これは夏休みに書かれたものですが、今見るとかなり暴力的な展開をしています。何かご意見なさってくれる方は、至急、kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを送るまで。
なお、新しい方のレジメも参照されたい。
また、発表当日のことを知りたい方は茶髪論争、その後を見るか、もしくは、奥田君の講義内容を参照されたい。自分でいうのも何であるが、後者の方が明らかにお勧めである。
さらに、ほったらかしになってすでにひからびつつあるが、代理決定についてもなにかの参考になるかもしれない。
親の承諾を得ずに生徒の髪をスプレーで黒く染めた教師の行動は手続き違反である。
今年4月に起こった高松「茶髪事件」(あらましは後述)に関する議論が、毎日新聞で活発に行なわれた。特に「記者の目」欄における高畑昭男記者、津武欣也記者それぞれの議論に対する反響は、電話、手紙、ファックス、電子メールなどを通じて相当あったようである。
今回のレポートでは、まず、高松「茶髪事件」の概要を紹介し、次に、中学校という義務教育の場において「茶髪」が許されうるかどうか、出来るだけ倫理学的に考えてみたい。
毎日新聞の記事を総合すると、
(1) 高松市内の中学校で、4月9日の入学式に、新入生の女生徒が「茶髪・ピアス・『改造』制服で出席しようとした。
(2) 生徒指導主事(32才、男性)がその女生徒を説得し同意を得て、式の前に髪を毛染めスプレーで黒く染め直させた。また、耳のピアスも外させ、近くの衣料店で新しい制服を買い与えて着替えさせた。
(3) 式後、自宅に事情説明に来た主事に、女生徒の父親(34)が「茶髪でだれかに迷惑をかけたわけではない」と怒り、殴りかかって一週間のけがを負わせた(起訴状では約3週間のけが)。
(4) また、5月8日、学校側が警察に被害届を出したことで、校長室で暴行、校長ら3人に5〜7日間のけがを負わせた。
(5) 高松南署が5月9日、父親を傷害容疑で逮捕した。
(6) 高松地検は5月30日、女子生徒の父親を傷害罪で起訴した。
(7) 7月15日の高松地裁での判決で、橋本一裁判官は懲役1年、執行猶予3年(求刑懲役1年)の有罪判決を言い渡し、「茶髪をスプレーで染めた教師らには何ら落ち度はなく、適切な教育だった。父親の行為は無責任」と学校側の措置に軍配を上げる判断を示した。橋本裁判官は「被告は自己の暴力行為を教育問題にすり替えたに過ぎず、学校を非難する資格はない。親としても無責任だ」といさめ、「この判決に関して、子供の前で強がりを言ったりせず、まず子供に謝罪しなさい」と諭した。また橋本裁判官は論告求刑公判で、「もし、私が毛を茶色に染めて、ピアスをしてしゃべったら、みんなは真剣に聞いてくれると思いますか」と異例の説諭に及んだ。父親が「思いません」と答えると、「それぞれの場所には、ふさわしい格好があると思います」との考えを示した。*0
(8) 蛇足になるが、この女生徒はその後、改造制服に茶髪のまま通学しており、その他のことでは、学校生活の規律を著しく乱すことはないという。(毎日新聞1996年5月14日朝刊)
「他人に迷惑かけてないんだからいいじゃん」とある茶髪の中学生が言ったそうだが*1、倫理学的に言えば、こうなる。「人間社会は、他人への危害を防止するためにのみメンバーたる個人に対し権力を行使し得るのであって、本人の利益になるからといって、本人がいやがるのに、それを権力でもって強制すべきではない。他人に危害がおよばないかぎり、いかに他人から見て賢明でないと思われる場合であっても、本人の意思を尊重すべきである。*2」
今回の事件の女子中学生の父親も「茶髪でだれかに迷惑をかけたわけではない」と怒って教師を殴ったそうである。しかし彼自身は明らかに他者危害の原則に反してしまったので有罪となった。
だが問題は、この他者危害原則は原則的に「判断力のある大人」に適用される、ということである。子供に自己決定権(または愚行権)を完全に認めたとしたら、多くの子供は学校に行かないで一日中テレビゲームをすることだろう。子供の意見を尊重し、自立性を育てることは大切であるが、子供が決定できることと出来ないことの間には、明確な線が引かれねばならない。さてそれでは、12歳の子供に自分の髪の毛の色についての自己決定権があるかどうか。
