由は常に自由主義の構成的原理の一つとされてきた;平等という理想が文化的に根付いていた米国の歴史においても、自由は自由主義だけでなく米国の政治的文化全体に根付いていた;さらに、平等な尊重が自由主義の構成的原理とすれば、自由主義は社会主義とはどう区別されるのか
3) 人々に平等な尊重を行なうという考えは、人間についての特定の考え方(例えば、人間の合理性や個性)を前提にしているから、この人間観も自由主義の構成的原理に数えいれられるはずである;せいぜいのところ、米国の自由主義の伝統は政治的・法的に平等な扱いを自由主義の中核となるパッケージの一つに含めたとしか言えない(これが社会主義者の自由主義批判でもある)。

・20世紀の自由主義の理論家たちは平等を自由主義の中核となるパッケージの一つとして数えいれていたか(243-4):
・ホブハウス:自由と平等には結びつきがあることを認めたが、
1)自由が(法の前の)平等を含意し、その逆ではない
2)自由と平等の結びつきが成立するのは、自由概念と平等概念がより厳密に定義された(脱論争化された)場合に限るとした
・エイミー・ガットマンは、平等は社会正義の議論で問題にはなるものの、自由主義そのものは平等に基礎づけられていないとした:
・彼女の研究は自由主義の伝統と*両立するような*平等主義のテーマをたどること(ドゥウォーキンとは異なる試み)
・その分析の結果、(1)ミルの参加デモクラシーの持つ平等主義的帰結の強調と、(2)ロールズ以上に再配分を強調する厚生関数の同定;また、自由主義の歴史における平等概念の論争性を確認
・英国の大戦間の自由主義においては、平等が自由主義の中核において重要な地位を持ったが、通常は依然として自由に仕える概念だった:
・ホブソンは米国民主政の重心が自由主義(`libertarian')からトクヴィルが恐れた意味での平等主義へと移っていることに懸念を表明
・左派リベラルにとっては、平等は階級なしの社会を作って人間性を発展させるための手段;つまり、中心となる概念は個人の成長と共同体(の調和)であり、平等はそれに隣接した概念

・通時的な話をすると、米国の自由主義の伝統において平等概念は中核だったのか:
・米国建国期の憲法関係の文書に自由と並んで出てくる平等は、個人の成長・発展を保証する手段としての「平等な権利」や「平等な機会」
・ウォルター・ワイルやウォルター・リップマンのような改革的進歩主義者やハーバート・クロリー、デューイらも機会の平等を説き、平等の*道具的*見解、平等の「薄い」理論を取っていた。
→このような概念が米国自由主義の中核的位置にあるとは言いにくい。むしろ個人の機会という概念から派生した隣接概念と考えるべき

・このように、米国自由主義において平等概念が常に中核にあったとは通時的に説明できない;たしかに60年代の市民権運動においては平等が前面に押し出された;しかし、人種差別に対する反対の根拠は、修正第十四条の「法による等しい保護」であり、これは過去の「平等な扱いと(まあまあ)平等な機会」という考え(つまり、平等は人間性発展のための手段的な価値)と基本的に変わらない;平等を強烈に主張しているように見えるアファーマティヴ・アクションでさえ、18世紀においては政府権力の限定の根拠となったのと同じ「自由主義の個人信仰」から生じるものとみることができる;ロールズは「リンカーンは奴隷解放のために独立宣言にある平等に訴えたが、この同じ平等が女性の不平等と抑圧を非難するために用いることができる」(Political Liberalism p. xxix)と主張しているが、これは概念の通時的変遷を無視した非歴史的なコメント(245-6)

