(りばたりあにずむ libertarianism)
Instead of embracing the [liberal] ideal of equality and the general welfare, libertarianism exalts the claim of individual freedom of action, and asks why state power should be permitted even the interference represented by progressive taxation and public provision of health care, education, and a minimum standard of living.
from Thomas Nagel, `Libertarianism Without Foundations', Reading Nozick (Jeffrey Paul ed., Blackwell, 1981), p. 192.
個人の自由は、 (経済的)平等や公共の福祉といった政治的目標に優先するとする立場。 完全自由主義。自由至上主義、自由尊重主義などとも訳される。
リバタリアニズムは、 個人の自由を最大限に尊重し、政府による個人の干渉は最小限にすべきだとする。 この主張の背後には、 自由市場の働きに対する信念、 すなわち政府は経済活動に手を出さず個人の自由な営みに任せておいた方が うまくいくという考えがある。
そこで、通常、 自由主義が社会的正義の名の下に福祉政策、 富の再配分、 アファーマティヴ・アクション などを認めるのに対し、 リバタリアニズムはこれらをすべて政府による個人の自由の侵害だ として反対する。
歴史的には、「リベラル」という言葉は、現在のリバタリアニズムに当たる 意味で用いられていた(個人の自由を強調し、政府の介入を極力排除しようとする 古典的なリベラリズム)。しかし、現在「リベラル」というと、 社会的正義を唱え、福祉国家による弱者の救済を主張する立場を指す場合が 多いため、この立場と区別するために、「リバタリアニズム」という言葉が 用いられる。
11/26/99; 22/Aug/2001; 30/Aug/2004
この立場の主要な論者は、ロバート・ノージックである。 彼は『アナーキー・国家・ユートピア』において、 完全自由主義の立場を次のように正当化している。
まず、各人は絶対的な自己所有権を持つ。 すなわち、 自分の身体と、自分の財産は、自分が同意しないかぎりは、 他者によって侵害されることは許されない。
この自己所有権から、 「他人の権利を侵害しないかぎりは、どのように行動しようと自由である」 という自由主義が正当化される。
しかし、それだけではなく、 国家も、各人の所有権を侵害してはならない。 国家がすべきことは、各人の所有権が侵害されないように取り計らうことと、 侵害された場合に補償が行なわれることを確実にすることだけである。 このようにして最小国家(minimal state)が正当化される。
(18/Jan/2001追記)
(以下、11/Jan/2001の日記から)
完全自由主義については、 完全自由主義を採用しているL国の官僚と話す機会があったので、 その会話を再録しておこう。
「L国では、麻薬が禁止されていないそうですが」
「他人に危害を加えないかぎり、何をしようと個人の自由ですからね」
「シートベルトも締めなくていいとか」
「シートベルトをつけていないせいで死のうと死ぬまいと、 個人の勝手ですから」
「ギャンブルもやりほうだいだとか」
「ギャンブルで身を滅ぼそうと一山あてようと、個人の勝手でしょう」
「郵便局も鉄道も高速道路も図書館もすべて私営だそうですね」
「そういうことに政府が関与すると、 税金を市民の安全を守る以外の目的で使うことになり、 市民の所有権を侵害することになります」
「公立学校もないそうですね」
「国民健康保険も国民年金もありません。 国家は市民の安全を守るだけです」
「では、銃規制についてはどうですか」
「拳銃の所有は個人の自由です。 もちろん他人に危害を加えた人間は逮捕されますが」
「なるほど。では、家の裏庭に核ミサイルを設置してもいいのですか」
「他人に危害を加えないかぎりは自由です」
「ボクシングは禁止されていますか」
「いえ、たしかにこのスポーツは他人に危害を加える可能性が高いですが、 当人同士が同意しているなら、相手に危害を与えても許されます。 個人の自由ですから」
「同意していたら奴隷にもなれるんですか」
「なれます。売春も同意していれば許されます。個人の自由ですから」