定時起床。髭剃り、ゴミ出し、朝食、朝刊。娘を保育園に送ったあと、家の用 事を済ませて大学へ。午前中は雑用。科研費の書類作成その他。
昼下がり、中央食堂で遅めの昼食。それから某演習。体罰。夕方、某作業。
夜、某カンフォーラで飲み会。夜中、百万遍で二次会。真夜中に帰宅。ほぼ満月。
早朝に娘が起きて泣き出したため、やむなく早起き。しばらく抱っこして娘を 眠らせたあと、髭剃り、朝食、朝刊。
娘を保育園に送り、本三駅前の某喫茶店でしばらく雑用。
おにぎりを買ってお昼前に大学へ。午前中は明日の講義の準備など。
お昼は某氏らとコモンルームで昼食。
お昼すぎから昼下がりまで雑用。それから夕方まで某研究会のスライド改訂作 業など。途中、某氏にコーヒーをもらったり、別の某氏が来訪したり。
夕方、ちょっと購買部に買い出しに行く。それから某作業の手伝い…と思って いたが、今日は何も手伝うことがないそうなので、代わりに某氏といろいろ相 談。
夜、帰宅して夕食。
夜中、娘を風呂に入れ、食器を洗い、某報告書の作成作業など。細々とやるべ きことがあって大変というか落ち着かない。マルチタスクというかJuggleするっ て、あまり得意じゃないんだよな。だけど何とかがんばろう。
定時起床(少し遅め)。朝食、シャワー。まだ体調が悪いため、 午前中は自宅で雑用と勉強。
お昼すぎに大学へ。某研究会に出席。某ODが報告。
夕方、某院生と某ODの指導を少し。
研究室で少し雑用をしてから、某ラーメン屋で夕食(昼食?)を食べて帰宅。
夜中、少し仮眠をとったあと、カントの勉強。間に合わない。
早起き。シャワー、朝食。お腹の調子が悪い。
早めに出勤。今日も雨なので地下鉄は混んでいた。
午前中は少し雑用をしてから歯医者へ。疲れているせいか、 歯茎が全体に腫れていますよと言われる。先週飲みすぎたせいか。 養生しよう。一本、困った歯あり。
午後も研究室に籠って雑用。少し某作業を進めて某所にメール。
夕方、散歩がてら購買部へ。霧雨で外がきれいだったので、 三四郎池もきれいだろうと思って斜面を降りていこうとしたところ、 足をすべらせて1メートルほど滑走し、尻から落ちる。 PHSも自分より先に落ちていってしまう。ひい。
コートもジーンズも泥で汚れ、ついでに傘も曲ってしまったが、 幸いPHSは無事。思慮のなさに反省しながら、購買部と書籍部をめぐる旅。
そのあと、某氏らと少し雑談兼相談をして、もう一仕事してから帰宅。
夜、夕食。ソファで死んだように寝てから、食器と新聞。
真夜中、少し仕事。Wiiをして汗をかいてからシャワー。もう寝るべし。
早起き。シャワー、シリアル。
某妻の学会発表を参観するために、一緒に青山の某大学に来る。 勉強。
学会を抜け出して某喫茶店に。 それにしても、あの学会は学会員ではないのに知った顔の人が多いな。 隣接領域で学会が多すぎるのは同じ週末に開かれる可能性を考えると、 あまり望ましくない。 せめて同じ週末に開かれる場合は合同大会にしてはどうか。
AnthyというIMEはなかなか誤変換が多くて感心する。 昔使っていたCannaを思い出した。
お昼すぎ、某妻と合流して表参道のあたりのタイ料理屋で昼食。 その後、千石に戻ってきて、某図書館に立ち寄ってから帰宅。
昼下がり、性懲りもなくまたubuntuの設定。 二階の和室でwicd, adobe acrobat readerのインストールなど。 こんなことばかりやっていると、腰と肩が痛くなってきた
夕方、死んだように二時間近く寝る。起きたら宵。
夜、またubuntuにはまってしまう。いかん。このままでは廃人になってしまう。
夜中、報告で疲れ果てた某妻と一緒に、千石のラーメン屋へ。 食べていると外は雷雨になる。大雨の中、買い物をしてから帰宅。
帰宅してからもまたubuntu。恐るべし…。
今日のこと。
昨晩は某推敲作業で寝るのが少し遅くなったが、なんとか起きる。 シャワー、朝食。そのあと、某妻と一緒に、 某推敲作業の最終チェックをお昼前までかかってやる。 なんとかメールで発送。某妻に感謝。
それから急いで大学へ。今日は暑いので半袖のシャツ。 某ランチョン・セミナーでは、 先日の和歌山の和歌山県立医科大付属病院紀北分院で起きた治療中止の話を議論。
『入門・医療倫理II』を10冊ほど著者買取をしたのが届く。
明日の授業の準備をしなければ。
板橋区民からの情報によると、 日本語版ポリティカル・コンパスというのもあるそうだ。 この元となった英語のポリティカル・コンパスの簡易版が、 昨日の政治ポジションテストであるらしい。
