(そうたいしゅぎ relativism)
「物事が正しいとか正しくないとかという判断は、 たいていの場合、判断する人の環境がもとになるのよ。 もともと、 それ自身が正しかったり、悪かったりするものなんてほとんどないわ。 物事の正邪というものはその社会の文化に左右されるのよ。」
---ロバート・ハインライン、 『銀河市民』、213頁
「いずれにせよ、あらゆる絶対的な視点を拒否する私のような相対主義者は、 クローン問題に対してすら全社会が一致して守るべき絶対的な基準はないと 考えている。」
---西川伸一
Having a clear faith, based on the Creed of the Church, is often labeled today as a fundamentalism. Whereas, relativism, which is letting oneself be tossed and "swept along by every wind of teaching," looks like the only attitude (acceptable) to today’s standards. We are moving towards a dictatorship of relativism which does not recognize anything as for certain and which has as its highest goal one’s own ego and one’s own desires.
---Pope Benedict XVI
今日の先進諸国に住む人々の多くがわずらっている病気。 特効薬はまだ見つかっていない。
18/Apr/2001
時代や文化がちがえば道徳も異なるという考え方を(道徳的)相対主義という。 もっと極端な場合は、道徳は特定の社会集団、 さらには個人ごとに異なると考える人もすくなからず存在する。
上のいずれかの形の相対主義を信じる人は、 ある種類の人々は別の種類の人々に対して「こうこうすべきである」と 主張することはできない、という風に考えている。 たとえば、西洋の人権思想を中国に当てはめて考えることはできないとか、 老人が若者のやることに口出しすることはおかしいとかいうのがそうである。
もっとも、 この相対主義は道徳についての理解不足に生じていることがしばしばである。 たしかに、西洋と中国ではそれぞれ異なった法体系を持っているように、 社会の人々が守っている道徳律も異なる。 この実際にみなが守っている道徳を実定道徳 と呼ぶ。
けれども、中国の道徳を批判するさいに、 この事実を否定する人はまずいない。 道徳には別のレベルがあり、 実定道徳を批判するさいに用いられる道徳基準を実定道徳と 区別して批判道徳と呼ぶ。 たとえば日本人が日本の道徳を批判することは十分に考えられる (「日本では死刑が許されるとおおぜいの人が考えているが、 それは誤っていると思う」)。 このとき、批判者が行なっていることは、 日本の道徳によって日本の道徳を裁いているのではなく、 社会の実定道徳を、それとは区別された批判道徳によって批判しているのである。
道徳の相対主義を批判する人は、実定道徳のレベルでは社会や個人ごとに 異なる道徳が存在することは認めても、この批判道徳のレベルでは一定の 同意が得られると考えている。もちろんこのような立場を批判することもできるが、 「西洋人は中国人の道徳について口出しすべきではない」 という道徳判断自体が、相対主義ではなく道徳の普遍性を 認めていることに注意してほしい。
懐疑主義の項も参照せよ。 また、黒木玄氏による「相対主義に関するよくある質問」も参照のこと。
11/Jun/2001; 18/Jun/2001更新
上の引用は以下の著作から。