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緩和ケアを学ぼう会 特別編 2017 鶴岡・三川/がん患者さんの療養を地域で支える
【基調講演】在宅緩和ケアの現場から 仙台での取り組み

河原 正典さん(爽秋会 岡部医院 緩和医療専門医)
河原 正典さんの画像
河原 正典さん

岡部医院について

今日は在宅医療を行ってきて、考えていることを話したいと思います。明日からすぐに医療現場で役に立つような話ではないのですが、皆さんの仕事の考えるヒントになればと思います。

岡部医院は宮城県名取市や仙台市を中心に、主に末期がんの患者さんの在宅療養、地域の緩和医療に携わっています。日本で在宅緩和ケアをする医院がほとんどなかった約20年前、岡部健医師が開設しました。岡部健は亡くなって5年になります。がん末期の患者さんが自宅で過ごしたいという希望をなんとかしたいなと考えて、介護保険も、在宅支援の制度もなかった時代に、岡部健は在宅医療を始めました。生前にインタビューされた内容が『看取り先生の遺言』という本になっていますが、岡部医院で働いている私も含めてですが、みんな岡部健を「看取り先生」とは思っていません。看取るのはご家族であり、その近親者であり、介護している方たちで、岡部医院ではありません。岡部医院は、ご家族のお手伝いをしていると考えています。

岡部健が最後の頃、講演会でよく言っていたのが「死への道標がないことに気がついた」という言葉です。この言葉について、ずっと私は考えてきて、今も考えています。このことについては、後程触れたいと思います。

日本における死因の推移

基本的なデータをまずは示します。日本における死因の1位ががんになった1980年代には、がんで亡くなる方は19万人だったのですが、今は37万人まで増えました。3大死因のうち2位の心疾患、心筋梗塞とか狭心症などですね、3位の脳血管疾患、脳梗塞とか脳出血による死者数はさほど変わっていません。なお死因の3位は2011年から脳血管疾患に代わり、肺炎になっています。つまり、がんによる死亡数だけが増えているという現状です。

厚生労働省のデータを基にした数字では、1960年、1970年では70代以降の方は死亡数全体の半分くらいでした。私が小さい頃は、80代まで生きたら長生きだと言われました。今、患者さんを看取る中で、90歳代でもなかなか大往生とは言えない。100歳を越えないと大往生と言えないというのが実感としてあります。70歳くらいで亡くなると、若いなというような時代になっていると思います。

1947年には、各年代が偏りなく亡くなっています。0歳から9歳の乳幼児の死亡数が多いのですが、これは公衆衛生の改善で減りました。20歳代、30歳代でもある一定の割合の方がなくなっています。現代では、若い方が亡くなると、一つは事故じゃないか、あるいは自死じゃないかと考える方が多いのではないでしょうか。

「老少不定(ろうしょうふじょう)」という言葉を、東北大学の宗教学の鈴木岩弓先生に教えていただきました。今はよく「生老病死」と言いますが、お釈迦様が言われた言葉ということですが、実際に「生まれて老いて病になって死んでいく」のはごく最近のことだと思います。ちょっと前までは「老少不定」、「年をとっていようが若かろうが、定まっていない、何があってもおかしくない」という時代だった。それが今では「生老病死」という時代になっています。

地域別に見る高齢者の推移

高齢者の推移を示したグラフです。2010年を100として2040年にはどうなっているのかをグラフにしました。仙台市の場合、2040年には2010年の4倍くらいになると、統計的には予測されています。高齢者を85歳以上としているのは、私の考えですが、85歳を過ぎると何かしら介護的な手助けが必要になるだろう思って85歳以上を高齢者としてグラフでは扱っています。鶴岡市の場合は、2040年には2010年の2倍弱くらいです。仙台と比べて増加率がゆるやかだということではなく、鶴岡ではすでに高齢化が始まっているのだと思います。そして、少子化と言われているように、支える若い世代も減ってきます。

