今年4月に起こった高松「茶髪事件」(あらましは後述)に関する議論が、毎日新聞で活発に行なわれた*1。特に「記者の目」欄における高畑昭男記者、津武欣也記者それぞれの議論に対する反響は、電話、手紙、ファックス、電子メールなどを通じて相当あったようである。(9月末までに500通ぐらいとか。)
そこでまず、毎日新聞の記事を総合したこの事件のあらましを読んで、次の問いに対するあなた自身の意見を用意しておいていただきたい。
問い.この事件において、問題の生徒に対してスプレーで髪を染め直した教師の措置は、学校側や裁判官が認めるように、「適切な」行動であったのか。倫理学的見地から考察せよ。
以下は毎日新聞の記事を総合したものである。(下線は拙者)
以下は、参考用に掲げておく。
「人間社会は、他人への危害を防止するためにのみメンバーたる個人に対し権力を行使し得るのであって、本人の利益になるからといって、本人がいやがるのに、それを権力でもって強制すべきではない。他人に危害がおよばないかぎり、いかに他人から見て賢明でないと思われる場合であっても、本人の意思を尊重すべきである。*4」
「1.判断力のある大人なら、2.自分の生命、身体、財産にかんして、3.他人に危害を及ぼさない限り、4.たとえその決定が当人にとって不利益なことでも、5.自己決定の権限を持つ。*5」
12才の少女が自分の髪の色について、
1.自己決定権を完全に持つ場合――有効同意だったかどうか
2.自己決定権を完全には持たない場合
2-A..両親が代理決定権を完全に持つ場合
2-B..両親が代理決定権を完全には持たない場合
2-B-1..両親と教師が代理決定権を持つ場合
2-B-2..教師のみが代理決定権を持つ場合
「優越的立場にあるものが、一人前でないもののために、あれこれ指示、命令をすること。*6」
この茶髪事件の問題構造は、信仰上の理由から、親が交通事故で重傷を負った10才の子供に輸血をさせないで結局死なせることとなった事件*7の構造と類比して考えることが出来る。この事件は裁判になってはいないので、判例はないが、親が子への輸血を拒否しているにも関わらず、医者が治療行為として輸血を行なった場合、親権の侵害が起こりうるとすれば、親が子の髪の毛を染め直すことを拒否しているにも関わらず、教師が教育行為として髪を染め直した場合も、やはり親権の侵害になりうるのではないか。
加藤尚武著『応用倫理学のすすめ』pp. 66-74には、医師が親の承諾なしに16歳未満の少女にピルを処方することが出来るという政府の判断が、彼女の親権の侵害になるかどうかについて争われたイギリスのジリック裁判が紹介されている。ジリック裁判の結論は、子供の判断能力の有無をケース・バイ・ケースで医師が判断する、というものであった。
「森 しかも学校のきまりっていうのは不思議なんですね、あれ。団地の自治会の規則の方がよっぽどましだと思うんです。あれはね、しばしば、誰がどこでどう決めたかわからんわけ。それからね、気に入らんときに、どうやったら変えられるかわからんわけ。規則というのは、最低の条件として、誰がどういう手続きで、変えられるかということを明らかにしとかないと、いけないんだと思うの。校則というの、あれは神の声であってね。」
「斎藤 そうですよね。決める人と守る人と違うっていうのも、考えてみればおかしな話。だいたいあれは思いつきでしょ、だから減ることはないんですよね。どんどん細かくして増えていくわけ。それで、「決まっていることだから」というのが、「守るべし」を強制する唯一の理由なのね。」*8
「言葉の暴力」だってある時代である。たとえ教師が「これは暴力などというものではない」といっても、暴力を受けたかどうかは、被害者が実際に肉体的・精神的ダメージを受けたと思うかどうかにかかっているのである。ままましてや「髪は女の命」なのである。男の教師には計り知れぬ傷を与えるやもしれんのである。ゆゆゆゆるすまじっ。
教師の行動は不適切であった。なぜなら、生徒に自己決定権がたとえあったとしても、生徒の弁護をできる人間が不在だったため、有効同意とはみなされないからであり、また、たとえ学校においては教師が親の承認無しに代理決定を行なうとしても、髪の色に対する干渉は結果的には学校外の行動にまで干渉することになり*9、親権の侵害になるからである。
これからこういうことが起こらないようにするためには、全国の小中高の学校に一人ずつ倫理学者を置くことである、と拙者は強く主張してこの発表を締めくくりたい。
*1 驚くべきことに、この議論は今現在(9/26/96)も続行中である。
*2 今回の事件で学校側は、「生徒の同意も得ており、問題はない」「強制でない」としている。(96年5月14日毎日朝刊) この意見から、学校側は生徒の、自分の髪の色に対する自己決定権を認めていると考えられる。それなら親に事後説明に行く必要はないはずであるが…。
*3 この裁判官は、暗に「髪の毛を茶色に染めて、ピアスをしてしゃべる人の話は、真剣に聞かなくてよい」と主張しているように思える。「それぞれの場所には、ふさわしい格好がある」のは認めるが、だからといってふさわしくない格好の人を差別していいことにはならない。
*4 山田卓生著『私事と自己決定』pp. 4-5.
*5 加藤尚武著『倫理学の基礎』p. 101
*6 山田卓生著『私事と自己決定』p.17.
*7 加藤尚武著『応用倫理学のすすめ』pp.59-62.なお、アメリカにおける同種の事例が、山田卓生著『私事と自己決定』pp.270-274.にある。
*8 斎藤次郎・森毅著『元気が出る教育の話』中公新書、1982年
*9 ある教師は「茶髪やピアスは学校の外ですればいいこと」(96年5月24日毎日朝刊)と述べているが、取り外しのきくピアスと、そうでない髪の色とでは違いがあるのではないか。もちろん、毎日髪の色を学校へ行く前に黒くし、帰ってから茶色にする、というのも不可能なわけではないが。