まず、子供に自己決定権はなく、親が代理決定をするという立場で考える。
とすると、今回の事件はどうであろうか。問題となる女子中学生は、小学校4年生の頃から茶髪だったそうである。もちろん、事件の経過からしても、髪の色についての父親の承認はあったと考えてよいであろう。そうすると、一応この女生徒は説得されたとはいえ、教師は保護者に無断で彼女の髪をスプレーで黒く染めたことになる。(彼女の同意は有効同意とはみなされないと考える。*3)
この場合は、明らかに「茶髪をスプレーで染めた教師らには何ら落ち度はなく、適切な教育だった」とは言えないであろう。
そうすると、この考え方ではなく、「生徒の同意も得ており、問題はない」と学校側が言っているように、判決の際にこのように言った裁判官も、自分の髪の毛の色については12歳の子供は自分で決めることのできる権利を持っていると、考えていたのであろうか。
そこで、子供に自己決定権があり、親の承認は必要ないという立場で考える。
この場合問題となるのは、教師の説得による生徒の同意というものが、果たして有効であるか、という問題である。もちろん、この女生徒のその後の動向から見て、本当に「同意を得たうえで」髪を染め直したのかどうかも定かではないが、32才の教師が12才の生徒を呼び出して説得の上で同意を得るという行為は、教師が圧倒的優位の立場から話をするという意味で、脅迫に近いものとはならないか。たとえ教師の言うことを聞かなくても、この場合、この生徒は停学や退学といった何ら正式な制裁は受けなかったであろう。しかしその場合、この生徒は今後、学業成績や内申書において、表に出ない「差別」を受けたであろうことは十分に考えられる。もしもこの教師が「髪を染め直さないと、今後まずいことになるよ」と言った脅迫に近い「説得」を行なっていたら、これは暴力団がぼくのような善良でか弱い一般市民に向かって、「今すぐ散髪屋に行ってその長髪を切り落としてこないとまずいことになるよ」とやはり脅迫に近い「説得」をして同意を得るのと同じであるように思える。やはり子供に自己決定権があり、親の承認は必要ないという立場で考えた場合でも、このような疑惑が生れないように、少なくとも保護者がいる場で、教師と生徒が話し合うというのが「適切な教育」だと言えるであろう。
「自立していない人間の勝手は認めない」*4)という意見も今回あったが、確かにこれは正論である。パターナリズムとは、「優越的立場にあるものが、一人前でないもののために、あれこれ指示、命令をすること*5」を意味する。子供と親の関係で言うと、まだ完全な自己決定権を持たない子供を保護者が後見すること、となろう。
確かに、「判断力のある大人」ではない中学生は、パターナリズムの立場から、茶髪をやめるよう強制されうる。しかしさきほども書いたように、それは本来教師がすべきことではなく、生徒の親がなすべきことである。教師がパターナリズムの立場から、生徒の親の同意なしに生徒の髪を染め直すことは許されるべきであろうか(いや許されるべきではない)。*6
この茶髪事件の問題構造は、信仰上の理由から、親が交通事故で重傷を負った10才の子供に輸血をさせないで結局死なせることとなった事件*7の構造と類比して考えることが出来る。この事件は裁判になってはいないので、判例はないが、親が子への輸血を拒否しているにも関わらず、医者が治療行為として輸血を行なった場合、親権の侵害が起こりうるとすれば、親が子の髪の毛を染め直すことを拒否しているにも関わらず、教師が教育行為として髪を染め直した場合も、やはり親権の侵害になりうるのではないか。
「茶髪」というのは、社会で一般的に認められつつあるが*8、パーマや女性のショートカットほどまだ当たり前ではない文化現象のようで、今回の毎日新聞の議論でも、賛否両論まっぷたつに分かれた様子であった。もし問題となった中学生が茶髪でなく、金髪とか、緑髪とかであったら、こうはいかなかったのではないか。
ぼくがこの事件を最初に知ったときの感想は、「中学1年生が入学式に茶髪・ピアスで登校?ヒヒ。世モ末ナリ。」であったが、同時に、「教師がスプレーで生徒の髪を染めるというのは行き過ぎではないか。けどそんな教師でも一応人間なんだから、殴っちゃあいけないよ、お父さん。」とも感じた。もちろん、こういった、生徒の髪型、服装にまで立ち入る教師の姿勢の背後には、親の子供に対する無関心・無責任の姿勢があるのは確かである。*9
