1999年5月26日(水)の応用倫理学の授業でcompetencyに関する発表を することになったので、今から勉強します。
とりあえず某教授から参考文献を借りてきたのでこれから始めます。
ちなみに、competencyは「有能性」とか「意志決定能力」とか、 「能力」とか「法的対応能力」とかさまざまに訳されているようです。 その定義についてもこれから勉強します。 基本的には、 インフォームド・コンセントの 一側面の研究になりそうですね。
まず資料をそろえる。Encyclopedia of Bioethicsも見るべきだな。 インフォームド・コンセントの歴史も勉強しておこう。 『コンパニオン・トゥ・バイオエシックス』の "Informed consent and patient autonomy"と "Patients doubtfully capable or incapable of consent"も読もう。
某教授室にお邪魔して、さらに文献を確保する。 Encyclopedia of Bioethicsのcompetenceの項をコピー。 さ、大体これで当面の資料が揃ったので、勉強しなきゃ。
とか言いつつ、まだあまり進んでません。やばいやばいやばい。 文献読まなきゃ。
competencyまたはcompetenceの訳は、「能力」「判断能力」「対応能力」 の他に、「自己決定能力」あるいは「決定能力」というのもあるようだ。 今のところは「判断能力」か「決定能力」がわかりやすくていいと思うが、 もうちょっと検討する必要あり。
competencyと「自己決定権」の関係、competencyと「人格」の関係、 法的なcompetencyと医療におけるcompetencyとの関係なども考える必要あり。
ウェブで検索してみたが、なかなかテーマに沿ったサイトは見付けられない。 困った。
「知らない分野の勉強を始めるときはまず百科事典から」 というのは基本だと思うが、 発表を目前にしてまだ百科事典を読んでいてはいけない。 しかしなかなか進みません。助けて。
ふう。発表終わり。
朝9時すぎに大学に行き、 3コマ目直前まで必死にレジメ書き。 コピーに時間がかかって少し遅れてから発表。
論文にするにはまだまだ研究が足りないけど、 一応それなりの発表はできたんじゃないかと思う(注)。
(注: 自我の崩壊を防ぐために自己評価の基準は甘めに設定しております)
あとで某教授室に行くと、 理論的なつめが足りないので、 Bioethicsなどの雑誌から最新の研究を集めて議論を分析しろ、 とのこと。了解しました。
倫理学D1 児玉聡
目次
わたしは、他の人々と同様に、 `competence'には次のような単一の基本的で骨格となる意味があり、 そしてそれがcompetenceのさまざまな基準の基礎にあると考える。 すなわち、`X is competent to do Y'は常に `X has the ability to perform task Y'を意味する。 そこで`competence'は「課題を遂行する能力」 を意味するのである。 これがこの語の単純な定義である (そして論理的に必要十分な条件である)。 (Beauchamp, in Competency, p. 50)
これまでに見たことのある訳: 能力、有能性、対応能力、判断能力、法的対応能力、 意思能力、意思決定能力
ほかに、決定能力、決断能力、自己決定能力なども考えられる気がする。
同意に関する有能性--あるいは、意志決定能力--は、 インフォームド・コンセントの一要素としてよりも、 インフォームド・コンセントを得る慣行の前提条件としてのほうが、 より適切に記述しうるだろう。 [中略] 有能性は、意思決定を求めるべき人々と、 求める必要のない、あるいは求めるべきでない人々との間の 限界概念として機能する。(『生命医学倫理』、93-4頁)
〈自律〉と〈有能性〉の意味は大きく異なっている (自律は自己統治を意味し、有能性は課題遂行能力を意味する) が、自律的人間の基準と有能性の基準とは、 著しく類似している。このように、 自律的人間が必然的に有能な人間であるというのは、 もっともな仮定のように思われる。 (『生命医学倫理』、98頁)
一般に、「competenceの基準には、 その人が選択をできるかどうか、 その選択を人に伝えることができるかどうか、 選択をなすに当たって重要な情報と別の選択肢を理解できるかどうか、 そして選択と別の選択肢についての情報を合理的に処理することができるか、 ということが含まれる (Appelbaum and Grisso, 1988)」。
これらの基準がすべて用いられるが、 文脈に応じて異なる基準に力点が置かれる。