・ロールズ自身がこの現在支配的な平等についての米国自由主義的見解の代表者である(246-7):
・正義の第二原理は、社会的・経済的不平等は地位や役職に関する「公平な機会の平等」があるかぎり、正当化されるという考えから生じている
・さらに、第二原理の平等概念への貢献は、「最も恵まれない人々(the least advantaged)」への利益の再配分という考え方にある;
・これは共同体主義者が欲するようなより実質的な平等に比べると、「政治的なもの」の縮小を意味している
・これは、*市民*としての人々のニーズという狭い政治的な概念を用いているため、平等を社会経済的実践の根本的な再編として脱論争化するような考え方は含まれない
・また、《平等は人間の相互的依存関係から生じる》という人間関係についての強い共同体的解釈も示唆しない
・この平等の考え方は、各個人が市民*として*必要とするプライマリーグッズ(基本的な権利と諸自由、移動の自由と職業の自由、ある程度の収入と富、自尊のための社会的基盤)という概念を提示するのみである
・これらのプライマリーグッズは米国自由主義の中心となる価値観を示しているが、そこでは平等は他の中核概念の副産物として穏当な脱論争化が行なわれている
・このプライマリーグッズのリストは、カント的な「道徳的人格への能力」という概念が含意する論理的可能性の一つでしかなく、文化によって規定されている
・また、ロールズはこの能力を「一般的な自然の事実」であると主張することによって脱論争化し、社会的政治的論争の領域の外に出そうとしている;カントの理性への訴えが持つ普遍性を用いて、米国自由主義の平等観が正当化されている

・アファーマティブアクションと結びついたより強い平等理解が生じ、共同体主義的・参加主義的平等の目的がマイノリティ集団という周辺概念に適用されるようになると、平等が個人の自由を減少させるものとしてみなされるようになった:自由主義的な舞台に集団の概念が登場することで、米国自由主義のイデオロギー的形態に深い分裂が生じた(247)


(e) 自由主義と共同体

・哲学的自由主義と共同体主義の論争があるので、共同体の概念を検討することは価値がある;ただし、共同体の概念にも多々あり、共同体主義の考える共同体は自由主義に組み込まれうるものである(247-8)。「共同体主義が自由主義の内部に取り込まれたというのは事実である」

・サンデルのロールズ批判:ロールズの原初状態が持つ個人主義的性格;共同体が個々人を作り出すという考えが抜けている;サンデルの議論の三つの特徴
1) ロールズの共同体は弱い意味、サンデルの共同体は強い意味(とサンデルは言う)→たしかにサンデルは、個人を文化人類学・文化的状況に位置づけているが、しかしロールズと同様に共同体を非歴史的に把握している
2) サンデルは自分の批判を自由主義の限界を示すものとして理解しており、自由主義を豊かにするものとは捉えていない
3) というのは、サンデルは共同体を個人の*アイデンティティ(自己理解)*が生み出されるものという風に*垂直的*に捉える傾向が強く、人間が相互に結合しているものとしての共同体の*水平的*な理解は弱いからである(248-9)

・たしかにロールズの政治的自由主義においては、個人の合理的選択としての社交性の概念以上のものを主張するのは難しい;たしかに、彼は社会集団をアクターとは捉えていない;しかし、テイラーがサンデルのアプローチについて述べたように、サンデルのホーリスティックな視点は存在論的なものだが、具体的な時間や空間を無視したものとなっている;自由主義と共同体主義の論争で問題となる「埋め込まれた、共同体の中に置かれた自己embedded, situated self」は、抽象的なので実際の政治的論争においては役に立たない;それに対して、自由主義の伝統には共同体主義の議論がかなりうまく用いられているものもあるのである。
# 歴史を無視した論争はやめて、もうちょっと歴史を勉強しろということか。

・多くの自由主義者は自由主義の伝統の枠内に収まる共同体の理解を主張してきた(249-50);この理解は自由主義の中核概念である共通利益と社会性(社交性)を結びつけた結果である;共同体主義的視点というのを個人的選択を排除するものとして理解するなら、キムリッカが示したように、サンデルは共同体主義者ではないが、すでにわれわれは《人間の幸福の一部としての個人の選択と自己発展》を排除しない自由主義的共同体主義を[第五章で]みてきたわけであり、《Aか非Aか》(個人か共同体か)というタイプの議論はイデオロギー研究としては不毛である。

