2005年までの侃々諤々
ヲコト点 菉竹 2004/04/15
明治書院『漢字百科大事典』32ページに8種類が掲載されています。
ご存知だとは思いつつ……
乎古止点 神麴齋 2004/04/16
乎古止点にはいろいろ有って、右の半ばに短い短線というのも有るらしい。とすると、(「一中分命」の)一画多そうにみえる文字も、やっぱり分で良いのかも知れない。そのつもりで見れば、何だか墨色も違うみたい。やっぱりカラー写真が欲しい!!
中央公論社『日本語の世界』5 菉竹 2004/04/17
中央公論社『日本語の世界』5 仮名 昭和56年刊 築島裕
p121 ヲコト点……平安中期十世紀には仁和寺にも行われていた。
p240 仁和寺系列では、最初は第五群点(右上ヲ・右下ハ・左上ニ・左下テ)西墓点・喜多院点などが用いられていたようだが、やがて円堂点が創(なんと訓ずるか知らない)められ……
p247 丹波家の点本としては、○黄帝内経太素…… 又、藤原家の点本としては、○医心方 半井氏……これらは、ヲコト点を朱筆で、仮名を墨書で示す……又、ヲコト点に、何れも第五群点を使用した(但し家によって細部の異同があった)……が、仮名字体の上で、若干の共通した特性があることが注目される。
仮名字体附表58に太素で使われている仮名が掲載されています。
たとえば 菉竹 2004/04/17
たとえば、2-17-2「下交通」の「通」の右にある仮名は「せ」のようです。
たとえば 菉竹 2004/04/17
2-17-7「數至」の「數」の右にある仮名は「シハ」。「至」の右にある縦棒「丨」は「リ」です。
? 菉竹 2004/04/25
>楊上善には前科が有る。例えば胳。
この意味がわかりません。楊上善が「胳」字を創作したということでしょうか?
絡を胳に変形させる 神麴齋 2004/04/25
いつものことながら、わかりにくくてすみません。
楊上善は、経絡の絡は肉体上のことだからと、糸偏を肉月に替えて胳にしちゃった、と言うことです。(もし胳という字がもともと有るのでなかったら、「肉体上の絡は胳と書く」というのは、新しい漢字が生まれる時の普通の筋道でしょうが、胳という字は牲畜の後脛骨の意味でもともと有ったから、同形異字を作ることになっちゃった。)
だから、「糟粕のように濁った」ということを言うつもりで「糟濁」と書くつもりのところ、やっぱり水分に大いに関わるところだからと、米偏を氵に替えたくなるんじゃなかろうか、と。曹と蚤が同音だったら、さらに氵に蚤という字を創作しちゃった、なんてことも全く有り得ないはなしでは無いような、と言うことです。
まあ、正確に言えば、楊上善の仕業じゃなくて、『太素』のもともとの用字かも知れませんが。ひょっとすると、『医心方』も胳でしたっけ。
>絡を胳に変形させるる 菉竹 2004/04/26
『医古文知識』2004-1はお持ちではないでしょうか。お持ちでしたら、37頁をご覧下さい。『備急千金要方』『医心方』の用例を挙げています。
「古医書を書き写した人は、人の絡は人体組織であるから、『糸』に従うべきではないと考え、『肉』に改めた、俗体分化字である」。
著者の沈澍農さんは、覚えておいてよい方だと思います。
いささか軽率でした 神麴齋 2004/04/27
言い方がいささか軽率だったけれど、六朝から唐にかけては、俗字が大量発生した時代で、言いようによっては、その内の一部は常用されて正しい漢字としての地位を獲得する、という時代だったと思う。例えば、注釈の注は、言葉に関するものであるから、水に従うべきでないと考え、言に改めて註とした。後の字書に載っているとかいないとかには偶然の面も有って、胳が経絡の絡の意味で載っていないのは不当なのか、にはいろんな意見が有るだろうが、もともと同形の字が有ったかどうかも、とんでもないかどうかの判断材料にはなる。
だから、「糟粕のように」と表現する為に漕を作る(と言ったってもともと違う意味でその字は有りますが)とか、氵に蚤という字にするとかは、現代の我々からすればとんでもないけれど、当時は有り得ないことでも無い、それほど抵抗感は無かったのかも、という話です。(ここの部分が本旨です。)
「楊上善には前科が有る」は、早とちりでした。「その時代には前科が有る」と言うべきでしたね。
「古医書を書き写した人は、人の絡は人体組織であるから、『糸』に従うべきではないと考え、『肉』に改めた、俗体分化字である。」まあ、そうなんでしょうが、もともと胳という字は有るということを知っていたのかどうだか。知っててやったとしたら、やっぱりとんでもない。字を間違ったとか、通借字だとかは思わないけれど、軽率な作字だとは、やっぱり思う。なぜ、脛脉とは書かなかったのか、とかね。
沈澍農さんは文章の中で、亞が囟の異体字であるのは疑いないと言ってますが、本当にそうですか。『医心方』や『太素』に書かれている字形は亞ではないでしょう。そこの字形が何の異体字であるとかいう直接的な資料は、まだ見つけてないけれど、状況証拠的には、そこの字形が囟の異体字なんじゃないですか。
椅子 菉竹 2004/04/28
「椅子」の「椅」は、木の種類の名称である。「椅」とは意味上の関係がないので、字形は同じだが、別の字だといえる。椅子の「椅」はもと「倚」に作る。椅子が木製であることから、イ偏を木偏に改め、別の字を造ったのである。
洪誠『訓詁学講義』訳本127p。
孳乳 神麴齋 2004/04/28
例えば「體」という字は、現在では中国でも日本でも通常は「体」と簡単な字形で書かれます。「人のおお本」という会意でしょう。それ自体は良いんですが、問題は「体」という字はもともと有って、しかもとんでも無い意味なんです。「笨」と同じで、粗劣の意。幸いもともとの意味なんて知る人のほうが少ないけれど(例の『漢辞海』にも載ってない?)、創作時にもう少し気をつかってくれても良かったのでは。「胳」も、多分、もともとの意味があんまり念頭に浮かばない字だったから、それほど不都合は無かったんでしょう。だけど、同様の発想で人体組織における経であるからと「脛」とするわけにはいかなかった。
偏を替えて分化させるのは、漢字文化を豊かにする為の重要な筋道であったには違いない。ただ、時には少々変な同形異字を生んで、背中がむずむずする思いをさせられたり、後世の字書に採録されずに、我々を悩ませることになりかねない、ということです。「諸字書に見えない」文字の大半は、あるいはこうした事情によるのかも知れない。
Re: 胳 沈澍农 2005/04/06
“络”写成“胳”应是中国民间俗字。在北宋本《备急千金要方》中已经可见多例。如卷二十九第二: “心出于中冲为井,心包胳脉也。”同卷穴名“胳却”,蠡沟穴中云“足厥阴胳别走少阳”,同卷第三中“刺足下布胳中脉,血不出为肿。”诸“胳”都是“络”俗字。又如卷六第一:“血之精为其胳果。”此“胳”字在《灵枢经.大惑论》作“络”。《备急千金要方》被确认为中国北宋刻本。
Re: 菉竹 2004/05/30
楚人之賤寳也
『太素』09-03-7 粗之所易【愚人以經脉為易同/楚人之賤寳也之】
09-04-1 工之所難也【智者以經脉為妙/若和璧之難知也】
「若和璧之難知也」とは、『韓非子』巻四和氏第十三のいわゆる「和氏之璧」をふまえた言だと思います。
楚人和氏得玉璞楚山中奉而獻之厲王厲王使玉人相之玉人曰石也王以和為誑而刖其左足及厲王薨武王即位和又奉其璞而獻之武王武王使玉人相之又曰石也王又以和為誑而刖其右足武王薨文王即位和乃抱其璞而哭於楚山之下三日三夜淚盡而繼之以血王聞之使人問其故曰天下之刖者多矣子奚哭之悲也和曰吾非悲刖也悲夫寳玉而題之以石貞士而名之以誑此吾所以悲也王乃使玉人理其璞而得寳焉遂命曰和氏之璧
『漢文大系』か、手っ取り早くは『大漢和辭典』2-974「和氏」をご覧下さい。
結論として、この故事をもって、楊上善の出身地をうんぬんする材料にすることはできないと思います。
楚人 神麹斎 2004/05/31
楚人之賤寳とか楚人沐猴而冠とか、楚人を馬鹿にしたような故事というのはいろいろ有るわけです。楊上善だって当然そうした故事は知ってます。知っているけれど、もし楊上善が楚人だったら、そんな故事は使いたくないだろう、と言うことです、普通はね。たとえ和氏もまた楚の人であるととしてもね。でも、楊上善が自虐的な性格ということも有りうるからね、同族嫌悪ということも有りうるからね、結局証拠にはならない、と言うことです。
Re: 条文番号 十元 2004/07/02
楊上善注を区切りに、本文に条文番号をつけるのは、なかなかのアイデアのような気がしますが、欠けている部分はどのように処理しましょうか。たとえば、巻五の冒頭は欠損していますが、そうすると残存しているところから数えることになるんでしょうね。
Re: 条文番号 神麹斎 2004/07/02
基本的には巻数の番号2桁-その巻における篇の番号2桁-その篇における経文の番号3桁というのを考えています。そして巻数や篇数が明確な場面では、経文の番号だけをあげれば良いかと。楊上善注はその前の経文の番号の後ろにyとでも。例えば、隂陽大論は03-01です。この篇を話題にしていることが明確なときには、「黄帝問於岐伯曰隂陽者天地之道」という経文は001です。これに対する楊上善の注「道者理也天地有形之大也隂陽者氣之大隂陽之氣天地之形皆得其理以生萬物故謂之道也」は、001yです。一篇で999条を越えることは多分無い。
で、問題の冒頭の欠けている巻五では、最初の篇を05-01篇として、最初の経文を欠く楊上善注が05-01-001y、次の「天有隂陽人有夫妻歲有三百六十五日人三百六十五莭地有高山人有肩膝地有深谷人有掖膕」は05-01-002という具合ではどうでしょうか。今欠けている部分が新発見される望みはほとんど有りませんから(皆無ではないと期待はしますが)、まず問題は無いでしょう。もし、新しく発見されてしまったら、05-01-*001あるいは05- 01-000-001なんて番号をつければいいでしょう。これはまあ、見つかってしまってから検討しても遅くはない。
いずれにせよ、条文番号と経文と注文を箇条書きにした『太素』をとりあえず出版しないと、実用的には意味無いとは思います。
Re: 墨鉤 菉竹 2004/08/18
『説文解字』には、「レ」「亅」という記号がいずれも「文」として説解してありますね。音は両方とも「ケツ」。
「亅、鉤逆者謂之亅」「レ、鉤識也」
也か之かカギか々か 神麹斎 2005/10/15
楊上善注末尾の「也之」は、ここでも何度か話題になってますが、「之」の多くはやっぱりカギ括弧なんじゃなかろうか。巻二・順養の前の方には、「也」や「之」の草体を知らなければ、素直にカギとしか見えないものが多そうです。ただしはっきり「之」と書かれて間違えようの無いものもあります。抄者がその時々に素直に模写したり、判断して清書したりしたんじゃないかと思います。
それと重文符号「々」にも、場所によってはカギ括弧に見えるものが有ります。だから重文符号だと思っていた中には、(古い重文記号には「=」というのが有るから)「二」であるべきものの他に、カギ括弧であるべきものや、さらに「也」や「之」であるべきものが紛れているんじゃなかろうか。
Re: 龍龕手鑑 神麹斎 2004/09/12
情報ありがとうございます。
『龍龕手鑑』(八巻本ですから上の情報の解説によれば『広龍龕手鑑』と呼ぶべきものでしょうか)は、京都大学附属図書館が全ページを画像で公開しています。また四巻本は、中国の中華再造善本シリーズの中に、宋刻本(巻三配清初毛氏汲古閣影宋抄本)が含まれています。欲しいけど高いからねえ。因みに中華書局『龍龕手鏡』は、山西文物局から提供をうけた「高麗版影印遼刻」で、四巻本です。編輯部の言い分では「比較接近原刻,可訂正宋本之錯簡訛謬處甚多」だそうです。また下で話題になった穴冠に勿の字は、中華書局刊には無く、京都大学附属図書館蔵に「今増」として載っています。
Re: 承 神麹斎 2005/04/17
遼の釋行均『龍龕手鏡』(中華書局影印高麗版)羊部に羊の下に水という字形について「余亮反,長大也」と有ります。「承」との関係については何も言ってませんが、「余」はおそらくは今なら「佘」と書くべきもので、だから日本漢字音としては、これもショウで良いのだろうと思います。
したがって、宋代の銅人にこの字形が用いられていても、そんなに不思議は無いと思う。
Re: 承 沈澍农 2005/04/23
“承”字的俗写变化应该说是比较清楚的。从图中可以看到它的几种写法之间的关系。其中魏《元广墓志》字型与现在看到的日本抄本写法很相近。虽然我没有找到与日本抄本写法完全相同的字形,但在《元广墓志》的基础上进一步变化,是很容易得到那个俗字写法的。
「承」字の俗字の変化は比較的はっきりしていると言うべきでしょう。添えた図からいくつかの書き方の間の関係が見てとれます。その中の魏の『元広墓志』の字型といま言うところの日本抄本の書き方がきわめて近いようです。私はまだ日本抄本と完全に一致する字形は発見していませんが、『元広墓志』を基礎としてあと一歩変化すれば、極めて容易にその俗字の書き方になると思います。
Re: 承 沈澍农 2005/04/23
我引用了《碑别字新编》里“承”字的图片,不知道为什么不能显示。抱歉。如果有这本书可以自己翻看。
私の引用した『碑别字新编』の「承」字の図が、どうしたことか表示できません。すみません。もしこの本をもっていたら自分でご覧になってみてください。
補足説明 菉竹 2005/04/23
神麹齋先生が,「承」字の俗字が日本製か,あるいは大陸伝来の俗字かにこだわっている背景には,以下の問題提起があります。すなわち:
黄龍祥は,「東京国立博物館針灸銅人研究的突破与反思」,『自然科学史研究』第24巻1期(2005年)において,東京国立博物館にある銅人形が日本製である根拠のひとつとして,「承」字が日本特有の筆法で書かれていることを挙げている(6頁)。
これに対して,神麹齋先生は,銅人形が日本製か否かは,別の問題として,「承」字(俗体)は日本特有の筆法ではない,といいたいわけです。
あってますか?
『碑別字新編』をお持ちの方は,63頁「承」字・魏元廣墓誌の部分を御覧下さい。
(『廣碑別字』をお持ちの方は,98頁を)
Re: 神麹斎 2005/04/23
沈先生、添えた図がすぐには表示されないのは、この掲示板のしくみであって失敗ではありません。いかがわしい画像を貼り込まれないための用心です。管理者が書き込みをした人物を確認した後で表示を許可します。
菉竹さん、おっしゃるとおりです。
他の証拠はしっかりしてるようですから、この証拠は挙げない方がよかったような気がします。
『碑别字新编』 管理者 2005/04/25
菉竹さん提供の『碑别字新编』の画像です。
Re: 今日で一年 沈澍农 2005/04/06
你的网站非常好,我经常查看。我也盼望能看到全三十卷的《太素》(我的电脑没有安装日文系统,只能用中文,不知能不能显示?)