昼下がりから夕方にかけて、明日の授業の準備。
夕方、息抜きに三四郎池に行く。今年初めて蚊に喰われる。
(某妻に「蚊に刺されるかまれる」はおかしいと言われた。
あ、方言サイトでいろいろ争いがあるようだ)。
夜、某授業の手伝い。明日の授業の予習も少し。
夜中、千石の某居酒屋で新聞を読みながら夕食。ビール。 真夜中に帰宅。某妻に「甚平」を買ってもらう。感謝。
なんとか起きる。シャワー、朝食。 ひさしぶりに作ったカスピ海ヨーグルトを食べてみたり。
このニュース、 最後の部分が笑える。
いかん、遅刻遅刻。
定時出勤(ちょっと遅刻)。朝は某勉強会に参加。
昼下がり、某院生と学内の某喫茶店に行き、 学振の書類を再度チェック。
夕方、同僚の某氏らと某テキストについて相談。
夜は早目に帰宅。夕方から強い雨と雷。
今日のニュース
夜明け前に寝て、なんとか朝起きる。学校に行かないと。
昨日書いた音楽と研究のアナロジーについて、 「そうすると研究における『演奏者』はいるのか」 という質問が来た。この点は書きながら気になっていたのだが、 うまい対応はないかもしれない。もうちょっと考えてみよう。
それはともかく、日記に思考の断片を書くのもいいが、 思考をまとめて「曲」や「アルバム」をどんどん作れるようにならねば。
昼は弁当。お昼すぎに夏期セミナーについて相談。 これから某ミーティング。
知的財産も財産として扱われるようになり、 個人情報も財産に準ずるものとして扱われるようになったわけだが、 やはり有形の財産と違って不正がしやすいので、 なぜそれがダメなのかがよくわからない、 ということがあるように思える。 個人情報はプライバシーと一部結びついているせいか 犯罪をする人も少しうしろめたいところがある気がするが、 知財の方は、「コピーしても減るもんじゃなし」 という理由が、ある程度good reasonとして作用してしまうように思う。 メモ。適当なことを書いてないで、『コンピュータ倫理学』 でも読んで勉強しよう。
夕方、某ミーティング。今日は2時間で終わる。 そのあと、医図書に行き、某米国人の講演を聴く。 前半は寝てしまったが、後半はおもしろく聞くことができた。 もっと医学教育にも関心を持つべき必要があることを悟る。
また今日も昨日のようなにわか雨。少し降られる。
大学で食事をしてから帰宅。
どうも最近、煮詰まっている感がある。D論書こう。
中国と日本のやりとりはなんだか子供の喧嘩のようになってきたな。 こういう場合、大人の対応というのはどういうものなのだろうか。
部屋でラジオを聴いていたら心が落ちついてきた。 忙しいと精神が慌しくなり、よくない。 なるべく早起きして自由になる時間を作るようにしなければ。 新聞や好きな本を読んで考えよう。いや、考えるだけでなく、 考えをまとめて書こう。
まだ大学。今日の勉強会の準備中。終わらん。
最近ちっとも論文を書いてないので、 まともな論文を書けないような気がしてきた。 先行研究も不十分だしなあ。
「あ、これが論文恐怖症というやつか。 なんとか克服しないといかんなあ。 オレは天才だオレは天才だオレは天才だオレは天才だオレは天才だ…」
「何ブツブツつぶやいてるんですか」
「いや、プレッシャーがあって、論文が書けないから」
「いいじゃないですか、プレッシャーなんて感じなくても。 駄作を書いて紙資源の無駄遣いしたってかまいませんよ。 スキナー的にも、 名著だけでなくその背景を形作る一連の駄作がないと、 そもそも名著の思想史的意義はわからないわけです。 だから、駄作が書かれることにも十分意味があるわけですよ」
「またわけのわからんことを…」
早朝に帰って仮眠を取り、また大学に来る。う、まじでやばい。
午前中から夕方までベンタム勉強会。 無内容な発表をしてしまう。 ああ。ばか。ばかばか。ばかばかばか。 う〜ん。来月はもっとがんばろう。
勉強会終了後、某会館のビアガーデンで少し飲む。 まだちょっと寒かったが、なかなか快適だ。
某気の国屋から本が数冊届く。Kluwerの`Handbook of Bioethics'(Philosophy and Medicine 78)、ハードカバーとはいえ、一冊4万円近くするとは何ごとだ。
届いた本をつらつらと読んでいると、あっという間にこんな時間になってしまった。 明日の勉強会やミーティングの準備をしなければ。
朝は早起きできず。
チェックアウトして、某同志社で開かれている某学会に参加する。 ミル、ランゲについての発表を聞く。
