ルース
「悲しみは自分自身を解き放つことができるの。 自分の窮屈な皮膚の外に踏み出すのよ。 愛していなければ悲しみを感じることはできないわ-- 悲しみは愛の終局よ、失なわれた愛だものね。 あんたはわかってるのよ、 わかってると思うわ。 でもあんたはそのことを考えたくないだけなの。 それで愛のサイクルが完結するのよ。 愛して、失って、悲しみを味わって、 去って、そしてまた愛するの。 ジェイスン、 悲しみというのはあんたがひとりきりでいなければならないと身をもって知ることよ」 (『流れよわが涙、と警官は言った』、182頁)
某師匠とお好み焼き。 議題は「倫理学者に固有の仕事とは何か」。 帰りは途中までタクシーに乗せてもらう。
う〜む。それにしても「倫理学者に固有の仕事」とは何なんだろう。 他の人たち、たとえば法学者や社会学者や経済学者や政治学者や論理学者や 哲学者たちには不向きで、倫理学者だけが得意な分野の仕事って何なんだろうか。 オースティンの『法学の領域の確定』にひっかけると、 『倫理学の領域の確定』だな。
たとえば、脳死、クローン、インターネット上のポルノなどは、 昨今の倫理学者が関与している問題群のいくつかである。 (わ。おれも偉そうな書き方ができるようになったものだ) しかし、倫理学者はこれらの問題の、どのような面について検討すべきなのか。
脳死問題の歴史について調べて論文を書くのは、倫理学者の仕事なのだろうか。 クローンがどのようにして可能なのかを説明する論文を書くのは、 倫理学者の仕事なのだろうか。 インターネットの仕組みついて説明したり、 現在の法制度について説明したりする論文を書くのは、 倫理学者の仕事なのだろうか。 否、否、否、三度否である。 これらは倫理学者でもできなくはないが、 決して倫理学者に固有の仕事ではない。 おそらく、人々が現在抱いている道徳観を調べて論文を書くことすら、 倫理学者の仕事とは言えないであろう。 それではいったい、倫理学者がすべき固有の仕事とは何なのか。
もちろん、なにもこういったからとて、 むやみに倫理学の研究領域を限定して、 タコツボ的な研究に専念すればよい、というつもりなのではない。 むしろ、おそらく倫理学は経済や政治や法律などにも、 何らかのかたちで関わるのであり、 その限りではそうした領域に積極的に口出しをすべきなのだ。
しかし、それではいったい倫理学はそうした領域とどのようなかたちで関わるのか。
ある人曰く、 「いろいろと事実が集まり、 またそれらの事実に関して、 相対立する意見(価値判断)が実際になされていることもわかったとき、 そうしたさまざまな意見を整理し調整するのが倫理学者の仕事である」。
すなわち、人々が実際に抱いている道徳判断に関して (それを調べるのは倫理学者の仕事ではないかもしれない)、 それらの判断が事実に照らして健全なものかどうか、矛盾してはいないか、 曖昧な点はないか、対立する判断とはどの点で対立し、 どの点で対立していないか、 などを検討し診断するのが倫理学者の役目だというわけである。 いわば倫理学者は、「道徳判断の交通整理」を行なうのである。
この見解は、 いくつか疑問が残るものの--たとえば、ある道徳判断を採用したときに、 生じうる帰結について正確な予測を立てるのは倫理学者の仕事なのだろうか、など--、 かなり良い答であるように思われる。
と、ここまで書いてきてめんどくさくなったのでやめる :-p 後は自分で考えるか、 おれがひまそうにしているときにこの話題に言及してほしい。
下宿に戻るのがめんどくさかったので、 研究室のソファで寝る。某君が来て起きる。
ベンタムの勉強。『行為の動因の一覧表』を読んでみたり。
昼下がりにゲーセンに行き、古本市に行き、 天気が良いのでふらふらと平安神宮のあたりを自転車でうろつき、 さらに帰りにゲーセンに寄ってきた。