全国でこういう話をする機会に、それぞれの地域でこのような年齢階級別人口の伸び率のデータを作成しています。島根県出雲市の場合も、鶴岡市と同じく2倍くらいでした。地方の中核都市はだいたい2倍弱くらいになります。いわゆる政令指定都市だと、仙台と同様にだいたい4倍くらいです。一方で、東京・多摩市では2040年には2010年の5倍近くまで高齢者が増えていきますし、それを支える人口は2030年くらいから、急に減ります。大都市近郊のベッドタウンでは、全人口の5割弱くらいを高齢者が占める、一番きつい状況になると思います。

緩和における在宅医療の必要性

在宅医療について最近話題に上がることが多いのですが、医療費の削減とか、病院のベッド数や入院日数の制約などの社会的背景からの事が多いのかなと思いますが、ただ、私がなぜ在宅緩和医療を仕事にしたのかと言うと、単純に患者さん本人の希望です。家に帰りたいという患者さんの希望があれば、そこはなんとかしたい。一度は家に帰りたいと言うのならば、それはなんとかかなえてあげたい。一人暮らしだけど家に帰りたい人でも、医師や看護師、介護の人たちが関わっていくことで、家で過ごすことができます。そして、看取りは医療が担うべきことなのか、ということを考えます。

「死」そのものは、誰にでも必ず訪れる「生理現象」です。死に至る過程として、病気という異常現象が存在するのであって、病気の延長として「死」を捉えると、異常現象としての扱いになってしまいます。刀折れ、矢尽きて死を迎える、という捉え方になってしまいます。そうではなくて、異常現象である「病気」と、自然現象である「死」を分けて考えることが重要だと思います。

自然現象として「死」を認めてもらえれば、自然現象としての「死」は医療の対象ではない。死の過程で強い苦痛を伴う異常な生理現象、がんの痛みとか呼吸が苦しいとかの症状が医療の対象になって、「死」そのものは家族・介護職・地域社会、その地域の宗教者とかにかえすべきなのではないかと思います。

都市別の在宅看取り率

厚生労働省の人口動態調査による、都市別の在宅看取り率のデータがあります。平成27年度に出たものですが、北九州市の場合は、数年前には5%くらいだったのが10%強に増えています。東京の18%強という数字がどうなのかというと、いわゆる孤独死がどのくらい含まれているか、実を言うとわかりません。このデータの数字は、自宅で亡くなった方の割合を示すもので、いわゆる孤独死も含まれていると思われます。

孤独死というのは、最近よく話題になっていますが、実を言うと定義がありません。マンションの一室で3か月たって、異臭がしたから警察が入ってみたら、亡くなっていましたといったケースを典型的な孤独死というようです。では、例えば僕らの患者さん、一人暮らしで身寄りがいらっしゃらないけど家で最期を迎えたいという方が、朝ヘルパーさんが行ったら亡くなっていた場合、孤独死と言うのかどうか。孤独死だと言われれば孤独死だろうし、そうじゃないと言えばそうではない。微妙だと思います。ある往診専門の先生と話しをしていたら、その先生は死亡診断書の半分は死体検案書だとおっしゃっていました。死体検案書ということは、亡くなって初めて診る患者さんだということです。それは孤独死かどうか。

この統計にはそうした数字も入っていますので、何とも言えないところはあります。とはいえ、往診を専門とする先生も増えてきていますから、この数年で明らかに在宅医療は選択肢の一つに入ってきたのではないかと思います。どんな統計を見ても患者さんの10%くらいの方は、最期を家で過ごしたいとと答えるので、10%から15%くらいが一つの目安かと思っています。

死への道標は伝えられるのか?

誰が死への道標を伝えられるのか、いろいろ考えているのですが、人が死を感じる機会が減少したことの影響が大きいのではと感じています。医療者とか宗教者の場合、いろいろなときに人が死ぬことについて話すと思います。当たり前のように人は死ぬわけですが、ただ、人が死んでいく姿、衰えていく姿を見たことがないという人がとても多くなっています。

自宅で死亡する人と、医療機関で死亡する人の割合のグラフを見ると、昭和50年より前は自宅で亡くなる方のほうが多かったのです。このグラフから昔は家で看取れたのだから、今でも看取れますよね、みたいな言い方をする人もいますが、それは違うと思います。昔は医療機関自体が貧弱であり、医療制度も未整備だったこともすごく影響していると思うので、決して昔が良かったと言いたいわけではありません。ただ、今は実際に自宅で亡くなる人は少ない、しかもお子さんもお孫さんも同居しているわけではないので、なかなか人が衰えていく姿を見なくなったというのが影響しているのではないかと思います。

