靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

倉公は偉大か

倉公・淳于意は偉大な存在なのか。無論,偉大であるに決まっている。しかし,針灸医学の歴史において,そんなに偉大なのか。
『史記』扁鵲倉公列伝には,淳于意のカルテが二十五例残っている。うち治療を施したのは十五例,二種の治療法を併用した例が有るから,薬物が十四例,針が二例,灸が二例,その他が二例。二十五例というのはもとより全部であろうはずはないけれど,薬物療法が主体であることは認めざるを得ない。
わずかに施した針灸も,かなり原始的な段階のものだと思う。熱厥に足心を刺し,厥頭痛に足陽明を刺し,疝気が膀胱に客したものには足厥陰に灸をすえ,虫歯には手陽明に灸をすえる。馬王堆の脈書ほどの経脈説も,有ったかどうか。癰疽の類は,おしなべて不治として取り合わない。『素問』式に砭石を施してみたりもしない。
淳于意個人の得手不得手の問題,という可能性も無くは無いだろうが,受け継いだ医書の中にも,弟子に伝えた術の中にも,一応は針灸は含まれている。どちらかと言えば,斉国伝統の医学における針灸のレベルが,『素問』ほどでもないということだろう。
現在,我々がイメージする針治療は,『霊枢』九針十二原篇の「余は毒薬を被らしむことなく,砭石を用いること無きを欲し,微針を以て,その経脈を通じ,その血気を調え,その逆順出入の会を営せんことを欲す」だろう。これは『霊枢』が現在の形にまとめられたときの,そしてまとめる動機になった宣言である。つまり,そんなに古くは無い。勿論,淳于意の針からみたら,天地ほどのレベルの違いが有る。
では,斉国の伝統と淳于意と馬王堆と『素問』と『霊枢』と,どの段階で革命は起こったのか。『黄帝内経』≓『素問』+『霊枢』を大筋で認めれば,『黄帝内経』成立のころかも知れない。それは何時か。結局のところ,劉向や劉歆らの宮廷図書館の蔵書整理の際ではないか。それが『漢書』芸文志として残り,『黄帝内経』という書名が初登場する。
では,それに間に合いそうな資料の提供者はいたのか。それに相応しい針の名医はいたのか。かろうじて前漢の末頃に,蜀の涪水のほとりで釣りをしていた爺さんがいた。『針経』という書物(著書?伝書?)が有ったらしい。また,多分,『素問』と『霊枢』は,『黄帝内経』をきれいに切り分けて半分ずつというわけではなくて,ばらばらに散逸しそうな各篇を拾い集めて,新たな論も付け加えて,それぞれに編纂しなおされたものだろうから,今の『霊枢』の成書は,早くても後漢ということになる。涪翁の『針経』はすでに有ったはずである。
淳于意は偉大な存在には違いないが,この爺さんもそれと同等もしくはそれ以上に,少なくとも針灸医学においては,偉大な存在であるはずだろう。

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