現実逃避とはこのような行動のことを言うのだろうか。
う。勉強せずにSFを読んでいた。 ばかばかばか。 ほんとに現実逃避。 ま、(修論にも関係することについて)考えるきっかけにはなったけど。
う。寝坊して家賃を振り込めなかった。明日か。
昨夜は某古本屋に寄ってから下宿に戻る。
それから筒井康隆を読みながら晩ごはんを作る。 スパゲティとキャベツのサラダ。 ごはん。納豆。梅干。のり。など。 う。食生活が貧困になってしまった。
しばらくウインダムの『呪われた村』を読んでから、寝る。
昼下がりに起きて食器を洗い、 ついでにシャワーも浴びて髪を洗い、 不精髭も剃る。別人になった感じ。
家賃を振り込むのはあきらめて、 某E研に。某師匠とルネに行く。
喫茶店に行くつもりが、ちょっとゲーセンに寄ってしまう。 それから某師匠と某定食屋で夕ごはん。
う。ぼーっとしてる間に次の日になってしまった。勉強勉強。
手紙を書いてみたり。 コンピュータと麻雀してみたり。 …。…。あかん。あほかおれは。
昨日は朝から下宿で寝ていた。 寝坊してしまい、某教授の講演を聴きに行けなかった。無念。
「ルネ」の名前の由来が知りたい、 というメイルが来ていたので(僭越ながら)答えておきます。
「ルネ」とは京大西部にある生協の食堂および購買部の名称です。 たしかぼくが二回生かそこらのころに、 西部の生協が改装されて現在に至っています。 以前は二階の食堂はもっと薄暗く、 一階も喫茶店だけで書籍などは置いておらず、 CDや電化製品などは同じ西部構内にある「セブン」というところで売っていました。 ここ、 毎月7日(17日や27日もそうだったかな?)になるとカセットテープを安売りしていて、 いつも買いに寄らせてもらってました。 ルネが出来た後、そのほとんどの機能をルネに譲ることになりましたが、 今でも自転車やバイクなんかを販売しています。
あれ、話がそれてますね。それで名前の由来です。 西部食堂と購買部が新装オープンする際に、 学内で愛称を募集してたんですよね。 採用された人はペアでグアムかどっかに行ける航空券をもらえるとかで、 ぼくも応募しようかと思った記憶がありますが、 結局出さなかったんじゃなかったっけ。
あれ、また話がそれ始めてますね。 それで、とにかく「ルネ」という名前が採用されたわけです。 当時の説明を読んだ記憶が確かなら、 これは哲学者のルネ・デカルトとはまったく関係がなく、 「ルネッサンスRenaissance」すなわち「再生、復活」を意味する語の、 前の部分を切り取ってきたものだったと思います。 だから、つづりは`Renais'です。
本部にある中央食堂や購買部なんかも、 愛称を募集しないのでしょうか。
またSFを読んでいた。ばか。
某定食屋でキムチ鍋定食。
ある人(自由主義者)曰く、 「倫理学者は『すべきこと』を示すのではなく、 『すべきでないこと』を示すのである。 すなわち、禁止すべき行為を確定するだけで、 積極的にすべき行為を確定するのではない。 何が良いものであるか、 何を追求すべきかは個人の価値判断(選好)に任せて、 個人が自分の選好を自由に追求できるような枠組を提供するのだ」
たしかに。正論。 しかし、 (自由主義を前提にするなら) 法などの社会規範のレベルにおいては大枠はこれで良いのかもしれないが、 個人のレベルにおいて、倫理学者は何も言うことはないのだろうか。 個人の道徳的葛藤 (例: 「内部告発をすべきか否か」「中絶すべきか否か」など) に関して、倫理学者は道徳判断の枠組を提供することはできないのだろうか。 若干倫理学の範囲を限定しすぎなような気がする。と思う。
あ。あ。勉強する気になってきた。あ。あ。
寝てた。椅子(2脚)で。
朝に喫茶店でモーニングを食べてから、 銀行で家賃を振り込み、 それから下宿に戻って睡眠。 ついでに筒井康隆の『メタモルフォセス群島』を読み終える。 「毟りあい」、「走る取的」、「喪失の日」などが面白かった。 解説は理解不能。