Re: 今日で一年 神麹斎 2005/04/06
沈澍農先生、書き込み有り難うございます。
この掲示板も、内経医学会の掲示板もユニコード対応ですので、現代中国語で問題なく表示されています。ご安心ください。
『太素』判読 神麹斎 2005/06/11
偶然だけど続けて、「骭」だよというのと「骬」だよというのが出ましたね。この二つの字、ちゃんと見えてますか。「漢字の点画までをお上が定め」てくれないと困る場合も有るには有るんです。「筆画のハネやトメなんてあんまり気にもしてない」という点でも、『黄帝内経太素校注』の仕事は凄いものです。(凄=いたましい。悲しい。)出版社の校正のデキバエもね。
でもね、これには漢字という文字の欠陥も関わっていると思いますよ。貴方も「骭」だ「骬」だと言われて、目をこすりませんでしたか。私は自分で入力しておいて、「なんでこんなところに肝臓がでてくるんだ!」と思いました、一瞬だけどね。
Re: 小小的纠正 沈澍农 2005/06/11
张涌泉先生的那本书书名应是《汉语俗字研究》,不是《汉字俗字研究》。
漢語俗字研究 神麹斎 2005/06/11
沈先生,ご指摘ありがとうございます。
今,インターネットで調べたところ,日本に在る中国書籍店にはもう在庫は無いようです。唯一,上海学術書店の出版社目録検索には引っかかりましたが,「在庫切れ等で入手出来ない場合がありますが、その場合は後日お知らせ致します」の注意書きつきです。
これが入っている中国伝統文化研究叢書というのは面白い叢書で,装幀も厚さも概ね統一されているんですが,出版社が個々なんです。銭超塵教授の『黄帝内経太素研究』は人民衛生出版社で,この『漢語俗字研究』は岳麓書社なんです。日本じゃちょっと考えにくい。
そうですか,もう手に入りにくいんですか。発行が1995年ですからやむを得ないのかなあ。『黄帝内経太素研究』のほうはまだ大丈夫みたいです。私が持っているのは上記の二冊だけど,ちょっと気になるのはまだ他にも有るんです。今のうちに買っておくべきかなあ。
沈先生の『中医古籍用字研究』も出たらすぐ注文した方が良いですよ。品切れになるか出続けるかは,内容の価値とはあんまり関係無いかも知れない。
Re: 重ねて訂正 菉竹 2005/06/11
『漢字俗字叢考』→『漢語俗字叢考』
底本通りにという難題 神麹斎 2005/10/16
電子文献書庫に置いてある『太素』について、
> 研究用の資料としては「可能な限り」底本通りというものを再構築しようかと思っています。
なんてことをかなり前に書きましたが、実は全然手もつけてません。凡例さえできてません。
基本的には、抄者は原本を愚直に模写したと仮定して、でも当然ながら書き間違えは有るだろうから、抄者の単純なミスのうち確実なものは訂正するとして、書き癖や筆勢や思いこみは当然無視して、でも中国から渡来したもの自身に有ったと思われる通字や俗字は保存しようかな、と考えてはいます。『干禄字書』とか『五経文字』とかによって、当時の世間一般にそういう字も一応有ることは有ると認められていたと思われるものは、ということです。でも筆画の些細な増減なんて、そういう字様書にも載らないはずだから、まあ標準化はしての上のことになるんだろうけれど。(何とも歯切れが悪いでしょう。だから手もつけてない。)
例えば…… 神麹斎 2005/10/18
例えば逆、仁和寺本では屰を羊に作る。これは厥の場合も同じで、こちらは『干禄字書』に俗ということで載っているらしい。「らしい」などと歯切れが悪いのは、私の常用の『干禄字書』ではどちらも微妙に形が違うからです。そもそも字様書自体の字体があてになりません。で、屰と羊の違いは、結局のところ隷書を楷書化しようとするときに生ずる偏差に過ぎないようです。だから、無理に造字しなくても、活字化するにあたっては当然楷書化するんだから、逆と入力しておけばたくさんである、とも言える。どうするかは、結局のところ最初に見たときに「何という字だろうか?」と一瞬迷ったかどうかではなかろうか。気にしだすとさらに、辶なのか廴なのか迷うようなものも有る。でもそんなのは辶と書くとき、筆を転ずるに際して、息継ぎをしたかどうかの違いに過ぎないでしょう、最初はね。でも、それを次に書き写す人は、廴と思いこんで丁寧に廴にするかも知れない。こんなのどうするつもりなんですかね、と人ごとのように思う。だから、未だに手をつけられない。実はね、辶に羊の字はユニコードの拡張領域Bには有ります。廴に羊の字は無いみたいです。「みたいです」などと歯切れが悪いのは、なにせ7万字ですからね、見落としているかも知れない。
Re: 当作“覈” 沈澍农 2005/06/24
本例之讨论,我赞同徐麟先生之说。虽然经过同声符通假、字义引申之后,用“竅”似乎也能成立,但毕竟属于“不辞”,也就是说,没有这样的说法。查电子版的《四库全书》,“研覈(核)”一词见有249处,而“研竅”只有两处,只有两处的表达形式应该是错误的。语言应用中有“社会通用性”原则。简单地说,语言是人们交际的工具,因此一个人在表达自己思想时当然应该选择别人熟悉的、容易了解的字词,而不会有意选用别人不熟悉、难于理解的字词。即使一个人因为偶然的原因用错了字(形近、音近的字),阅读者也只能根据通常的语例判断为误例,而不会对错误的表达作勉强的解释。
本例の討論について、私(沈澍農)は徐麟先生の説に賛同いたします。声符が同じで通仮し、字義は引申したとして、だから「竅」でも成立するようにみえたとしても、これはやっぱり「不辞」に属するものであって、また言い換えれば、そのような言い方は有りません。電子版の『四庫全書』を調べてみますと、「研覈(核)」という詞は249箇所に見えますが、「研竅」というのは2箇所だけで、その2箇所も錯誤とみなすべきものです。語言の応用にあたっては「社会通用性」という原則が有ります。簡単に言えば、語言は人々の交際の道具であって、だから自己の思想を表現するに当たっては当然ながら他の人がよく知っている、容易に理解できるものを選択する必要が有って,わざと他の人がよく知らない、理解しがたい字詞を選び用いるなとということはできません。すなわち誰かが偶然の原因で間違えて用いた字(形近、音近の字)は、閲覧者としても通常の語例を根拠にして誤例と判断すべきであって、錯誤である表現を強いて解釈することはできません。
つらいところ 神麹斎 2005/06/24
結局は「そんな中国語は無い」と言うことですか。これが我々日本人には一番つらいところです。今は大量の電子文献資料が有るからかわりになりそうではありますが、電子版『四庫全書』ともなると一個人には無理です。これもまたつらいところです。(「研覈」は一般的な学習漢和辞典『漢辞海』にも載ってはいました。「研竅」は有り得ない、という判断を下すのがつらいところです。)
声符が同じであれば通仮しうる、というのは一応は妥当なんでしょうか。
で、しつこく言いますと、電子版の『四庫全書』の249箇所は、そのもととなった版本、抄本で確かに「研覈」あるいは「研核」となっているんでしょうか。もともとの抄本では「研竅」となっていて、間違いに失笑しつつ改めた結果の集合という恐れは無いんでしょうか。笑うべきではなくて、実は通仮の例だったという恐れは無いんでしょうか。いや、これは屁理屈です、失礼しました。
この箇所は仁和寺本の抄者が「しっかりと」間違えています。曖昧、難読というわけでも、江戸末期の抄者とか蕭延平とかの誤りでもありません。
じつは巻八・経脈連環の脾足太陰之脈に「過覈骨後」と有って、楊注に「覈,胡革反」と言っています。ここは確かに「覈」です。(音注が有るのはここだけのようです。)少なくとも仁和寺本の抄者も、カクという音の「覈」という字が有るのは知っていた。どっちでも同じじゃないか、と思っていたわけでは無さそうです。(違う字形を混同した、そう疑われそうな例も、他処には有ります。知らない字だから模写、しかも曖昧に模写したような例も。)
Re: …… 沈澍农 2005/06/24
语言文字的道理说起来有很多,但都不像数学、物理的公式那样简单、明确,因此每个人可以从不同角度去理解。关于“研覈”我的看法依然如上。这里想再说的是,我所用的电子版《四库全书》不是个人输录完成的一般电子读物,而是上海人民出版社正式出版的检索版。这个检索版的文字错误率非常低,如果配用相应的光盘,它还可以随时检查相应的原书扫描页面。因此,即使那249例中有原书中本来是“竅”、却被误改成 “覈”的情况,也只会是个别的,不能改变以“研覈”为正例的基本认识。再者,即使认为“竅”通“覈”,那还是视“覈”为正例吧。
又要说到“音”这个训诂术语的特殊用法了。我曾经说过,“音”在古人有时是用来纠正错别字或识读其他异位字的,那么,或许杨上善注文中本来就是想说这个字应该是“核”字吧。如果这样理解的话,那么不管原书中是“竅”或是“覈”字,杨上善的意思都是很清楚的了。
語言文字の道理には様々有ると言っても、いずれも数学や物理の公式のように簡単、明確というわけのはいきませんから、それぞれの人が異なった角度から理解することができます。「研覈」についての私の考えは上に述べた通りです。ここで言っておきたいのは、私が用いた電子版『四庫全書』というのは個人が入力した一般的な電子読み物ではなくて、上海人民出版社が正式に出版した検索版だということです。この検索版の文字の錯誤率は非常に低く、もし付属のCDを用いればさらに相応する原書の影印を検査することもできます。ですからこの269例の中に原書が本来「竅」に作っているものを、誤って「覈」としたものが有るとしても、それは例外的なものであって、やはり「研覈」をもって正しい例とする認識を改変するわけにはいきません。さらに、「竅」は「覈」に通じるというのも、結局は「覈」が正しい例とするということでしょう。
またさらに「音」という訓詁の術語の特殊な用法を説明しておくべきでしょう。私はかつて、「音」という術語を古人は錯別字を糾正しあるいはその他の異位字を識別するために用いたことが有ると説明しました。とすると、あるいは楊上善の注文中ではもともとこの字は本来は「核」字であるべきだと言いたかったのかも知れません。もしそのように理解すれば、原書が「竅」であろうが「覈」であろうが、楊上善の言わんとするところははっきりしていることになります。
いや 難しい 神麹斎 2005/06/24
電子版『四庫全書』の精度を云々しているわけではありません。そうではなくて、そもそも『四庫全書』編纂の際にはしっかりした校正がなされたであろうから、錯誤例は勿論のこと、稀な通仮の例も篩にかけられて消え去ってしまった恐れはないだろうか、という極めて素朴な疑問です。例えば『太素』を読むに際して、『太素』で校正された『素問』を見て、『素問』もその字をそう作っている、などと言ったら滑稽でしょう。たとえその字句が正解であるにしても、やはり馬鹿馬鹿しい。(これに近いことを、仁和寺本と蕭延平本の関係で『黄帝内経太素校注』はやっていると思います。)
これもまたさらにほとんど完全に屁理屈なんですが、仁和寺本の抄者はしっかりと確信をもって、「當竅其本」と書き、「竅,音核」と書き、「診候研竅」と書いているようです。とするとその抄写のもととなった本がすでにそうなっていた可能性が高いし、さらには中国から渡来した本が元々そうだったのかも知れません。そして、徐麟先生の言うように、「『太素』全書を通覧するに、被釈字と訓釈字のどちらもが同時に誤られた例は一つとして無い」のでしたら、これは通仮の稀な例ということになりかねない、ような気がします。むかし、劉又辛先生の『通仮概説』という本を読んだときには、通仮の条件として、①音が充分に近いこと、②実際の用例が有ること、というのを知りました。今ここに③用例が錯誤でないことの証明、④かなりの確率で出現すること、というのを加える必要が有りそうです。錯誤と稀な例とどうやって線引きするのか、そこが腕の見せ所ですか。いや稀な例というのは、そもそも駄目ですか。いや、難しい。
Re: 音、「簊,音督」 沈澍农 2005/06/26
“音”这一术语的用法应该说比较清楚,有很多例证可以支持。但是「簊,音督」这一例却比较难于理解。首先,字形应该是“篡”还是「簊」甚至还是另一个字,不容易说清;其次,字音究竟应该读什么?《玉篇》:“(尸に口),都谷切,俗(月に豖)字」。” 《広韻》:“(月に豖),尾下竅也。(尸に口),俗。”这和“督”的读音恰好吻合,但这两个字都比较冷僻。因此我想,“音”这个术语常用于提示正位字,也就是说,在“音”后面的解释字应该是正位字,但由于表肛门这一意义的正位字很少使用,杨上善在注释时或许一时想不出表示这个字的正确写法,加上当时正位字的意识还不太强烈,因此才有了「簊,音督」这一条解释字并不是正位字的特殊的例子。
这个例子确实是很有难度,不知我以上的解释是否可取。请各位方家教正!
「音」という術語ははっきりしたものであって、極めて多くの例が支持しています。ただ「簊,音督」という一例はかなり難解なものです。まず最初に、字形は「篡」なのか「簊」なのか或いはさらに別の字なのか、容易に決定できません。次に、字音は結局のところ何なのか。『玉篇』に「𡰪(尸に口),都谷切,俗䐁(月に豖)字」とあり、『広韻』に「䐁(月に豖),尾下竅也。𡰪(尸に口),俗」とあって、これと「督」の読音はぴったりと符合しますが、この二つの字はいずれもかなり見慣れないものです。私が思うに、「音」という術語は普通には正位字を提示するものであり、言い換えれば、「音」の後の解釈字は正位字であるべきですが、肛門という意味を表示する正位字は使用されることが極めて少ないので、楊上善は注釈するに際してちょっと正確な字を思いつかなくて、また当時にあっては正位字についての意識がそれほど強くなかったこともあって、だから「簊,音督」という解釈字が正位字でないという特殊な例を引き起こしたのかも知れません。
この例は確かに難度が極めて高いものですから、私が上に述べた解釈が取るべきものであるかどうか確信が有りません。各位方家の教正を請うものであります。
Re: 音 神麹斎 2005/06/26
沈先生、ありがとうございました。
「簊,音督」についての私の見解は、今のところつぎのようなものです。
トクという音で肛門を意味することが当時は今よりは普通に有った。だから楊上善は音はトクと書き、そこに沈先生が言われるように肛門という意義をも包含させようとした。本来は䐁(月に豖)もしくはせめて𡰪(尸に口)と書くべきところであるが、咄嗟に思い浮かばなかったので取りあえず「督」と書いた。(意義の表示を包含せず、単なる音の表示ということは当然有った。)
ところが「簊」(この字は『太素』に限って言えば、疑う余地は有りません。また『素問』にもむしろこのほうが正しい可能性を示す資料が残っています。ただし、その他の出土文物を含む様々な文献の多くでは少なくとも算の省声の字になっているようです。だから、いずれにせよ決定しがたい文字のようです。)にはトクという音は無さそうです。だから「簊」は誤りであるとして、もし形誤であるとしたら(「簒」では音の関係で可能性が無いので)、(音督であることは間違いない)「篤」ではどうだろう、というものです。前半はともかくとして、「篤」を候補に挙げたのは全くの臆測です。何も言わないよりはマシかというだけのことです。
逆に「督」ではなくて、「簊」の読音を示すに相応しい字を、このように誤ったということも当然有るでしょうが、今のところ可能性が有りそうな字を思いつきません。
削除 神麹斎 2005/06/20
更新の手間を考えて、「コメント無し」を削除しました。
Re: 『黄帝内經太素校正』 神麹斎 2005/06/23
『黄帝内経太素校注』を槍玉に挙げつつ、私の電子版『太素』の何度目かの校正を終えて、『黄帝内経太素校正』句読コメント付を(半)公開したので、今度は私が袋叩きにあう番だろうと手に汗を握っていたら、静かなものです。これはこれで寂しいものです。
Re: 爍,余薬反 神麹斎 2005/04/04
「式」を「余」と書き誤るべき理由が無い。
案ずるに、『広韻』の視遮切の下に「余,姓也,見姓苑,出南昌郡」とあるから、シャクという音を表現するのに「余薬反」と書いても、それほど不都合は無いと考える。ただし、『康煕字典』の「佘」字の下に「古は余は有っても佘は無かった。佘の転韻を禅遮切とする。音蛇。姓である」と言うのだから、「佘薬反」と書いたほうが、現代中国人には誤解のおそれが無くて親切だろう。
紛紛盼盼 神麹斎 2005/04/05
仁和寺本『太素』をあらためるに、もともと「紛紛盼盼,終而復始。」となっている。古抄本に「盼」となっていて、反切に問題が無いのに、史崧、林億、はては『字彙』なんぞを持ち出して、字書に無い文字の反切の証拠とするのは理解に苦しむ。
なお「紛紛盼盼」は『太素』には巻十二の末尾に一箇所だけ、その篇名を言うならば「衛五十周」である。徐氏の表記はいかになんでも不親切だろう。
無題 神麹斎 2005/04/05
どうやって、患が巴になったのかは、残念ながらわからない。
仁和寺本では色が㐌のように見えるけれど、㐌と患の音に似たところは無いから、結局のところ両者の間にリングを欠く。
患と完なら音は似通っているけれど、完に巴と見間違えるような書き方が有るのかどうかは甚だ疑問。
犯なら音は近くて、㔾なら巴に近いけれど、これまた残念ながら㔾の音はセチあるいはセツ。
無題 神麹斎 2005/04/05
これこそ理解に苦しむ。(誤植は別として)
『広韻』にはもう一つ、「顑,長面也,玉陥切」というのが有る。疑紐で喉音である。そもそも王力『漢語史稿』によれば、渓だって喉音である。本当に「相去ること甚だ遠い」のかね。
また、篇名は「経筋」とすべきだろうし、仁和寺本影印を精査したところ、おそらくは「合感反」になっている。
徐氏の挙げた例は全部で十個、まだ七つ有るんだけど、もう馬鹿馬鹿しいかね。
Re: 鍉 神麹斎 2005/04/07
徐氏の考証は、あくまで科学技術文献出版社本に対してなされたものであって、実は仁和寺本影印では、前の被切字「䤵」字は、ちょっと虫食いは有るけれど、もともと「鍉」となっています。巻二十一「九鍼所象」のほとんど最後の方です。
考証を通して正解にたどり着いたのですから、徐氏の学力もそう馬鹿にしたものではないんですよ、ということです。
もうお終いにしようかと思ったけれど、一つだけ追加します。
Re: 鍉 沈澍农 2005/04/26
徐麟先生是在音韵训诂方面有很好功底的学者。不过他手边可能没有仁和寺本《太素》,研究时会有些困难。其实,杨注中的两个阙字在缺卷覆刻《黄帝内经太素》(香山贺耀光校字)中都是写出的,前一处为“鍉”,后一处为“{金+非}”(后一字《灵枢》写作 “铍”,为异体字),从注文和经文的对应关系以及反切用语看,这两处校字应该不难确认。何况“鍉”还有残迹可辨。
徐麟先生は音韻訓詁の方面に造詣の深い学者です。ただし彼の手元には仁和寺本『太素』が無い可能性が有り、そのことが研究に困難をもたらしているようです。実のところ、楊注の中の二つの闕字は缺卷覆刻『黄帝内経太素』ではいずれも闕けておらず、前を「鍉」、後を「䤵」と処理しています。(後の一字は『霊枢』では「鈹」とするが、異体字である。)注文と経文の対応関係と反切の用語からすれば、この二箇所の校字を確認することは難しくないはずです。況わんや「鍉」にはまた痕跡を見ることができるのですから。
Re: 神麴齋 2005/04/12
…奉生長者少。
【楊注】肝氣在春,故晚臥形晚起,逸體急形,殺奪罰者,皆逆少陽也。…
上は『校注』の句読であり、急は怠に改めたほうが良いと言う。
ところが森立之『素問攷注』では、「晩臥」と「形」の間に「緩」字を脱するのでは無いかと言う。我らが枳園先生に従って、試みに句読すれば:
【楊注】肝氣在春,故晚臥緩形,晚起逸體,急形、殺、奪、罰者,皆逆少陽也。…
となろうか。晚臥云々と晚起云々は互文。ここに問題にしている文句の上にも実は「殺奪罰者,逆少陽也」とある。ここで「急形」を加えて「皆」と言う。
Re: 蔭軒 2005/04/14
> 現在手に入る『太素』では一番良いと思います、少なくともしばらくの間は。
つまり、それまでの命ということですか?
Re: 神麹斎 2005/04/14
まあ、そういうことです。
だから、今のウチに大いに楽しみましょう。
Re: 神麹斎 2005/04/15
なんだか一人で悪口を言っているみたいで気が引けるけれど、やっぱりこの主編者は、蕭延平本を底本にすると言いだした時点で更迭すべきじゃなかったか。
ご存じのように、巻3の冒頭は蕭延平本では『素問』で補われています。勿論、もともとは楊上善注は有りません。ところが今回の本では、注だけを仁和寺本から補い、経文は『素問』のままです。だから、不必要に複雑な様相を生じています。
その他にも、蕭延平本の元貌を保存することに熱心なあまり、仁和寺本では某に作るに注記し、仁和寺本に「當從」などと書いている。馬鹿馬鹿しい。そんなもの蕭延平かもしくはそれ以前の抄者が間違えただけのことじゃないか。
孤軍奮闘なのは、まだ入手できてない人が多いからだろうけど、皆さんこの本は買おうね、面白い(オカシイ)から。
Re: 神麹斎 2005/04/15
結局、評価できるのはその簡潔さ、ということですかね。最初に総頁数を聞いた時にはどうなることかと思ったけれど、まあまあですか。これはと思う良い注記も、全く無いというわけじゃない。蕭延平本を底本にしたことに伴う馬鹿馬鹿しい注記を省けばもっと簡潔になる。
それに横組みというのも、一頁に詰め込める分量ということからは評価できるのかも知れません。字数を数えたわけじゃないんですが、同じ分量を縦組みで詰め込むよりは読みやすいような気がする。
Re: 神麹斎 2005/04/16
ひょっとすると、科学技術文献出版社のもののほうがましかも知れない。
と言ったって、この本にも、勿論、良いところも有るんですよ。
皆さんこの本は買おうね、楽しいから。
でも、問題点を網羅的に取り上げるのはしんどくなってきました。
2006年には銭教授の本が出る予定とのことですので、それまではとりあえずこの本を、これからもチクチクとやっていきますが、問題点はここに取り上げるもので全部ではありません。上げきれないと思います。
Re: 神麹斎 2005/04/16
ちょっと分かりにくかったかも知れないので補足です。
「仂」は、動詞としては「怠らずに努める」という意味です。上に言っているのもそういうことですよね。とすると「無仂」は「怠って、努めることなし」になりませんか。どうしてそれが「神志專一不分散也」(神志が専一であって分散しない)ということになるんでしょうか。
私の今までの入力は、「仭」です。「深さを測る」で、つまり「無仭」なら「深さを測り知れない」のつもりでした。ちょっと自信の無いところが有るのでぐだぐだ言っているわけですが、少しはましじゃないかと……。
楊上善注の位置 七面堂 2005/04/17
しかし、楊上善注の位置が不自然な例は確かに有る。
巻3陰陽雑説(『校注』ではp.86)
【経文】故背為陽,陽中之陽,心也;背為陽,陽中之陰,肺也;腹為陰,陰中之陰,腎也;
【楊注】心肺在隔已上,又近背上,所以為陽也。心以屬火,火為太陽,故為陽中之陽也。肺以屬金,金為少陰,故為陽中之陰也。
【経文】腹為陰,陰中之陽,肝也;
【楊注】腎肝居隔已下,又近下極,所以為陰也。腎以屬水,水為太陰,故為陰中之陰也。肝以屬木,木為少陽,故為陰中之陽也。 ここの経文「腹為陰,陰中之陰,腎也」は、やはり「心肺在隔已上」云々という楊上善注の後に、在った方が自然だろう。蕭延平本では移動している。
Re: 仁和寺本と影印本? 神麹斎 2005/04/17
実は、私自身は江戸末期に抄写された仁和寺本『太素』と、東洋医学会(今のオリエント出版社)が影印した仁和寺本『太素』は、ひょっとすると別本かも知れないという恐れを抱いています。
ただ、この校注をやった人がそういう見解に達しているとは思えません。
もっとも、校注説明の中で、浅井氏の他に、小島宝素が派遣した杉本望雲も直接に仁和寺本そのものから抄写してというふうに理解しているようです。理由は書いてないので評価のしようが無いのですが。もし、その時の仁和寺本がそれぞれ別の本であると考えているのなら、まあ上のような言い方も不可能ではないけれど、不可解であるのは免れないでしょう。
Re: 影印本? 菉竹 2005/04/18
まだ手元に『太素校注』が届いておらず,したがってその凡例も読めないのですが,以下想像して言ってみます。
『太素校注』が底本としているのは,先生によると蕭延平本とのことですが,これは誤字の少なくない「活字本」蕭延平本のことではないでしょうか。活字本四七頁末行に「問曰:二陽之病發心痹」とあります。これに対して,影印本とは,民国十三年刊行(この場合,真本というべきか)蕭延平本の影印本のことではないでしょうか。これですと,3-17-b7に「發心痺」とあります。校注者たちは,活字本の方が句読点がついているので,仕事がはかどるので,そっちを底本にしたのではないでしょうか。安易ですがそのことを告白しているのは,まあ,正直でもあるとも言えますが。
参照して,検討いただければさいわいです。
Re: 仁和寺本と影印本? 神麹斎 2005/04/18
すみません、ちょっと書き方が不親切で。
p.93の注の書き方は、
〔3〕二陽之病發心痹 《素問》「痹」作「脾」。仁和寺本亦作「痹」,影印本作「痺」。……
なんです。それで、仁和寺本と仁和寺本の影印の二本立てのように思ったわけです。(仁和寺本影印は「痹」とは言えないと思います。「痺」のほうがまだしも近い。少なくとも声符は脾の声符と同じ。脾も腗に作るべしとは言ってないように思う。)
他にも、同じ頁に、
〔5〕其傳爲息賁 仁和寺本、影印本上有「其傳爲風消」五字,……
なんてのも有ります。この五字も確かに蘭陵堂本の影印には有りますね。
言われてみれば、底本は蕭延平本の活字本、主校本の一つに蕭延平本の影印本という可能性も有りますね。でも、ますますもって馬鹿馬鹿しいと思いますよ。
底本の蕭延平本が活字本なのか民国十三年刊行本なのかは、校注説明には明記されてないと思います。校注後記に人民衛生出版社《黄帝内経太素》的新貢獻なんて綱目が有るので何か言っているかも知れませんが、今、丁寧に読む気力が失せてます。
そもそも、蕭延平本に関しては校注説明では影印という言葉は使ってないように思います。見落としかも知れませんが。勿論、仁和寺本については影印という言葉をしばしば使っています。
Re: 仁和寺本と影印本? 神麹斎 2005/04/18
どうも菉竹さんの想像が正解のようですね。
校注後記の人民衛生出版社《黄帝内経太素》的新貢獻の最初のほうに、一九五五年に人民衛生出版社が蘭陵堂本を影印したと紹介が有って、「今簡稱影印本」といってました。そして、一九八一年に印刷出版した点校本は「在影印本的基礎上作了很大改進」と言ってます。
校注説明にもさりげなく言っているのかなあ、気付かないなあ。
でも、やっぱり何という馬鹿なことをと思いますよ。単にサボりますと言っているだけじゃないですか。まあ、正直ではある。
仁和寺本影印を底本にして、両種の蕭延平本を大いに参考にする、とやったほうがうんとすっきりしたものになると思いませんか。
Re: 仁和寺本と影印本? 菉竹 2005/04/18
神麹斎先生,どうか安易なSina ひとにかかわりなく(そうでないひとたちもおりますが),
「仁和寺本を底本にして、両種の蕭延平本を大いに参考にする」という王道を行ってください。
でもね 神麹斎 2005/04/19
でもね、もとはと言えば、日本では未だに仁和寺本『太素』翻字版の印刷発行が企画されないのがいけないんだよね。
でもね、実はプレーンなものなら明日にでも印刷に回せるんだけどね。見た目は説明無しだけど、実はコメントは隠してあるんです。ちょっとコンピュータに慣れた人なら見ることができます。
でもね、今回のように『黄帝内経太素校注』が出ると、取りあえず突き合わせはしたいからね。まあ小一年はかかる。自分の『黄帝内経太素校正』のほうがましという自負は有るけどね。でもね、一年たつと今度は銭超塵教授の『黄帝内経太素新校正』が出る。そうすると、これとも突き合わせしたい。なんたって、『黄帝内経太素校注』よりもう~んと期待できるから。
でもね、そうやって一年、二年と先延ばしになる。
やっぱり拙速もまた尊ぶべきもの、ということですか。
でもね、『黄帝内経太素校注』が国家的事業として始まったのは一九八五年ですよ、拙は確かでも速と言えるかね。
Re: 痹か痺か 神麹斎 2005/04/25
『干禄字書』によるかぎり、やっぱり「卑」だと思います。
Re: 神麹斎 2005/04/20
昨年11月の初めにお会いしたときの話では:
森立之《素問考注》対楊上善注進行了校勘,値得参考。
ということで、
我的《太素新校正》已基本寫完,充分地参考了《素問考注》。
出版はいつになりそうですかという質問には、2006年ということでした。
そういえば、出版形態についてはうっかりして聞いてませんね。
蕭延平本に対する評価としては、
《太素》蕭延平本(1965年出版)有大量錯字,使用時応加注意。
でした。だから、『黄帝内経太素校注』が遅れている事情をお伺いしたところ:
人民衛生出版社正在審稿。
で、その時の教授の表情の渋かったのは、蕭延平本を底本にしたことと関係が深いと思います。
Re: 仁和寺本影印 七面堂 2005/04/20
いや冗談じゃなくて、校注者はちゃんとした仁和寺本影印を見てないかもしれない。
巻8経脈連環の胃足陽明之脈(p.187):
下循胻外亷,下足跗[1],入中指内閒[2];【楊注】跗[3],古孟反。
[1] 足跗 仁和寺本「跗」作「胻」,蕭本是。《玉篇》:「跗,足上也。」
[2] 閒 仁和寺本作「間」。下同。《正字通・門部》「間,閒俗字。」
[3] 跗 日抄本作「胻」,可從。
仁和寺本影印では[1] はもともと「足跗」、[3] は「胻」です。いずれも難読でもなんでもない。珍しいくらい剥落も虫蠹も無い。
さらに「古孟反」は、仁和寺本影印では「故孟反」、これも見間違えようが無い。
また、別の問題ながら、仁和寺本で「間」と書くのは全書通してであって、何もここで注記することはない。「廉」を「亷」に改める理由もわからない。「亷」が正字なんですか。嘘でしょう。仁和寺本の通りになら近いのは「㢘」でしょうし。
Re: 仁和寺本影印 沈澍农 2005/04/22
校注《太素》当然应该以仁和寺本作为底本,这是仅以整理古籍的常识就可以判断的。萧延平是在他人传抄仁和寺本的基础上整理的,其中错误之处举不胜举。萧延平不能看到仁和寺本,当然情有可原,但现代的情况已经不同了,整理的做法当然也应该有变化。因此,近年中国已经出版的两种《太素》整理本都以萧延平本作底本,实在是令人遗憾的事!