・自由主義と共同体主義が対立しているという考え方(個人と共同体の`artificial dichotomy' 259)が、哲学的自由主義の貧困な社会理解を示している;すでに述べたように、現在の自由主義はその伝統から完全に切り離されており、また概念の構造やイデオロギーの形態の複雑さを失念している;自由主義イデオロギーに組み込まれうる、あるいは組み込まれてきた共同体概念は五つある。このような蓄積的な地平なくして自由主義の議論や実践を理解することは不可能(250-251):

# 「現在の自由主義はその伝統から完全に切り離されており、また概念の構造やイデオロギーの形態の複雑さを選択的に無視しているthe twofold impoverishment in liberal discourse examined here: its almost total detachment from its own antecedents and a selective obliviousness to the complexity of conceptual structure and ideological morphology.」(251)は哲学的自由主義に対する批判のまとめとして理解できる。

(1)人々が権利の主張をし、市民権が与えられる場としての政治的国家としての共同体(251):諸個人が各自の道徳的目的を達成するために必要な共同体;各人がその目的のために選択して形成する共同体
(2)人間本性の中にある社交的属性によって形成される共同体(251):契約論に代表されるような自由主義の市場的理解とは異なり、人間は善意があり、ある程度利他的で、自然に(=自己利益から打算的にではなく)協力関係を結ぶ。
(3)合理的個人が共通の利益(グリーンの共通善)を達成する場としての共同体(252):社会の成員であることは個人の発展のための条件であるが、社会は個人の合理的利益が重なり合う場でしかない。

・以上の三つの共同体概念は「弱い」ものである(252-3):
・個人のみを社会の単位として認める
・諸個人が一定の交流を行なうことによって「社会」が生まれる
・一般利益の促進という自由主義の中核概念と一致
・共同体の「強い」概念では、《社会を形成するかどうか》という根源的な選択は個人は持たない;個人が集団に属することは免れえない事実
・共同体への「帰属感」とかいった*感情*は自由主義の伝統においては重要なものではなかった。むしろ自由主義とは無関係のロマン主義的共同体主義、あるいは保守主義者のたわごと

(4)ウォルツァーが(哲学的)自由主義と対比させて語る具体的な集団としての共同体(253-4):自由主義は共通善の実現の場としての制度的共同体を想定するが、ウォルツァーが考えているのは隣人、階級、家族などの集団;これは多元的な社会を認める自由主義の伝統にもある(最近では米国・カナダでの文化多元主義の主張に見られるような)共同体理解;この具体的な共同体理解は、「諸社会の社会」あるいは個人と直接関係を持つと想定される包括的な社会という共同体理解と対比される

(5)第五章の有機体的自由主義が想定する共同体(254-5):人間は個人的側面と社会的側面を持ち、後者は個人の利益に還元できない直接的な社会的利益や目的を生み出す;集団は、社会や成員が繁栄するのに必要な権利やニーズを持つ;この共同体主義が自由主義であるのは、個人の自由や発展が社会の繁栄のために不可欠だから;ウォルツァーはこの共同体概念をデューイに見い出したが、自由主義国家はこのような強い共同体主義を含意することができないとして、社会民主政を説いた;しかし、自由主義イデオロギーはこのような共同体概念を持つことができるし、歴史的にも持ってきた。

・グリーンに触発されたデューイの社会主義的なリベラリズム(255-6):個性の発達のために経済を社会的に統制するという議論
・『ニューリパブリック』の同様の議論(256):大衆の利益のためにレッセフェール経済を放棄した形態の自由主義の唱導;福祉と自由の両立のために必要
# この二つの事例は(3)の共同体に当たるようだ。

・クローリーのナショナリズム:五つ目の共同体の概念を体現した米国自由主義イデオロギーの一例(257):社会によって意識的に意志され効率的に実現できる目的としての社会的厚生