この基準は、決定の特定の結果よりも推論ないし意思決定の過程を強調している。 (一方、決定の過程ではなく決定内容を competenceの基準にするとパターナリスティックなものになる)
「精神的にcompetentであるとは、 同意が要求されている事柄の内容を理解する能力を持ち、 同意を与えるか差し控えるかしたときの結果を味わうappreciateことができる、 ということである」(Ontario Ministry of Health, 1987)
しかしながら、この「味わう」という要素は、 厳密な意味での認知的考慮というよりは感情的考慮を含んでおり、 competenceの基準を広げることになる。
「人は、合理的理由に基づいて理性的意思決定をくだすことができるなら、 またその場合にかぎり、有能である」(97頁)
起こりうる帰結の重大性に応じて判断能力の基準(の閾値) を上げたり下げたりする方法。
competenceの基準--少なくとも治療に同意するためのcompetenceに関する基準-- を選ぶ際に主流となっている手法は、問題となっている実際の決定に左右される。 「スライディングスケール」と呼ばれるこの方法によると、 competenceの基準は特定の決定とその危険および利益によって変動する。 当の治療の危険が増すにつれ、あるいは当の治療の利益が減るにつれ、 患者がその治療に同意するのにcompetentであるとみなされるために より大きな能力が必要とされる (Drane, 1985; Roth et al., 1977)。 たとえば、尿路感染症に対して抗生物質による通常の治療をすることに 同意することを決めるのは、 胃ガンを治すための実験的な化学療法に同意することよりも容易であり、 それゆえそれに同意するためにはより小さな能力が要求されるべきである。 同様に、治療の危険が下がるか、あるいは治療の利益が上がるときは、 患者が治療を断わるのにcompetentであると考えられるためには、 より大きな能力が必要とされる。
判断能力は次の(いわば)三つの軸によって構成される三次元空間の 位置によって決定されるべき
しかし、この方法では、 推論過程だけでなく決定内容にまで判断を加えることになり、 患者の自律性の範囲が狭められる可能性と、 医者あるいは第三者による患者への価値観の押し付けとなる可能性がある。 (Stephen Wear, Edmund L. Erdeらの指摘。 in Competence)
Robert M. Wettstein, `competence'.
まず、冒頭部分をちょっと訳しておく。
competence(判断能力)は、 医者が患者の治療同意または治療拒否を受けいれることができるための必要条件 である。 competenceは、 competentな人々に意思決定の権限を与え、 他方、competentでない人々から意思決定の権限を奪う (Beauchamp, 1991)。 患者のcompetenceがあるかどうかを決定することは、 医療やその他の状況における意思決定に患者が参加することを促進するだけでなく、 同時に、自己決定に対する尊重をも促進する。 緊急事態ではない状況においては、たいていの場合、 法的にcompetentな人々は医療行為に同意することも それを拒否することもできる。 たとえば、何年も外来で血液透析を受けている患者は、 もし当人がこの治療によるストレスにこれ以上耐えられないと判断したならば、 血液透析を打ち切り、その結果死ぬ、ということが許されうる (Neu and Kjellstrand, 1986)。 また、エホバの証人の信者は、宗教的理由に基づき、 自分の生命を救うだろう輸血を拒否しさえするかもしれない。 これとは対照的に、法的にincompetentであるか、 臨床的に無能力である(clinically incapacitated)人々の同意と拒否は、 尊重される必要はない。 心臓ペースメーカーを付けると他人に自分の行動を監視され管理されてしまう と信じてペースメーカーを付けられることを拒む精神異常の女性は、 この生命維持のための外科治療を拒否することを許されないであろう。 competenceは通常、 治療の遅れが患者にとって実質的に有害となりうる医療的な緊急事態においては 重要な問題ではない。
competenceと自律はしばしば結びついているが、 それらの意味ははっきりと区別できる(Beauchamp, 1991)。 competenceは、人が自律的に行為することを可能にする。 competentであるためには、自律的でなければならないが、 competentである人は、 たとえば他人によって強制されるときは、非-自律的に行為する場合もある。 さらに、自律的な人がincompetentに 行為する場合もある(たとえば、怠慢な仕事をする専門家)。