お昼はモスバーガーで買い、某氏らと同志社キャンパスで食事。 そのあと、まじめに学会に出る。 夜も夕食を食べたあと、懇親会などには出ず、ミル研究会に出席。 めずらしく超まじめだ。
研究会のあと、某氏と某所で食事をしたあと、 三条まで歩いて行き、マンガ喫茶へ。
カレーを作って食べる。今いち。 しかしご飯を一合半食べたので、お腹がいっぱい。死ぬ。
新聞を読んだり、 中国行きの航空券を調べたりしていたらあっという間に夜明け前になってしまう。 もう寝よう。
起きる。さて、喫茶店にでも行って勉強しよう。
お昼、某スタバで生命倫理の勉強をする。 二本論文を読む。ついでに、 某コムサで自分探しの旅(シャツ篇)。 二枚買ってしまう。
それから丸太町にある某中国系旅行会社に行って相談してみるが、 中国は航空券が高いしビザは要るしで、 ちょっと行く先を変更しようかと検討中。 ハワイ?
大学に来て中央食堂で昼食。
これだけ食べるとけっこう高い。
応用倫理学の授業に出席。 ピクトグラム(標識などのサイン)について。 「わかりやすいピクトグラム(障害者用のトイレの標識とか)には、 なんらかの偏見が入らざるをえない」 というような主張に反対してみたり。
それから文閲で少し調べもの。 『理想』のサルトル特集号(2000年)を読んでみるが、 それほど得ることなし。いや、 レヴィナスとか知らないので、 もっと勉強しなきゃいけないのだが。
昨夜ぐらいから調子が良くなってきた気がする。 ようやく勉強する気が出てきた。 若干忙しくなくなってきたので、 精神に余裕が出てきたのかな? 実存主義者はスケジュールに支配されてはならない。
夕方、生命倫理学勉強会。重度障害をもった新生児について。 A Companion to Bioethicsはとりあえず読み終えたことにして、 次回は(暫定的に)最近の論文を読む予定。
今日の夕方に某ルネに行ったときに、節約をしなければと思いつつ、 買ってしまったCD。
明日から節約しよう。
新聞を読んだり。
某旅行は諸事情から夏以降に延期になった。ちょっと安堵。
机に向かっている時間…9hr
今日の勉強時間…5hr
マルクス係数…34
う。新聞を読んでいたら日付が変わってしまった。
昨日の夕食後に、すこし散歩し、ディケンズ・ハウスを発見する。 寮のすぐそばにあるのだが、まだ行っていない。そのうち見学に行こう。
現在英国で議論になっている大学の授業料を無料にするかどうかという問題は おもしろい話題だと思う。
以下、この問題について思いつくままに書いてみた。 暫定的な結論はこうである。 「大学の授業料は無料にすべきでなく、親が払うべきでもない。 大学に進学する学生は国家から借金をし、 卒業後に就職してから徐々に返済するという制度が望ましい」。
まず、授業料を有料にするか、無料にするかという区別が立てられる。 先に授業料を無料にする場合を考えよう。
もちろん授業料を無料にするといっても、 誰もお金を払わないと大学教授はそのうち餓え死にしてしまうので、 この場合、所得税や消費税などの税金でまかなうことになる。 こうすると、貧乏人の子供にも機会の均等は保障され、 またみんなで仲良く犠牲を払うので各自の負担が軽くなるという利点があるが、 学生や学生の親は大きな利益をこうむるのに対して、 大学とかかわりない暮らしを送る人々は見返りのない投資を強いられることになる。 (もちろん、近くに学生寮ができてコンビニに立読み客が増えたり、 原子力発電の研究が進んで家の近くに原発ができたりするという 間接的な利益はあるだろうが)
次に、授業料が有料の場合は、学生の親が払うのか、学生本人が払うのか、 という区別が立てられる。
親が払うとすると、 授業料が高いと貧乏人の子供は機会の平等を保障されないわけだから、 これをなんとかしないといけない。 親の収入に応じて授業料をスライディングスケール方式にすると この問題はある程度解決できる。 もっともこうすると、金持ちの親が余分に負担することになるので、 金持ちには不評だろう。 しかし、授業料を無料にしてもけっきょく所得税その他から 運営費が拠出されるわけだから、金持ちにとってはまあ似たようなものである。
ただし、所得税から取る場合と違って、 この方式だと子供がいなかったり、 いても大学に行かなかったりする世帯は、 他人のバカ息子や放蕩娘の学費を払う必要がないという利点がある。
