(かいらくせつ hedonism)
快楽を重んじる説。英語ではhedonism(ヘドニズム)という。
快楽説は、通常、心理的快楽説と倫理的快楽説とに区別されるが、 その区別については利己主義を参照せよ。 (28/Jan/2000 追記)
「関嘉彦氏は、 ベンタムの心理的快楽説に対する批判を説明するさいに次のように述べています。
人間はすべて快楽を求め苦痛を避けて行動するという事実判断の命題は、 人間の行為をあまりに単純化している。昔の日本人は、 はずかしめを受けると切腹したが、切腹は快楽であるか。 もしそれをすら快楽というなら、その快楽というのは、 その人が選ぶものまたは意欲するものと同じことではないか。
『ベンサム、J.S. ミル (世界の名著49)』 (関嘉彦責任編集、中央公論社、1979年、27頁)
人間はすべて快楽を求め苦痛を避けて行動するという事実判断、 これが心理的快楽説ですね。しかし、この批判によれば、 われわれはかならずしもこのようには行動しないわけです。 その一例が切腹であり、 切腹というのは快楽ではなく苦痛を欲して行動しているわけで、 もしベンタムが切腹という行為すら『快楽を欲して行為している』 と言うのであれば、ベンタムは定義上、『欲求するもの=快楽』 とみなしていることになる、というわけです」
「まあ、そういう批判があるから現代の功利主義者は『快楽』 という言葉を用いずに『選好』 という言葉を用いるんだろう」
「しかし、この批判は皮相的だと思いませんか」
「どうしてだ」
「だって、『切腹は快楽であるか』というような批判は、 そんなことベンタムだってミルだって考えたに違いないでしょう。 たとえば『安楽死は快楽であるか』という問いを考えた場合、 もちろん安楽死そのものは快楽ではなく、苦しいものに決まってますが、 それ以上の苦しみを避けるために安楽死を選ぶんでしょう?」
「それはそうだろう」
「三島由起夫だって、 切腹そのものが快楽だと思って腹を切ってみせたわけじゃないでしょう。 『お国のため』とかその他のある高い目的があって、 それに対して貢献しなければいても立ってもいられないから 腹を切ったのではないですか。ミルが言うように、
せんじ詰めれば、この自己犠牲はなにかの目的のためでなければならぬ。 自己犠牲は自己目的になれないのである。 幸福ではなく、幸福よりもさらに善い徳が目的だというのなら、 私はたずねよう。英雄なり殉教者なりは、 他人に同じような犠牲を免れさせると信じたからこそ犠牲となったのではないか。
(同、477頁)
というわけです。また、 のちに快楽説のパラドクスとして 定式化されるように、禁欲的な生活も、間接的な仕方で快を追求していると 見なすことができるわけです。ミルはこう言っています。
逆説を弄するようだが、意識的に幸福なしでやろうと努力することは、 人間の力で達成できる幸福を実現してゆくうえで最善の見とおしを与えるものだ といおう。というのは、この意識こそ、人間に、最悪の宿命や悪運でさえも 人間を屈服させる力をもたないと感じさせ、 人生のめぐりあわせに超然たらしめるものだからである。 いったんこう感じれば、人は人生の諸悪についてくよくよすることから解放される。 そして、ローマ帝国の最悪の時期にめぐりあわせた多くのストア派の哲人のように、 平静のうちに手近な満足の源泉を開発し、それに避けがたい終局があることに 心を悩まさず、さらにそれがいつまで続くかについても思い わずらうことがなくなるのである。
(同、477頁)
というわけです。したがって、 切腹のような身体的・精神的に大きな苦痛であっても、 切腹をしないことによって生じるより大きな苦痛を 避けるために行為していると理解すれば、 『人間はすべて快楽を求め苦痛を避けて行動するという事実判断の命題』 は成り立っていると言えると思います」
「う〜ん、なんだかだまされた気がするなあ」
「この議論についての再批判もありますが、 それはまたにしましょう。あと、ついでに言うと、関氏は上の引用に続いて、
その場合、その快楽が善であるとすれば、人は自分の好むままにすることが 善であるということになり、道徳の必要も法律の必要もなくなってしまう。
(同、27頁)
と述べていますが、これは行為の『善さ』と行為の『正しさ』 を区別しない甚しい誤りで、 結果としてこの批判はベンタムに倫理的利己主義の立場を 帰していることになります」
「よくわからんぞ」
「たしかに、この批判にあるとおり、ベンタムの考えでは、 各人は常に自分にとっての善を追求しているわけですが、 ある人にとっての善は他の人にとっての悪になりうるわけです。 たとえば、マシンガンを学校に持っていって発砲するというのは 当人にとっては至高の善かもしれませんが、 他の人にとっては考えられるかぎり最悪の事態であるわけです。 もちろんベンタムはこのような場合に『道徳の必要も法律の必要もない』 などとは言わないわけで、各人の善悪すなわち快苦を合計して、 やって良いこととダメなことを決めるわけです」
「なるほど、あんたにとってどんなに善いことでも、 全体の利益に反するなら、あんたの行為は正しくない、 というわけだな」
「そうです。だから、 ベンタムは『各人は常に自分にとっての善を追求している』ことは認めますが、 だからといって、各人の行為が常に正しい、とは言わないわけです」
02/May/2001