この項目では、competenceを定義、決定、 評価するさいに生じる問題を検討し、また、 精神治療の領域に対するcompetenceの適用を検討する。 (pp. 445-6)
もう少し訳そう。次は「定義」の部分。
定義
一般的に言うと、"competence"は単純に、 特定の作業を行なう能力、という意味である (Beauchamp, 1991)。 とはいえ、この語はしばしば、大ざっぱに捉えられ、 さまざまな意味で用いられてきた。 医療の文脈では、competenceは自律的な医療的決定を行なう能力である (competence is the capacity to make autonomous health-care decisions) (Morreim, 1991)。 competenceに関するたいていの説明では、 competenceは特定の作業や問題に関するものである。 というのは、人はある作業を行なうことはできても、 別の作業を行なうことはできないかもしれないからである。 全体的にcompetentあるいはincompetentである人はほとんどいない。 人の能力は時間とともにいずれの方向にも変化するので、 competenceは特定の時間に関するものでもある。 能力は、その能力が試される条件や状況、 またその能力を試す人にも左右される。
competenciesは、当然、あらゆる分野の機能functionに関係する (Grisso, 1986)。 医療や研究に同意するcompetenceが現在の文脈では主な関心事なのだが、 働く能力、個人的資産を運営する能力、契約を結ぶ能力、 遺書を書く能力、自立して生活する能力、車を運転する能力、 結婚し離婚する能力、子供を育てる能力、裁判で証言する能力、 などもしばしば問題になる。 法的文脈においては、competence問題は民事訴訟だけでなく刑事訴訟でも生じる (裁判を受けるcompetence、犯罪をなすcompetence、抗弁するcompetence、 判決を受けるcompetence) (Bonnie, 1992)。 法的competenciesは、 過去の意思決定(たとえば、遺書を書くcompetence)、 現在の意思決定(たとえば、裁判を受けるcompetence)、 または未来の意思決定(たとえば、自分の経済的問題を処理するcompetence) を含意する。
ある人のcompetenceは一つ以上の分野で問題になりうる。 たとえば、ガンで、鬱状態の精神異常で、夫と別居している母親の場合、 子供を育てる能力や、自分の資産を管理する能力や、 医療や精神医療に同意する能力についての疑いが生じるであろう。 彼女が勤めているとすれば、 彼女が医学的または精神的異常のせいで〆切に間に合わなかったり、 あるいは他の形で自分の仕事の義務を果たせなかったりした場合、 仕事をする能力についての疑いが生じるであろう。 彼女の弁護士か彼女の夫の弁護士は、 彼女が弁護士と相談して離婚訴訟に参加する能力を疑うかもしれない。
このように文脈化され、特定の判断に関するcompetenceの概念は、 現代西洋文化においてほとんどの成人が享有している 一般的な法的・道徳的自律を反映するような、 もっと一般的なcompetenceの概念と対比される (Wear, 1991)。 一般的な概念の下では、 特定の作業に関する場合に比べてずっと多くの成人がcompetentだと見なされる。 そこで、ある人がincompetentだと決めるのは、後者の特定の場合より、 前者の一般的な場合の方が難しい。
"incompetence"は、 ある特定の分野において行為する法的権利を法廷で失なうこと、 を意味するようになった。 このような狭い法的なcompetenceあるいはincompetenceの定義は、 より通常の臨床的なincompetenceの用法と対比される。 その用法に従えば、[incompetenceとは]人はある行為をする法的権利を持っているが、 それをなすことができない[ということである]。 臨床的competenceと法的competenceは対応しないかもしれない。 たとえば、痴呆の老人は、 車を運転したり自分の医療に関する決定をする法的権利を持っているかもしれないが、 もはやそうすることは実質的に言ってできないかもしれない。 同様に、青年adolescentは治療に同意する法的competenceを持たないかもしれないが、 臨床的あるいは機能的functionallyにはそうできるかもしれない。
