(ほうじっしょうしゅぎ legal positivism)
Under a government of laws, what is the motto of a good citizen? To obey punctually; to censure freely.
The existence of law is one thing; its merit or demerit another. Whether it be or be not is one enquiry; whether it be or be not conformable to an assumed standard, is a different enquiry. A law, which actually exists, is a law, though we happen to dislike it.
---John Austin
自然法の存在を否定し、 法と道徳の区別を強調する立場。 ベンタム、オースティン、 ハート、ケルゼンなどが代表的な論者。
トマス・アクィナス流の典型的な自然法論者によれば、 この世界には理性によって見いだされる真の道徳あるいは「あるべき法」が存在し、 実定法の妥当性は、 この「あるべき法」との一致不一致によって決まるとされる。 簡単に言うと、自然法論者によれば、悪法は法でない (Non videtur esse lex quae justa non fuerit; Whatever is unjust is not held to be a law)。
一方、法実証主義者によれば、 唯一存在する法は、人間が措定(posit)した法だけである。 したがって、 実定法の妥当性は、 どこか別次元に存在する理想の法(高次の法)によって決まるのではなく、 主権者の命令 あるいは人々の服従など、 法の源泉と認められるものが現実の社会に存在するかによって決まる。 法実証主義者によれば、悪法も法である。
このように述べると、なんだか法実証主義は悪代官の立場のようだが、 「法の効力は道徳に由来する」という自然法の立場をとると、 「この法は道徳に反するから無効である」と主張するだけでなく、 「その行為は法律によって禁じられているから不道徳である」 という主張をすることにもなりかねない。
すこし大げさに言うと、前者の主張は法の安定性を脅かす革命家の主張であり、 後者の主張は法律の批判を不可能にする超保守的な立場の主張である。 それに対して、法実証主義の立場は、道徳と法の区別を強調することにより、 「その法は悪法であるが、 だからといって従わなくてよいことにはならない。 批判し改革を要求すべきだ」とか、 「その行為(たとえば同性愛)は法律によって禁じられているが、 だからといってただちに不道徳であることにはならない。 よく議論を重ねて、法律が誤っていることが示されたならば、 法律の変更を要求すべきだ」とか言うことが可能となり、 法に対する批判を容易にする。
19/May/2001; 22/May/2001更新
上の引用は以下の著作から。