夕方に起きて、部屋の掃除などをして大学へ。
昨日はしばらく勉強した後、 下宿へ戻ってとっとと寝た。 寝すぎだ。
朝方、大変恐い夢を見た。
おれは中学生か高校生に戻っていて、 なぜか重化学の工場だらけの街に住んでいる。 そして、 デパートの屋上で他の生徒たちと一緒に周りの景色を眺めている。 すると突然何かの事故が起きたようで、 辺りの工場があっという間に連鎖的に倒壊していき、 まもなくおれが立っているデパートも崩れだす。
どうせ五体満足に生き延びれるはずはなく、 それに生き残ったとしても、 工場から流出した化学薬品にまみれて死ぬ思いをすることになるだろうと思い、 おれは確実に死ねる場所を見つけようと考える……というところで目覚めた。
それから喫茶店でモーニング。サンデー。マガジン。 そのあと某E研へ。 さ、勉強勉強。
金がない。 奨学金が出るまでは、一日千円以上使えないことが判明。しくしくしく。 問題は某関西倫理学会の手伝いに行くときの電車賃なんだよな。 金曜日に自転車で出発するか :-)
ベンタムの勉強。ハリソンのBenthamを読んでみたり。
ちょっと郵便局へ。
東京で今年最初の木枯しが吹いたらしいが、
今日は京都の風も冷たい。
本格的に冬が来たらしい。
「みんな集まってきなよ/
どこをふらついてるにしても/
そして自分の周りの海水が増してきたことを認めなよ/
もうすぐ骨までびしょぬれになるってことも/
もし時間が貴重なんだったら/
泳ぎ出した方がいい/
そうしなきゃ石のように沈んでしまうだろう/
だって時代は変わりつつあるんだから」
とボブ・ディランの歌を口ずさんで独りわびしくなる。
冬はわびしい。
5コマ目の名和先生の授業(個人情報の保護について)に出た後、 倫理学入門読書会(「道徳と心理的発達」その4)。疲れた。
それから某定食屋で夕ごはん。 某嬢、某君、某君と。 カキフライ。
『実践哲学研究』第21号の印刷が済んで、 研究室に到着した。抜刷をいただく。
昨夜は、 某E研にいたのも束の間、 さっき某定食屋で一緒に夕ごはんを食べたばかりの3人が来て、 某嬢と某君が近く誕生日だと言うので、 某師匠とぼくと5人で某飲み屋に飲みに行くことになった。
議題は前半が「倫理学研究室の奇人・変人」、 後半が「ほとばしる若き精! 『つきあう』とはどういう意味か!?」。 となりの席にいた3人組はこっちをちらちら見て嫌がっていた気がする。 なんでこんなろくでもない話になったんだろ?
それから下宿に戻る。 懸案の「倫理学とはどういう学問か?」という問いを突き詰めようとして、 部屋中の倫理学関係の本をふとんの周りに集めてから、寝た :-)
というのは嘘で、 某先生の『進化論と倫理』を読んでいたらいろいろと思うことがあったので、 考えごとをしながらシャワーで髪と体を洗い、 浴室を出てからノートに考えたことを書き留め、 それから今度は本当に寝た。つい半日ほど寝てしまう。
夕方にのろのろと起き出して、シリアルを食べてから大学へ。
久しぶりに倫語を更新。
某所でスパゲティ。
勉強。
今日、標語県は某硬軟大学で関倫があった。 院生は『実践哲学研究』の販売の手伝いをしに行かなくてはならないので、 夜明け前から下宿で数時間寝た後、早朝に起き出し、 ヒゲだけ剃って待ち合わせ場所の某阪急河原町駅へ。 もちろん自転車で。 行くと皆スーツで来ていた。普段着はおれだけ。ううむ。 だってスーツないんだもん。しくしくしく。
某阪急河原町駅から特急に乗り、 十三で神戸線に乗り換え、さらに特急で岡本駅へ。 そこから歩くこと約10分。某硬軟大学に無事到着。 ところで硬軟大学って、 今日の今日までなぜか女子大だと思っていた。 なぜなんだろう? 先入見? 誤った生得観念?