ますます主流になりつつある見解によれば、 個人はさまざまな特定の能力と無能力incapacitiesを持ち、 それぞれが連続体continuumになっている。 もはや特定の役割を果たすことができなくなったとき、 その人は無能力であるincapacitatedとみなされ、 法廷でそう判決されたとき、無資格であるincompetentとみなされる。 法的に言えば、competenceの推定が存在し、 これは無能力の十分な証拠が法廷に持ち込まれたときに覆されうるものである。 しかしながら、臨床関係の文献においては、 competenceは個人の諸能力を指す(記述的定義)か、 あるいは、その個人の特定の諸能力がその人に法的な意思決定の権限を与えるのに 十分であるかどうかを指す(閾値定義threshold definition)。
最後に、通常competenceは個人の能力を指すが、 当人の行為や振舞いを指すこともある (Beauchamp, 1991)。 たとえば、一般的なcompetenceを持つ人は、 ある特定の状況においてincompetentに行為することを自律的に選ぶかもしれない (たとえば、意図的に試験に落ちる)。(pp. 446-7)
う〜ん。散慢な説明でよくわからんなあ。 次の「incompetenceに対処する」は訳す必要はなかろう。 ただし、次のとこは重要だな。
competenceは患者の選択を尊重するための必要な前提条件であるが、 incompetenceは--多くの臨床医や素人の理解に反して-- 患者の選択を無視するための十分条件ではない。 臨床医はある人がたとえ法的にincompetentであったり機能的に無能力であっても、 その人の選好を尊重しようと考えてもよく、また多くの場合尊重すべきなのである。 臨床医は幼い少年に、 両親が離婚した後どちらの親と一緒に住みたいかを尋ねてもよい。 臨床医はおそらく、痴呆の老女に、 もし法的後見人を指定する権限が与えられたとしたら誰に財産を管理してほしいか、 と尋ねるであろう。(p. 447)
ふむふむ、 incompetentだから(自己決定権がないから)と言って、 当人の意志を尊重しないでいいことにはならない、と。 その次の「competenceの基準」は重要だな。
competenceの基準criteria
competenceの基準ないし標準については、 臨床的にも、法的にも、哲学的にも、倫理的にも、国際的な意見の一致はなく、 多くの基準が用いられている。 言い換えると、 ある人が法的または道徳的にcompetentであると考えるために必要な 意思決定の能力あるいは機能的能力の閾値については、意見の一致がない。 ある特定の場合には、特定の人がある点でcompetentである、またはそうでない、 という意見の広い一致が、 臨床医と法的専門家と倫理学者の間に成立するかもしれない。 しかしながら、多くの場合で、意見の不一致が生じやすい。 部分的には、これは、competenceの決定が本質的に言って事実的、客観的、 経験的な問題ではなく、むしろ、 自律とその人に対する善行との相対的重要性に関する、 臨床医や他の人の評価による価値負荷的な判断 value-laden judgmentだという事実に由来する。 [わかりにくくて申し訳ないっす] competenceは典型的には、直接観察されるものではなく、 その人の行動や思考から推論されるのであり、 その人のcompetenceに関する評価は異なりうる。 ある人のcompetenceについての意見の違いが生じるのは、 部分的には、その人の価値観や合理性を評価する者の認識の違いによる。 もっとも通常の見解によれば、 competenceはすべての決定やすべての起こりうる危険に対して適用可能な 個人の固定的特性ではなく、 むしろcompetenceは文脈に依存し、特定の決定に関する、 個人間の過程interpersonal processなのである (Buchanan and Brock, 1989; Drane, 1985)。
competenceの基準には、 その人が選択をできるかどうか、 その選択を人に伝えることができるかどうか、 選択をなすに当たって重要な情報と別の選択肢を理解できるかどうか、 そして選択と別の選択肢についての情報を合理的に処理することができるか、 ということが含まれる (Appelbaum and Grisso, 1988)。 その人はこれからなす決定に関して重要な情報を、 抽象的にではなく、また他人に適用するのではなく、 自分自身の場合に適用できるのでなければならない。
影響力のある 「米国大統領医学および生物医学・行動科学研究における倫理的問題検討委員会」 が採用した能力capacityの基準によれば、
が要求される (U.S. President's Commission, 1982)。 この基準は、決定の特定の結果よりも推論ないし意思決定の過程を強調している。 決定の結果に焦点を合せるcompetenceの基準は、 患者の価値観よりも、患者のcompetenceを評価する人の価値観に 大きな優先権を与えているとして批判されうる。