他方、子供が払うとすると、18才にしてすでにITビジネスかなにかで一財産 築いていないかぎり、どこかから借金をすることになる。 したがって、大部分の学生は、大学を卒業後に就職してから借金を返済することになる (もちろん、 高校を卒業後いったん就職してお金をためてから進学するという手もあるが、 この事例はとくに問題ないので省略)。
この場合、後払いという形ではあるにせよとにかく自分で学費を払うので、 親が金持ちか貧しいかに依存しない。 したがって、授業料無料の場合と同様、機会の均等が保障される。 さらに、 自分の高等教育は自分の責任で行なうという制度は、 自律あるいは自己責任という価値からしても望ましいように思われる。 この場合、親が裕福な場合でも、自己責任という価値を促進するために、 学生は借金をすることが望ましいことになる。
一つ問題なのは、いつ借金を返すかということで、 国家が金貸しになっている場合はこの点を考える必要がある (サラ金関係に金を借りてしまった場合は、 借金をいつ返すかは金貸しの方が決めることだから考えても無駄である)。
就職したとたんに借金の返済が始まると、 多くの場合はあまり多くない初任給から取ることになり、 結婚出産を控えて貯金をしなければならない若者にとってはつらい話である。 かといって中年から始めると、 子供の教育や老後の心配がある中年にはつらい話であり、 老年から始めると、わずかな年金から(以下同様)、ということになる。
人生の中でお金に比較的余裕があるときに返す、 という風にすることもできるが、 こうすると死ぬまで払わない連中が続出するだろうからだめだろう。
となると、就職後、退職まで徐々に払うというのが妥当で、 はじめのうちは返すお金の額を低く押さえておき、 給料が上がるにつれて返済するお金も増やすことにすれば それほどつらくないだろう。また、短期間で返済した方が利率が低くて 済むようにすれば、さっさと返す人も増えて国家は助かるだろう。
というわけで、結論は、 「大学の授業料は無料にすべきでなく、親が払うべきでもない。 大学に進学する学生は国家から借金をし、 卒業後に就職してから徐々に返済するという制度が望ましい」 ということになる。
オーストラリアは今述べた形に近いという話を聞いたが、 ちゃんと調べてみないといけない。 米国は大部分が自己責任制度みたいだが、 若いときに借金を返済しないといけないようなので、 多くの学生は就職したあと苦しい日々が続くようだ。 ドイツは文化の発展という形で全員に見返りがあると信じているのか、 留学生まで無料という方針を貫いているようだが、 不公平感はないのだろうか。 (ここらへん勉強不足なので要修業)
英国は授業料を親が払うのが普通なので、 貧乏人の子供が機会を奪われているという主張がよくある。 しかも、貧乏人の多くは借金をするのを嫌がるので、 ますます子供は大学に行けない、という事情もあるようだ。 このケースはちょっと難しい。借金に大きな不名誉が伴う社会においては、 授業料は無料にした方がいいのかもしれない。あるいは「借金」 という呼び方をやめて、「足長おじさん制度」と呼ぶとか。
日本は公立大学でも授業料が高く、日本育英会の存在を考慮に入れたとしても、 基本的には親がまかなう、という発想で運営されているようだ (税金からもかなり拠出されていると思う。ここも要修業)。 貧しい学生には授業料免除などの形で救いの手が用意されているとはいえ、 学生の自己責任システムにした方が親の負担が減るし、 子供の自立も(おそらくは)促進されて良いと思われる。 ただし、いきなり制度の変更をした場合、 学生に貸すお金をどうやって用意するのかという問題が出るので、 それを解決する必要がある。(自○隊を廃止すればよいかもしれない)
「またまた適当なことを書き散らして」
「いや、すいません。おもしろいのでつい下調べもせずに書いてしまいました。 そのうち先行研究をきちんと調べてみたいと思います。 現代政治哲学のエッセイにできたらいいんですけどね」
「ちょっと議論が実践的すぎるので無理だろう」
「そうですね。 自己責任という理念を現実にどう適用するかという問題ですからね」
「またまた偉そうなことを。なあにが自己責任だ。なあにが」
「なんですか、その言い方は」
「だってきみはいつも授業料免除してもらってるので、 無料で高等教育を受けているだろう。 育英会の借金もどうにかして払わないで済ませたいと思ってるくせに。 国民の血税でくだらんこと書き散らしてるくせに、なあにが自己責任だ。なあにが」