・米国の自由主義の伝統には「自由-自由主義」と「福祉-自由主義」の二つの流れがある;哲学的自由主義は後者の強い干渉主義的傾向をよく理解していない(257)。ニューディール政策以降、米国民の共通の利益の強調や、政府を通じて遂行される合理的な社会的知性の強調が、米国自由主義イデオロギーの特色となった;これは最初に経済の領域で登場し、60年代にはアファーマティブアクションという形で現れた(258)。

・ここまでのまとめ:ロールズを代表とする哲学的自由主義は、個性を例外としてほとんどの中核的な自由主義概念を備えている;が、平等と共同体という二つの概念の地位によって、中核概念の解釈が影響を受けている;哲学的自由主義がこの二つの概念に与えている地位は、これまでの米国の自由主義イデオロギー伝統における現実とはかけ離れている;平等が自由主義の中核概念の一部として提示されると、それは「薄い」最小限度のものになる(法の前の平等);隣接概念と見なされると、機会均等によって自由を支え、社会的善を支持する議論となることによって共同体を支えるものとなる;哲学的自由主義はさまざまある共同体の概念を一緒くたにして自由主義の中核から排除してしまった
→その結果、自由主義の再生は、自由主義イデオロギーの持つ複雑性や柔軟性と引き換えに、また20世紀後半においてまだ時間的にも空間的にも意味を有している[米国の自由主義伝統が持つ]概念的結合の正統性を奪うことと引き換えに、行なわれた(258-9)。


(f) 自由主義的な中立性

・米国の哲学的自由主義の目立つ特徴は、善の競合する構想の間の*中立*を説いていること;自由主義がそのような中立を保つことが論理的・道徳的に可能なのかも検討するが、本節の焦点は、中立性と自由主義の結びつきの度合いを考えることである(259-260)。
# 米国リベラリズムの標榜する価値中立性についての検討。フリーデン的には自由主義はイデオロギーなんだから価値中立ということはそもそもありえない。しかし、ドゥウォーキンらが価値中立性によって何を言いたいのかは理解する必要あり。

・中立性とは何か(260):
・ドゥウォーキン:政治的決定がいかなる善き生の構想からも独立していること
但し書き1)イデオロギーは政治的変化や保存などの特定の政治的行為を生み出すため、中立性を支持する自由主義はイデオロギーではありえない
2)政治の領域は人々の目的の領域を含まないように縮小しなければならない
3)規則や手続きに(特定の善き生の観点に立った)解釈は一切含まれない
4)あらゆる個人的選好は公的な視点から見た場合、等しく望ましいと考えられなければならない

・このような中立性条項によれば、自由主義は《各人の選好を考慮して公的に受け入れ可能な優先順位をつける》というすべてのイデオロギーに共通の役割は果たせないことになる;このような中立性が意味するのは1)さまざまな個人的な世界観を平等に扱うために要請されるアルキメデス点(ドゥウォーキンの考え方、ただし政治的な「公的」領域と非政治的な「私的」領域という支持できない区別に基づいている)か、2)自由主義どころかいかなるイデオロギーも生じることができない、分断化された政治的概念の寄せ集め(260-1)

・ドゥウォーキンが考えているような、善き生の構想をまったく公的関心から排除してしまうような中立性が抽象的な哲学的立場でしかなく、政治に実践的な意味を持たない理由を以下で考察する(262)

1)この中立性の《すべての善き生の構想は等しい価値を持つ》という含意は、《善き生の構想には優れたものも劣ったものもある》というもう一つの自由主義の信条(ミルやホブハウス)と対立する(262);歴史的に見ると、中立性の概念は現実には、社会の最大公約数的な選好を正当化し実行するために用いられてきた(262-3)

2)《個人を社会の多数派から守るために、自由主義社会はいかなる外的選好(特定の善の構想の押しつけ)を排除しなければならない》というドゥウォーキンの考えは、実際に特定の価値観を促進しようとしてきた自由主義の伝統と異なる(263);パターナリズムに対する恐れは正当化されるが、合理的な討議の末に人々がある行動規範に(全員一致ではないにしても)合意することに対して反対することは正当化されない(264);各人の合理的道徳的能力だけでなく、実際の選択もいかなるものであれ尊重すべきだと指示するドゥウォーキンこそパターナリスティックではないのか。善の構想は個人か社会かいずれかにのみ任されるべきものではない(265)。