- 一組の価値観と目的の所有
- 情報を伝達し理解する能力
- 自分の選択について推論し熟考する能力
competenceの同様の定義がカナダのオンタリオ州によって提示されている。 「精神的にcompetentであるとは、 同意が要求されている事柄の内容を理解する能力を持ち、 同意を与えるか差し控えるかしたときの結果を味わうappreciateことができる、 ということである」(Ontario Ministry of Health, 1987)。 しかしながら、この「味わう」という要素は、 厳密な意味での認知的考慮というよりは感情的考慮を含んでおり、 competenceの基準を広げることになる。
米国大統領委員会の基準において述べられているように、 個人の現在および以前の個人的価値観を評価することは competenceを評価するための本質的な要素である。 ある個人の価値観の変遷を知ることは、 その人の現在の意思決定に関わる過去の人生における主な決定について 重要な情報を得ることにつながる。 ある人のcompetenceについての判断は個別的でなくてはならないが、 それはその人の知識や技術や認知能力だけを反映するのではなく、 その人の態度や価値観の変遷に従うものでなければならない。
competenceの基準が時間を経ても変わることがないと考えるのは非現実的である。 competenceの基準は、 社会が自律の尊重と個人の幸福に対する配慮という競合する二原理の衝突を解決を 模索するにつれ、発展していくものである。
competenceの基準のスライディングスケール
competenceの基準--少なくとも治療に同意するためのcompetenceに関する基準-- を選ぶ際に主流となっている手法は、問題となっている実際の決定に左右される。 「スライディングスケール」と呼ばれるこの方法によると、 competenceの基準は特定の決定とその危険および利益によって変動する。 当の治療の危険が増すにつれ、あるいは当の治療の利益が減るにつれ、 患者がその治療に同意するのにcompetentであるとみなされるために より大きな能力が必要とされる (Drane, 1985; Roth et al., 1977)。 たとえば、尿路感染症に対して抗生物質による通常の治療をすることに 同意することを決めるのは、 胃ガンを治すための実験的な化学療法に同意することよりも容易であり、 それゆえそれに同意するためにはより小さな能力が要求されるべきである。 同様に、治療の危険が下がるか、あるいは治療の利益が上がるときは、 患者が治療を断わるのにcompetentであると考えられるためには、 より大きな能力が必要とされる。
治療上の意思決定においては competenceの基準に対してスライディングスケール手法がよく用いられるとはいえ、 この手法を用いることにはいくつかの問題が伴なう。 治療を支持する医療の専門家--と社会--の強い偏見があることを考慮すると、 心配になるのは、専門家がcompetenceの基準を操作あるいは選択的に用いて、 その結果、治療に同意する人をcompetentとみなし、 治療を拒否する人をincompetentとみなすのではないか、ということである。 可変的基準法に関するもう一つの心配は、 直観に反して、患者は特定の治療に同意するにはcompetentであるとみなされるが、 同一の治療を拒否するにはincompetentであるとみなされうる、 ということである (Buchanan and Brock, 1989)。 このようなことが起きうるのは、 治療を拒否するのはそれに同意するよりも複雑だからであるが、 しかしここでも治療支持protreatmentの偏見は明らかである。 (pp. 447-8)
というわけで今は「スライディングスケール」法が主流らしい。 次の「competence評価」というとこも重要かな。
competenceの評価assessments
臨床医はしばしば日常的な仕事で、患者のcompetenceについての 略式の判断をする。 しかし場合によっては、 たとえばcompetentかどうか疑わしい患者による治療拒否あるいは同意のようなときは、 正式で詳細な評価が必要となる。 competenceの評価は問題となっている特定分野の機能に焦点を合せるべきである。 全体的ないし一般的なcompetenceの評価はさしあたっての問題に十分応えるものとは 言えないことが多い。competenceの評価を行なうにあたって手続き的に考慮すべき 事柄のなかでも、 試験の時間と場所、そして再試験の必要性が特に重要である (Weiner and Wettstein, 1993)。 