自然法

(しぜんほう natural law [ius naturale])

Let me clarify this scheme [of the Thomistic hierachy of laws] by comparing its parts to playing cards. Enemies of the Bill of Rights do the same sort of thing all the time, so why shouldn't we? Divine law, then, is an ace. Natural law is a king. The Bill of Rights is a lousy queen.

---Kurt Vonnegut

「自然法の古典的理論[によれば]、人間にはある一定の行動原則があり、 それは人間の理性によって発見されるべきものであり、 人定法はそれに従わないかぎり法的効力を持たないとされる」

---HLA・ハート

「解消できない結婚というものは信者にだけあてはまるという考え方、 そしてそれゆえに、 信者はそれを市民社会全体に『押しつける』ことはできないという考え方は、 克服されなければなりません。 人間の法に『押しつける』という言い方は意味がないのです。 なぜなら人間の法は自然で神聖な法を反映しそれを守らなければならないからです」

---ヨハネ・パウロ二世


政府が制定する実定法によらない法のこと。 自然法は、論者によって、神の命令とされることもあるし、 事物の本性に由来するとされることもあるし、 人間の本性に由来するとされる場合もある。 通常、神に対する義務(敬虔)、他人に対する義務(善行)、 自分に対する義務(自愛)の三つの自然法が基本的なものとして挙げられる。 自然権の項を見よ。 (08/20/99)

自然法と言った場合、世界全体を意味する「自然」と、 人間本性を意味する「自然」という意味がありうる。

前者の意味では、夜空の星々が規則正しく運行しているように、 われわれもある種の世界の秩序または法則にしたがっている。 ただし、人間は神から理性の力を授かっているので、 法則にしたがうこともしたがわないこともできるが、 自然は合理的で正しいので、 われわれは自然の法則にしたがうべきである

後者の意味では、自然法とは、 われわれ人間の特異性(一人で暮らすには無力だが、 集団になると喧嘩をしだす等)や、 置かれた状況(食べものや土地が無限にあるわけではないこと)を考慮すると、 当然導きだされると考えられる一連の規則である。 この意味での自然法は、「合理的戦略」という意味合いが強く、 この発想が顕著なのはホッブズの自然法思想である。

いずれの考え方も、 「自然法は合理的である」という仮定があるが、 前者は「自然は合理的に作られている」 という前提を含んでいるのに対し、 後者はこの前提を含まず、 「こういう人間本性や生存条件があるんだから、 このように生きるのが合理的だろう」というに過ぎない。 すなわち、 前者は自然が(おそらくは神が創ったおかげで) 整然と秩序立って運行されていることが前提されているのに対し、 後者はとくに自然が秩序立っていなくてもよい。 世界がひどく無秩序で、しょっちゅう地震が起こり、 飢饉や旱魃(かんばつ)が起きる舞台だったとしても、 そのような前提条件のもとで合理的に生きる方法を探すことはできる。 一口に言うと、前者の自然法概念は、自然に合理性を読みこんでいるのに対し、 後者は自然に合理性を読みこむ必要はない。

自然法実証主義アクィナスの項も参照せよ。

03/Feb/2001追記; 22/May/2001更新; 22/Jun/2001更新

関連文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sat Feb 02 05:21:18 2002