『太素』に校注をほどこすには,当然仁和寺本を底本とするべきであり,このことは古籍を整理する上での常識からわかるはずである。蕭延平は,他人が書き写した仁和寺本を基礎として整理したのであり,その中の誤りを挙げればきりがない。蕭延平が仁和寺本を見ることができなかったのには,諒とすべき事情があったが,現代の状況は異なっており,整理作業も当然変えなければならない。したがって,近年中国で出版された二種類の『太素』整理本がいずれも蕭延平本を底本としているのは,まことに残念なことである。
かわいそう 神麹斎 2005/04/22
最初は楽しかったんです。
だって、海水浴場の砂浜で宝探しをやっているようなものですから、
お宝は多いにこしたことは無い。
でもだんだん腹がたってきて、やがてあきれて、
今や可哀想になってきた。
Re: 鉤泄!? 沈澍农 2005/04/23
现代书籍中的文字差误除了形误和音误之外,又有一种可以称为“键盘误”的错误形式。即:在电脑输录时因为键位相近而点击了错误的键。本例错误应该就属于这种情况。不过还不清楚这本书的输录使用了什么输录法。在我熟悉的“五笔字形”中,“鉤”的输录码为 “QQKG”(如果是“鈎”则为“QQCY”),“飧”的输录码为“QWYE”。二字首码相同,次码键位正好相邻,但后两码并不相同。不过输录错误有时不一定键位相近,偶然因素也很多。虽然说错误在所难免,但终归是出版校对不严谨。
現代の書籍における誤りには形誤と声誤の他に、もう一つ「キーボード誤」とでも言うべき形式が有ります。つまり、パソコンに入力するに際し近い位置のキーを押し間違えたというものです。本例の錯誤はようするにそうした状況です。ただ、本書の入力にどんな入力方法が使われたかははっきりしません。私がなれている「五筆字形」では、「鉤」は「QQKG」(もし「鈎」なら「QQCY」)で、「飧」は「QWYE」です。双方の初めの字は同じで、次の字のキーの位置も近いのですが、最後の二字は違います。ただ、入力の間違いというものは必ずしもキーの位置の近さによるものではなく、偶然の要素がとても多いものです。誤りは避けがたいものであるとは言っても、最終的にはやはり出版時の校正がしっかりしてないというところに帰すようです。
Re: 纂猶督?! 沈澍农 2005/04/23
杨上善注“篡音督”是很难理解的注释。按常理来说,“篡”从“算”声,不可能读“督”的音。我在《中医古籍用字研究》中曾分析“音”这个术语古人可以用于解释文字联系,即某个字应该当另一个字解读。黄焯在《经典释文》的前言中也指出:“《释文》有以注音方式表异文或误字者,不下数十百处,此益(引者按:似当为‘亦’)承汉人‘读为’、‘当为’之例。”据此看,“篡音督”,就是“篡应该当作督来理解”。不过,当“督”解读又有何义呢?考中医古籍中的“篡”应该是指肛门,而“督”无此义。但表肛门义的字还有周、州、窍等,“督”和这几个字有音近的关系,或许杨上善是用了一个通假字吧?《黄帝内经太素校注》引了黄焯的另一句话,释“篡犹督”,不如用这条引文,直接说“篡读为督”。
楊上善注の「篡音督」は極めて理解しがたい注釈です。理屈から言えば、「篡」は「算」の声に従うものであって、「督」という音に読むことはできません。私は『中医古籍用字研究』の中でかつて「音」という術語を古人は文字関係、つまりある文字を如何なる文字として解読すべきか、を説明するのに用いたことが有ると分析しました。黄焯は『経典釈文』の前言において、「『釈文』には注音の方式で異文あるいは誤文を表したものが有り、数十百箇所を下らない。これもまた漢代の人の読為、当為を受け継いだ例である」と指摘しています。これによって見れば、「篡音督」とは、つまり「篡は督という意味と理解すべきである」ということになります。とは言うものの、「督」として解読するとはどういうことでしょうか?中医古籍の中の「篡」は肛門を指していると考えられますが、「督」にはそうした意味は有りません。ただし肛門を表す文字には他に周、州、竅などが有り、「督」と音近の関係が有ります。あるいは楊上善は通仮字を用いたのでしょうか?『黄帝内経太素校注』は黄焯の別の話を引いて、「篡猶督」と注釈していますが、この条の文を引いて、直接的に「篡読為督」(篡は読みて督と為す)としたほうが良かったと思います。
篤音督である!か? 神麹斎 2005/04/23
私の言い分を整理します。
1.仁和寺本をよく見ると「篡」でも「纂」でもなくて、「簊」である。ただし、土を圡と書く。これは単なる抄者の誤りではない。「其絡循陰器合篡閒繞篡後」は『素問』長刺節論の王冰注中に、「衝脉与少陰之絡」の説明としても出て、その新校正に「按ずるに別本は篡を一に基に作る」と言い、さらに『太素』巻十一・骨空で「髓空……一在新簊下」とある箇所が、『素問』骨空論では「髓空……一在斷基下」になっている。
2.音督で肛門を意味する文字は有る。尻の九を口に変えた文字で、『広韻』の篤の下に見える。『玉篇』には「𡰪(尸に口),都谷切,俗䐁(月に豖)字」と言い、また『広韻』の丁木切に「䐁(月に豖),尾下竅也,𡰪(尸に口),俗」と言う。
3.篤も督と同音であり、篤と篡や簊は形がやや似ているが、残念ながら篤に肛門の意味が有るかどうかは知らない。明の馮夢竜『笑府』形体部の原注の中に、「松江県の人は屄(尸に穴)のことを篤という」とあるのは見つけた。この笑いばなしは、「毛が有って痩せているのを屄(尸に穴)といい、すべすべして肥えているのを篤という」のであるから、篤が竜陽君のもちものである可能性は有る。呵々。
※CJK統合漢字の拡張領域Bの漢字を使ったので、( )内にその構成要素を注記しました。
Re: 缺卷覆刻『黄帝内経太素』 沈澍农 2005/04/27
我所看到的缺卷覆刻《黄帝内经太素》确实是中国作为内部资料影印的。根据影印说明,中医研究院王雪苔先生1979年访日,从小川晴通处受赠该书,“乃盛文堂汉方医书颁布会于1971年向其会员颁布者”,回国后影印作为内部交流资料。其中收入了第十六卷、第二十一卷、第二十二卷共16篇当时中国还没能见到的遗篇。该书不是影印本,而是繁体字仿古排印本,在每一卷的末尾处都记载着“香山贺耀光校字”。至于该书在日本的流传情况,我就不得而知了。
Re: 神麹斎 2005/04/27
「古醫典のつどひ」の缺卷覆刻『太素』は、昭和三十九年すなわち1964年の八月に印刷発行されたもので、正文校定は石原明、孔版印刷です。
「盛文堂医学頒布会」のものは、馬継興『中醫文獻學』によれば、1971年に、蕭延平本を影印した後ろに、活字を用いて巻16、21、22を排印したもので、線装本です。その三巻の末にそれぞれ「香山贺耀光校字」と有るそうです。
私自身も盛文堂のものを見た記憶が無いので(島田先生のところで見た蕭延平本がそれだったかも)、石原明校定と贺耀光校字の関係はわかりません。邪推すれば、校字とは排印にともなう文字の校正というに過ぎないのではないかと思います。原本の文字をどう判定したかの功は、「古醫典のつどひ」本のほうに在るのではないかということです。
いずれにせよ、仁和寺本もしくは精密な模写の影印を見ることができる今日、盛文堂本を重価をもって購う気にはなりません。そもそも、自分の持っているものが「古醫典のつどひ」のものであることは、言われて改めて気付きました。もうここ数年間は繙いたことも有りません。
Re:『黄帝内経太素語訳』 神麹斎 2005/04/26
よく考えてみたら、語訳には楊上善注は無いかも知れない。
『素問』の場合は、王冰注は有りませんでした。
しかし、何と言うか、
王注の無い『素問』はともかく、楊注の無い『太素』なんて、
そんなものわざわざ出版する価値が有るんでしょうかね?
有ると思ったんでしょうねえ。
Re:『黄帝内経太素語訳』 乗黄 2005/04/29
『太素』の掲示板の一部を読み落としていました。
『語訳』は、経文と注釈と語訳からなっています。問題の箇所の語訳は次のようなものです。
天道之气是清浄光明的,它总是把盛德隐藏下来,既不见它升,所以也不见它降。如果天道失德,患上患下,日月就会失去光明,邪气就会侵害山川,天的阳气就会闭塞不通,地的阴气就会遮蔽光明,云露就会失去润泽的精华,甘露就会失去下降的德泽。如果这样,天地之气就不会相互交通,万物就不会按自然界的正常规律施布,因此高大的树木大多死亡,恶气时犮,风雨失調,寒露不降,草木枯萎,贼风暴雨频频犮作,天地四时的运转不能保持正常,像这样不要多久,万物就会毀灭。只有善于摄生的人才能順应自然,身无大病,草木昆虫,各得生长,所以生机也執欣欣向荣,永不枯竭。
Re:『黄帝内経太素語訳』 神麹斎 2005/04/29
やっぱり、楊上善注は無視ですか。
全文を訳す必要は無いと思いますが、
……雲露不精,則上應甘露不下,交通不表,萬物命故不施。不施,則名木多死,……
に対する語訳は、
……雲霧は潤沢する精華を失い、甘露は下降する徳沢を失う。もしもこうした事態になると、天地の気は相互に交通することが出来なくなって、万物は自然界の正常な規律にしたがって施布することができず、だから高くて大きい樹木も多くが枯れてしまう……
くらいでしょうか。「則一中分命」の理解にはそれほど役立ちませんね。
Re:『黄帝内経太素語訳』 七面堂 2005/04/30
考えてみると、例えば巻12衛五十周に:
日行十四舍,人氣行廿五周於身有奇分十分身之四, 【楊】人氣晝日行陽,廿五周於身有奇分十分身之二,言四誤也。
とある。
このように楊上善は経文の誤りを認識していても改めず、注文中で指摘していることが有る。こういうのは楊上善注を省いた『語訳』ではどう処理しているのだろう。
Re:『黄帝内経太素語訳』 乗黄 2005/04/30
問題の箇所は注釈中で指摘されております。ただし、楊上善の名は書かれておりません。(知っていて当然なのかもしれません)
不勉強な私には非常に不親切であります。
当然、語訳は訂正された形で書かれております。
>どういうつもりなんですかね 菉竹 2005/05/14
缺巻覆刻を使おうというのは,あれには『素問』『霊枢』『鍼灸甲乙経』との文字の異同が記されています。つまり,蕭延平本と体例が一致して,仕事がやりやすいのでしょう。
『太素校注』の「校注説明」によると,中国には「1834年奈順恒徳影抄本」「1839年坂立節春璋抄本」「1849年近藤顕宝素堂抄本」・その他の年代未詳の日本抄本が存在する。(8ページ)
9ページ:
仁和寺本は旧抄、足本といえるが,校勘がなされておらず「精本」とはいえない。もし仁和寺本を底本とすると,校勘作業が大変だし,前人の校訂の成果も取り入れられないし,また意味もないのに前人のすでに行ったことを繰り返さなくちゃならないから,仁和寺本を底本にするのはよくないんです。
それと比べると,蕭延平本は,素問・霊枢・甲乙経などと対校しているし,按語もあるから,これは精本・善本なんです。
延平本の監本は楊守敬が小島尚質が影寫した本です。小島本の大部分は,杉木(ママ「本」に作るべし)望雲が直接仁和寺本から謄抄影寫したもので,当時のもっともよい『太素』抄本なんです。延平は二十年あまりもかけて,校勘・按語をほどこしています。延平本は誤字も少ないから,人民衛生出版社が二回も影印・排印したのは決して偶然ではありません。これは,延平本がすでに善本であることの証拠とするに足ります。それで今回『太素』を整理校注するにあたり,延平本を底本にしたのは,理の当然であります。 (イイワケ)
11ページ:
主校本:仁和寺本『太素』。北京図書館所蔵丹波元簡・杉木要蔵などが小島宝素模写本に基づいた影寫本をもう一つの主校本とし,「日抄本」と略称する。
Re: 不思議 七面堂 22005/05/14
イイワケには全然説得力が有りませんなあ。
要するに「前人のすでに行ったことを繰り返さなくちゃならないから」面倒くさいと言うだけのことでしょう。「延平は二十年あまりもかけて」と言ったって、あんたがただってそれくらい時間かけているでしょうに。
各抄本と言ったって、要するに「杉木(ママ「本」に作るべし)望雲が直接仁和寺本から謄抄影寫した」(これ自体にも疑問が有る)小島本を再抄したものばかりなんでしょう。仁和寺本から直接影印したものが有れば、それを基準にするのが当たり前でしょうに。
Re: 行氣放五藏第一輸 十元 2005/05/21
此の巻は仁和寺本の写しであり、本物は武田杏雨書屋にあると思います。したがって、「放」を如何様に読むかは、その杏雨書屋の原本をみてから考えるべきで、討論はその後が適正かと存じます。
Re: 行氣放五藏第一輸 神麹斎 22005/05/21
七面堂さんの質問は、「放」は「倣」の意味であるとして、ではそこの部分はどう訓読するつもりなの?ということだと思います。まあ、現代語訳でも品詞分解でも良いけど。前後を少し広げて考えてみます。
原者,齊下腎間動氣,人之生命也,十二經之根本也,故名為原。三膲行原氣,經營五藏六府,故三膲者,原氣之別使也。「行氣放五藏第一輸,故第三輸名原,六府以第四穴為原。」夫原氣者,三膲之尊號,故三膲行原氣,止第四穴輸名為原也。
原とは、臍の下の腎間の動気であって、人の生命であり、十二経の根本であるから、これを原と名づける。三焦は原気をめぐらし、五蔵六府を経営するものであるから、三焦は原気の別使である。「気をめぐらすことは五蔵の第一輸に放(倣)う、だから第三輸は原と名づけ、六府では第四穴を原とするのです。」原気は三焦の尊号であるから、三焦は原気をめぐらして、第四の穴に止まりこれを名づけて原とするのです。
分かりますか?私には分かりません。
「気をめぐらすということで、五蔵で第三輸を原と名づけているのに倣って、六府では第四穴を原とするのです。」
なら何とか分かる。とすると「行氣,放五藏以第三輸名原,六府以第四穴為原。」で無いとね。かなりの刪去と改字を必要とします。だから、ちょっとねえ、躊躇します。
杏雨書屋の原本をみて、そもそも違う字だということになったら、全然別の次元に入ります。十元さんの言うように「討論はその後が適正かと存じます」でしょうね。
Re: なるほど 神麹斎 22005/05/22
実は仁和寺本には抄者の不注意による書き間違いが、結構有ると思っているんです。しかもそれには、日本人であるからやらかした、という性質のものがかなり含まれているとも思うんです。
だから、文理から推して、これはしかじかの誤りであると改めるのも、蕭延平本の功績の一つと考えて良いのかも知れません。でも、だったら、仁和寺本をもとにして「本文はAだけど、蕭延平本はBに作っていて、そのほうが是に似る」とでも校注して欲しいわけです。蕭延平はどうしてBにしたかを説明してないことが多いので、その点の不備はしょうがないけれど。
さらに、文理から推して蕭延平本のBのほうが是であるとして、袁昶本ですでにそうなっていることも多いのです。だから、どこかで誰が文理から推したのか、それともどこかにより良い抄本が有ることを示唆しているのかも不明瞭なんです。
現存の仁和寺本とは別系統の抄本が存在するなんてことは、破天荒な話なんですが、まんざら絶無でも無さそうなんです。この掲示板でも、『内経』誌でも、研究会でも、あまつさえ上海でまで、私はその可能性を指摘し続けています。何かの思い違いかとも思いますが、今までのところ誰も何も言ってくれていません。
もし全ての抄本が、やっぱり現存の仁和寺本を祖本とするのであれば、うっかり書き間違えて、結果として正解に近づいたからと言って、それを単純に評価することは出来ないでしょう。どうしてBがAになってしまったのか、どうしてBが正しいのかを、全部について説明するのは不可能としても、説明しようとする姿勢は必要でしょうに。
Re: 遗憾与期待 沈澍农 2005/06/06
现代中国人由于从小只学习简化正字,如不经过特殊学习训练,对于古人的手书俗字确实很荒疏。因此,在需要利用俗字知识来整理校勘抄本中医古籍时,就不免屡出问题。根据我的了解,当今中国中医文献整理的队伍中,具有较好的俗字解读能力的人确实不多。而神曲斋先生最后所说的因合作分工,参与者不能通览全书,主持者统稿时又不能前后关照,这样的问题在较大部头的中医古籍整理中也确实存在。
不过,这些问题暴露出来也是好事,将提醒后来的整理者加以注意,在今后的工作中做得好一些。
钱先生的《太素》不久将出版,我还没有看到钱先生的书稿,虽然不能说其中就没有文字识读方面的错误(个别错误也许在所难免),但因钱先生的学识水平和一些其他出版方面的因素,让我们可以给这部书以较高的期待。
Re: 期待 神麹斎 2005/06/06
銭先生からも、7月には最終稿を出版社に渡す予定なので、来年には発行されるだろうという情報をいただきました。先生のお話では、仁和寺本の俗字については逐一造字するつもりということです。本当にそれが実現すればすごいことです。大いに期待が持てます。待ち遠しいです。
Re: 恶寒貌词是音转关系 沈澍农 2005/06/08
洒洒、洗洗、淅淅、凄凄等都是一声之转,都可表示恶寒。其义当从字音求之,不可从字面求解。因此,不必、也不应指出哪个写法是原形。我在《中医古籍用字研究》附录中曾整理在中医古籍中见到的恶寒貌的词有40多种写法,除了少数是形讹,多数是字音通转关系。我本月末到日本时,有可能带去这本书。届时请日本朋友多多赐教。
Re: 避諱の知識 沈澍农 2005/06/14
仁和寺本据以传抄的底本不可能避宋讳,但“玄”改为“元”应该是始于宋讳。因此钱超尘先生在《黄帝内经太素研究》一书中认为此例应是避宋讳所致。书中说:“未闻宋朝有将《太素》传至日本者,故疑此‘元’字乃日本传抄者所改。”(P.59)也就是说,虽然底本中没有避宋讳,但可能因为仁和寺本《太素》的传抄者很熟悉宋代的避讳,因而在抄写时不经意地将“玄”改成了“元”。这固然是推测之论,但除此以外似乎很难找到更好的解释。当然,类似的情况在日本古代传抄的历史中有没有出现过,还得请日本朋友考证了。
乃日本传抄者所誤 神麹斎 2005/06/14
日本では避諱の伝統は根付かなかったと考えています。もとより詳しく研究した上での意見では有りませんが。
それに他国の王朝の始祖の諱を避けるというのも異なものです。おおよそ中国医学に従事するものは、中国文化を崇拝する度合いが、一般よりは相当に高いとしてもです。ましてや宋の太祖の匡字、太宗の炅字は避けずに、始祖の玄だけ避けるというのも不合理です。医学者としては仁宗の諱を理由として貞字を避けるほうがまだしもです。
ではどうして玄皇と書くべきところを元皇としたか。おそらくは同音で間違えたに過ぎないと考えます。仁和寺本『太素』には、残念ながら日本的な誤りが数多く見られます。代表的なものは、謂語と賓語の逆転、和訓が同じであることからの誤用(例えば有と在の誤用)ですが、ここの玄と元は漢字音が同じであることからの誤りであると考えます。だから、例えば玄元皇帝というような誤りにくい箇所では、正しく書き分けています。
故疑此‘元’字乃日本传抄者所誤。
だからつまり 神麹斎 2005/06/15
仁和寺本『太素』の伝抄者が宋代の避諱を熟知していて,だから伝抄の際に無意識に「玄」を「元」に改めた,と言うのは我らの先祖を買いかぶってもらっていると思うのです。うっかり間違えるというのは,中国のしかも教養豊かな人にも当然有りうることでしょうが,我らの先祖にとっては漢語はやはり外国語であって,したがってつまらない誤りを犯す危険も,より多かったろうと考えるのです。彼らのやったことに一々もっともな理由が有るわけではなくて,残念ながら単なる不注意も避けがたかった,と。
Re: 避諱の新知识 沈澍农 2005/07/13
