(とますりーど Reid, Thomas)
エピクロス派を除いて、古代の学派はみな、honestumとutileを区別した。 ちょうどわれわれが、ある人にとっての義務と利益とを区別するように。
---トマス・リード
スコットランドの哲学者(1710-96)。 ハチソン、 ヒューム、 スミスの同時代人。 若いときは長老教会の牧師を務め、 40代以降はアバディーン(スコットランド北東部)のキングズカレッジや グラスゴー大学で教鞭をとった。 主著はAn Inquiry into the Human Mind on the Principles of Common Sense (1764)、 Essays on the Intellectual Powers of Man (1785)。 Essays on the Active Powers of Man (1788)。
リードはスコットランド啓蒙期の他の哲学者とは異なり、 学派と呼べるものを形成した。彼の影響は英国だけでなく、 フランスや米国などにも及んだ。
リードはヒュームの批判者として有名である。 彼によると、認識論におけるヒュームの決定的な誤りは、 知覚においてはわれわれが直接に意識しているものは 感覚、印象あるいは観念といったようなものだけである、 という考えたことであり、 これはデカルト以降のほとんどの哲学者が犯している誤りであるとされる。 観念は外部の対象を「表象」 するとされるが、 しかしこの説によれば、 われわれはそもそも観念を超え出て 観念と外部の対象を比較することができないのであるから、 この表象説は支持できないはずである。 それゆえ、われわれが知っていると言えるのは、 直接的な意識の内容のみということになる。 それゆえリードはこの認識論を批判し、 感覚だけでなく、 判断という理性的能力が共同して外部の世界の知識が与えられる、と主張した。
リードによれば、感覚とは自然の記号であり、 この記号を解読し外部世界の知識を得ることができるのは、 常識common senseという原理をわれわれが生まれながらにして持っているからである。 また、この原理は第一原理でありすべての理性的論証の基礎にあるから、 積極的な証明を行なうことはできないとされる。
道徳理論におけるヒュームの誤りは、認識論における誤りと似ていて、 道徳判断を行為者の感覚に還元したことだとされる。 リードはこのヒュームの「主観主義」を批判しただけでなく、 バトラーの路線を押し進めて、 道徳原理の基礎付けと内容、それに道徳心理学を発展させた。
バトラーは道徳が知識かどうかの問題についてはっきりしなかったが、 リードはプライスと同様に道徳は知識であると考えた。 彼の考えによると、 道徳の第一原理は、理論知の第一原理と同様に自明であり、 普通の人はみな知っているものである。 バトラーと同様、リードも道徳原理が (たとえば善意などの) 一つの原理に還元されるとは考えていなかった。
バトラーは自由意志や道徳的動機付けの問題 についてはあまり語らなかったが、 リードは自由意志に対する常識的な信念を擁護し、 また、 われわれは道徳原理の妥当性を認識することのみによっても 行為へと駆り立てられうるという心理学説を唱えた。 言いかえれば、 たとえ道徳原理に従うことが自分の幸せにならないとわかっていても、 道徳原理が理性的存在者であるわれわれを拘束していると考えるがゆえに 道徳原理にしたがって行為することが可能だと彼は考えた。
かくしてリードによれば、道徳においてわれわれは、 他者に頼らずに自分の行なうべき行為を見出し、 その行為へと自分を動機づけることが可能である。 しかし、これは道徳における神の役割を否定するものではない。 リードによれば、 長い目でみた自分自身の善の追求と、 正義や他人の善が要求することを行なうこととが衝突しないのは、 神が世界を道徳的に作ってくれたおかげである。 また、われわれに道徳的責任があるのは、 神がわれわれを自由意志を持った自律的な道徳的主体として作ったからである。 このように、リードによればわれわれは道徳的に自律した存在なのである。
22/Feb/2000 (01/Mar/2000 大幅に追記)
J.B. Schneewind ed., Moral Philosophy from
Montaigne to Kant An Anthology vol. 2, Cambridge UP, 1990.
上の記述は、この本の630-2頁の要約です。
上の引用は以下の著作から。
(以下は試験的なものです。上に書いてあることと同様、うのみにしないように)
(08/Mar/2000)