アメリカでは、刑務所在監者の頭髪を刈り、ひげをそるべしという規則の是非について法廷で争われたことがあるが*10、学校はもちろん刑務所ではなく、髪をスプレーで黒く染めるといった強制力は持たないはずである。たとえ校則に「生徒は髪を茶色に染めてはならない」とあったとしても、教師は暴力・脅迫その他の強制的な手段によって、また仮に生徒の同意を得たとしても保護者が反対したときには、生徒に校則を強いることは出来ないはずである(校則の拘束力の問題*11)。この場合、教師ができる最も適切なことは、子供と子供の親を説得して、子供に美容院に行かせることであろう。
倫理学的に考えていちばん問題になると考えたのは、他者危害の原則ではなく、むしろパターナリズムの問題である。「茶髪でだれかに迷惑をかけたわけではない」と怒った父親の意見はもっともだが、これが生徒本人の言葉であれば、「判断力のある大人」の意見ではないので、正当とは見なされえない。子供はたとえ他人に迷惑をかけなかったとしても好き勝手はできない。*12
また、「生徒の同意が取れた」から問題はなかったとする学校側は、一見生徒に自己決定権を認めているようだが、そんなはずはなく、生徒の同意が取れようと取れまいとスプレー攻撃を実践していたはずである。学校は、「生徒の同意が取れた」と言うことで、親のやるべき事柄を親に無断でやってしまったのである。「生徒の同意が取れた」ことは、免罪符にはならない。
教師は生徒に対して親のように振る舞う事が望ましいとしても、親そのものではないのである。それでは、学校の教師は、どこまで親に無断で生徒に教育的措置を強制することが出来るのか。言葉足らずであるが、これがもっとも問題になる点ではないだろうか。
また、これは非常に素朴な疑問であるが、なぜ茶髪にする事はいけない事なのだろうか。教師はいったいどのような理由を挙げる事が出来るのか。「校則で決まっているから」だろうか。「非行に走るから」だろうか。「他の生徒たちに迷惑になるから」だろうか。これらの理由の背後には「他の人と違う事をする事は悪い事である」という常識が見え隠れしているように思える。このような常識が横行する学校が、果たして文部省の唱える「個性」などというものを育てられるのか?この意見は、飛躍のし過ぎであろうか?
最後に。これは多少揚げ足取りになるようだが、同和教育・障害者教育などで、人を生まれや、体の自由・不自由などで差別をしないよう教えている学校が、たかが髪の毛の色でとやかく言うのはけしからんのである*13。「髪を茶色にする人は不良である」というような認識を生徒が持つようになったら、生まれつき髪の色が薄くて茶色っぽい人は不当な差別を受けかねない。また、黒い髪の毛だけを正当と認めるよう教育された生徒が実社会に出るようになれば、金髪・銀髪の外国人や、髪を紫色や緑色に染める不気味なおばさん連中も差別を受けることになるかもしれない。茶髪でも長髪でも、スキンヘッドでもモヒカンでもアフロでも、ドレッド・ヘアーでも良いではないか。髪は個性を表現しうるし、メッセージを伝えることも出来るのだから。
*0 なお、産経新聞の1996年7月16日朝刊の記事はこのようなものであった。
茶髪指導で暴行の父親に有罪判決
高松市内の公立中学校で、入学式に茶色に染めた髪で登校した女子生徒の指導に対し、校長らを殴ったとして、傷害罪に問われた生徒の父親(三四)の判決公判が十五日、高松地裁であり、橋本一裁判官は「テーブルで殴り掛かるなど犯行態様は悪質。被害者や近隣社会に与えた衝撃は大きいが、反省している」とし、懲役一年、執行猶予三年(求刑懲役一年)を言い渡した。
*1 1996年5月24日(金)毎日新聞朝刊の「心想」より
しかし、ある高校教師の話では、会社回りをすると、「お宅の生徒はだらしない。茶髪の子が多い。今年は求人票の送付は見送ります」といわれたそう(1996年7月24日(水)毎日新聞朝刊の「記者の目」より)であり、中学・高校では茶髪が全く他人の迷惑にならないとはいえない現実もある。
*2 山田卓生著『私事と自己決定』pp.4-5.
