がん医療フォーラム 出雲 2017/がん患者さんと家族を支える在宅療養について考える
【第2部 講演】在宅看取りを経験して
山﨑 順子さん
在宅看取りをした家族として
私は在宅看取りをした家族の立場として話をさせていただきます。広島カープファンの父と一緒に野球を見に行ったのは、ちょうど1年前の今日でした。黒田博樹投手の200勝記念の試合でした。今日は父に守られて話ができるのだなと思います。
まず父の紹介をします。父は斐川町で昭和5年に生まれました。5人兄弟の長男で、小学6年生のときに父親が戦死し、12歳にして戸主になり、町会に参加したり、弟妹の面倒をみて、母親を支えてきました。子どもは2人で私と兄がいます。病気になった当時の家族は父と母と兄の3人暮らしでした。近くに嫁いでいたことから、何かにつけて私を本当に頼りにしていて、いつも電話がかかってきました。孫は6人、ひ孫が5人います。広島カープができた頃からの大ファンで、球団存続の募金にも協力しました。このほかゲートボールが大好きで、田畑の仕事、野菜づくりは達人の域に達していて精を出していました。また北山温泉に入浴するのを趣味として、田畑の仕事が終わると北山温泉に行くのを毎日の日課にしていました。
父の病歴
そんな父は平成15年に胃がんの手術をしました。3分の2を切除しましたが、胃がんは完治し、元気に働いていました。平成25年12月、クリスマスの日に肺炎とインフルエンザを発症していることを本人が気づかず、40度の熱があるのに身体がしゃんとしないからと北山温泉に入浴して、溺れました。たまたま側にいらした医大の男性看護師さんに助けられ、九死に一生を得た経験をしています。このときに父は終活の大切さというのを学んだというか、このときから片付け、片付けと、自分の終わりは片付けを一生懸命しなくてはいけないと話すようになりました。
平成27年10月、定期検診で初期の膀胱がんがみつかりました。平成28年の1月に手術をした際に、尿管の後ろにも大きながんがみつかりました。高齢で手術をするには体力もないし、抗がん剤を使っても身体がもたないということで、父は自分で何も治療をしないという選択をしました。治療をしないとどうなるか、主治医の先生に聞きました。先生は「1年は大丈夫でしょう」と言われました。その1年の間に父はいろいろなことをしました。私とカープの応援に行ったり、花火大会に行ったり、88歳の前祝いをしたり、本当にたくさんの思い出をつくってきました。
父の希望に沿って在宅へ
主治医の先生がおっしゃったように、徐々に体力も落ちてきますし、足が腫れたり痛みが出てきたりと苦しくなって、11月に医大の緩和ケア病棟に入院しました。先生に「いつまでもちますか」と聞くと「年末年始が笑顔で迎えられたらいいから、それまで頑張ろうね」ということでした。父は「わかりました」と、自分で折り合いをつけていったような感じがします。12月8日に緩和ケア病棟を退院して、そこから在宅介護が始まり、20日後の28日に亡くなりました。
在宅介護をするきっかけになったのは、たまたま在宅でがんのご家族の看取りをされた方のお話を聞いていたことです。「在宅介護は大変だろう」と思っていましたが、その方から「在宅介護はすごいよ、素晴らしいよ、命を看取るってすごいよ」と聞いたのです。そのときに、もし父の最期が近づいたら私もそれができるかなと感じました。そして何より、父が「家で看取ってほしい」と前々から言っていましたので、父の希望に添いたいという気持ちがありました。それと痛みが少なかったというか、病院にいるのをとても嫌がっていましたので、痛いというのを極力言わず、家に帰りたい一心で過ごしていたと思います。
家に帰るにあたっては、近くに訪問看護ステーションがあって、協力してくださる先生がいらっしゃるということ、痛みが出ても介護スタッフさんとかいろいろな方が支えてくださると聞いていましたので、末期がんの患者を家で看取るという大変さを十分に家族も理解した上で、家で看取ることにしました。
穏やかに過ごした在宅での20日間
在宅介護をした20日間ですが、私は普通に仕事に出ていました。父と携帯電話でつながっていたので、父の様子を毎日聞きながら、時間をつくって毎日必ず会いに行っていました。病院と違って、そこには当たり前の父の日常の生活がありました。父はベッドの上で寝たり起きたりという生活になっていましたが、いつも笑顔で、来てくださる方、かわいがっていた飼い猫も支えになっていましたし、家族全員で支えて、笑顔の毎日でした。
