靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

左の脈は然らず

『太素』巻14診候之三 雑診
黄帝曰:有病瘚者,診右脉沉,左脉不然,病主安在?
歧伯曰:冬診之,右脉固當沉緊,此應四時,左浮而遲,此逆四時。在左當主病診在腎,頗在肺,當腰痛。
曰:何以言之?
曰:少陰脉貫腎上胃肓,胳肺,今得肺脉,腎爲之病,故腎爲腰痛。
黄帝曰:善。

冬に診たのであれば,右の脈であろうが,左の脈であろうが,沈んでいるべきである。今,右の脈は確かに沈んで緊張しているが,左の脈は浮いて遅い。これを病は腎に在ると判断し,肺にかたよっていると言い,腰痛を起こしているだろう,と言う。
どうしてそんなことが言えるのか。まず,「在左當主病診在腎」の「在左」の意味がわからない。左だから腎を連想するのか。確かに『難経』では左に,心肝腎を配する。でも,だったら肺云々はどうしてくれる。四季のめぐりに合致しない,あるいはさらに,大きなサイクルに合致しない,新たな変化は概ねまず左の脈に表現されると読むわけにはいくまいか。
左の脈だって,冬なのだから沈であるべきだ。ところがいま,浮であるとしたら,何か病的な状態に,短いサイクルで陥っている。浮は肺の脈である。そして,肺と腎は少陰の脈によって連結されている。肺と腎のつながりは他の篇でもしばしば述べられる普遍的なものである。また,ここの「上胃肓」の三字は『素問』病能論には無く,腎と肺のつながりがより鮮明に表現されている。つまり,いま気は肺に実して,腎には虚しくなっている。だから,腎が病んでいて,腰が痛むだろうと判断する。
右の脈の変化は大きなサイクルに従い,左の脈の変化はより短いサイクルに敏感に反応するとすれば,右に脈口(寸口・気口)を,左に人迎を持ってきた人迎脈口診にも,『内経』には全く拠り所が無い,というわけのものでも無い,とは言えないだろうか。

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