亡くなる方は70歳以上がほとんどで、最期の場所は病院がほとんどです。患者さんを誰も看取っていないような気がしています。病院であれば、医療者は立ち会っているだけではないかと思います。ご家族に連絡しても、遠方にいらっしゃることもあります。家族が患者さんに会って、大切な人の死を覚悟するのも重いと思うのですが、なかなか本当に人の最期に向き合うことにはなっていないという感じがします。かつては親しい人の死への過程を共有していたということが、重要だったのではないかと思います。そういう死への過程を見ることで、自分の死や生き方について考えていたのではないか。1940年代は、言葉は悪いですけれど、各年代でまんべんなく亡くなっていました。20代であろうと、30代であろうと、知り合いが亡くなる、親戚が亡くなる時代がありました。そうした時代に対して、現在は死生観や人生観について考える機会が減少していると思います。受け皿になる文化、そういう現代の死生観、人生観ということが必要なのだろうと思います。医療者より、哲学者、社会学者、宗教者といったいろいろな方の意見がほしいと思っています。

穏やかな最期とは?

よく「穏やかな最期」という言葉を聞き、見て、どういうことを指すのだろうと思います。死という不条理、不条理ですよね。それに対して私ができることはあるのか。ある患者さんが「本当の医者に診てもらいたい」と言いました。その方にとって、治してくれない医者は、医者じゃないのです。病気は治せないということに納得できない、死を待つしかないことに納得できない患者さんは多いです。

最近よく思うのですが「穏やかな最期」とか「良き死」、「自分らしい最期」という言い方は、死に方を誘導しているような気がします。私が高校生くらいのときに「自分探しの旅」とかいうフレーズがよく聞かれました。「自分らしい最期」、「自分らしい」とか「自分らしさ」というのは、ある意味否定できないのでいやらしい言葉だと思います。そういう言葉で、価値判断をおしつけているのではないかということです。

価値判断とは、ある事柄について個々の主観によって「善い・悪い」「好き・嫌い」「物事の優先順位」などの判断をすることです。例えば、気温が20℃のときに、今日は寒いなと思うか、暖かいなと思うか。彼の年齢は20歳なら、彼は若いと思うのか、もう20歳なのかと思うのか。人それぞれに価値判断は違うでしょう。価値判断は立場・視点・価値基準に影響されます。

医療者の価値判断について

次のようなケースがあったとします。
道を歩いていて、3人の重傷者がいました。急いで車に乗せて、病院に運ぶ途中にAさんが倒れていました。Aさんをこの場で処置すれば助かるが、車に乗せた3人は手遅れになり、死亡する。Aさんの処置を後回しにして、3人を病院に運べば、3人は助かるが、Aさんは死亡するだろう。このAさんが、例えば自分の友人だったら、両親だったら、子どもだったら、どうするでしょう。そうしたことで選択肢は変わってくる。自分の子どもだったら、やはり自分の子どもを優先するだろう、そういう判断をするのも、まあ否定できない。

医療者として公平さをとるならば、自分の子どもであっても、親であっても、友人であっても、最初の3人を運ぶべきだ。それも見識だと思います。実は、医療者は価値判断をけっこう無自覚に行っていると思います。ただ、治るという前提であれば、わりとそれは受け入れられると思います。進行して在宅療養になっているがん患者さんは治らない。抗がん剤治療、放射線治療は、たいがいは延命なのです。もちろん根治するケースはありますが。医療者はわりと無自覚に価値判断を行っているということに、気がついたほうがいいのではないかと最近思っています。

緩和医療について

話は飛びますが、日本の緩和医療は苦しいなと感じています。なぜ苦しく感じるのかなといろいろと考えているのですが、それについて少し話をさせてください。
ホスピスは、もともとは社会的に厳しい状況にいる人々の基本的人権を尊重するために行われてきた、癒しを主体とした宗教活動がもとになっていると思っています。ホスピスの語源は、もちろん中世の巡礼者をもてなしたということもあるでしょう。現代ホスピスの最初も、病などで道に倒れている貧しい人たちに暖かい食事と寝床を提供した施設ということでした。そこに症状緩和の目的で医療が付加されてきたということだと思います。ですから、今でも欧米のホスピスは、運営の主体は寄付が中心であるところが多いと思います 。