「あ、それはアドホミネムです、人身攻撃で反則です。 それに、今後ちゃんと社会に貢献するようにします。忘れたご恩は返しません、 あれ、ちがう、借りたご恩は忘れません」
「なあにが。なあにが」
(追記)
わ、変なことを書いていたらすっかり遅くなってしまった。やばい。
ポンドがどんどん下がって、ついに168円台になっている。 明日もうすこし両替することにしよう。
ガーディアンの調査によると、英国の哲学科(学部生)のランキングは、 一位LSE、二位ケンブリッジ、三位キングズコレッジロンドン、 四位ウォーリック(Warwick)、五位UCLだそうだ。 また、法学部は一位から順にSOAS、LSE、オックスフォード、ケンブリッジ、 UCLとなっている。くわしくは以下のURLを参照のこと。
http://www.EducationGuardian.co.uk/universityguide
朝起きて朝食。眠い。
午前中は図書館でコピー。14ポンドも使ってしまった。1枚5ペンスだから、 280枚コピーしたことになる。ひゃー。
それから古本屋に行き、思う存分本を買ってしまう。50ポンドちょっと。ひゃー。
今日はボブ・ディランの60才の誕生日らしい。
図書館で調べたところ、 1998年にOECDが出した本に、先進国での教育事情の比較が行なわれていた。
それによると、大学の運営費に対して個人(household)の負担する割合が もっとも大きいのは 韓国(6割)、日本(5割)、米国(4割)で、オーストラリアやフランスは一割強、 そしてデンマーク、オーストリア、ギリシアなどはほぼ完全に政府が支出している (なぜかドイツのデータはない)。 日本と米国は政府が5割近く資金援助しているが、 韓国の場合は、その他の個人的財源(たとえば、勤めている会社による資金援助) がさらに2割をしめており、大学の運営費に対する国家の支出は2割以下となっている。
英国では1998年から大学生が年に1000ポンド授業料を払うことになったようだ。 (すくなくともロンドン大学はこの制度を取っている。 しかし、オックスフォードとかもそんなに安いんだろうか) これには、入学者数が増えて政府の援助だけでは間に合わなくなっているという背景が あるようだ。
現在のところヨーロッパでは政府が大学の運営費をまかなっているところが大半だが、 OECDのまとめによると、生涯教育の発展に伴い、 社会人学生やパートタイマーの学生が増えていること、 政府援助型あるいは親の負担型から自己負担型に移行しつつあるそうだ。 (A preliminary conclusion is that many students are investing resources in their own learning, and may well become more effective learners as a result of having this financial stake.)
Source: OECD, Education Policy Analysis 1998, Center For Educational Research And Innovation, 1998.
すこし寝てから夕食を食べた。
勉強勉強。
competencyの勉強中。なかなか進まない。 腹が減ったので夜中に某ラーメン屋へ。 ついでに某古本屋と某コンビニで買物をする。
うわ。全然終わらないけどもう夜明け。いったん下宿に戻ろう。 今日はヘーゲルの授業もあるんだよな。
夜明けに下宿に戻り、ゴミを出してシャワーを浴び、寝る。 ヘーゲルの予習をしたかったので10時ごろに起きて大学に来る。 ひさしぶりの雨。眠い。
夜明けに下宿に戻り、ゴミを出してシャワーを浴び、寝る。 ヘーゲルの予習をしたかったので10時ごろに起きて大学に来る。 ひさしぶりの雨。眠い。
ヘーゲルの予習。今日はどっからやるんだろう。
Endlichkeit und Unendlichkeit. 有限さと無限さ
Daseynの有限さ
Das Daseyn ist bestimmt;
そこらへんに存在してるものは規定づけられている。und die Bestimmtheit setzt sich als Negation und Schranke dadurch, dass sie als insichseyende Bestimmtheit zugleich ueber sich hinausgeht, und sich auf sich als auf ihre Nagation bezieht.