近日从《避讳辞典》和《中国避讳史研究》二书得知,在中国唐玄宗李隆基时,避讳极严,不仅皇帝的名和字要避,连号也要避。因此“唐玄”改成“唐元”,又《老子》中所谓“玄之又玄”就改成了“元之又元”。那么,《太素》之“元皇”或许也源于唐玄宗时传抄者之改吧。不过我没有查考过仁和寺本《太素》中有没有其他类似的避讳情况。
Re: 避諱の知識 神麹斎 2005/07/13
実のところ仁和寺本『太素』に「玄」字はさして珍しくはありません。
「玄元皇帝」を除いても,
05四海合 楊注:眩,玄遍反,瞑目亂也。
14首篇 楊注:(『呂氏春秋』を引いて)天北方曰玄天。
15五蔵脈診 楊注:眴,玄遍反,目揺。(この被釈字は疑問)
16脈論 楊注:悁,居玄反。
21九針要解 楊注:神者,玄之所生,神明者也。
24本神論 楊注:此道猶是黄帝之玄珠,罔象通之於髣髴也。
28九宮八風 玄委
30温暑病 所謂玄府者,汗空。 楊注:汗之空名玄府者,謂腠理也。
玄皇の玄だけを避けたとは、やはりちょっと考えにくい。
仁和寺本『太素』はやはり... 神麹斎 2005/08/21
仁和寺本『太素』はやはり孤本のようです。
『黄帝内経太素九巻経纂録』終始篇に「形肉血氣必相稱也是謂平人」とあり、注文として「形謂骨肉色狀者也肉謂肌膚及血氣四者也衰勞减等□□好即爲相稱也如前五種皆爲善者爲平人」と有る。ところが仁和寺本の影印(巻十四 人迎脈口診)を見てみると、経文の「平人」以下は無くて「是謂」が次の経文「少氣者」云々に繋がる。仁和寺本に無い経文や注文が『黄帝内経太素九巻経纂録』に有るのはどうしたことであろうか。
これに対して、小曽戸洋先生から「附箋である」という解答を戴きました。恐らくは江戸末期に抄写された後に剥落したか、あるいは誰かが剥がして「お宝」にしたのであろうということです。江戸末期に模写された虫食いの痕と、仁和寺本の影印の虫蠹はほぼ一致するのであるから別本とは到底考えられない。
言われてみればその通りで、他の理由はちょっと考えられない。ただ、変だと思う気分が雲散霧消したかと言うとそうでもなくて、いくつかの疑問点は残ります。一つは巻子本に附箋というのは普通にやることなのかということです。いわゆる和綴じに比べても一段と剥がれ落ちやすいのではあるまいか。でも、これは私の知識が足りないだけのことで、普通だと言われればそれまでのことです。では、仁和寺本に無い経文や注文が『黄帝内経太素九巻経纂録』などに有る例は、上記以外にも数カ所有るだけで、つまり附箋は特定の巻にごく少数有っただけらしいのは何故か。実は書き漏らしたかなり長い文章を、行間に書き込んだ箇所も仁和寺本には有ります。どうしてある箇所では附箋を貼り、ある箇所では行間の書き込みとしたのでしょうか。常識的には原形を損ねたく無ければ附箋ということでしょう。例えば『素問紹識』稿本の場合は、元堅自身の訂正補筆は行間ですが、その後の弟子等のものは附箋です。『太素』の場合はどうなのでしょう。後人があとから別本によって補ったのでしょうか、それとも単に抄者のその場の気分でしょうか。さらに何カ所か、仁和寺本でなんら難読ではない文字を、江戸末期の抄本では□で標示している例が有ります。これは「倉卒の間に抄写したのだから、時にはそうしたことも有るよ」で片づけて良いことでしょうか。
総じて、小曽戸先生の「附箋である」という意見は動かし難いと思います。附箋であるかどうかは、仁和寺本の本物に目をすりつけるようにして糊の痕を確認すれば決定ですが、そこまでする必要もなくほぼ決定でしょう。ただ、それによって新たな謎も生じてきたという気分です。
付箋 十元 2005/08/21
国立民俗博物館に所蔵の国宝『史記』にも、かつては付箋がついてあったのに、再び見たときには無くなっていた、という話を聞いたことがあります。専門の研究者以外にとっては付箋はあまり注意を惹いていないようです。『太素』に付箋があったという曾氏の見解は的を射ていると思います。
Re:付箋 神麹斎 2005/09/13
附箋だとすると、特定の篇に少数というのは不思議と言いましたが、良く考えてみると、もっとたくさん有ったかも知れない。つまり経文には有るのに楊上善が説明してない文字を、森立之あたりは「だから衍文ではないか」と言ってますが、楊上善注に書き漏らして附箋になっていた可能性も有りますね。でもそうすると、経と注を突き合わせてものを言うのも若干困難となる。しんどいねえ。
行間の書き込みとの関係については何も思いつきません。
Re: 本物を見る 沈澍农 2005/08/21
日本同行追求实证的精神很让人敬佩,这样的条件也让作为中国学者的我由衷羡慕。有时候,我也因为看不到好的版本而为难。所以这次到日本购买和拷贝了不少资料。不过神麹斋最后的那段话好像是不可能的,如果成都的先生最基本的资料都没有,他们用什么来补足萧延平所缺的部分呢?至少“コピ”件是应该有的吧。所出的问题还是在如何选择底本的看法上有偏差吧。
同情です 神麹斎 2005/08/21
沈先生のおっしゃるとおりです。彼らだって(少なくとも中心的な何人かは)『太素』の影印(少なくともそのコピーのコピー)を持ってなければ、蕭延平本の欠陥のいくつかを指摘することは不可能だったはずです。ただ、つい先頃まで「持っててこの出来栄えか!?」と罵倒していたので、(少なくとも充分に鮮明なものを)「持ってなかったかも知れない」と同情してみたまでのことです。
Re: 本物を見る 神麹斎 2005/08/28
例えば、模本の経文に「血所」とあって、楊上善注には「血脉胳脉也」とあるところは、経文もやっぱり「血脉」でした。模本の「無損不之」は、「之」の上部にやっぱり虫食いの痕が有りました。つまり「無損不足」(足を𠯁と書く)です。どうして六府の原穴は第四輸なのかを説明する楊上善注「行氣放五藏第一輸,故第三輸名原,六府以第四穴為原」はどうにも腑に落ちない文章ですが、少なくとも「第一輸」は「第三輸」の誤りです。これもまた虫食い痕の模写を怠った結果です。
Re: 大淵 淵掖 菉竹 2005/06/04
「宋諱の数十種の字についてその一々を闕画することは,版下を書くにしても版木を彫るにしても正字を書き,あるいは彫るより却って心を労し,うっかり忘れる場合も多く……同じ行の中でも上の「徴」字は闕き,下の「徴」字は闕かぬといった類は枚挙に遑がない。……」(米山寅太郎『図説 中国印刷史』73ページ)
「ないがしろに」する以前に,大陸伝来の本がうっかり欠筆を忘れている可能性も残しておいた方がよいのでは?
Re: 大淵 淵掖 神麹斎 2005/06/04
それはそうだよね。
ただ、日本にはついに避諱の習慣は根付かなかったようで、そもそも日本人の感性に訴えるものでは無かったようで、さらには唐の皇帝に遠慮する義理も無いわけで、まあ自然とよりいい加減になるだろうという話です。
巻25熱病説の大淵に使われた「淵」の字形について、張燦玾教授は陳桓『史諱挙例』に見られるというようにおっしゃってます。私には探し方が悪いのか見つかりませんが、もし確かに中国で古くから用いられているとしたら、この場合も日本人での抄者の責任ではありません。「渕」でないのが、多分2箇所だけというのも、考えてみれば不思議な話で、ひょっとすると古い材料に由縁するのかも知れない。他の因であったり囙であったりというのは、まあその時の気分と筆の勢いによるだろうし、民の末筆を缺いたり缺かなかったりというのは、気付いたか気付かなかったかだろうし,右肩の一点の有無には剥落と虫蠹もかかわってくる。つまり、最初にたてた原則どおりにはなかなか保存され難いだろうけれど、それが最初から原則が無かったという証拠にもならないだろうということです。
Re: 大淵 淵掖 神麹斎 2005/06/04
つまり、本当に言いたかったことは:
「経文では缺筆によって避け、注文では改字によって避けるというのが本来の姿ではなかったか。」
ということです。
とはいうものの、楊上善という人がそもそも、たてた原則を全巻に押し通せるほど剛毅な、あるいは持続的な、あるいは細心な性格ではなかったような……。
Re: 大淵 淵掖 蔭軒 2005/06/05
素人考えなんですが、刊行されてものでもない、しかもこれほどの分量のものでも、厳格に避諱することが要求されたものなんでしょうか。
現実には、要求はするけれど、避けようとしていることをポーズで示せば、結果についてはそれほどおとがめは無かった、なんてことは有りませんか。
それと虎(高祖の祖父)とか治(高宗)とかは避けられているんでしょうか。
Re: 大淵 淵掖 神麹斎 2005/06/05
現在刊行されている書物の校正の出来映えから考えるに、これほどの分量のものの手書きの文字の避諱の不備を一々咎める能力が当局に有ったとは思えないし、一々処分していたら中国では文字の書けるような人は絶滅していたと思います。まあ、普通はお目こぼしで、政敵をやっつける時には厳格に、なんてのが現実だったんじゃないでしょうか。いや、これも素人考えです。
治は避けられているようです。例えば『素問』陰陽応象大論の「年老復壯,壯者益治」が『太素』陰陽大論では「年老復壯,壯者益理」になっています。ただし、『太素』癰疽には「不急治,則熱氣下入渕掖」とあります。まあ、避けたり避けなかったり、いい加減ということですか。経文では缺筆によって避けるとかいう方針も、そういうつもりになった時期が有るんじゃないか、という程度のことでしょうか。虎は避けているのかどうか。乕と書いているようですが、これは避けたつもりなのか単なる異体字なのか。
虎か乕か 神麹斎 2005/06/05
陳桓『史諱挙例』の非避諱而為避諱例に、漢碑中の文字について避諱録とやらに多くの例が挙がっているけれども、「皆非也」としたうえで、「漢隷の変体は多し、あに避諱を以てこれを解釈するを得んや」と言ってました。隋唐も確か俗字が大発生した時代ですよね。
『黄帝内経太素』の避諱 菉竹 2005/06/05
これに関しては,銭超塵先生の『黄帝内経太素研究』(人民衛生出版社)第二章にある,「『太素』経文注釈避諱考」にまとまった記載があります。
Re: 『黄帝内経太素』の避諱 神麹斎 2005/06/05
銭超塵先生は、『太素』原文の避諱すべき文字が避諱されてない場合は「乃ち後人による回改に出る」と言われています。原則に合わないから、当然また改めたはずというのはちょっと証拠に欠けるような気もします。もともと経文では避けない習慣も有ったという可能性はどうなんでしょう。張燦玾先生は一寸だけ慎重で「或いは後人による回改の致すところ」という言い方をされてます。
銭先生はまた、泯の民の部分の末筆を缺いた文字が、『龍龕手鏡』に俗字として載っているとおっしゃてます。俗字を用いたから避諱しているというのは拙いようですが、逆に避諱のための缺筆を俗字として載せる字書は有るんですね。
ぐだぐだ 神麹斎 2005/06/07
つまり、仁和寺本の熱には、坴を圭に、灬を火に作る形が多く用いられています。坴を圭に作るものは『干禄字書』で俗ですから、まあこの俗字を造字するのは良い。で、もう一つ、坴を生に作るものはどうするのか。そういう俗字が確かに使われていたことは確認しなくても良いのでしょうか。なにせ、昔の日本人が書き写したものですからね、単なる書き間違いという可能性も有る。でも、そもそも俗字でしょう、字書に無いからと否定するのも変な話だし。そのへんの線引きはどうするんでしょうか。氐が互に変わるのだって、手書きの筆勢を固定したらそうなった、というもののような気がします。とすると、弖だってその過程で生じた一変形じゃないでしょうか。一方は保存を心がけ、より形が近いもう一方は無視というのは、何だか釈然としません。於はおおむね扵に近い形が用いられています。でも厳密には扌じゃなくて才なんです。と言っても、それこそ抄者の間違いかも知れないし。強の俗字として、方に従うものを保存しようとする人もいるらしいけど、方じゃなくて弓の第二画の横棒を不釣り合いに大きく引いたものに過ぎないと思います。
斲、底本は㔁 神麴齋 2000/04/01
斲、底本は㔁。『竜龕手鏡』(中華書局1982年影印高麗本、以下特に言わなければみなこの版)には、斲の俗字として{登斤}230C6(以後、断りなしに挙げる5ケタの数字あるいはアルファベットは、CJK統合漢字拡張領域Bのコードナンバー)が載っている。刀と斤は意符として通用し得るだろう。また仁和寺本欄外に在る丁角の二字は抄者の心覚えであろうが、おそらくは反切で、斲の音に符合する。
莊子 神麴齋 2000/04/01
鼇頭に引かれるのは恐らく『莊子』卷五中・外篇・天道第十三の末尾であろう。
輪扁曰:臣也以臣之事觀之,斲輪,徐則甘而不固,疾則苦而不入.不徐不疾,得之於手而應於心,口不能言,有數存焉於其間.臣不能以喻臣之子,臣之子亦不能受之於臣,是以行年七十而老斲輪,古之人與其不可傳也死矣,然則君之所讀者,古人之糟魄已夫!
従って、底本の㔁輪が斲輪であるのはほぼ間違いないと思われる。ただし、引かれた『莊子』の文章は、通行の版本と微妙に異なるように思う。
そもそも 神麴齋 2000/04/02
そもそも極意というようなものは、心に悟るべきものであって、言葉に現し書物に記すことができるものではない。だから、上古には書物は無かったし、それでも極意の伝授はおこなわれた。しかし、いま末代の世になってみれば、言葉とし、書物に載せないでは、聖人の教えの万分の一をも伝えることはかなわぬ。だから、言葉とし、その言葉に則るのである。
仁和寺本太素は巻一を缺く。だからこれは太素の開巻の辞ではない。しかし、「太素を読む会」発足に際しては、まことに相応しい箴言であると思う。
創設おめでとうございます 十元 2000/04/02
今回の課題文と同文が素問・天元紀大論篇にある。そこでは「則而行之」を欠く。類似文は霊枢・九針十二原篇にもある。九針十二原篇の「大要」も、運気篇に見えるから、九針十二原篇は最古と言われているけれど、さほど古くはないのではないだろうか。迎隨とか、発機とか、ちょっとわざとらしいような機がする。九鍼部分と十二原部分は古いのだろうが。前のほうの文章は、後付けに違いないと思うのですが、どうだろうか。
『荘子』天道篇 神麹斎 2005/10/01
ここに引かれた『荘子』天道篇は以下のようなもののはずですが、うまく当てはまりませんね。
莊子天道篇輪扁曰臣也以臣之事觀之斲輪徐則甘
而不固疾則苦而不入不徐不疾得之於手而應於心口不能言有數存
焉於其間臣不能以喩臣之子臣之子亦不能受之於臣是以行年七十
而老斲輪
諸子百家叢書のものです。版本に問題が有りますかね。
Re: 最初から 蔭軒 2005/10/02
実際のところ、欄外に引用されたはずの『荘子』は、もうこれ以上はどうにもならないんじゃないですか。何と言っても文字は小さいし、剥落も甚だしいし。でも、これのお蔭で楊上善注の比{登+刂}輪之巧の{登+刂}が、間違いなく斲であることが判るし、その下に続く不可□□の□□くらいは、何とか推定出来るかも知れません。特に上の□に当たるものは右上の四分の一くらいは残ってます。
欄外の後半は、また別の書物からの引用のような気がします。何からの引用なのか調べる方法は無いでしょうか。
Re: 蔭軒 2000/04/02
考えてみると、「おのれを治す」という意味で、治自ということはあまり無いんじゃないでしょうか。内経には不治自已(治さずとも自ずから已ゆ)という例は有ります。他の古典にも、そういう治自は出てきます。おのれの何ものかを治すという意味で、治身という例はいくらも有ります。してみると、治民與治自治は治民與治身の誤りかも知れません。
別本の話ではありませんでした。
Re: 菉竹 2000/04/03
蕭延平の例言(人民衛生活字本、3p8行目。科学技術文献出版社本、6p末行)
余旅居京師時、……獲見一部……計與本書不同者十餘字、仍於平按下、註明別本某字作某、存以備考。
別本の価値 神麴齋 2000/04/03
ありがとうございます。
蕭延平の例言によると、それらの本はいずれも仁和寺本の影写に係るものだと思うんですが、ひょっとすると浅井―小島系統のものの他に錦小路系統のものを想定しているんでしょうか。いずれにせよ現在は仁和寺本の影印が有るのですから、つき合わせて明らかに異なる箇所は、誤写と考えて良いと思いますが、如何。田沢仲舒の『太素後案』に用いたものは、兄弟の奈須恒徳の抄本系統だろうと推測します。そこには、かなり多く誤りの可能性を指摘していますが、影印とつき合わせるとほとんどが単なる誤写です。そもそも限られた時間でいそいで為された作業ですから、誤りが有るのはむしろ当然です。恥ずかしながら、私の電子文献にもほとんで連日誤りが発見されます。
浅井氏や小島氏の抄本のコピーも欲しいけれど、影印で難読の箇所の為の資料として有用なだけだと、咽から出そうになる手を一応なだめています。
治身 十元 2000/04/03
治民與治自
自は身の壊文のような気がします。他の篇をみても、治身が是かと思います。治は治めるという意味で、治身は養生のことでしょう。自分の病気を治療するとは読めないですね。聖人治未病という句があるが、これも聖人は未病の段階で自分の身体を治める(養生する)、という意味で、聖人は未病に治む、と読むべきなんです。聖人は未病を治療すると読んで居るんですが、誤りだと思ってます。
無有終時
終時とは、世紀末とかいう意味なんでしょうか。かの中国が消滅してしまうときなんでしょうか。
終身 神麴齋 2000/04/03
一応は「無有終時」で良いと思うんです。
『素問』上古天真論にも「上古有真人者,……故能壽敝天地,無有終時」云々と有りますね。でもね、森立之なんかの解説を参考にすると、真人には生死というものが無いから、終わる時が無いのが良いこととして言われるけれど、我々凡人の理想は寿命を終わる(寿命が尽きる)ことで、悲しむべきは中途で絶することなんだよね。
してみると、ここの「無有終時」は良いんだろうか。
おそらくは、終わるには「きちんと完了できた」という意味と、「終わってしまった、もう続きは無い」という意味と、両方有るんでしょうね。『霊枢』九針十二原に「終而不滅」と言うのは「中途で絶えることは無かった」のほうで、ここの「無有終時」は「もうそれ以上は伝わらないという限りの時は無い」のほうなんでしょうね。
Re: 十元 2004/06/08
意味は、(陰陽の)道理に従わないで、身体を整えようと思う奴は、存在しないぞ、ですよね。於に通じ、前置詞でいいのでは。
衍字? 神麹斎 2004/06/08
『漢辞海』に、前置詞として「対して、おいて」という意味がある。しかし、これはそこに例として載せる「人之其所親愛而辟焉」(人は親愛するものに対して偏愛するものだ)では、「其所親愛」が一つの詞組であることをはっきりさせるためであるように、わざわざ「之」を介在させるということではないか。
ここの句の場合、「不循其理,而欲正身者,未之有也」で何ら困らない。「不循其理」と四字句で言い始め、「而」と一呼吸置いて、「欲正身者,未之有也」と四字句、四字句でまとめる。口調としてもわざわざ「之」字を置くべき理由は無い。ひょっとしたら単なる衍字ではないか。
あるいは「正身」では「正しい身」と取られがちで、間違いなく「身を正す」と理解させるには、「正之身」のほうが確実だったということか。
理は、陰陽の道理ではなくて、人の理(俗、諱、礼、便)と天地の理(陰陽、四時)だと思います。
Re: 菉竹 2004/06/09
「其の理に循わずして之れ(1)を身に正さんと欲する者は未だ之れ(2)有らざる也」と訓めない理由は、なにかありますか?