これらの評価はときに、文書による指示的ないし形式的な機能評価一覧表や、 観察による機能評価 (たとえば患者が食料品の買物に行ったり食事を用意したりするのを観察する)や、 心理学的な試験や、正式な精神医学上の面接を用いたりする。 家族や友人や他の治療に関係する人などの第三者的な情報提供者から 患者の経歴を聞いたり二次的な報告を作成することは、 評価対象である人との個人的接触に対する貴重な追加情報となりうる。 試験官は特に、患者の意思決定に関する情報と、 個人の自律、治療、障害、死などについて患者が抱いている価値観に関する情報を 得られるように注意する。 難しい事例においては、 同僚の医者に相談することやセカンドオピニオンも試験官の役に立つであろう。 一般の医療病院においては、competenceの評価はまず精神科医ではない医者によって 行なわれる。 必要であれば、精神科医の相談相手が評価の手伝いをするために要請される。 (p. 448)
あと省略。ただし、 「患者がcompetenceを持つことは患者が治療を拒否するまでは疑われない」(p. 448) というのはたしかに問題になりうるよな。
その次の「competenceと精神治療」という節では…。 「精神異常であるからといって必ずしもincompetentであるとは限らない」 ふむふむ。
「入院した精神病患者が精神安定剤を服用することを 拒むcompetenceがあるかどうかは、大きな問題となっている」ふむふむふむ。
「自発的に入院してきた患者がなんらかの理由から治療を拒む場合、 その意志は緊急事態でなければ尊重されるべきである」ふむふむ。
ふむふむ。裁判や刑罰においてもcompetenceは問題になるんだな。 「裁判所はまだ死刑囚をincompetentと判断するためのcompetence基準を 作っていない」(p. 450)。ふむふむ。
「結論」の部分も重要だな。 「人をincompetentと決めることは汚名をきせることになりうるし、 自己決定権を奪いさる」。ふむふむ。 「しかし能力のない人が自分にとって最善でない判断を行なうのも 困ったことだ」。ふむふむ。 「そこで問題は、人々が自分で有害な選択をすることを防ぎつつ、 いつ、どのようにして人々の選択を尊重し意思決定の自律性を最大化するか、である」 (p. 450)。なるほど。 この人はcompetenceの問題が「自律の尊重」と「善行」 という二大原則の対立によって生じる、と捉えてるわけだ。ふむふむ。
`Assessing Patients' Capacities to Consent to Treatment',
それにしてもこのアッペルバウムっていう人はcompetence問題を いろんなとこで書いてるな。
判断能力のある患者は、提示された治療に同意するか拒否するかを決める権利を持つ。 判断能力が欠如していると考えられる患者はこの権利を否定され、 そして他の人がその患者の代わりに決定する。 判断能力は法的な概念である; それは正式には法的手続を通じてのみ決定することができる。 しかしながら、実際のところ、 医者は、治療に関する患者の決定を正当なものとして認める前に、 患者の意思決定能力に関する何らかの評価をしなければならない。 また、意思決定における実質的な欠陥が明らかな場合は、 「判断能力が欠如しているのではないか」と医者は問うてみなければならない。 (p. 1635)
どこで判断能力の有無の境界線を引くべきかを決定することは法廷によって 決められる社会的な判断であり、 それは患者を悪い決定の帰結から守ろうとする欲求と患者の自律を守ろうとする 欲求の釣合を反映するものである。(p. 1637)
このように自律的人間が意思決定者になるのは正しい という道徳的原則を根拠として、自律的人間--法的能力をもつ人-- にはICをあたえることをみとめ、 非自律的人間--法的能力をもたない人--にはみとめないというかたちの 入口固め (gate keeping) が成立する (233頁)
能力について多くの文献に混乱がみられる。 それは著者たちが一般的能力の基準と 特定の仕事にたいする能力 --痛みに苦しんでいるとき、ある特殊なかたちと程度の危険をともなう 特定の医療処置を受ける意思決定をする能力のような--の基準のあいだ で無批判に往き来するからである。
「特定の能力」という概念は、 無能力のあいまいな基準のあいまいな一般化によって、 実際は能力ある人が、 ICをあたえることや拒否することなど、 問題となる仕事から排除される危険を減らすため、 法律や政策のなかにとりいれられてきた。 (234頁)
たしかにそうなんだけど、かといって全部が全部「特殊的」と言ってしまうと、 判断能力に関する一般的な基準を作ることができなくなってしまう。 そうすると医者の恣意的な判断が入りこむ余地が大きくなるわけだし…。