そしてこの規定性は次のことを通じて否定と制約としてデンと居座る。 すなわち、それが内的な限界として、しかも同時に自己を超え、 そして自己の否定としての自己と関係を持つことによって。(意味不明)
改訳: そしてこの規定性は次のことを通じて否定と制約として現われる すなわち、それが自己内在的な規定性として、しかも同時に自己を超え出て、 そして自己の否定としての自己と関係を持つことによって。
(よくわからんけど、おれは、おれ以外の人や物の存在によって 初めて「おれ」たりえているということらしい。 んで、「おれ」性っていうのはたしかにおれに内在してるんだけど、 それは非-「おれ」性と接しているので、「自己を超えでて」いることになるらしい)Das Daseyn ist auf diese Weise nicht nur bestimmt, sondern beschraenkt;
そこらへんに存在しているものはこのように単に規定づけられているだけでなく、 また制約づけられてもいる;endlich, und es ist nicht nur endlich, sondern es ist die Endlichkeit.
すなわち有限なのである。そしてそれは単に有限であるばかりか、 有限さなのである。(意味不明)
(これは某教授も意味不明だと言っていた。「言葉のあやだ」って)Insofern wir von den Dingen sagen, sie sind endlich, so wird darunter verstanden, dass sie nicht nur eine Bestimmtheit enthalten, -- denn die Qualitaet kann als Bestimmung oder auch als Realitaet genommen werden, -- sondern dass nicht das Seyn, vielmehr das Nichtseyn als Schranke ihre Natur ausmacht.
われわれが事物について語るなら、事物は有限である。 そこで次のことが理解されるであろう。 すなわち、事物は単に規定性を含むだけではなく、 --事物の本質は、規定[定義?]としても実在としても考えられるから、-- 存在ではなく、むしろ非存在こそが制約として事物の本性を形づくるのである。 (わかったようなわからないような)
改訳: われわれが事物について「事物は有限である」と語るかぎりにおいて、 そのことによって意味されるのは、次のことである。 すなわち、事物は単に規定性を含むだけではなく、 --というのは、 事物の本質は、[かくあるべしという]規定としても実在としても考えられるから、-- 存在ではなく、むしろ非存在こそが制約として事物の本性を形づくるのである。Das Bestimmte ist aber nur im Sollen endlich;
しかしながら、規定されたものは、当為においてのみ有限である。(意味不明)das heisst, insofern es ueber sich selbst als ueber seine Negation hinaugeht.
すなわち、 それがちょうど自己の否定を超えるかのように自己自身を超えるかぎりにおいて。 (どこらへんがdas heisstなのか不明)Das Endliche ist Negation, insofern es sich Negation ist, sich auf sich als auf Nichtseyn bezieht, insofern es also die Schranke eben so sehr aufhebt.
有限者は否定である。それが自分にとって否定であり、 存在しないものとしての自分に関係する限りにおいて、 また、それがまさにその程度、制約を止揚する限りにおいて。(意味不明)Es ist naemlich die Grenze, insofern sie das Ansichseyn, oder die Bestimmung ausmacht, das heisst, eben so sehr insofern es sich auf sich bezieht, also sich selbst gleich ist.
有限者はすなわち境界(限界)なのである。 境界がAnsichseynまたは規定を形づくる限りにおいて。 すなわち、有限者が自分を自分に関係づけ、また自分が自分自身に等しい というまさにその程度において。(意味不明)In dieser Beziehung der Negation | auf sich selbst aber besteht das Aufheben der Negation seiner, oder seiner Ungleichheit.
しかしながら、この自分自身とその否定との関係にこそ、 自己の否定あるいはその差異の止揚が存するのである。(意味不明)
改訳: しかしながら、この否定とそれ自身との関係にこそ、 自己の否定あるいはその不等性の止揚が存するのである。Die Bestimmtheit ist also nur insofern Negation und Endlichkeit, als zugleich darin die Beziehung auf sich selbst, die Gleichheit mit sich, das Aufheben der Schranke vorhanden ist.
規定性はまた、次の限りにおいてのみ否定であり有限性である。 すなわち、そこにおいて自分自身との関係であり、 自分と平等であり、制約の止揚が手元にある限りにおいて。(意味不明)Das Endliche ist also selbst dieses Aufheben seiner, es ist selbst dis, unendlich zu seyn.