たとえば上文に「之(1)=代詞」にあたることばや事柄が見当たらない、とか。
ここから先は身について 神麹斎 2004/06/09
楊上善の注は、「夫為國為家為身之道,各有其理。不循其理而欲正之身者,未之有也。所以並須問者,欲各知其理而順之也。」云々です。で、この文章で「不循其理而欲正身者」ではいけないのでしょうか。そこのところが分かりません。無くてもよいのに有るとしたら、口調を整えるためだと思うのですが、ここのところはもともと、整える必要が有るほど変な口調でしょうか、あるいは「之」を入れることによってより良い口調になるのでしょうか。そこのところも分かりません。
また考えてみると、前に「国や家や身を正そうとするには、いずれもその理というものが有る」と言っている。そして改めて「その理に従わずに身を正そうと望むのは……」と言い出すのであるから、ここから先は特に「身」について述べることを強調するための表現と解することができる。菉竹氏のように「其の理に循わずして之れを身に正さんと欲する者は、未だ之れ有らざる也」と訓むのが良いかも知れない。
Re: 四庫全書 2004/06/09
『四庫全書』の中には、「修徳」は4643例、「循徳」は47例(ほとんどが人名か地名)あります。
脩徳 神麹斎 2004/06/10
「脩徳」か「循徳」かといえば、私もおそらく「脩徳」だろうと思います。
ただ、問題の同じに見える字形は、ほとんどの場合、「循」のほうが意味が通じます。
おそらく「脩」で良いだろうと思うのは、他には「我脩身千二百歲」、「脩身為徳」ぐらいで、「五色○明」と「○道察同」、「不○道不去損益」は、まだ迷っています。『素問』では「五色脩明」ですが、楊注に「增也」と言うのに相応しい字義はまだ見つけていません。「循,增也」もです。
これは同形異字なんでしょうか、それとも微妙に字形が異なるのでしょうか。
循之取美 神麹斎 2005/10/02
巻2順養(『太素校注』だとp.3)
治彼與治此,治小與治大,治國與治家,未有逆而能治者也,夫唯順而已矣。
【楊注】人之與己、彼此、小大、家國八者,守之取全,循之取美,須順道德陰陽物理,故順之者吉,逆之者凶,斯乃天之道。
この「循」とした文字、本当は未だに「循」なのか「脩」なのか迷っているんです。で、傍らの仮名が参考にならないかと思うんですが、これは「ウ」で良いんでしょうか。さらに脇の●は多分よごれか句点だと思うけど。「循」だったら「したがウ」で、「これを守りて全を取り、これに循いて美を取る」だと言いたいところだけど、歴史的仮名遣いだと「したがフ」じゃなかったっけ。「脩」なら歴史的仮名遣いでも「シウ」だったはず。でも、「シウ」の「ウ」だけを傍書するなんて習慣は有ったんですかね。ちなみに他のところで「循」(したがう、なでる、めぐる)としか読めない箇所も、ほとんど同じ字形なんです。ほとんど同じであって、全く同じとも言えない、かも知れないんで余計にややこしんですがね。
Re: 循之取美 七面堂 2005/10/04
目を凝らして視ると、「●之取美」の、●の右上に点、之の左下に点、美の右上に点、美の右下にやや離れて点のようです。
●の右上の点と美の右下のやや離れた点は、多分同じもので、句点です。之の左下はテ、美の右上はヲです。 つまり「●之テ取美ヲ。」ということになります。「これを●して美を取る」ですか。
ウはもともとは宀のはずで、だから、もとから末筆をこんなに長く引いたものなのか、とは思います。かと言って、他のましな候補には思い至りません。上の点は汚れで、実はフというのは、如何になんでも無理ですよね。
齊以下皮寒 神麴齋 2000/04/03
楊上善の切り方とは異なりますが(楊注の挿入を※で示す)、渋江抽斎『素問講義』などの経と注の配置からすると、以下のように理解することも可能かと思います。
齊以上皮熱※腸中熱則出黄如糜
齊以下皮寒※胃中寒則䐜脹
熱に熱、寒に寒という関係は良いんですが、臍上と腸、臍下と胃という関係はちょっと……。
胃と腸の寒熱 神麴齋 2004/04/03
それにしても、
胃中寒腸中熱の条では、胃中寒に対して脹、腸中熱に対して洩なのは、何故でしょう。上には胃中寒則䐜脹と腸中熱則出黄如糜とあります。
胃中熱腸中寒の条では、胃中熱に対して疾飢、腸中寒に対して小腸痛なのは、何故でしょう。上には胃中熱則消穀令人懸心善飢と腸中寒則腹鳴飡洩とあります。
腸中の寒 蔭軒 2004/04/04
02-05-5 腸中熱則出黄如糜齊以下皮寒
楊上善注:陽上陰下,胃熱腸冷,自是常理。今胃中雖熱,不可過熱,過熱乖常。腸中雖冷,不可失和,失和則多熱出黄。腸冷多熱不通,故齊下皮寒也。
まさか失和則多熱出黄の熱字が衍文で、経文の腸中熱は腸中寒の誤りというわけにはいかないでしょうね。
失和なれば多く黄を出す。腸冷は多くは熱通ぜず、故に齊下の皮寒するなり。
飡洩と出糜 神麴齋 2004/04/04
『太素』卷二十七・邪傳に「多寒則腸鳴飡洩食不化,多熱則溏出糜」(27-47-2)と有ります。してみるとやはり、
02-05-7 腸中寒則腹鳴飡洩
02-05-5 腸中熱則出黄如糜
これは動かせない。
臍下皮寒 十元 2004/04/07
陽上隂下、胃熱腸冷、自是常理、
胃中雖熱、不可過熱、過熱乖常、
腸中雖冷、不可失和、
失和則多熱出黄腸冷、
多熱不通、故齊下皮寒也
楊上善注を上のように切ってみました。失和則多熱出黄腸冷が特徴で、失和は過冷のことで、腸中が過冷であれば、胃が多熱になり、黄疸?を出し、腸は冷える。胃が多熱で、それがめぐらざれば、臍下(=腸)の皮が冷える、のだ。という風に解釈しましたが。失和則多熱の多熱を胃の多熱に考えました。上下の陰陽バランスが崩れて、腸が一層冷えたわけです。「皮」については???
失和 不和 神麴齋 2004/04/07
胃の多熱によって出黄というのは可。
27-46-5 留而不去,傳舍於腸胃,舍於腸胃之時,賁嚮腹脹,多寒則腸鳴飡洩食不化,多熱則溏出糜。
黄糜を出すのは、腸の多熱に限らず胃の多熱でも良い。
十元さんの意見も採り入れて:
腸の冷が常理を越えると、胃の過熱がさらに進んで黄糜を出すが、腸の冷が胃の熱を阻隔するので、腸の冷自体はさらに深刻となり、従って臍の下の皮膚に手を触れてみるとつめたい。
何だか理屈は通ったような気になります。
しかしここの経文はあくまで「腸中熱則出黄如糜,齊以下皮寒。」なので、その「腸中熱」を「胃中熱」に変えることになるのはどうも……。
そもそもこの楊上善の注の在る位置と、字句の一部がおかしいんじゃないか。
「胃中熱則消穀,令人懸心善飢,齊以上皮熱。」に対して、
楊上善注:「胃中熱以消穀,虚以喜飢,胃在齊上,胃中食氣上薰,故皮熱也。」だったら、
「腸中熱則出黄如糜,齊以下皮寒。」に対しては、
楊上善注:「腸中熱以出黄如糜,腸在齊下,腸中○○○○,故皮寒也。」くらいが相応しいんじゃないか。
要の「腸在齊上」と「故皮寒也」の環節が分かりませんが。
だから暫定的に(苦し紛れに)、
陽上隂下,胃熱腸冷,自是常理。今胃中雖熱,不可過熱,過熱乖常。腸中雖冷,不可失和。
ここまでは胃熱、腸冷の原則を言う。以下が「腸中熱則出黄如糜,齊以下皮寒。」の説明になる。
失和則多熱出黄,腸冷多熱不通,故齊下皮寒也。
後の経文「胃中寒、腸中熱,則脹且洩。」に対して、楊上善はまた「脹是胃寒,洩是腸熱,腸中不可熱,令熱則腸中不和,故脹且洩也。」と言う。だから腸中の熱も過寒も不和であり失和であって、上の楊上善注ではそれをはっきりと言わないから分かりにくいのではないか。つまり腸中熱という不和が生ずると黄を出すこと糜(かゆ)の如しであり、腸が過寒という失和が生ずると熱が通じない。ここの失和、不和は寒熱の乖離であろうから、腸中熱というのもまた中は熱でも体表は寒かも知れないし、腸が過寒であれば「腸在齊下,故皮寒也」で何の不思議も無い。
善按 芝蘭亭 2004/04/07
澁江全善『素問講義』
11-03a●臍以下皮寒、
〈楊上善〉曰、陽上陰下、胃熱腸冷、自是常理、今胃中雖熱、不可過熱、過熱乖常、腸中雖冷、不可失和、失和則多熱出黄、腸冷多熱不通、故齊下皮寒也、
〈善〉按就句法攷之、〈楊氏〉〈馬氏〉以五字屬上文者、似是、竊謂臍以下皮寒、寒字或誤、疑當作熱、則上下文意甚覺平穩、
Re: 神麴齋 2004/04/09
渋江抽斎が言うように、「腸中熱則出黄如糜,齊以下皮熱」とすれば、それはそれで穏当ではある。
しかし、失和は乖常の言い換えのはずで、つまり(胃中熱との対比から言えば)腸中過冷から話ははじまるわけで、腸中は冷えているべきだといっても、冷えすぎは駄目で、そんなことになると失和して、失和すると多熱(カナメとなるここに飛躍が有る)となって黄糜を出し、腸中の冷と(どこかの)多熱が通じ合わず、故に臍の下の皮が寒(あるいは熱?)になる。
いっそのこと、経文が「腸中冷則(胃熱)出黄如糜,齊以下皮寒(or熱)」であれば、楊上善の注とはよく合うと思う。ただ、そうすると他の胃中熱、胃中寒、胃中寒腸中熱、胃中熱腸中寒とのバランスがあまりにも悪すぎる。
Re: 神麴齋 2004/04/09
過冷→失和→多熱→黄糜BUT臍以下皮寒
結局、楊上善の言い分は、腸が過冷になると、それは失和であって、失和になると「一転して多熱となり」(重陰は必ず陽となる?)、従って腸中が熱してしまって黄糜を出し、だけど臍の下の皮膚は最初の腸の過冷の影響で寒である、とでも理解するよりしようが無い、と思う。しかしなあ、ちょっと説明が飛躍しすぎるよなあ。皆さんは納得できますか。
腸冷が胃の多熱を臍下に通じさせないとも読めそうだけど、上の経文に厳然と腸中熱と言うし、下の楊注で洩是腸熱と言うし……。やっぱり、腸の冷と多熱が通じあわない=失和でいいんじゃないかな。
少腸痛 神麴齋 2004/04/04
腹鳴飡洩だから少腹痛と書き込みましたが、『太素』邪傳(『靈樞』百病始生)「多寒則腸鳴飡洩食不化,多熱則溏出糜」に拠ればそうとも言えない。
少腸痛 蔭軒 2004/04/06
02-06-3 胃中熱,腸中寒,則疾飢,少腸痛。
楊上善注:此胃熱腸寒倶時,胃熱故疾飢,腸寒故腸痛也。
経文も注文も、胃と腸を繰り返し対比させているんですから、やっぱり小腸痛で良いんじゃないでしょうか。
仁和寺本では少と小の混用はいくらも有りますし……。
少腸痛 十元 2004/04/06
患者の立場からいえば、お腹が痛いのに、小腸が痛いとか大腸が痛いという区別はありません。上腹と下腹の違いはあるでしょう。
医者の立場からいえば、解剖学的に、小腸の位置はわからなかったはずでしょうから、小腸の痛み、という表現は変ではないでしょうか。
以上からすると、小腸痛は、小腹痛が適当かと考えています。ただ、何時から使われているかわかりませんが、『資生経』に小腸気という病名がありますので、小腸という意識はあったのでしょうね。
少腸痛 神麴齋 2004/04/06
患者が「小腸が痛い」なんて言うわけが無い、という十元さんの意見には賛成します。そもそも五臓六腑のどれかが痛いなんていう言い方は、胃痛とか心痛くらいのものでしょう、少なくとも現代では。
で、それとは別に胃と腸の寒と熱に関して、脹と飢と洩と糜が出てくるのも気になるんです。中でも䐜脹と飡洩は対として内経には屡々登場します。ところが飡洩は小腸の病なのか大腸の病なのかはたまた腸の病なのか(内経の段階においてですよ)どうも判然としない。もし、飡洩が腸の病だとしたら、上腹部の痛みを胃痛、下腹部の痛みを腸痛と言いならわしていた、という可能性は無いものでしょうか。
いやまた飛躍しすぎましたかね。
Re: 神麴齋 2004/04/08
多分、郭靄春『黄帝内經靈樞校注語譯』に:
『釋名・釋形體』:「血、濊也,出於肉流而濊濊也。」以血出於肉,故其義引申作肉解。「血食」即肉食。舊解指祭有牲牢,於此不合。
とあることを言っているのだと思いますが、私は郭氏の説に賛成しません。他の箇所(根結)でも、「血腥を以て祭祀に用いるのと王公大人の普段の生活とどんな関係が有るのか」などと言ってますが、「驕恣従欲にして人を軽んずるのと肉食とどんな関係が有るのか」と言いたいところです。対になるのは布衣匹夫之士です。要するに、祭祀の当事者となるような偉い人と、つまらないただの人との対比だと思う。郭氏の態度は、何でもかんでも古代祭祀に結びつけてしまう白川氏と対極を為すものです。どちらもやや行き過ぎであると思う。
Re: 十元 2004/04/09
血食は、生け贄を捧げる祭であり、生け贄をささげられる連綿と続く名家であり、裕福な家庭であろう。したがって、王公大人血食之人は、「王公・大人・血食」の人々という意味で、布衣匹夫と対になる。
消息 菉竹 2004/06/14
消えることと生じること。また、栄枯盛衰のこと。「天地盈虚、与時消息=天地の盈虚、時と消息す」〔易経・豊〕 学研漢和大字典
「春之三月」には「陰消陽息」とあります。
消息 神麹斎 2004/06/15
消息が、消えることと生じることだとすると、息が生ずることなんですが、『集韻・職韻』に「息,生也」、『易・革』「水火相息」の王弼注に「息者,生變之謂也」、孔穎達疏に「息,生也」とあります。『漢語大字典』からの孫引きです。
陽が消えるのに順ずる 蔭軒 2004/06/15
ありがとうございます。消息の意味は分かりました。
分からないのは、鶏とともに起きるのが、どうして陽が消えるのことに順ずることになるのかです。鶏とともに臥すのが、陰が生ずるのに順ずることになるのは、なんとなく分かるような気もするんですが。
不表万物命 芝蘭亭 2004/04/08
無理矢理に楊上善の注文によって、経文を理解しようとすれば、以下のようになるかと思います。
雲露不精,則上應,甘露不下交通。
(不下交通,則)不表萬物命,故不施。
雲露が精でないと、だから天もその影響を受けて、甘露が降ってきて交通するということがない。
降ってきて交通することがないと、万物の命が布表されることがない。故に施されない。
だから、抄者がうっかりと交通二字を上文に属せしめた、などと言う単純なことではなさそうです。
周学海『読医随筆』の句読 菉竹 2004/04/10
雲霧不精、則上應白露不下交通、不表萬物、命故不施、不施則名木多死。
天気閉塞、不下交通、地気上騰、蒙冒日月。如是者、天地不交、陽亢陰鬱、必見満天雲霧、不化精微。雲霧之精、即白露也、不能下而交通於地、不能旁敷於万物。表、如表海之表、謂広被也。命、令也。当暘不暘、当雨不雨、当寒不寒、当燠不燠、四時正令不能順施、有不名木多死者乎。(天気が閉塞すると、下って交通できず、地気は上騰して、日月をおかす。このようであれば、天と地(の気)は交わらず、陽は亢(たか)ぶり陰は鬱し、必らず満天に雲霧を見、精微を化すことができない。雲霧の精とは、即ち白露であり、下って地と交通することができず、万物をおおうことができない。表とは、「表海」の表であり、広く被(おお)うことをいう。命とは、令である。暘(太陽が出る)べきであるのに出ない、雨が降るべきなのに降らない、寒くなるべきなのに寒くならない、燠(あつく)なるべきなのにあつくならない。四時の正しいきまりが順施できないのなら、名木が多く枯れないことがあろうか?)
参考になりますかしら?
Re: 神麴齋 2004/04/10
周学海『読医随筆』の自序は、清の光緒戊戌(1898)暮春になっているから、前年の袁昶通隠堂刊本の後だろうけれど、袁昶本では楊注を交通二字を勝手に不下の下に移動させているから、見たとしたら別の、つまり抄本だと思います。『泰素後案』では仁和寺本と同じ箇所に楊注が在り、『泰素後案』の撰者の兄が作った抄本は、現に中国の北京図書館に在りますから、『太素』を見た上での説だとすると、その類の抄本でしょう。実際にはどうなでしょう。私の見落としかも知れませんが、『読医随筆』にはその辺の事情は書かれて無いように思います。独自にたどり着いた句読なんでしょうか。
Re: 神麴齋 2004/04/11
楊注の中の「則一中分命」という句の意味がよく分かりません。
そもそも、こういう句切りでいいんだろうか、分は分でいいんだろうか。
Re: 神麴齋 2004/04/12
実は、『泰素後案』では、「一中」は「上下」の誤りではないか、と言っています。でも、納得できない。
Re: 菉竹 2004/04/13
小曽戸先生は、『淮南子』詮言訓を引用し、「一すなわち渾沌の中より分かれて生命を生ずるのは陰・陽の交通による、という意」と注釈なさっています。
一中■命 蔭軒 2004/04/13
とすると、「一の中より、命(いのち)を分かつ」と訓んでいるわけですね。でも現代中国語で、命に「いのち」という語感はほとんど無いと、養命酒の会社の人が嘆いていた、と聞いたことが有ります。その点は大丈夫ですか。それと「分」を筆書きすれば仁和寺本にそっくりになりますが、そっくりだけど右上の一画は余分だと思います。ゴミかも知れないけれど。これって本当に「分」で良いんでしょうか。と言って別の字は思いつかないんですが。
Re: 神麴齋 2004/04/13
小曽戸氏が想定している句読は、どういう具合なんでしょう。分命の下なんでしょうか、無由の下なんでしょうか、はたまた布表の下なんでしょうか。影印の表字の左下の点は句読点なんですか、それともゴミなんでしょうか、そもそも句読点だとしても抄者による勝手なものということは有りませんか。
隂陽不得交通,則一中分命無由布表,生於万物,德澤不露,故曰不施也。
「一中分命」(という本来の働き)に「布表する」「由が無い」ですか?
