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長與專齋

出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』長與專齋

略歴

肥前国大村藩(現在の長崎県大村市)に代々仕える漢方医の家系に生まれる。

大村藩の藩校である五教館(長崎県立大村高等学校の前身)で学んだ後、安政元年(1854年)、大坂にて緒方洪庵の適塾に入門し、やがて塾頭となる(福澤諭吉の後任)。のち大村藩の侍医となった。

文久元年(1861年)、長崎に赴き、医学伝習所にて、オランダ人医師ポンペのもとで西洋医学を修める。その後、ポンペの後任マンフェルトに師事し、医学教育近代化の必要性を諭される。明治元年(1868年)、長崎精得館の医師頭取(病院長)に就任。

明治4年(1871年)、岩倉遣欧使節団の一員として渡欧し、ドイツやオランダの医学及び衛生行政を視察した。

明治6年(1873年)に帰国。明治7年(1874年)、文部省医務局長に就任。また東京医学校(現在の東京大学医学部)の校長を兼務。

明治8年(1875年)、医務局が内務省に移管されると、衛生局と改称して、初代局長に就任。コレラなど伝染病の流行に対して衛生工事を推進し、また衛生思想の普及に尽力。「衛生」の語は、Hygieneの訳語として長与が採用したものである。

明治24年(1891年)に衛生局長を退いて後も、元老院議官、貴族院議員、宮中顧問官、中央衛生会長などを歴任。また、石黒忠悳、三宅秀、佐野常民らと大日本私立衛生会(のち日本衛生会、現日本公衆衛生協会)を興し会頭に就任するなど、医学界及び衛生行政に重きをなした。

家系

長男・長與稱吉も医師であり、専斎の功により男爵を授けられた。二男・長與程三は実業界に進み、日本輸出絹連合会組長。三男・長與又郎は病理学者で東京帝国大学総長、男爵。四男・岩永裕吉は同盟通信社の初代社長。五男・長與善郎は白樺派の作家、劇作家。