有限者はまた、この自分の止揚ですらある。 それは無限であることでさえある。(意味不明)
改訳: 有限者はまた、それ自身がこの自分の止揚である。 それはまさに無限であることである。
disはdiesなんだそうだ。selbstの意味がうまくつかめん。Wie sich also der Begriff des Unendlichen ergeben hat, so ist es das Andersseyn des Andersseyns, die Negation der Negation, die Beziehung auf sich, durch Aufheben der Bestimmtheit. --
ちょうど無限者の概念がそれ自身を生み出すのと同様に、 それは規定性の止揚を通した、 他者存在の他者存在であり、否定の否定であり、自己関係である。
改訳: こうして無限者の概念が明らかになったのであるが、 それは規定性の止揚を通した、 他在の他在であり、否定の否定であり、自己関係である。
あれ、大誤訳。Das Unendliche in diesem seinem einfachen Begriffe kann als die zweyte Definition des Absoluten [angesehen] werden;
この単純な概念における無限者は、絶対者の第二の定義と[みなされ]うる。er ist tiefer als das Werden;
無限者は生成よりも深い。aber hier noch mit einer Bestimmtheit behafftet; しかし、それでもなお一つの規定性を背負い込んでいる。
und die Hauptsache ist, den wahrhaften Begriff der Unendlichkeit von der schlechten Unendlichkeit, das Unendliche der Vernunft von dem Unendlichen des Verstandes zu unterscheiden.
そして肝心なことは、 無限性の真の概念を劣悪な無限性から、 すなわち理性の無限者を悟性の無限者から区別することなのである。 (この話は前にもやったな)Zuerst hat es sich am bestimmten Daseyn gezeigt, dass es in seinem Ansichseyn sich als Endliches bestimmt, und ueber sich als die Schranke hinausgeht.
まず、規定されたそこらにあるものについては、 以下のことが示された。すなわち、 そこらにあるものはその即自存在においては自己を有限なものと規定し、 そして制約としての自己を超え出ていくのである。Es ist also uberhaupt die Natur des Endlichen selbst, ueber sich hinauszugehen, die Negation zu negieren und unendlich zu werden.
そこで次のことは一般に有限者自身の本性である。 すなわち、自己を超え出ること、否定を否定すること、 そして無限となること。
あ。alsoは「また」じゃなくて「したがって」か。しまった。 しかし論理的関係かどうかよくわからんもんなあ:-)Das Unendliche steht also nicht als ein fuer sich fertiges ueber dem Endlichen, so dass das Endliche ausser oder unter jenem sein Bleiben haette und behielte.
したがって無限者は、 まるで有限者が無限者の外か下かに存在しそこに留まるといったように、 有限者の上に立ってそれ自体で完成したものではない。
(接続法二式が使われてるんだそうだ)Noch gehen wir nur als eine subjective Vernunft ueber das Endliche ins Unendliche hinaus.
また、われわれはたんに一つの主観的な理性として、有限者を超えて 無限者の内へと入っていくというわけでもない。Wie wenn man sagt, dass das Unendliche der Vernunftbegriff sey, und wir uns durch die Vernunft ueber das Zeitliche und Endliche erheben, so geschiet dis ganz unbeshaedet der Endlichkeit, welche jene ihm aeusserlich bleibende Erhebung nichts angeht.
「理性概念の無限者が存在する」とか 「われわれは理性を通じて時間性と有限性を超越するのだ」 とか言われるが、これは有限性とは無関係になされ、 そのようなものは有限者にとって外的なままである「超越」とは無関係である。 (意味不明)Insofern aber das Endliche selbst in die Unendlichkeit erhoben wird, so ist es eben so wenig eine fremde Gewalt, welche ihm dis anthut, sondern es ist dis seine Natur, sich auf sich als Schranke zu beziehen, und somit ueber dieselbe hinauszugehen.
しかしながら、有限者自身が無限性へと高められる限り、 これをなすのは外的な力ではなく、 むしろこれは有限者の本性なのであり、 それは自己を制約としての自己と関係づけ、 それにより自己自身を超えていくような本性なのである。
(わかったようなわからないような)Denn wie sich gezeigt hat, ist die Schranke nur, insofern ueber sie hinausgegangen wird.
というのは、すでに示されたことであるが、 制約とは、それが超え出られるかぎりにおいてのみ、存在するものだからである。
(つまり、制約とは乗り超えられるためにあるということ。ほんまか?)Also nicht im Aufheben der Endlichkeit ueberhaupt, besteht die Unendlichkeit ueberhaupt, sondern das Endliche ist nur dis, selbst durch seine Natur dazu zu werden. Die Unendlichkeit ist seine Bestimmung, oder das was es an sich ist.