小曽戸意釈 菉竹 2004/04/13
陰・陽が交通することが得(で)き不(な)い則(と)、一中分命して生(生命)を万物於(に)布表する由も無く徳沢が露(うるお)うことが不(な)い。故に施され不(な)いと曰也(いう)。
Re: 神麴齋 2004/04/14
う~ん、わかりません、小曽戸氏の意釈は。
文章の構造としては、
陰陽が交通するを得ざれば,則ち
一中分命,無由布表,
生於万物,徳澤不露,
故に施さずと曰うなり。
じゃないか思うんですがね。
で、前の注文は、
陰氣失和
致令雲露 無潤澤之精 無徳應天
遂使 甘露不降 隂陽不和也
だから、「徳澤不露」は、潤沢の精、天に応ずべきの徳が無くて、甘露が降らないこと。
万物を生じようにも、甘露を降すだけの徳沢が無い。
とすると、
一中分命しようにも、布表するだけの由が無い、ではなかろうか。
「陰陽が交通するを得ざれば、則ち一(混沌)の中より命(メイ)を分かつに、布表する由(よし)無く、万物を生ずるに、徳澤は露(つゆふら)せず。故に施さずと曰うなり。」
生於万物を「万物を生ずる」と解する例は有るはずだと思う。また「露せず」は「甘露を降さず」の意味のつもりです。
あるいは 神麴齋 2004/04/14
陰陽が交通するを得ざれば、則ち「一中分命」となり、(したがって)生を万物に布表するに由無く、(したがって)徳澤不露(=徳澤は甘露を降らせず)、故に施さずと曰うなり。
結局「一中分命」が何かはよく分かりませんが、「分」では無いような気がする。■命は、この場合「天命にたがう」というような意味になりそうに思う。
一中分命 十元 2004/04/15
分字は、やはり分では無いでしょう。つくりが、明らかにヒです。で、何の字かといわれれば、未詳です。ただ、能の異体字にぎょうにんべんにヒのようなのがあったような気がしています。能命って、どういう意味かといわれれば、未詳です。まあ、わからん、というところですね。すみません。
乎古止点 神麴齋 2004/04/16
乎古止点にはいろいろ有って、右の半ばに短い短線というのも有るらしい。とすると、一画多そうにみえる文字も、やっぱり分で良いのかも知れない。そのつもりで見れば、何だか墨色も違うみたい。やっぱりカラー写真が欲しい!!
Re: 神麴齋 2004/04/14
経文の甘の左に小さく曰と旁書。おそらくは、もともとは曰になっていたのを、(現存する古卷子本の)抄者が理と楊注に拠って甘と書き改め、原貌を保存するために曰を旁書したのであろう。そうでないと、「曰露と言うは、恐らくは後代の字の誤りなり」が意味不明となる。蕭延平本などでは、『素問』に拠って白露とするが、仁和寺本の影印では歴然と曰露である。もつとも、この「言曰露者恐後代字誤也」は、楊上善以後の注記の可能性も有ると思う。
Re: 芝蘭亭 2004/04/11
『韓非子』解老篇に、「文綵を服し、利剣を帯び、飲食に厭き、而して資貨余り有る者、是れをこれ盜竽と謂う」とあり、この少し前に「竽なる者は、五声の長なる者なり。故に竽先んずれば則ち鐘瑟皆随い、竽唱うれば則ち諸楽皆和す」と言う。従って、盜竽とは盗賊の竽=長(かしら)という意味になる。とすると、「盗夸君之」はやはり「盗夸之君」(盗賊のかしらのような君)に改めたほうが良い。
盗夸 十元 2004/04/13
盗夸が盗賊の長であり、この人の徳で人民に君臨するとなれば、「施布」で禍が生じるはずである。「不施布」で禍が生じるというのであるから、「不施布」なのは良い徳である。
このような意味に解釈するなら、盗夸が君主になり、(良い君主の)徳が施されなければ、というふうにしたい。「盗夸之君(盗夸これ君たり)」のほうがいいと思う。
最後は「盗夸之君」でいいでしょう。盗賊の長が君主になったばあい、という意味でしょうから。
Re: 芝蘭亭 2004/04/13
『史記』楽毅列伝に「賢聖之君不以禄私親」とあり、小竹兄弟は「賢聖の君は禄を以て親に私せず」と訓んでいます。これに拠って思うに、「盗夸之君」を「盗夸これ君たり」とまで訓む必要は無い。「盗夸の君は、徳は施布せず、禍は昆虫に及び、灾は草木に延す」でしょう。盗賊のかしらのような君が上に居ると、徳が万物に施されないので、禍は昆虫にまで及び、災は草木にまではびこる、として八種の具体例をあげ、最後に、だから盗賊のかしらのような君が上に居たのでは、永遠に絶滅して復活することは無い、と言う。
楊注よみくだし 十元 2004/04/13
折角だから、読み下してみましたよ。
【よみくだし】
盗夸ここに君たり。德施 布せざれば、禍は昆虫に及び、灾は草木に延ぶ。其れ八種有り。
一者、名木死(か)るること多し。謂えらく、名好なる草木、黄ならずして落つる、と。
二者、惡氣發す。謂えらく、毒氣疵癘 国に流行する、と。
三者、風雨莭ならず。謂えらく、風 時ならずして雲を起こし、族せずして雨ふる、と。
四者、甘露下らず。謂えらく、和液施すことなし、と。菀槗はまさに宛槁と為すべし。宛は、痿死槁枯なり。於阮の反。陳根舊枝 死して榮茂せず。
五者、賊風 數しば至る。謂えらく、風衝上より來り、屋を破り木を折る、先ず虚有る者は、刻(おか)されて死す、と。 六者、暴雨 數しば起く。謂えらく、驟疾の雨 諸苗稼を傷る、と。
七者、天地四時 相保たず。謂えらく、隂陽 乖繆し、寒暑に莭なし、と。
八者、道を失し、絶滅すること未だ央(つ)きず。未だ央きざるとは、久しき也。言は、盜夸の君、絶滅すること方に久しき也。
Re: 神麴齋 2004/04/13
折角だから私も:
(例によって、過剰に助詞を補って、和訓の慣習を逸脱している。)
盗夸の君なれば、徳は施布されず、禍は昆虫に及び、灾は草木に延る。
其れ八種有り。
一に名木多死とは、名好なる草木が、黄せずして落つるを謂う。
二に惡氣發とは、毒氣疵癘が國に流行するを謂う。
三に風雨不節とは、風が時ならずして起こり、雲が族せずして雨ふるを謂う。
四に甘露不下とは、和液が施されること無く、(菀槗は當に宛槁と為すべし。宛は痿死、槁は枯なり。於阮反。)陳根舊枝は死して榮茂せざるを言う。
五に賊風數至とは、風が衝上より來り、屋を破り木を折り、先に虚が有れば、刻されて死すを謂う。
六に暴雨數起とは、驟疾の雨が諸もろの苗稼を傷なうを謂う。
七に天地四時不相保とは、陰陽が乖繆して寒暑に節無きを謂う。
八に(失道)未央絶滅(未央とは久なり)とは、盜夸の君なれば絶滅すること方に久しきを言うなり。
( )内は、文例から見て、さらにに挿入された訓詁、あるいは衍文を疑うもの。
また八種とは言いながら、最後のものは総論となっている。こういうのも中国の古い文章には珍しくないと思う。
無題 十元 2004/04/15
深入至蔵という句が、2-20-3の楊注にも見えるから、「脈不収○」という区切りになろうかと思う。と言う意味では「収聚(おさめあつめる」という熟語が適当かと思う。しかしながら、漢字の脚は、あくまで衣の下である。また、朱点をみてみると、「脈不収」「○」で区切っているから、「脉収まらずして、衰へ、深く入りて蔵に至る」、つまり「衰」字とみたが奈何。
脉不収● 神麴齋 2004/04/15
先ず第一に、字形としては候補に挙がったものの中では、「衰」に最も近い。ただ、ここで何故「衰」というのか。それがちょっと釈然としない。
「収聚」なら熟語としても問題無し。「収襄」はちょっと意味不明。
「裏」の場合、「脉裏に収まらずして、深く入りて蔵に至る」と訓むのを想定しているわけですが、実のところあんまり自信は無い。(表と裏と奥は違う、という話はいいでしょう?)
第二に、『太素』楊注に「不収○」という句は無いようです。必ず「不収」で切れる。十元氏もいうように、収の下に句読点とおぼしきものも有る。問題になっている文字の左下にも何か有る。
楊注は、春と夏、秋と冬がよく似た書き方になっています。
少陽足少陽膽府脉為外也肝藏為隂在内也故府氣不生藏氣變也
大陽手大陽小腸府脉在外也心藏為隂居内也故府氣不生藏氣内洞洞疾流洩也
大隂手大隂肺之脉也腠理豪毛受耶入於經胳則脉不収●深入至藏故肺氣燋漏燋熱也漏洩也
少隂足少隂腎之脉也少隂受耶不藏能靜深入至藏故腎氣濁沉不能營也
で、「腠理豪毛受耶入於經胳則脉不収●」に相当するのは「少隂受耶不藏能靜」ということになりますね。この「少隂受耶不藏能靜」が上手く解釈できないと、●の判定も難しいかな、というのが現在の感想です。
乎古止点についての知識ももう少しなんとかしないと。京都大学附属図書館所蔵・平松文庫『乎古止点図』によると、右下の朱点は「ハ」に、左下の朱点は「テ」に相当するらしい。言われてみると、「脉収まらざるハ、衰えテ」(あるいは、~ざれバ)云々、なるほど辻褄は合っている。(深の真下にも朱点が有るみたいで、それはスということになっているけれど、活用してシとなるのも含むんだろうか。)乎古止点にもいろいろ有るみたいで、何か良い(できれば簡単な廉価な)概説書は無いですかね。
●字 十元 2004/04/16
太陰・肺・秋=不収─●
少隂・腎・冬=不藏─能靜
このように考えると、不収で切るのは、当然ですよね。不蔵と静の関係がはっきりすれば、不収と●の関係もはっきりするでしょうね。静と衰は似たような意味であり、力無くておとなしい、という意味ではないでしょうか。秋の力を得られずして、弱い。冬の力を得られずして、大人しい。どうでしょうか。
収聚かも 神麴齋 2004/04/20
実は九気の終わりのほう(02-31-1)に「故氣収聚」という句が有るんです。その「聚」の字形は、確かにここの字形と紛れかねないんです。ひょっとすると、もともとは「収聚」で、最初の抄者が間違えて、後の抄者が四苦八苦して乎古止点を付けようとしているのかも知れない。画像の左は問題の字、右は九気の楊上善注中の「聚」。
衰と聚 十元 2004/04/20
衰と聚の脚は明らかに違うので、ひょっともしないと思います。これ以上ではないんですが。
似てると思う 神麴齋 2004/04/20
そう言っちゃったらお仕舞いです。似ていると思うか似ても似つかぬと思うかには個人差が有ります。私なんかは、間違えかねない自分をおそれます。まあ、下部の乑を衣(の下部)のように(これも主観的ですが)書く衆の異体字は有ります。聚の下部も乑ですよね。
襄 神麴齋 2004/09/06
しつこく蒸し返しです。
これはやっぱり『素問参楊』、『素問攷注』の「襄」で良いんじゃないでしょうか。
影印をじっくり眺め、築島裕氏の「仁和寺藏黄帝内經太素仁安二・三年點所用ヲコト點圖」と照らし合わせてみると、「収」の右下の点は句、「襄」の左下の点は「テ」のようです。とすると「腠理豪毛耶を受け經胳に入るときは、則ち脉収せず、襄りて深く入りて藏に至る」云々。「襄」には、移る、移動するという意味が有るそうです。
Re: 02-19-7 逆秋氣則云々 hfl. 2004/09/07
はじめまして。神麹斎先生
>築島裕氏の「仁和寺藏黄帝内經太素仁安二・三年點所用ヲコト點圖」
これは、なんという文献を調べれば見られるのか、ご教示下さい。
築島裕氏の…… 神麴齋 2004/09/07
失礼しました。前に一度軽くふれたことが有るので大丈夫だと思ったんですが、今みるとどこだったか分かりにくいですね。
オリエント出版社が出した『半井家本医心方』の附録に『医心方の研究』というのが有って、築島裕氏の「半井本醫心方の訓點について」が載っています。その中の第六圖の一部です。大きなものではありませんが、著作権上かってにコピーしてここに掲げるわけにはいかないと思います。ご容赦。
とりあえず 神麴齋 2004/09/29
本当は良く分からないんですが、誰も応えないので、とりあえずの「オアイソ」として。
「不亦…乎」は、「また…ナラずや」と訓んで、詠嘆の意を含む反語文としての用法で、「なんと…ではないか」と訳す。『素問』の「不亦晩乎」の例では、「…」の部分に「遅すぎる」、「もう手遅れ」というような意味が入る。こちらはこれで好い。
「亦… 乎」は、「また…ナるや」と訓んで、これにもやっぱり詠嘆の意を含むのだろう。「なんとまあ…であるか」とでも訳すことになろうか。で、『太素』の「亦不晩乎」は、「…」の部分に「晩ではない」、「遅すぎない」、「もう手遅れというわけではない」というような意味が入る。それでもまあ全くの手遅れというわけではないとは言えるのかなあ、というような気持ちでしょうか。
微妙に意味が違うんでしょうが、実のところは「また晩からずや」という日本語が頭に浮かんでいて、抄者がそれに引きずられて「亦」と書き始めてしまったに過ぎないのではないか、と窃かに考えています。『素問』ではこうこうだけど『太素』ではこうこうと、ご丁寧に校異を連ねるのも、無駄な努力と言うことが、まま有るんじゃないか……と。
熏於膚肉 芝蘭亭 2004/06/15
両方とも熏で良いんじゃないですか。楊注には熏於膚肉と有ります。それに、『漢語大字典』には、薫(香草)と同じ意味で熏を用いることも有るし、いぶすという意味の薫は後には熏と書かれるようになったと言ってます。
光澤 神麴齋 2004/04/17
『靈樞』決氣は「洩澤」、『甲乙經』は「出洩」に作る。また注の中に該當する説明が有るのかどうかも判然としない。そもそも仁和寺本の文字は本當に「光」なのか。
(実際には光と澤の間で改行してます。また中間の縦棒は熟語であることを示す。右下の符号は恐らくはヲコト点の一種。)
光澤 芝蘭亭 2004/04/17
15-24-7「尺濕以淖澤者風也」の楊上善注に「淖澤,光澤也」とあり、15-49-2「若耎而散者其色澤,當病溢飲」の楊上善注に「若脉耎散色又光澤者」云々とありますから、「光」と判ずること自体は正しいと思います。おそらくは、上に「淖澤として骨に注ぐ」と言い、下にも「淖澤として腦髓を補益」云々と言いたかったのだけれど、同じ「淖澤」という詞を用いるのは藝が無いとして「光澤」を用いたのであろうと推測する。
盛 十元 2004/04/17
受盛之官に、森立之は、盛は宬であるとし、意味は「所容受也」(『説文』)とする。したがって、「盛壅」は、栄血を容れて漏れることがない、という意味ではないでしょうか。楊氏がそのような意味で使ったのかは、判然としないが。
盛壅 神麴齋 2004/04/17
盛にはもともと「収納する、おさめる」という意味が有りますから、盛壅は「収納して漏れないようにする」で、全然問題は無いわけですが、壅遏を盛壅に置き換えると、本当にわかりやすくなったんだろうか、というのが素朴な疑問なんだろうと思います。だけど、時代も違うしねえ。漢語大辞典にも載ってないから一般的な熟語ではなかったみたいですがね。十三経とか二十五史にも無いみたい。
Re: 神麴齋 2004/04/21
「然五穀與為大海」で一句をなすと思います。そして穀・與・為のそれぞれの下の中央に点が有ります。ただ、與の下のものは墨色が異なり、あるいは朱点なのかも知れません。與の横に「ト毛」、為の横に「す」とおぼしき仮名が有ります。従って、これらを参考にすれば「然して五穀はともに大海を為す」ではないかと思います。これと楊注に言う「みな五穀を以て大海を生成するものと為すなり」は、照応しています。ただ、乎古止点と仮名についての知識が不足しているのであまり自信は有りません。また、それらをどの程度信頼するかについても、未だ態度を決めかねています。
與為大海② 十元 2004/04/24
五穀が大海に相当するという意味で、「五穀はともに大海と為る」ではないだろうか。「大海を為す」では、五穀が大海を作り出すという意味になろうかと思う。
炅は熱の異体字? 神麹斎 2004/05/24
2004年5月15~16日に上海で開催された医古文学術検討会の論文集に、広州中医薬大学の范登脉というかたが「古医籍同形俗字校読五則」の一則として、以下のような文章を載せています。
寒炅
『黄帝内経太素・九気』「寒則気収聚,炅則腠理開,気泄。」楊上善注「炅音桂。」
『黄帝内経素問・挙痛論』「岐伯曰:寒氣客於脉外則脉寒,脉寒則縮踡,縮踡則脉絀急,絀急則外引小絡,故卒然而痛,得炅則痛立止,因重中於寒,則痛久矣。」『内経詞典』はこの条を釈して「炅,古迥切。」と言う。
按ずるに、裘錫圭は考古学が発見した秦漢の文字資料を根拠にして、ここの炅字は熱の異体であって、『説文』などの古代字書に載せる「炅」字とは字形は同じでも音義は異なる。「おそらくは今本のもとになった『素問』古本では元来は全てに炅が用いられていたところが、後の人が炅を熱に改め、しかもその全てを改めきれなかったので、ついに全書に炅と熱が錯出することになったのであろう。『長刺節論』に病風且寒且熱炅,汗出,一日數過とあって、熱炅の二字を重ねている。先人が炅に熱と注したもののはずなのに、後人はその意味が分からず、ついに二字をともに正文として書いたのである。『太素・雑刺』に病風,且寒且炅,一日數過とあって、炅の上に熱字なぞ無いのが証拠となる。人民衛生出版社が出版した『黄帝内経素問』が上に引いた『長刺節論』の文に標点を施して病風且寒且熱,炅汗出とするのは、妥当ではない。」朱徳煕もまた「炅は日と火から合成され、火と日はいずれも熱を発し、日字の音もまた熱とはなはだ近い。『内経』の炅は明らかに漢代の抄本が遺留してきた熱字の異体字であり、一般の人が用いる字書の中の音でそれを読むのは、誤りである。」と言う。
つまり、ここでも楊上善の音桂は斥けられている。しかし、一般の字書に載る炅字は意味が違うと言っても、『広韻』には光也といい、同音の熲にはさらに輝也、炯には光明皃というのであるから、音桂で熱を意味する詞が有った可能性も考慮したほうが良いのでは無かろうか。ちなみに『説文』の見也については段玉裁も疑問視している。『説文』も光也なんじゃないか。光の異体字に灮というのも有るんですがね。
炎蒸也 芝蘭亭 2004/05/25
『漢語大字典』には、『集韻・梗韻』に「烱,炎蒸也。」とあり、『正字通・火部』に「烱,俗炯字。」とあると言ってますから、やっぱりケイという音で熱という意味の詞は有ったんじゃないですかね。炅と炯は『広韻』で同音です。
炅 神麹斎 2004/05/27
炅が熱の異体字というのは、最も有りそうなことではある。つまりどちらも音はネツ(勿論これは話を簡単にするための方便であって、ネツという音に近いというだけのことです)で意味は熱、形だけは異なる。炅という字ははもともと光の意味で有るのに、熱の意味を表すのに日と火を組み合わせて造字したので、同形異字ができてしまった。
しかしまた、音はケイであって、意味は熱という別の詞語がもともと有って、より古くは熱をあらわすのにケイというのが普通であったか、もしくはある地方では普通であったが、後にネツに取って代わられたという可能性も皆無ではない。光とか輝くとかいう概念は、暖かいとか熱いとかいう概念と全く相容れないわけでもなかろう。もともとは光り輝き暖かくあるいは熱いという概念をあらわす詞語としてケイという言葉が(少なくともどこかの地方に)有ったのに、後には熱いという概念では(中央の雅言である)ネツという詞語に覆い尽くされ、かろうじて光という概念をあらわす詞語として残った。
上に述べたことは、「可能性は有る」というに過ぎないけれど、楊上善が簊(『素問』では篡)の音を督というにも関わらず、字義を追求するだけで、音を詮索する人はいなかったところが、トクという音で肛門をさす詞語が確かに有ったことだけはつきとめた。ケイで熱だってもっと適切な例が見つかるかも知れない。
そもそも音桂を無視するならば、それは楊上善の釈音の水準に対する疑念を含むはずなのに、誰しも口をつぐんで何も言わないのはおかしくはないか。
褒貶 神麹斎 2004/05/28
私の話はいつも分かりにくいし、今度のはなおさらそうかも知れないけれど、
要するに、
楊上善の釈音は本当はあんまり評価できない。
でもねえ……、間違うには間違うだけの理由が有るだろうし、その点の研究も必要なんでないの、ということですよ。
それに、楊上善の注釈をけなしている中国の学者は寡聞にして知らない。
でもねえ、釈音を無視するのなら、楊上善の学力について批判の一言が有っても良いんでないの、ということですよ。
あるいは 神麴齋 2004/04/22
あるいは、問題の文字は氵に蚤ではないか。
氵に蚤という字は、字書に「淘米声」(米をとぐ音)として載っており、{氵蚤}{氵蚤}はまた溲溲とも書くという。溲は小便、あるいは小便をする。「小便のように濁った」のつもりか。
あるいはまた、蚤は糟粕の糟と同音もしくは近音なのではないか。つまり、「糟粕のように濁った」ということを言うつもりで、新しい文字を創作してしまったのかも知れない。とんでもない話ではあるけれど、彼、楊上善には前科が有る。例えば胳。
澄濁 十元 2004/04/23
澄濁は、清濁の謂ではないでしょうか。難経三十一難に「下焦者.當膀胱上口.主分別清濁.主出而不内.以傳導也.」とあるのが参考になろうかと思います。
濁を澄ませる 神麴齋 2004/04/23
澄濁は不審ではあるけれど、「濁を澄ませる」という意味で澄濁と言った例は有る。晋の孫拯『贈陸士龍』詩之八に「澄濁以清,罔有不暉。」
濁ったものを澄ませて沈殿させて底にたまるものを糟粕といい、しみ出した汁が別れて膀胱に入る、だから順序に従って下に送られると言う。
氵に蚤なんて字は突飛すぎるとは、私も思いますが、澄という字だって、実はもう一カ所、反切に使われているだけのはず。楊上善の用字としては、澄濁だって充分に突飛ではある。
澄濁は偏義複詞 十元 2004/04/24
この文章に続いて、営衛についての問答があることからすれば、清気と濁気を指して、澄濁と表したのではないだろうか。
また、澄濁は糟粕になると書かれているから、もしかすると偏義複詞の可能性もある。
けっきょくわからん 神麴齋 2004/04/24
この文章の後に営衛についての問答は有るが、この楊上善注の前の部分にすでに「水穀化為津液,清氣猶如霧露,名營衛,行脉内外,無所滯礙,故曰大通」と言うから、清気と濁気、営気と衛気を指して澄濁というわけにはいかない。
つりあいから言って、ここは濁の意味だけのはずということなら、偏義複詞というのは良いせんだとは思うが、何もそんなややこしいことをして分りにくくすることもなかろうとも思う。しかも澄なんてあまり使わない字を用いて。「清濁」としないでわざわざ「澄濁」としたのは、清と濁ということではない、というつもりかも知れないけれど。
濁の意味だけのはずという点からは、私のあげた可能性の中では「溲濁」もしくは「糟濁」。
むしろ「水穀化為津液」とつりあわせたいということなら、ちょっと苦しいけど「濁を澄ませる」。
あるいはいっそ、上には清気として実は営と衛を言うわけだから、ここの澄濁は汁と糟粕……。
いずれにせよ、何だか腑に落ちない。
化為糟粕及濁氣并尿 芝蘭亭 2004/04/28
02-34-4の楊上善注に:
穀化為氣,計有四道。
精微營衛,以為二道。
化為糟粕及濁氣并尿。
其與精下傳,復為一道。
槫而不行,積於胷中,名氣海,以為呼吸,復為一道。
合為四道也。
従って、問題の「其澄濁者,名為糟粕,泌別汁入於膀胱」と「化為糟粕及濁氣并尿」が照応する。「澄濁」は澄と濁を分かつというような意味だと思う。
「糟粕及濁氣并尿」を、「糟粕、濁氣and尿」というような意味の表現と解していますが、自信が有りません。どなたか解説をお願いします。
平人日再後 神麴齋 2004/04/27
七日続くと穀気が尽きて死ぬという計算は、巻13腸度の
故腸胃之中,常留穀二斗四升,水一斗一升。故平人日再後,後二升半,一日中五升,七日五七三斗五升而留水穀盡矣。故平人不飲食,七日而死者,水穀、精氣、津液皆盡矣,故七日而死矣。
のことだろうと思う。ただ、ここに持ち出すのが適当かどうかには、やっぱり大いに疑問がある。
楊上善は何者 十元 2004/05/04
書き写した人には、意味が分からなかったのでしょう。誤字を保存している点では、仁和寺本はやはり善本なんでしょうね。蕭本が気を利かした改字が正しいのだろうが、旧貌を存するに違反している。ところで、小篆を知っている楊上善は、相当な学者なんじゃないでしょうか。明堂に楊上善序文があるけれど、なかなか難しい文章だし。ということは、太素楊上善注を読むにも、相当なる素養が必要なのでは。
善本 神麴齋 2004/05/05
私は最近、善本というものの定義を改めているんです。
つまり、誤りをきちんと訂正してある本が善本である。
ただし、この「きちんと訂正」というのが難物で、改めたから間違ったということが屡々有るわけです。だから最低限の心遣いとして、改めたらその理由を述べて改めたことを明記しなくてはならない。
こういった点からみて、蕭延平本には若干問題が有ると思う。そして恐らくは楊上善にも。大学者だし、割合きちんと元貌を残しているし、きちんと校語をつけている方だとは思うけれど。所詮は時代の子です。そして当然ながら仁和寺本にも。所詮は日本人が抄したものです。
ひょっとすると 神麴齋 2004/05/21
李今庸『古医書研究』のp.204に(話題としては別の問題ですが)、
「癃,一作𤸇,籀文作𤵸」云々と有りました。
残念ながら仁和寺本の字形は両方とも𤸇のようですが、ひょっとすると楊上善は李先生の言われる籀文を書いていたのかも知れません。
上の一作の字形は癃から阝を除いたものです。籀文作の字形は疒に夅です。いずれもCJK統合漢字拡張領域Bの漢字です。
OSがXPの場合、CJK統合漢字拡張領域Bの漢字が表示されないのは、フォントの問題です。一万円程度の予算で入手できるはずです。
Re: かいちょう 2004/03/24
「涘音俟水厓水義當凝也」を区切れば、「涘、音俟、水厓水、義當凝也」となり、涘は、岸辺の水という意味で、そのこころは凝滞である。「水」の出所はわからないが、楊上善らしく、文脈を案じて付加したものだろう。と、僕は考えた。
ここをどう読むのか、太素についているオコト点を調べれば分かりそうである。というわけで、カラー版が重要なのである。から、オリ社から出ているなら、なんとか入手するようなことを考えたい。
Re: 神麴齋 2004/03/24
「涘音俟水厓水義當凝也」の区切りかたは、「涘、音俟、水厓、水義當凝也」だろうと思うんです。これは『説文解字』が「水厓也」だからというのが理由です。崖じゃなくて、崖の水であるべきという説も知らないんですが。ただ、「水義當凝也」を、水は意味から判断すれば凝と理解すべきだ、という意味だとすると、水では困る氷であってほしい、しかし、水にしろ氷にしろどこからそんな字が出てくるんだ、とまあ千々に心乱れるわけです。本物を見れば、あるいは少なくともカラー写真を見れば、少しは解決に近づけるかなと。(今のところ、かいちょうが言うような、「水厓水」とする『説文解字』が有るのが一番すっきりするかも。でも、そうすると影印の水の左脇のヒもしくは冫は何だろう。)
水ではなく、冰としたらどうでしょう みろり 2004/03/24
「涘の音は俟で、(意味は)水厓です。(涘は)冰(とも書きます/の異体字です)。(意)義は當に凝とすべきです」
さて、「厓」の右傍のカタカナのような文字?は、なんと読みましょうか。「厓」の訓の一部でしょうか。
ノ・ソ・ワ?