*3 加藤尚武著『応用倫理学のすすめ』pp.63-64.
ここにある一つの例では、アメリカやイギリスでは、一定年齢未満の女性との性行為は「たとえ本人が同意の意思表示をしても」レイプになることがあげられている。なお、今回の事件で学校側は、「生徒の同意も得ており、問題はない」としているそうだ。生徒さえ同意すれば親の意向は無視してよいとでもいうつもりであろうか。
*4 前出の津武欣也記者の主張の一つである。津田氏は、高校2年の息子が茶髪にし、ピアスをつけたのを見つけ、張り飛ばした、というつわものである。毎日新聞によると同記者を支持する意見もかなりあったようである。
*5 山田卓生著『私事と自己決定』p.17.
*6 加藤尚武著『応用倫理学のすすめ』pp.66-74には、医師が親の承諾なしに16歳未満の少女にピルを処方することが出来るという政府の判断が、彼女の親権の侵害になるかどうかについて争われたイギリスのジリック裁判が紹介されている。ジリック裁判の結論は、子供の判断能力の有無をケース・バイ・ケースで医師が判断するというものであった。
*7 加藤尚武著『応用倫理学のすすめ』pp.59-62.
なお、アメリカにおける同種の事例が、山田卓生著『私事と自己決定』pp.270-274.にある。
*8 しかし教育の現場では、「茶髪にしている生徒は、不良である」という常識があるようだ。
1996年7月30日(火)毎日新聞朝刊の「記者の目」によると、日本新聞協会の第1回NIE(教育に新聞を)全国大会で、都内の中学教師が「問題行動をとる生徒と、茶髪、ピアスの生徒は完全に一致する」と報告したそうだ。この教師は、帰納法により、「日本全国の茶髪、ピアスの生徒は、全員問題行動をとる」と証明したつもりなのだろうか。
*9 アルバイト先の塾(大阪府高槻市)の中学生に聞いてみると、やはり学校には髪を染めるためのスプレーが置いてあるようである。
*10 山田卓生著『私事と自己決定』pp.32-33.
1976年のヒル対エステル事件。「(頭髪を刈り、ひげをそるべしという)州刑務所当局の権限濫用である」とした原告の請求は、「法律にもとづく収容により、普通の市民の諸権利が、必要とされる限度で制限されるというのは、確立された判例であり、頭髪規制についても、自由の侵害にはならないという判例もある」という理由によって、棄却された。
*11 「森 しかも学校のきまりっていうのは不思議なんですね、あれ。団地の自治会の規則の方がよっぽどましだと思うんです。あれはね、しばしば、誰がどこでどう決めたかわからんわけ。それからね、気に入らんときに、どうやったら変えられるかわからんわけ。規則というのは、最低の条件として、誰がどういう手続きで、変えられるかということを明らかにしとかないと、いけないんだと思うの。校則というの、あれは神の声であってね。」
「斎藤 そうですよね。決める人と守る人と違うっていうのも、考えてみればおかしな話。だいたいあれは思いつきでしょ、だから減ることはないんですよね。どんどん細かくして増えていくわけ。それで、「決まっていることだから」というのが、「守るべし」を強制する唯一の理由なのね。」
斎藤次郎・森毅著『元気が出る教育の話』中公新書、1982年
*12 しかしこの発表原稿を一度完成させた後、加藤教授や蔵田先輩のお話を伺ったところ、未成年の自己決定権が大きな問題となる、とお二人とも言われていたように思われたので、自己決定権の問題に焦点を当てて書き直した。そのため、構成が悪化した。
*13 1996年6月27日(木)毎日新聞朝刊の「記者の目」を担当した高畑昭男記者も同趣旨のことを書いている。