したがって、有限性一般の止揚に無限性一般が存するのではなく、 むしろ有限者とはそれ自体が自己の本性を通じて無限者へと成る ということでしかない。 無限性は有限者の[目指すべき]規定であり、 すなわち、有限的なものが本性的にそうあるところのものなのである。
(歩が金になるようなものか。しかし金になるのは歩の本性か?)
ふう、終わった:-)
ヘーゲルの授業に出たあと、 中央食堂で食事。 某ルートからハクスリーの『すばらしい新世界』 が手に入ったので(といっても借りただけ)、 全部コピーしてしまう。 文庫をコピーするのは今回が初めてかもしれない。
ちょっとヘーゲルの復習。上の予習に手を加えることにしよう。 それが終わったらcompetenceの勉強をせねば。
今日やったこと
うわ。半日以上寝てしまった。 昨日はバンドの連中と下宿でギターや歌の録音をしてたりしたら半日つぶれた。 それですっかり疲れて寝たらまた半日つぶれた。ぐわ。 やることたまってるのに。
ロック読書会終わり。翻訳の仕事にもそろそろ終止符が打てそう。 今夜は下宿で夕ごはんを作ってから、 火曜日提出のレポートの準備をしなければならない。 ああ、忙しい。院生ひまなし。
・○う○ず氏のおごりで、晩ご飯。食べすぎ。
・わ、地震っ。
・眠いので少し寝る。ううむ。何してるのやら…。
・うう、社会契約の話はよくわからん。
・ぼくはどうも死刑廃止論の議論になると、かなり感情的になるようだ。もち ろん団藤某許すまじっ、という気持ちがあるからなのだが(この怒りは相当根 深い)、しかし、し○○ず氏もおっしゃられているように、先に感情的になっ た方が負けなわけで、なるべく感情を抑えて冷静にけちょんけちょんにするよ う努めなければならないだろう。
・それにしても、「死刑廃止論者こそが真のヒューマニストなり」などと考え るやつは絶対許せないんだけど…ムカムカムカムカっ。あっ、冷静冷静っ。
・ちょっと喫茶店に行って来ます。
神の存在は信じない
イデアも信じない
生得観念も信じない
直観も信じない
善意志も信じない
一般意志も信じない
自然法も信じない
弁証法も信じない
社会契約も信じない
道徳的権利も信じない
相対主義も信じない
権威主義も信じない
利己主義も信じない
利他主義も信じない
……自分だけを信じる
……ベンタムと自分だけを
擬制の時代は終った
擬制の時代は終ったんだ
他になんて言えばいいんだろう?
擬制の時代は終ったんだ
・さすがにまだ「ベンタムも信じない」とは書けない。やはりぼくは「心理的 快楽説」を信じているし、普遍的な正しさ(正義)を決める(おそらく)唯一の原 理は、功利原理だと思うからだ。
・最近、下手な日本語を読むよりも英語を読む方が楽になって来た。しかも英 語を読む方が速かったりする。
・そもそも、英語って全部ひらがなで書かれているようなものだと思う。ただ し、ギリシア・ラテン語源のものは、ひらがなにうまく化けた漢字、というべ きものだけど。
・ベンタムの英語はかなり骨が折れるが、まあ、18世紀に出版された日本の本 なんておそらく読めないだろうから、何とか読めるだけましではなかろうか。
・ま、両方の言語(それとドイツ語!)とも、まだまだ読解力を身に付けなくて はならないことは間違いない。
・しかし、権利基底論(Right-based Theory--(功利原理ではなく)権利を政治・ 道徳の第一原理として考える学説)だけは許せん。天然痘のように、絶対に撲 滅させる。
・ん、また少し雨が降り出したようだ。
・『モーニング』でかわぐちかいじがまた書き始めた。今度はどうやら「俺が 正義だ」タイプ(ダーティー・ハリー風)の漫画らしい。
・現在、科哲の要約を作成中。落ち着けさとしっ、ききっ、気軽にやればいいんだっ。
・工事中であった冷房がついに運転可能になったらしい。
「5秒後に冷房始動っ!リモコンスイッチ用意っ!」
「了解!冷房作動リモコン準備よしっ。秒読み開始っ」
「5、4、3、2、1、スイッチONっ!」
「スイッチONっ。アチョ〜っ」(ビシっ)
(ウィィィ〜ン)
「はあ〜」
「極楽じゃあ極楽じゃあ」
・いかんいかん、レポートレポート。
・ちょっと寝た。今だレポートできず。苦しむ。
・結局レポートはまだ完成せず。
「あかん、どないしたってわいにはできまへんのやっ」
・というわけで、帰る。また明日来ます。あああ、どないしょっ。