涘 水厓也 神麴齋 2004/03/24
う~ん、涘と冰が異体字というのはどうなんでしょう。音義ともに違うように思いますが。
氷と冰は異体字ですね。氷・冰と凝は微妙なところ、というか異体字であると主張している場面は有るような……。
今のところの推測としては、本来は「涘。音俟。水厓也。義當凝也。」(涘の音は俟で、意味は水厓である。ただし、ここでは凝の意味に理解すべきである。)と有るべきものが、也の字が、何らかの事情で、水もしくは冰に紛れる字形に変わり、そこで抄者が四苦八苦しているんじゃないかと思うんです。だから、仁和寺本に抄者がどう書いたつもりかには、カラー写真によって大いに近づけるけれど、本来どうだったかにはまた別の考察が必要だと思います。つまり「訓詁学を越えた何らかの方法」が必要だと思うわけですが、うかつに越えようとするのは危なっかしくてしょうがない。宮崎市定先生もおっしゃっていたと思いますが、重箱の隅をつっついて然る後に飛躍する、ということでしょうね。
ひつこく かいちょう 2004/03/24
「涘音俟水厓水義當凝也」を区切れば、やはり「涘、音俟、水厓水、義當凝也」だろう。「義當凝」の被釈字は何かと考えれば「水」しかないだろう。凝滞している水の流れとおなじように血液も凝滞している、と解釈したところなのである。「水厓」は水辺の意味で、凝滞しているのは水辺の水である。「水厓水」という訓詁は見えないけれど、楊上善が作り上げた訓詁だと考えられる。「水厓也」も悪くはないけれど、発展しすぎか。「氷」では、凝固の意味になるので、血流の悪さを形容するには不適当なのではないだろうか。
涘義當凝也 神麴齋 2004/03/24
「義當凝」の被釈字は「涘」です。
巻28の諸風数類に「衛氣有所涘而不行」とあり、楊上善注に「涘義當凝也」(28-05-7)と言ってます。
また、冰と凝はもともと同じ字でしょう。『説文解字』十一下に、凝は俗冰とあります。
またひつこく かいちょう 2004/03/25
被釈字は「涘」でしたね。被釈字という使い方を間違いました。言いたかったのは、①涘=②水厓水=③義當凝也、であるからには、凝滞するのは流体である「水厓の水」であり、固体である「水厓」(岸辺)という場所ではないから、やっぱし、「水厓水、義當凝也」だろう、ということ。
楊上善は『説文』によって冰と凝が異体字の関係にあるのを知っているなら、「冰義当凝也」という注釈を書かなかったのではないだろうか。「冰正凝俗」か、「冰俗凝也」とか書くのでは?
あのちょっと 神麴齋 2004/03/25
あのちょっと違います。
楊上善が言いたかったのは、古典的知識では①涘=②水厓水(或いは也)なんだけど、ここでは違うよ③義當凝也だよ(ここでの意味は凝だよ)、ということだと思います。凝滞するのは流体であるとか、固体ではないから岸ではないとかいうのは、この際関係ないけど、つまり楊上善自身が、かいちょうと同じような感覚にもとづいて古典的知識を否定しているわけです。
冰と凝が異体字の関係にあるのを知っているなら、「冰義当凝也」という注釈を書かなかったのではないだろうか、というのには賛成します。だからちょっと苦しいけど「水厓也」なんじゃないか、というわけです。でも、少なくとも抄者はそうは思ってない。
こうしてぐだぐだやってますが、実際にはどういうことかと言えば、森立之の涘は凝の右の部分が欠けたものに過ぎないという意見が正解だと思います。ただ、そのことに楊上善がそもそも気付いてない、らしい。でも流石に直観的に意味は凝のはずだと言い当てている。
言いたかったこと かいちょう 2004/03/26
ところで「涘音俟水厓冰義當凝也」の「冰」字らしき右下に朱点、右傍に「ソ」と書いてあるけど、どういう意味なんだろう。朱点は、ここで区切ったという意味なんだろうけど。とすると、「水厓」と読んだのだろうなあ。
02-44-3 涘 神麹斎 2004/08/25
02-44-3 涘音俟水厓水義當凝也
最初の頃に悩んだ箇所ですが、下の水の左脇に有る「ヒ」に見える符号が、13-10-5の楊上善注「…急桂酒洩熱故可療緩筋也」の急字の左脇にも有ります。この符号を抹消の意味に取ったようで、『九巻經纂録』には急字は有りません。もし、「ヒ」に見える符号が一般に削去の指示であるとすれば、問題の楊上善注は「涘,音俟,水厓。義當凝也。」で、悩みは雲散霧消です。
「ヒ」について 菉竹 2004/08/26
沈澍農さんの『中医古籍用字研究』に、
日本の漢字読音では「否」と「非」はどちらも「ヒ」と読み、「ヒ」を用いて削除の意とするのだろう、
とあります。
Re: 「ヒ」について 神麹斎 2004/08/26
沈澍農氏が言うのだから、少なくとも中国の伝統的な符号では無いようですね。
ただ、沈氏の言うところと、沈氏の指摘する『医心方』の具体例を見てみると、校改の符号であって、削去の符号では無いようです。問題になる文字に左に「ヒ」、右に正しい文字が必ず有るようですが、削去の場合にも使われると考えて大丈夫でしょうか。
Re: 「ヒ」について 菉竹 2004/08/27
『九巻經纂録』のような例や、傍らに「ヒ」がついていてその文字を除くと筋が通る例(最初に提言されたもの)を『太素』『医心方』で集めてみれば、「ヒ」を校改記号のみならず、削除記号としても使っていたといえると思います。
圏点も削除と校改の両方で使われているものもありますから、「ヒ」は厳密に校改記号として使われたとは上の例からしていないだろうと印象として思います。
Re: 「ヒ」について 神麹斎 2004/08/27
仁和寺本『太素』で、「ヒ」が使用されている例は、今のところ先にあげた二箇所しか見つけていません。実は電子化した早い時期に13-10-5で左に「ヒ」の有る文字の削除には気づいていたのに、涘音俟水厓水義當凝也と結びつけて考えることが出来ませんでした。やっぱり、我ながら頭が悪いねえ。
第一の疑問について 菉竹 2004/05/04
この問題については、黄龍祥が「経絡学説の変遷」(『内経』154号)の11p下段で論及していることと関連があるのでしょう。
『太素』巻三陰陽雑説は「黄色入通於脾胃」03-57-2となっているのに、『素問』金匱真言論(04)は「黄色入通於脾」となっていて、「胃」字がない。楊上善『太素』が引用しているのは歴史的には五蔵のひとつであった胃が、脾に取って代わられる以前の過渡期の文献であって脾胃が併論されており、現『素問』では整理された結果として「胃」が削られている。そうとらえると、『太素』02-47-5は、あとから脾が加えられて六味になってしまったけれど、以前からあった胃もはずすわけには行かない。要するに、蔵府学説と五行学説の結合がうまくいっていない。「六味」になってしまうことには目をつぶった。
現『素問』の編者は、もう頭の中は五行説優位であるから、それと齟齬をきたすもの(胃も五蔵のひとつとする考え)は容赦なく除いた。『内経』全体を見れば、不徹底ですが。
ついでにいえば、これを徹底して理論的整合性を追求しようとしているのが、現在の学校でおしえている中医学基礎理論ではないでしょうか。
郭靄春の訓詁 芝蘭亭 2004/05/11
郭靄春の訓詁の方法には危うさを感じる。
『爾雅』とか『広雅』とかいう書物は、先行する経典的著作に対する注釈を寄せ集めてなったものである。従って、厳密にはその箇所ではそう解釈できるということであって、一般的にそう解釈してよいという保証にはならない。
『広雅疏証』を繙いてみても(漢字が足りないので、残念ながらその文章をあげることはしない)、「揺」は「ゆらぐ」とか「振動する」とかいう意味であって、一般的な動作、行動をさすことが有るとは思えない。例えば『左伝』「迎于門、頷之而已」の杜預注に「頷、揺其頭也」とか、『方言』「偽謂之扤、扤、不安也」の郭璞注に「船動揺之貌也」とか。ざっと目を通しただけだから見落としているかも知れないけれど、『広雅疏証』には「揺、動也」の出所を明示してないように思う。
Re: 芝蘭亭 2004/08/06
化と咸の間に縦棒が有るから、抄者は化咸を熟語と見ているようだが、化咸という熟語は無いようである。古籍に見えるものはいずれも「化はみな」云々と解される。で、ここの「化咸□已」は、「化はみな〈なんとかして〉已わる」ということであろうから、咸の下は而でなくて、具体的な動詞のほうが良さそうである。また、影印に残っている文字の部分からしてもこれは「而」ではなさそうに思う。
Re: 03-02-3 變化之父母也 十元 2004/08/07
巻3の冒頭は、原本ではなく、補抄である。虫食い部分をなぞっているところがあるので、文字と区別しにくいところがある。化咸而已の而はまさにそのところで、文字を特定するのは難しい。合成変化、といっているので、おそらく化成○已なのだろうが、としても已との関係も難しい。
まあ、難しいという意見だけですけど。
こころみに 蔭軒 2004/08/07
万物の生は、忽然として有り、故にこれを化と謂うなり。化咸くして已み(化がゆきわたるのみで、ゆきわたれば)、故に百端を異にす、これを変と謂うなり。みな陰陽雄雌を以て合成変化せざるは莫し、故に父母と曰う。
(残った字形を而の一部と見るのはやはり苦しいけれど、咸でなくて成というのもやや苦しい。)
万物は何も無いところに忽然として現れる、だからこれを化と言う。化がいきわたれば、だからここに様々な違いが出てくる、これを変という。この変といい化というものをひきおこすもので、陰陽=雌雄によらないものは無い、だからこれを変化の父母と言うのである。
玄元皇帝? 七面堂 2004/08/25
巻三の陰陽大論のはじめのほうに「神明之府也」と有って、その楊上善注に「玄元皇帝曰:天不能轉,日月不能行,風不能燥,雨不能潤,誰使之爾,謂之神明。」という引用が有ります。この出典って分かりますか。
Re: 玄元皇帝? 菉竹 2004/08/26
玄元皇帝とは、老子のことですが、現行本『老子』には見えないようです。
また、この出典に言及されたものは寡聞にして知りません。
楊上善の時は存在し、今に伝わっていない文献なのでしょうか。
補足 菉竹 2004/08/27
引用文が道教経典に見られるものでしたら、雲笈七籤に引用文を見つけられるかも知れません。
道教の専門家に尋ねるか、雲笈七籤のデータベースを探していただけないでしょうか。
Re: 玄元皇帝? ななし 2004/08/27
雲笈七籤等を含む漢籍テキスト・データベース檢索が、京都大學人文科學研究所・道氣社のHPにあります。
Re: 玄元皇帝? 七面堂 2004/08/27
『雲笈七籤』のデータ情報ありがとうございます。
残念ながら検索が下手なのか、問題の出典はまだ見つかりません。
そもそも上の質問をしたのは、「神明之府也」について『素問識』では『淮南子』泰族訓「その物を生ずるや、その養う所を見ることなくして物長じ、その物を殺するや、その喪う所を見ることなくして物亡ぶ、これをこれ神明と謂う」を引いて説明しています。それでわかったようなつもりでいたのですが、『太素』楊上善注は上記のような具合で、何だか分かったような分からないような、何だか別のことを言っているような気がするので、出典が分かればもう少しなんとかなるかと思ったわけです。
ここに引かれた玄元皇帝曰の内容は、どういう意味なんでしょうか。
有本云 菉竹 2004/07/03
「有本云」とは、楊上善がいくつかの『素問』(あるいは『太素』)の抄本を集めて校勘したところ、自分は「隂煞陽藏」という経文を選んだけれども、「隂生陽煞」に作る本もあるよ、と紹介しているだけだろうと思います。
もし楊上善が「隂生陽煞」の方がよいと思っていたら、こちらを経文としてあげ、それに則って注釈を施したと思います。
Re: 蔭軒 2004/07/04
機械的にはと言うか、常識的にはと言うか、菉竹氏の言われるように「陰煞陽藏」じゃなくて「陰生陽煞」となっている本も有りますということだ、と考えるのが普通だろうと思います。ただ、そうすると前の句を合わせて「陽生陰長陰生陽煞」となります。それで良いのかなとちょっと心配になったわけです。感覚的にはここには生長殺蔵という組み合わせは残したい。
そこで、前の句と合わせて「陽生」じゃなくて「陰生」、「陰煞」じゃなくて「陽煞」となっている本も有るということを言うために、「有本云陰生陽煞也」と書く可能性は無いのだろうか、と思ったわけです。さらに、陰陽の片方を言ったらもう片方も当然言ってるんだよ、だから「陰生陽長陽煞陰藏」となっている本も有るということだよ、のつもりという可能性は皆無なんだろうか、という疑問なんです。
校勘 菉竹 2004/07/04
「有本」ではじまる校勘の文は、45箇所以上あるようです。そのいくつかで「非/誤」などと明確に否定しています。ですから、「有本云隂生陽煞也之」は否定されてはいないと考えられます。ただ、2経文にまたがる校勘記事はないように思えるのですがどうでしょうか。
楊上善は「生長殺蔵」という組み合わせを残したいからこそ、「陽生隂長、隂煞陽藏」を選んだのではないでしょうか。でもここ以外に「生長殺蔵」の組み合わせは、どこかにありましたでしょうか。
「陰生陽長陽煞陰藏」となっている本も有るということだよ、というのでしたら、40箇所以上の校勘記事を書く楊上善先生ですから、上文でも、校勘記事を入れたのでは。
Re: 神麹斎 2004/07/04
「陽生陰長陰殺陽藏」は、『素問』では「陽生陰長陽殺陰藏」になっています。そして『素問攷注』に「生長殺藏者,即生長收藏,收與殺為同義。」と言っています。だから、生長殺蔵という組み合わせを残したいという感覚は理解できます。ただ、王冰注に引く『神農』では「天以陽生陰長,地以陽殺陰藏。」とありますので、生と長の組み合わせと殺と藏の組み合わせであって、生長殺蔵と続けて考える必要は無いのかも知れません。
しかし、それにしても「陽生陰長」の直後にまた「陰生陽殺」と言って、両句に「生」の字を用いるのは、修辞法としてはいささか拙だと思います。まあ、だから楊上善も王冰も採用しなかったのかも知れませんが。(王冰はそもそも見ていない?無視している?)
