快楽説のパラドクス

(かいらくせつのぱらどくす the paradox of hedonism [hedonistic paradox])

「賞というのは一生懸命やった結果を認めてもらうものだ。 取りに行くものではない」

野依良治、2001年ノーベル化学賞受賞

"Men can only be happy when they do not assume that the object of life is happiness."

---George Orwell


バトラーは、 「人は自分の幸福や利益に配慮すればするほど幸せになれるのか」 という問いを考察し、自分の幸福に対して配慮しすぎると、 むしろ幸福になりそこねてしまうと主張している。 「パラドックスに聞こえるかもしれないが、 確実に言えることは、 自分自身に対する過度の関心や配慮を持たないよう努力すべきだというのは、 自愛の思慮ですらあるということだ」 (バトラー、第11説教)。 このように、自分の快ないし幸福の意識的な追求が、 かえって目的達成のための障害になってしまうことを、 快楽説のパラドックスと呼ぶ。 シジウィックも同趣旨のことを述べている。 (シジウィック、Methods of Ethics (第七版)、pp. 136, 403)

また、 J・S・ミルも同じ趣旨のことを次のように述べている。

逆説を弄するようだが、意識的に幸福なしでやろうと努力することは、 人間の力で達成できる幸福を実現してゆくうえで最善の見とおしを与えるものだといおう。 というのは、この意識こそ、人間に、 最悪の宿命や悪運でさえも人間を屈服させる力をもたないと感じさせ、 人生のめぐりあわせに超然たらしめるものだからである。 いったんこう感じれば、人は人生の諸悪についてくよくよすることから解放される。 そして、ローマ帝国の最悪の時期にめぐりあわせた多くのストア派の哲人のように、 平静のうちに手近な満足の源泉を開発し、それに避けがたい終局があることに心を悩まさず、 さらにそれがいつまで続くかについても思いわずらうことがなくなるのである。

功利主義論』 (関嘉彦責任編集、『ベンサム、J.S. ミル (世界の名著49)』、 中央公論社、1979年、477頁)

私の、 幸福があらゆる行動律の基本原理であり人生の目的であるという信念は 微動もしなかったけれども、 幸福を直接の目的にしないばあいに却ってその目的が達成されるのだと、 今や私は考えるようになった。 自分自身の幸福ではない何か他の目的に精神を集中する者のみが幸福なのだ、 と私は考えた。 たとえば他人の幸福、人類の向上、あるいは何かの芸術でも研究でも、 それを手段としてでなくそれ自体を理想の目的としてとり上げるのだ。 このように何か他のものを目標としているうちに、 副産物的に幸福が得られるのだ。…。 自分は今幸福かと自分の胸に問うて見れば、 とたんに幸福ではなくなってしまう。 幸福になる唯一の道は、 幸福をでなく何かそれ以外のものを人生の目的にえらぶことである。

J・S・ミル、『ミル自伝』、朱牟田夏雄訳、岩波文庫、1960年、128頁

ま、一般的に言って、目的を意識的に追求したらよけい目的を達成できなくなる ということはよくあることであり、たとえば、 結婚しようと思えば思うほど結婚できなくなったりするというのもよくある話だから、 ことさらに取り立てて快楽説のパラドックスと言うほどでもない気もする。

参考文献

(04/May/2001 更新)


上の引用は以下の著作から。



KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Thu Aug 14 16:39:31 JST 2014