善に対する正の優越

(ぜんにたいするせいのゆうえつ the priority of the right over the good)

This liberalism says ... that what makes the just society just is not the telos or purpose or end at which it aims, but precisely its refusal to choose in advance among competing purposes and ends. In its constitution and its laws, the just society seeks to provide a framework within which its citizens can pursue their own values and ends, consistent with a similar liberty for others.

---Michael Sandel

The distinction between promoting and honouring a value is version of the analytical distinction between having a consequentialist and a deontological attitude towards the value. ... It is a different distinction ... from that which John Rawls assumes when he argues for the priority of the right over the good. Rawls is anxious, not to stake out a deontological position, but rather to emphasize that the basic structure should be capable of neutral justification, without reference to the particular conceptions of the good life entertained among the population. It is unfortunate that he should use the terminology of the right and the good to make this point.

---Philip Pettit


一見しただけでは何が言いたいのかわからないが、 ロールズ以降、 自由主義の中心的な考え方となっている重要な標語。

各人はそれぞれが善き生について自分なりの意見を持っている。 これを最近はconception of the good (善の構想)、 あるいはconception of the good lifeなどと呼ぶ。 つまり各人の人生設計のことである。 哲学者として冥想して生きていこうとか、 バクチで身を立てようとか、 安全な人生を歩むために公務員になろうとか、等々。

自由主義社会においては、善の構想の複数性(多元性)を認め、 政府は「これぞ最高の善の構想です。これを目指して生きなさい」 というような押しつけはしてはならないと考えられている。 すなわち、各人は、他人の自由を侵害しないかぎり、 自分の善の構想を追求することが許されている。

このような状態、すなわち、社会の制度が、 唯一の善の構想に従って作られているのではなく、 各人が公正な社会の中で自由に自分の考えに従って人生を決められるという状態を、 「善に対する正の優越」と呼ぶ。 つまり、社会的正義は、ある一定の善の構想に依存しないということ。

ちなみにマイケル・サンデルは、「善に対する正の優越」 には二つの意味があると説明している。 一つは、個人の権利は社会一般の善のために犠牲にされてはならない (功利主義批判)、 という意味で、もう一つは、上で述べたように、 これらの権利を規定する正義の原理は、 いかなる特定の善き生の考え方をも前提しない、という意味である。 (see `The Procedural Republic and the Unencumberd self')

ところで、「善に対する正の優越」 という発想はカント的で功利主義的でない、 という風にふつう考えられているようだが、 この考え方には若干誤解があると思う。 ベンタムにしろ、 J.S.ミルにしろ、 幸福を唯一の善としたが、 彼らは「幸福が唯一の善だ」という主張によって、 ある特定の善の構想を勧めているわけではない。 むしろ彼らは、何に幸福を見いだすかは各人の自由であり、 人々は他人に危害を与えないかぎりにおいて、 それぞれ幸福(善の構想)を追求するのが社会のあるべき姿だと考えていた。 だから、 最大多数の最大幸福が社会制度を決める原理であることにはまちがいないが、 「功利主義では、ある特定の善の構想によって社会制度が決まる」と言ってしまうと、 誤解を招くことになる。

17/Feb/2001

07/Aug/2004追記: 「正right」というのは、正義justiceあるいは権利rightと 読みかえてやるとわかりやすい。そのように理解すると、「善に対する正の優 越」とは、要するに、自由主義的な社会運営においては、効率(=功利主義的な 総和最大化)よりも正義や権利が優先されるという主張である。

20/Oct/2005追記: サンデルの言うもう一つの意味 (個人の権利は社会一般の善のために犠牲にされてはならない)について補足。 これは、義務論功利主義の本質的な違いを述べている。 すなわち、義務論は、「生じれば善いこと」と、「自分がなすべき正しい行為」 を切り離して考え、「そういう状態が生じれば善い(望ましい)ことであるが、 わたしがそれを生み出す行為をなすことは正しくない」と言ったり、 「そういう状態が生じるのは望ましくないことであるが、 わたしがそれを生み出す行為をなすことは正しい」と言ったりすることが 可能である(後者については二重結果論も 見よ)。

これに対して、功利主義においては、 社会の幸福の最大化が善であり、それを生み出す行為は正しいとされるので、 善と正のあいだに概念的な結びつきがある(正は善によって定義される)。 しかし、上で述べたように、だからといって、 功利主義は各人の善の構想を押し付けるような社会設計をするわけではない。


関連文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Wed Aug 22 17:39:02 JST 2012