患者や被験者の能力の判定のさいに、 評価上の取り引きは通常ふたつの原則のあいだ --自律性尊重の原則がそのひとつで、善行(beneficence)が他方-- で行なわれる。
この評価で、自律性尊重より患者の医療上の福利(welfare)を (私たちのいう善行モデルにもとづいて)優先する人たちは、 同意の能力、限界、テストについて、 保守的で厳格な議論をするだろう。 これと対照的に、健康や安全よりも自律性尊重の原則(自律性モデル) の優先性にくみする人たちは、一連の、 より自由で柔軟な能力の基準について論ずると思われる。 (236頁)
要するに判断能力の基準を決めるさいに考慮されるのは、 当事者本人の自律の尊重と最善の利益の二つだ、と。 この「自律」と「善行」ないし「最善の利益」がつなひきするわけですな。 しかし、この二つの道徳原理が衝突したときに決定的な解はない、 とビーチャムは言うわけですか。ううむ。義務論者め。
本書の第二章では、 competenceを「法的対応能力」とし、 この語を法律に限定した意味で用いている。 そして、臨床の現場における判断能力の有無を、 「精神的判断能力 (mental capacity)」と、 「精神的判断能力の欠如 (incapacity)」という風に呼んでいる。
法律は成人には対応能力があると見なしているが、 対応能力に欠ける、 すなわち法律的に金銭の管理やヘルスケアについての決定を自分で 選択できないという判断を裁判官がくだした場合は例外とされている。 しかし医療従事者は、 法律的には対応能力はあるが、病気、不安、痛み、 入院などによってその精神的判断能力が衰えたり、 弱まったりしている患者にであることがある。 このような臨床上の状態を、 法律上の「対応能力」があるかどうかを決定することと区別するため、 「精神的判断能力」(mental capacity) あるいは「精神的判断能力の欠如」(incapacity)とよびたい。 普通両方の用語を同じ意味に使うので混乱が生じることもある。 精神的判断能力の有無の評価をインフォームド・コンセントのプロセス に不可欠な部分とするのが適切であろう。(44-5頁)
もっともな提案なのだが、 legal competenceとclinical competenceという区別でもなんとかなる気もする。 (上の点に関してはビーチャムの批判あり。 Beauchamp in Competency, pp. 71-2)
あと、判断能力の有無の判断に関するいくつかのケーススタディもあり、 ためになる。
とりあえず、法的文脈でのcompetenceの意味を調べてみようと思い、 『英米法辞典』のcompetence, competency, competentの項を見ると、次のようになっている(173頁)。
その他に、 competent evidenceというと「証拠能力のある証拠」、 competent witnessというと「証言能力のある証人」という意味になるらしい。
こないだの飲み会のとき、 某教授は 「competenceに関する議論はおれがエンゲルハートに会ったときに 問題提起したことから始まったんだよ」と言われていたが、 その経緯がこの本に書かれている。
環境倫理学の勉強をしようと思ってたまたまこの本を見たら以下の記述を 見つけたので(発表の前に見つけて)幸運だった。
「対応能力」(competence)とは、もともと「競争して、張り合う」 (compete)能力のことである。だから「対応能力」と訳したのだが、 内容の上からは「判断能力」と訳した方がわかりやすいかもしれない。
[中略]
この言葉がなぜ[生命倫理学の]陰の主役になっているかと言えば、 自己決定能力の有無を論ずるときに、 対応能力の有無という形で語られるからである。 アルツハイマー病の患者が、対応能力を失ったとき、 彼は人間としての本来の意味での権利を失う。 だから、この言葉は人間と生きた屍との境目を決める言葉なのだ。
[中略]
私自身は、次の三つの条件を「対応能力」の目安と考えている。
- 「はい」とか「いいえ」とかの、 応答を言葉や態度で示すことができる。
- 自分が「はい」と言うと、相手に何をされるかがわかっている (注射をしてもらうとか、身体を拭いてもらうとか)。
- 自分が、どういう返事をしたかを覚えていられる。
この基準は高すぎると批判した医師もあったが、 アメリカで語られている「対応能力」の内容はもっと高いと思う。 例えば「過度に感情的な態度をとらない」 というような内容が想定されていることもある。 (146-8頁、[ ]内は児玉による)
しかし、この基準だとかなり幼い子供でも対応能力を持つことになりうるが、 それでもいいんだろうか。