亡くなる3日前、私たち家族は「奇跡のクリスマス」と言っています。父はご飯が食べられなくなっていましたが、12月25日はぱっと起きて、家族みんなでクリスマス会をしました。にぎり寿司を3個食べたのでびっくりして、あんなに何も喉を通らなかったのに、こんなふうに食べられるし、笑顔ができるなんてすごいなと言っていました。26日になると少しずつ体調が悪くなってきますが、その間に父は遺影になる写真を選び、葬儀の段取りを全部して、法事のこととか、代表焼香のお願いとか、亡くなったらここに電話したらすべてができるといった段取りをしていました。そして会いたい人には会って、一人ずつに「ありがとう」とお別れの言葉も言っていましたし、少しずつ自分で整理しながら過ごしていました。
兄と父は男同士だからかなかなか話をしたりできず、会話が少なかったのですが、家にいることで、朝出かけるときに「行ってくるよ」とか、帰ってきたときに「どげなかね」といった声を掛け合っていました。こういうことが家で過ごすということかなと思いました。ちょっと疎遠になっていた孫たちも、家にいると会いに来てくれたりとか、そういうことができるので、家で過ごしてよかったと思います。父が会いたかった人に会えてよかったと感じています。
父を看取って思うこと
最期の日が来る前に、私は「12月28日に逝くよ」と言われていました。医大の主治医の先生に今年いっぱいと言われていたので、自分で今日は何日、あと何日だねとか、クリスマスは逝かれないけん、そろそろ逝こうかなとかいう話を毎日していました。ですので看取りをしながら、つらいというよりも、そういうことを冗談のように言う父に笑って答える家族たちがいるというのが、すごく不思議な空間だったなというのを思います。
最期の日は、朝から父に「今日、逝くよ」と言われたので、皆さんに集まってもらいました。兄には葬式のあいさつの言葉を考えるように父が言ったので、一生懸命考えてあいさつ文をまとめて兄がパソコンを閉じたとき、たまたま父は下顎呼吸に入っていましたが、がばっと起きてみんなを集めるように言いました。みんなが集まると、その顔を一人ずつ見て「ありがとう」と言って、手をつないで、すーっと逝ったのです。自分で「すーっと逝くよ」と言っていたので、ああ、父が言っていた通り、笑顔で「ありがとう」と逝ったのだと感じました。
人はそれぞれ個性があって、考え方もいろいろ違って、私のこういう看取りの体験が誰にでも当てはまるわけではないでしょう。「死」というものを前もってイメージするとか、そういう話を家族でするというのは、あまりしたことがありませんでしたが、前もって話をする大切さというのを、父のこういう「生き方」に学んだ気がします。2人に1人ががんになる時代にあって、余命を言われてもすんなり受け入れられて自分らしい生き方、元気なときにそういう生き方を考えておくことが、とても大事なことだと思います。
最期を迎えるための準備
父は掃除をきちんとしてほしいと望んでいました。田舎の家はものがたくさんあるのですが、そういうものを全部捨ててほしいと言いました。お客さんの部屋にはものを置かないように、畳も障子も換えるようにと、あらゆる算段をみんなつけていましたので、亡くなった後に、あっと言う間に葬儀の場所ができました。そうした大事な準備も、身体の動くうちにする終活の一つなのかなと感じます。
何よりも父の主治医の先生はすごいなと思います。父が12月28日に亡くなるというのを前もって言ってくださった、それがわかる先生はすごい、先生が言われた通りに身体が悪くなっているのがわかると父が言っていました。先生のおかげでいろいろな段取りがつけられたとも話していました。医大の皆さん、地域連携センターの皆さん、緩和ケア病棟の皆さんにたいへんお世話になりました。それをつないでくださったケアマネジャーさん、訪問診療・看護・介護に関わる多くの方たちにお世話になりまして、家族だけではできない看取りをやらせていただきましたので、この場をお借りして感謝を申し上げたいと思います。
自分の死を目前にしても笑顔を絶やさず、前向きに生きること、そして元気なうちにする終活の大切さを身をもって教えてくれた父を見習って、これから自分の終活に入っていきたいと最近考えています。