3)価値観の強制と促進の区別:国家による強制以外にも、社会集団による価値観のすり合わせがありえる(265-6);《国家のよる強制か、レッセフェールの市場か》という二者択一的考えはおかしい;価値観は強制することなく促進することができる(266);また、たとえば、有害なアスベストスの使用をやめることを奨励したり、自由主義の価値観を広めるために公教育を行なうことは自由主義に反しないだろう(266-7);注意しなければならないのは、《自由主義は万人が自由主義者になることを強制しないが、自由主義者になるのであれば、自由主義の信条を奉じなければならず、自由主義の信条を拒否して自由主義者であることはできない(自由主義はあらゆる信念の否定ではない)》ということ(267)
→結局のところ、国家は個人を抑圧する可能性があると同時に、個人を保護する働きもある(身体の安全の保障から、生活の質の保障へと進展);まったくの非干渉主義的国家というのは自由主義においてもありえない(268-9)

4)平等な尊重でもって人々を扱うという手続き自体も、ある価値観の反映:ロールズやドゥウォーキンの理論は米国憲法が大きな影響を及ぼしている(269-270);ヨーロッパ人がしばしば理解しそこねるのは、米国人にとって憲法は、過去における宗教や科学のように、利害を調停する*非政治的*な共通の基盤として理解されていること(政治的中立性を体現していること)(270);手続き的中立性と称して、実質的な価値観が神聖化されている(270-1)
→しかし、そもそも「憲法」とは第三章で見たようにイデオロギー的なもの;18世紀の憲法起草者たちは価値中立的なものとして憲法を起草したわけではなく、自己統治と政府の干渉を排除する個人の権利を「自由」の内容とみなし、これを擁護する文書と考えた(271-2);米国の自由主義の伝統においても、政府の中立性や不偏不党性が意識的に主張されたわけではない(クローリー:政府が干渉しないのは不偏不党ではなく、自然淘汰の結果を是認すること)(272)
→中立性の強調は、ギリシアの徳倫理に代わって登場した、近代道徳哲学(カント、功利主義)の自律の強調を反映している;しかし、ロールズも認めるように、近代道徳哲学においてもある種の道徳的性格の優越性が認められている(272);国家の中立的手続きによって得をするのは、合理的・自律的・責任のある個人(272-3);哲学的自由主義は(政治的意思決定の)手続きと実質を区別し、手続きの中立性を説いているが、そこで前提されている人間観にすでに特定の価値観が含意されているため、このような区別は成り立たない(273)。

・まとめ(273-5):
・哲学的自由主義は自律としての自由や合理性を過度に強調し、人間本性としての発展や社会性を過小評価する
・人々は合理的な選択者として把握されるが、合理的な選択の内容は特定も奨励もされない
・自由主義の中核概念の通時性や特定の時代状況での意味の変化を理解しないので、自由主義の語彙が形成された政治の場から概念を引き離してしまった
・クローリーは中立性ではなく不偏不党性という言葉を用いた;これは《政府がある目的(発展、福祉など)を促進するさいにそれとは無関係な考慮によって個人を差別すべきでない》という考えであり、政府がいかなる目的も促進してはならないということではない。
・逆に、利害が不可避に衝突する場合(たとえば動物のいけにえを行なう宗教と動物愛護団体)、政府はなんらかの立場を取らざるをえない
・知識人は知的怠慢を隠すために中立性を標榜していないで、ちゃんとまじめに人間のあるべき姿を論じるべきだ(それが自由主義の伝統と考えるのは大間違いだ)
・二十世紀の英米政治哲学の普遍性と非歴史性という特徴:自由主義の分析に時間という要因を含めない;具体的な政治状況の反映としての自由主義の把握がない→19世紀以前の政治哲学の概念に先祖がえりしている

Satoshi Kodama
kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp
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Last modified: Fri Jul 18 05:24:54 JST 2003