この本でもエンゲルハートの議論を受けて「対応能力」が論じられている。
道徳的判断能力をもつ自己意識的理性的存在者というのが「人格」の定義である。 要するにまともな判断力をもった人間のことである。
それはしばしば「対応能力」(competence)という言葉で表現される。 この言葉が「人格としての能力」とほとんど同じ意味で使われる。 人格は他の人格に対して、対応・応答する能力、すなわち責任能力をもち、 人格同士は互いに匹敵し、対等に対応し合う。(90-1頁)
第三章「インフォームド・コンセント」 のところにちょっと「判断能力」についての説明がある。 これを書いた人(金川琢雄氏)は法学者らしい。
二〇歳以上の成人については、判断能力があると推定してよいとするのが一般的です。 成人であっても精神障害者、精神薄弱、昏睡状態のものなどは常に判断能力が あるとはいえないわけですが、通常成人はあるものと推定してよい。
未成年であっても、満一五歳を越えるものは、民法上、遺言することができる (民法九六一条)から、判断能力があるとする学説や、 また刑法上、一四歳未満のものには刑事責任能力がない (刑法四一条) ことから、一四歳以上のものには判断能力がある、とする学説もあります。 しかし、私は、その判断能力は、なされようとする治療行為の種類、 程度、 危険性や本人の成熟度などにより個別的に決めなければならないと考えています。 すなわち、検査のために採血するための説明、同意を取得しなければならない場合と、 胃がんなどで胃全摘出切除手術の場合とでは、 その必要性や危険性の判断について、 判断能力に差を設けるのは当然だと思うのです。 検査のための採血の場合であれば、 一三歳でもその必要性、危険性についての理解ができるであろうし、 それについて同意する判断能力があるとみてよいと思われますが、 胃全摘出手術であれば、やはり成人の判断能力が必要だと思われます。
精神障害者であっても、このことは同様に考えられますし、 また、精神障害にも程度の差がありますから、 その者にその治療行為についての判断能力があれば、 本人のインフォームド・コンセントを取得すべきことは 当然といわなければなりません。… (65頁)
するとこの説明によると、
という二本立てで行くわけだ。 これは一見うまく行きそうだが、 このような判断基準を医療以外の場でも使うことができるかどうか、 という問題があると思う。 特に「未成年者にはスライディングスケール」 というのは問題が多そうだ。
某教授室にある。なかなか良いこと言ってたりする。
倫理的原則
……委員会の分析では、3つの基本的原則が重視されることとなった。 それは、
ということである……。(86-87頁)
- 人々の幸福は押し進められるべきであり [幸福well-beingの原則]、
- 人々の価値観や選択権は尊重されるべきであり [尊重respectの原則]、
- 人々は公平に処遇されるべきである [公平性equityの原則]、
幸福と自己決定の均衡
時に人は、自分の幸福を増進しないように思えることを選択することがある。 この2つの価値観が明らかに葛藤を起すときに一般的に下される結論は、 その個人は選択する力がないとしてしまうことである。 その個人にとって何が客観的に"最善"であるかを判断する専門的な能力を 持つものの眼には、"誤り"とされる決定を下したからである。 しかし、委員会がとった立場は、患者は直接あるいは適切な "インフォームドコンセント"の過程によって、 自分自身の医療について意志決定をする能力があると強く推定すべきだ ということである。 ある個人の選択が、同じ状況にある他の大多数と異なっていても、 さらに言えば、"正しい医学的判断"と違っていたとしても、 それをもってすぐにその個人が問題になっている意志決定と決定に基づく 行動を行えないということにはならない。 しかし、その患者が自分の置かれた状況下で、 自らの幸福 (それを定義するのは患者である) を進める能力があるかどうか検討する継起とはなろう。
この検討の結果、ある人は自己決定ができないということになることもあろう。 この場合には、幸福の原則がより大きな役割を演ずることになる。 さらに年少者や、感情的・知的能力が低いものなどの場合は、 部分的あるいは全面的に自分を守るための意志決定を行うことができない。 この場合は、その個人が、十分な能力を有するならば選ぶであろう判断を、 他のものが代行しなければならない。 何を行うべきかそれでもはっきりしない場合には、 その者の幸福を進めると思われるのは何かを代って決定してやらねばならない。 この考え方は合理的に見えるが、実際には、 しばしば問題を起す。 アメリカ社会における個人主義の価値はそれほど大きいのである。 (90頁)
ビーチャムが書いてんじゃないかと思っちゃうよね。