それから延々と夕方まで『実践哲学研究』の販売を手伝う。 おれは押しが弱いので、営業には向いていない。 ほとんど役に立たなかった。 交代して時間の空いているときは、修論の勉強をしたり、 フロアーの片隅で椅子を並べて寝たり。役立たず。邪魔。
某大谷の方以外にも、某君を大変気に入った某先生や、 某先生、それに、某先生、某さん、 他にも、某さん、某さん、 某助教授などを見かける。 (これじゃなんのことだかわからんな)
ようやく夕方になって片付けをして、 おれと某君と某君は先に失礼した。 残りのみんなは懇親会に出たようだ。 某先生のご好意で、 うちの院生は参加費無料になったらしい。
帰りの電車では、某君とは梅田で別れたので、 某君と映画の話をして過ごす。彼は映画通だ。 そして某君とも河原町で別れ、自転車で大学へ。
関倫は明日もある。しんどい。
勉強もせずにひたすら睡眠。眠いよう。
オースティンは命令の概念が「法学と道徳学への鍵」である と述べた。 そして道徳判断を「命令的」ないし「指令的」 発話として説明しようとする現代の試みは、 この意欲的な主張を反映している。
H. L. A. Hart, `Positivism and the Separation of Law and Morals' (1958), in Philosophy of Law (ed. by R. M. Dworkin, Oxford UP), p. 18.
う〜ん、道徳判断は本当に命令なんだろうか。 また、ベンタム(やオースティン)はどのように考えていたのだろうか。 もう一度よ〜く考えてみなければ。
ごめんなさい。 昨日の関倫、さぼってしまいました。
昨日の朝5時ごろに下宿に戻り、 6時から1時間半だけ寝ようと思って寝て、 起きたらあ〜らびっくりお昼すぎ。 今さら行くわけにもいかないので、 罪悪感を感じながら夕方まで寝ていました。 まことに申し訳ありません。 反省してます。
気にかかったのは、 某先輩の学会デビュー発表もさることながら、 前日に注文しておいた昼の弁当。 どうなったのだろうか。 だれかが食べてくれたのだろうか。 その代金も心配。 立て替えてくれた人がいるのなら、 後で返さないといけない。
とりあえず、 反省の意を表わすために、 研究室の床のぞうきんがけをすることに決定。
夕方に洗濯をし、某E研へ。 最近たるんでいるのを猛烈に反省し、 気合いを入れて勉強をすることに決定。
紅茶のパックを買いに、近くの某コンビニへ。 行くと、後輩の某ロッキアンに出会う。 アイススケートの試合があり、長野からさっき戻ってきたばかりとのこと。 卒論の中間発表は大丈夫なのだろうか。 いや、人のことなど心配している場合ではない。
育英会の奨学金の手続き、 来年3月満期の人は今月16日から25日までとのこと。
あまり大きな声で言うと刺されそうだったのでまだここには書いていなかったのだが、 実を言うと、先日、学振の一次試験の合格通知が来た。 実にめでたい。 これもみな、応募書類を書くのを手伝ってくれたみなさんのおかげである。
二次の面接は12月の頭に東京であるんだそうだ。 ヒゲは剃る予定。髪の毛は未定。 スーツを着ることになるかもしれない。
来年4月から無事奨学金をもらうためには、 面接試験に合格し、かつ、 1月までに修論を書き、かつ、 それが通って博士課程に進学できなければならない。 そのことを肝に命じて勉強しなければ。
ベンタムの勉強。
次の引用はラッセルの『西洋哲学史』から。カントの説明。 笑える。
エンサイクロペディア・ブリタニカでは、次のように述べられている。 「彼[カント]は一度も結婚しなかったので、 彼は若い頃の研究熱心な習慣を老年まで保ち続けた」。 この項目を書いた人は、独身者だったのだろうか、既婚者だったのだろうか。