一方で、日本では医療の一分野として、ホスピスが導入されました。もちろん財源も保証した上でです。そもそも宗教活動の一環であったものが、医療の制度として取り入れられたことが、日本の緩和医療を苦しくしているような気がします。宗教観が違うということもあると思います。

もう一つ、緩和医療に携わる者として「援助」についてもよく最近考えています。1960年代半ばの思想で構造主義がありました。このあたりの本を色々とよんだりしていて「人は本当に必要なものは、他人からしか手に入れられない」という文章を読んだときにハッとしたのを覚えています。「ただより高い物はない」という言葉をよく聞くと思います。患者さんがよく言う「人さまに迷惑をかけたくない」から施設、病院に行くこともよくあります。周りは別に迷惑と感じてなくてもです。実は援助は、される側の患者さんにとって苦しい思いをさせることではないのか、気持ちよく援助させてもらえるのか、と考えています。

援助を提供する側の問題ももちろんあるのですが、提供される側の問題も大きいのではないかと最近思っています。あるキリスト教の患者さんはお孫さんが世話をしていたのですが、患者さんがよく「神様に感謝します」と言っていたようなんですね。お孫さんが「どうして私に感謝しないで、神様に感謝するの?」とチラッと言っていました。もちろん、軽い冗談のような感じでです。患者さんは、お孫さんにも、もちろんありがとうと言葉にしていました。

それを聞いたときに思ったのは、キリスト教系の文化では神に感謝するというのが、すごく効いているのかなと思いました。先ほども言いましたが、人は欲しいものは他人からしか手に入れられない。なので、すごく借りは作りたくないのかなと思います。そして、キリスト教文化圏には、隣人愛というものも効いていると思います。助けてくれた人に感謝もするのでしょうが、神様に感謝するほうことで気持ちが楽になるのではないのかなと思いました。

先ほど隣人愛という言葉を使いましたが、日本では「ご先祖様が見ている」「お天道様が見ている」と、悪いことに対しては否定的ですが、善い行いをする動機づけが弱い気がします。このことをある仏教者に話したら、「それは輪廻転生や業を否定したからです」とおっしゃいました。

少し前までは、仏教的なそうした考えを否定していませんでした。今の時代、つらい状態にいる人に、前世のせいで不幸なのだなどと言ったら身も蓋もないので、そういうことは否定するようになっています。なので、なかなか仏教というのは、日本の宗教界で厳しい。キリスト教はキリスト教で、隣人愛で困った人は助ける、助けられた人は神に感謝する。それでうまく回しているのかなと思ったりします。援助される側、援助する側がうまく心のやり取りができる、何か社会学とか、宗教学とか、そういう日本で通用するような考え方ができればいいのではないかと思っていますが、なかなか難しいですよね。

尊重というキーワード

在宅医療をやってきて、僕自身が関わっている中で自分自身が尊重されたいし、同じように患者さんはじめ関わっている他人を尊重したいと思っていることに気がつきました。患者さんはどうしたいのか、ご家族はどうしたいのか。こうしたほうがいいですよ、こっちのほうがいいと思いますと、提案もします。

在宅医療でなければいけないというわけではありません。家族を家で看取りたくないという人たちもいます。ある患者さんの娘さんは「大好きな母がここで死んだら、私はその後、この家で暮らせません」とおっしゃいました。それはそうだと思います。患者さんに、娘さんはこう言っているけれど伝えたら、「その気持ちもよくわかるけど、病院には戻りたくない」と言われましたので、看取りができる家庭的な雰囲気の施設を紹介しました。

結局、患者さんとご家族の間に話し合いがないのです。患者さん、ご家族の意志を尊重したいのですが、経験がないからか、想像もできないのか、何も考えられない方もいます。あと、立ち止まってしまうというか、選べない方もいます。そこをご本人、ご家族と話し合っていくしかないし、提案をしていくしかない。患者さんとご家族の意志を尊重したい、それが緩和医療をやってきて私が感じていることです。

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掲載日:2017年12月25日
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