(A History of Western Philosophy, p. 679)
この皮肉はおわかりだろうか? 付言しておくと、 ラッセルは結婚していたが、98才で死ぬまで研究熱心であった。
喫茶店でモーニング。チャンピオン。 それからちょっとだけゲーセンへ。
3コマ目の某教授のヘーゲルが始まる前に、 某Y先輩に以前付属図書館で借りた本を催促に行く。 持ってくるのを忘れたとのこと。 付属図書館は期限通りに返さないとペナルティを科してくるので文句を言うと、 なるべく早く郵送するとのこと。 ESS(=Evolutionary Stable Starategy, 進化的に安定した戦略)に従い、 二度と頼みは聞かないことに決定。
昼食。某喫茶店でカレーセット。 ジャンプ。ビッグコミックオリジナル。
それから下宿で睡眠。 夜に目覚めて昨日干した洗濯物をとりこみ、 シャワーを浴びてから大学へ。
ラッセルは4回結婚したという情報をいただく。
夕ごはん。某所でうどん。
勉強中。忙しい。
勉強一段落。疲れた。
さて、 これから倫理学入門読書会の担当分の訳を作り、 科哲の復習+予習。 修論のことはとりあえず忘れよう。 早く済ませて少し寝なければ。
倫理学入門読書会の訳を作成。 `pragmatically necessary'という表現の訳出に悩む。 専門的な用語なのだろうか?
採用されたら研究室に還元します。 商品券も配布します。→学振
倫理学研究室のソファで3時間ほど爆睡。 さあ、科哲の予習。
む。 某君がWEB日記をやめる模様。 恐れていたことが。
実は、 某君が某師匠に勧められてWEB日記を始めたとき、 「これで彼も倫理学(研究室)にしがらみができて、 抜け出すことができなくなったな。しめしめ」 と密かに考えていたのだが、 予想が甘かったようだ。
某君がWEB日記をやめる決意をする引金となったのは、一つには、 「科哲に移ったら」という(これまた)某師匠の忠告なのだろうが、 まあ、某師匠は本人のためを思って言ったんだろうし、 またその忠告も某君の適性を考慮するとおそらく正しいので、 あまり文句も言えない。 惜しい人材だが、仕方がない。
ただ、某君が某学会の某シンポジウムのレベルの低さにがっかりして、 倫理学に愛想を尽かした、というのは非常に残念である。 それではまるで、京大を見学に来て、 文学部東館のトイレの汚なさを見て京大に失望するようなものではないか。 (いや、おそらく倫理学に対して失望した理由は他にもいろいろとあるのだろうが)
ま、おれは、 もしだれかが「現在の倫理学の大半は文学部東館のトイレか、 (京大)西部のサークルボックスのトイレのようなものだ」と主張しても、 あえて反対しない。おそらくそうなんだろう。 しかし、「だから、倫理学に未来はない」という主張には、 少なくとも今はまだ同意できない。 先が見えていないと言われればそれまでだが。
……。というわけで、某君には、日記をやめてしまう前に、 「わたしはいかにして倫理学をくだらないと思うに至ったか」 について赤裸裸に書き殴ってほしいものである。
あ、いかんいかん、こんなことをしてる場合ではなかった。
朝、喫茶店でモーニング。 それから科哲の授業。 難しくてよくわからん。
3コマ目の文化理論と倫理学、 および4コマ目の第二演習に出席。疲れた。
休憩時間に哲閲に行って本を借り出す。
授業のあと、 しばらく某E研でうだうだ。 それからゲーセンに少し行く。 スーパーが閉まる時刻になってしまったので 自炊は断念して某定食屋へ行き、独りで夕ごはん。 その後また某E研に戻ってきて、椅子の上で仮眠。
さ、勉強勉強。