本当は「陰殺陽藏」と「陽殺陰藏」と、はたまた「陰生陽殺」と、どれを採るか、という議論に転換したほうが良いかも知れません。
無題 十元 2004/07/06
「有本云陰生陽殺也」の区切りですが、「有本云『陰生陽殺』也」か、「有本云『陰生陽殺也』」になろうかと思いますが、個人的には後者だと思います。ということは、「陽生陰長陰殺陽蔵」の後句に対する校記ではないでしょうか。いずれにしても解釈の難しい句ですね。
Re: 芝蘭亭 2004/07/17
今さらなんですが、半井家本医心方の附録「医心方の研究」の中に、「半井本医心方の訓点について」という論文が載っています。筆者は以前に菉竹氏が紹介していた中央公論社『日本語の世界』5「仮名」と同じく築島裕氏です。その中に、仁和寺蔵太素の仮名とヲコト点にもふれた箇所が有ります。
で、右下の点は「ハ」もしくは句点のようです。とするとここは句点と判断して、「故に濁陰と曰う、陽は下竅に出るなり」でしょうか。やっぱり良くわかりません。
ついでに言えば、左下の点は「テ」もしくは返点のようです。
穴冠に幺の下に力 神麹斎 2004/09/02
03-02-7の寂冥については、「底本の形だけを追えば、上は穴冠に勿」で、その字形を探し求めても、内閣文庫所蔵朝鮮本『竜龕手鑑』に、寂の異体字しか見つかってないから、形にこだわって「寂」を入力というだけのことで、正解は何かとならば、おそらくは荒川緑説の窈だろうと言っているつもりですのでお間違えなく。
で、穴冠に勿に見えるのは実は穴冠に幺の下に力ではないかともほのめかしています。実は沈澍農氏の『中医古籍用字研究』にも、当然この箇所についての論考が有り、朱起鳳『辞通』を繙いたところ、卷十「杳冥」「窈冥」のもとに、漢韓勑后碑に「窈」を正しくそうした書き方をしたものが有る、と載っていたと言っています。そして、菉竹氏の言う『医心方』巻二十八の二に見える文字も、半井家本では「穴冠に勿」よりは、「穴冠に幺の下に力」に近いようです。
そして、仁和寺本『太素』の字形も、確かに「穴冠に勿」というわけではなくて、「穴冠に幺の下に力」との中間くらいのものでしょう。
Re: 神麹斎 2004/07/31
楊上善の注がおかしいと感じる理由には、そもそも楊上善の経文に対する理解の水準に多少の疑問が有るということ以外に、楊上善の文章力に対する評価の問題が有ります。それほど達意の文章とは言えないのではないか。もっとも、これは私たちが隋唐の文章に不慣れであるから、という可能性が大いに有ります。
それから、もっと大きな問題として、日本における抄者の学力と注意力が、本当は相当に危ういのではないか。仁和寺本の『太素』を見ていると、日本語的な語順とか、うっかりとしか思えないような虚詞の脱落が目立ちます。
だから、『太素』の校訂にあたっては、『素問』『霊枢』の場合よりももっともっと手を入れて良いのではないか、いや入れるべきではないかと考えています。
Re:夭喪 菉竹 2004/11/11
「喪」字から逆にたどると「切,息郎反,亡也」とよめます。
「有亡破之灾」の「亡」とここの「ヨ」を裏返したような字は同じ字だに見えます。『説文』に「喪,亡也」とあるから,これも「亡」でしょう。あとは韻書で反切をみると「蘇郎切」でそれに合わせて文字をさがすと「息郎反」と見えるのではないでしょうか。そうすると,一番上の文字は,『医心方』でよくみる「切韻」をあらわす「切」に見えてきますが,いかがでしょうか。
Re:夭喪 神麹斎 2004/11/12
なるほど。
そうすると、亡には兦という異体字を使っている可能性が高いんですかね。
(この異体字、見えてますか?)
ちなみに、夭喪という言葉は、『後漢書』などにも見えます。
Re:夭喪 菉竹 2004/11/12
「兦」見えています。 ただ「亡には兦という異体字を使っている」というくくり方にはいささか抵抗を覚えます。この「ヒ」の上に「一」を加えた文字は,『碑別字』などでは,ひとつの字体として認識されているように思います。
基準とする字体をどれにするかによりますが,「亡」を基準とするとこの字は「言」字のように最初の二画をナベブタで書くのと「二」で書くのの違いのようにとらえられます。つまり「亠」+「∟」とするか,「ニ」+「∟」とするかです。「兦」を基準とすると「入」を「ニ」と斜め棒を横棒に変えた字体ということになると思います。
Re:夭喪 菉竹 2004/11/12
甲骨文や篆書をみると,それを楷書化すると「兦」字形になります。この字の斜め棒「入」が縦横棒化しのたが現在通行している「亡」字でしょう。そうするといま問題にしている,横棒二本「ニ」+「∟」型の異体字は,その過渡期にあらわれた字体ではないでしょうか。
Re:夭喪 菉竹 2004/11/12
現在話題にしている文字は,今昔文字鏡M:13-95D6, 文字番号70180です。今昔文字鏡の表現では,「亡」基本字,「兦」本字となります。
Re:夭喪 神麹斎 2004/11/12
全面的に菉竹氏の説明に同意します。
仁和寺本『太素』では、亡は字素として用いられた場合を含めて概ね「ニ」+「∟」型です。
「亡には兦という異体字を使っている可能性が高いんですかね」という言い方は軽率でした。つもりとしては、「パソコンで使える字形の中では、兦という異体字を使ったほうが原本に近いと言えるんですかね」といったことです。確かめもせず言ってました。二の第一画と第二画の筆の方向が逆かと思ってました。(台湾フォントがこだわってニクヅキをそうしているように。)今、改めて見るとそうとも言えませんね。全面的に訂正します。
Re: 巻三・調陰陽03-35-2 菉竹 2004/07/18
首(カシラ)を濕(しめ)らすに因りて、(人を)裹(つつ)み(熱を)攘(のぞ)けば、……
楊上善は、「人」「熱」という目的語(賓語)を補って解釈しているのではないでしょうか。
主語はともかく、目的語を補うのは感心できませんが。
Re: さらに愚考 神麹斎 2004/07/18
早速の書き込みありがとうございます。
菉竹さんの和訓のほうがましなようですな。いやなに、そもそも楊上善の注がおかしいんだからまともな訓みができるわけはないんですが。
でも、さらにしつこく。
【楊注】如,而也。攘,除也。人有病熱,用水濕頭,而以物裹人,望除其熱,是則大筋得寒濡縮,小筋得熱緩長。㢮,緩也,㢮爾反。筋之緩瘲,四支不収,故為痿也。
「……人に病熱が有り、水を用いて頭を湿らせ、而して物を以て人を裹み、(あるいは)その熱を除かんと望めば、これ則ち大筋は寒を得て濡して縮み、小筋は熱を得て緩んで長し。……」
釣り合い上は、「寒濕」ではなくて「濡縮」ではないかと。ここの「濡」は、やわらかい、というか力が無い。「裹」は、つつむ、で、つまり熱を(つつんでこもらせて)得る。「攘」は、のぞく、で、つまり(熱をのぞいて)寒を得る。
【経文】因於濕首如裹攘,大筋濡短,小筋㢮長,㢮長者為痿。
「首を湿らせて裹(つつむ、こもらす)攘(のぞく)するに因りては、大筋は濡短し、小筋は㢮長す、㢮長すれば痿と為る。」
大筋濡短と小筋㢮長は、やはり互文でしょう。つまり、大筋も小筋も力なく縮んだり、緩んで長くなったりする。
Re: 難読? 芝蘭亭 2004/08/18
やはり抄者のミスでしょう。この箇所などは比較的はっきりしていて、だからたぶん他の箇所と取り違えたのでしょうが、多くの場合は墨の薄いところなどは行灯の下では見えにくかったのだと思います。全体的には仁和寺本影印の剥落と『九巻経纂録』の□は良く対応していると思います。
Re: 弛か施か 沈澍农 2005/07/21
“弛”的手写和“施”很像,因此不能从形体上区分。从语意看,神麹斎理解成“系”鞋带似乎有道理, “上施其带,令重履之而行”。但校注本读成“弛”,可能是看作前文“缓带”之意,即下着重履,上弛腰带,看来也是可以成立的。不过杨上善有必要再次指出前面的治法吗?似乎并不很合宜。因而这里读作“施”可能更好些。
「弛」は手書きしたものでは「施」とはきわめてよく似ているので,形から区別することはできません。語意から見れば,神麹斎が鞋帯を「系」する(結ぶ)と理解し,「上施其帯,令重履之而行」としたのには道理が有るようです。ただ校注本が「弛」と読んだのは,前文の「緩帯」の意味と見なして,即ち下には重履を着け,上は腰帯を弛めてということで,みたところこれもやはり成立しそうです。しかし楊上善に前にあげた治法を再びとりあげる必要が有ったでしょうか?だからここでは「施」と読むほうがより良いでしょう。
Re: 弛か施か 神麹斎 2005/07/21
仁和寺本『太素』の弓偏と方偏はきわめて紛らわしい。弓偏のはずなのにどうしても方偏に見えるものに引や強があり,族のはずなのに弓偏に近いものがある。また弛緩の弛は,仁和寺本『太素』では㢮と書くので,施との区別がいよいよ困難である。
文脈から何とか分かって,小異に気がついてなるほどという場合と,明らかに誤りであると判断がつく場合と,そして少数ながらここのように頭を悩ませるものが有る。
ただし,江戸時代末の抄本ではやはり「施」と判読していたようで,具体的に言えば,喜多村直寛『九巻経纂録』では「施」になっている。袁昶本で「弛」に作り,蕭延平本も同じ,従って『太素校注』もそれを踏襲する。
Re: 芝蘭亭 2004/08/09
人民衛生出版社縦組排印の蕭延平本では:
色之候者,青赤二色候胃中也。皆候魚絡胃者,手陽明脈與太陰合,太陰之脈循胃口至魚,故候太陰之絡,知胃寒熱。
ただ、注意して欲しいのは、先に掲げられた文中の「智」を「胃」に作っていることです。仁和寺本では「智」です。『九巻経纂録』も『泰素後案』も、勿論「智」です。袁昶本と蕭延平本で胃に変わっています。
で、『泰素後案』は、「智は当に知に作るべし」と言っている。これに従えば:
知者,手陽明脈與太陰合,太陰之脉循胃口至魚,故候太陰之絡,知胃寒熱。
(知るとは、手の陽明脈は太陰と合し、太陰の脈は胃口を循って魚に至る,故に太陰の絡を候って、胃の寒熱を知るなり。)
ただし、その「知るとは」の「知」が、経文の何をさして解説しているのか、良く分からない。
Re: 智(知)者 沈澍农 2005/04/26
“智者”,《泰素后案》称“当作知者”似可取。“知者”可以理解为“所以知者”,即“知者”的原因(从何得知、凭什么知道)。怎么知道鱼的色可以候胃呢?(下文)因为太阴之脉循胃口至鱼,所以从鱼的青赤二色就可以诊胃之病,而胃中之“痹”也可以通过鱼的色来诊断。
「智者」は、『泰素後案』が「当さに知者に作るべし」と言うのを取るべきでしょう。「知者」は「所以知者」、即ち「知者」の原因(どうして知ることができるのか、なにによって知るのか)と理解することができます。どうして魚の色で胃を候うことができるのか?(下文)なぜならば太陰の脈は胃口を循って魚に至るから、魚の青赤二色から胃の病を診ることができるし、胃中の「痹」もまた魚の色から診断することができる。
Re: 紉痛 菉竹 2004/08/26
話せば長くなりますが、素直に見れば■は「戻」に見えます。
犬・夭・髮の下部は、ほとんど同じように書かれて、前後関係から読みとるしかないでしょう。
「紉」は、縄のヨジレをあらわすことばだと思うから、「戸」の下は「犬」に異体に見えます。
Re: 紉痛 神麹斎 2004/08/26
分かっていることは、戸の下の形は『干禄字書』に「夭」の通です。ところが戸の下に夭という字は、字書に見えません。『竜龕手鏡』には「戾」の俗として、大を夭(右肩に一点)に作るものだ載っています。また「戾」の字義の一つとして「反曲也」が載っています。ちなみに「戻」は「輜車也」で、別字の扱いです。以上を総合すれば、おそらくは「戾」の異体字であろうと思われます。ただし、底本通りの字形は、諸字書中に発見できていません。
Re: 紉痛 菉竹 2004/08/27
『難字・異体字典』の「戾」の例として「戸」+「友」+「丶」で構成されているものとして、法隆寺伝来『細字法華經』の字体を挙げています。
「戸」の下は「方」に見えますが、その右下のふたつの点はもとは「払い」のかすれた・消えかかったものと理解します。
Re: 紉痛 神麹斎 2004/08/27
恐らくは、『難字・異体字典』の「戾」の例として載っているものは、「戸」+「犮」であって、「犮」は「犬」の俗字増画の一例だろうと思います。(右斜めはらいにノの増画の例は多いようです。)で、さらに恐らくは(恐らくはに過ぎないのですが)、もう一画「ノ」を上に増したもの(この例は見覚えが無い)も犬の俗字で良いのだろう、と判断して、結局のところ「戾」なのであろうと考えています。底本通りの字形は、諸字書中に発見できていませんが、俗字というものの性格上、まあ無理はないと思います。仁和寺本『太素』の異体字は、ほとんどの場合『干禄字書』によりどころを見いだせます。ただし当然、全てをというわけにはいきません。(『干禄字書』の画像は、福井大学所蔵のものを何故だか大阪大学のホームページで見ることが出来るようです。Googleで干禄字書を検索してみてください。)
夭の通 神麹斎 2004/08/28
念のため「夭」の異体字を挙げておきます。
『干禄字書』に「上通下正」です。
Re: 皇甫謐録素問経 菉竹 2004/11/15
問題にされているのは「此經任脉起於胞中,紀胳於脣口。皇甫謐錄素問經/任脉起於中極之下,以上毛際,循腹裏,上關元至咽喉。10-12-7呂廣所注八十一難本,言任脉與皇甫謐所錄文同。檢素問无文」の部分だと思います。ここは『鍼灸甲乙經』巻二・奇經八脉に相当します。皇甫謐は,「素問曰」「難經曰」といっているのですから,楊上善のいう「皇甫謐錄素問經」は正確な表現だと思います。この楊上善注の最後に「檢素問无文」とあります。つまり楊上善が見た『素問』にはなかったかあるいは見つけられなかったので,皇甫謐の引用した『素問』にはあるとわざわざ断っているのだと思います。なお,現行王冰本『素問』にはあります。
Re: 不瞑不臥出者 菉竹 2005/09/02
次のページである12-19に何字か同じ筆法の文字が見え,それは「出」で解釈できます。ですから,ここも「出」と書いたといわざるを得ないと思います。
Re: 不瞑不臥出者 神麹斎 2005/09/02
これには実はちょっとした背景が有りまして、そもそもこの経文の意味が良く分からなくて困っていたんですが、周学海もやっぱり困ったみたいで「不臥出者」は「不汗出者」の誤りではないかと言ってます。でも、それもなんだかしっくりしなくて、『甲乙』を見てみると「出」に相応する字が無かったんです。そこでそもそも「出」はどう読むのかと、仁和寺本の句読と仮名を調べてみたけれど、「お」ではやっぱり分からない、ということなんです。「お」ではない可能性も有りますが。
この字形が、少なくとも直接の抄者にとって「出」であるのは間違いないだろうとは思うのですが、仮名をふった人にとっては違う字であった可能性は無かろうか、と。
仮名のほうが最終抄者よりも古いという可能性も、なんだかなあ……なんですけどね。
Re: 不瞑不臥出者 菉竹 2005/09/02
この経文の注文を見ると「臥起」と読める部分があります。
そこから逆算するとこの「出」は「オキル」(眠れなくて起き出る)と訓じたのではないでしょうか。 それで傍訓に「オ」とあるのでは?
Re: おまけ 菉竹 2005/09/02
神麹斎先生のいう「築島裕氏の資料」とは、オリエント出版社『半井家本医心方 附録』=「医心方の研究」所収の論文「半井家本医心方の訓点について」です。たぶん。
とりあえず 神麹斎 2005/09/03
ここの経文と楊上善注は,私の目には次のように見えます。
経文:
黄帝問伯高曰夫耶氣之客於人也或令□□不瞑不臥出者何氣使然
楊上善注:
厥耶客人為病目開□□□臥起□□起也
そして,問題の箇所は「不臥」の左下,「出者」の真下に小丸が有るようです。築島裕氏の資料(菉竹氏の推測どおりのものです)では左下はテ(返)、真下はコト(切)のようです。そうすると問題の箇所は,「……瞑せず臥さずしテ,出るコトは……」となりそうです。やっぱり「出」の上か下に何か有るべきではないでしょうか。菉竹氏の「オキル」(眠れなくて起き出る)には,可能性を感じますが,蒲団とか寝床とかから出ると言わずにただ「出」というだけで,(眠れなくて)「起き出る」を表現できるのかどうか,やや少し不安です。
一方,楊注のほうは,より大胆に言えば,「……目開不得合,臥起不得起也」ではないかと思いますが,残念ながら「臥起」の上,「起也」の上に一部分のこる文字が推定とあまり上手く合致するとは言えないようです。あるいは「……目開不得瞑。臥起者,寢起也」か。でも,こういう意味なら,「臥出者,寢起也」とでも書くべきでしょうね。
Re: 不瞑不臥出者 菉竹 2005/09/03
>蒲団とか寝床とかから出ると言わずにただ「出」というだけで,(眠れなくて)「起き出る」を表現できるのかどうか,やや少し不安
訓点・送りがなをつける人にとっては,(原文のみの場合は別)原文を自分がどう理解したか・正しい理解は何なのかは第一義的な問題ではなく,楊上善がどう読んだか・どう理解したかが大切である。そのため「出」を楊上善注「起」にあわせて,「おきる」と理解した。
言い換えれば,訓点者も理解に苦心したから,「いづ」では意味が取れないので,わざわざ「お」という訓をつけた。
以上のよう思量します。
Re: 不瞑不臥出者 神麹斎 2005/09/03
そうすると、楊上善の注をどう読んだのかが問題になると思います。
剥落して見えない字が有るのですが、一応は
厥耶客人(厥耶人に客しテ)
為病目開(病を為すトキハ目開きテ)
□□□臥起
□□起也
ではないかと思います。 訓はヲコト点を築島氏の資料で読み込んでみました。
あまり自信は有りませんし、肝心の下半が全くダメです。
「臥」の真下(ノorコト?)および右下(直下の点よりさらに下)(テ?)にも点が有りそうです。
袁本は厥邪客人為病目開【不得合】臥起【方□】起也に作りますが、喜多村直寛『九巻経纂録』は上の私の判字と同じです。現状で「臥起」の上は「合」よりは「瞑」のほうに可能性が有り、「起也」の上の左半はあるいは「方」かも知れませんが、全く空白で不明なのはその上の字です。つまり少なくとも「方□」は乙です。【 】は違いが目立つようにつけたので、原本にはそういうものは勿論有りません。
「起」が「出」の注に相当するはずとなると、どう缺字を補い、どう訓むことになるのでしょうか。
クイズということに… 神麹斎 2005/09/04
つまり,現在の質問としては,楊注の□をどう補い,楊注全文をどう訓むかです。
と言っても判断材料が足りないので,想像力の問題,思いつきを述べ合うといったクイズのようなものです。
中で有力なヒントとしては,菉竹氏の「〈出〉を楊上善注〈起〉にあわせて,〈おきる〉と理解した」という意見です。逆に言えば,そう言えるためには楊注はどんな文句だった可能性があるかです。
そしてもう一つは,やっぱり袁本の「不得合」と「方」です。ただし,これは恐らくは小島宝素抄本には無かったと考えられるので,出所が不審であるし,また「合」と「方」はまず間違いなく見間違いです。
私の現時点の思いつきは,前半は「厥耶客人為病目開不得瞑」(厥邪人に客して病を為すときは目開きて瞑するを得ず)です。後半については今のところ何も思いつきません。「臥起者寢起也」(臥起とは寢起なり)では存在しない句の解説になってしまうし,「臥出者寢起也」(臥出とは寢起なり)のように,見えている文字を改めるのは反則です。袁本が「方」というのが,実は「爿」偏という可能性は有ると思いますが。
Re: 三腸? 菉竹 2005/01/07
下文を読むと,小膓・迴膓・廣膓が三腸にあたると思います。
Re: 三腸? 神麹斎 2005/01/08
菉竹さんのおっしゃるとおりだと思います。
ただね、三膲・胆・胃・小腸・廻腸・広腸で六府というのも珍しいんじゃないですか。
膀胱は伝穀じゃないとは言えそうですが、じゃあ三膲・胆は伝穀かと言われるとねえ。
経文には大腸という詞は出てこないと思うけど、楊上善注には出てきます。
「廻腸,大腸也」あるいは「広腸,…以受大腸糟粕」など。
六府とは何か?にも昔はいろいろ有ったんでしょうね。
実は、この指摘の前には、三腸を三膲と誤入力してました。今は修正してあります。
Re: 望欲從外知内 菉竹 2005/02/05
実物を見ていないからこそ,違いが生じたのではないでしょうか。誰か(違う人)が抄写したものをもとに,二人はそれぞれ書き記したのでしょうから,そこに相違が生まれたのでしょう。
ふたりの前に,すくなくとも二つの伝写があった。
それともどちらかが写し間違えたのか。
ふたりが同じ写本を用いた可能性は高いのでしょうか?
Re: 望欲從外知内 神麹斎 2005/02/05
喜多村直寛の『九巻経纂録』は、小島宝素が秘蔵していた写本によったはずです。そもそも江戸で流布した『太素』抄本は概ね同様に、小島宝素本に由来すると考えられます。田沢仲舒の『泰素後案』は、恐らくは実兄の奈須恒徳の抄本によったと思われますが、それも小島宝素本からの再抄であったと、私は単純に何となく考えていました。(奈須も田沢も江戸在住のはず。)
小島宝素本の全てが、浅井氏抄本からの再抄であったか、少なくとも一部は仁和寺本からの直接の抄写であったかは、いろんな人の解説を読んでももう一つはっきりしません。(そういろいろの人に何度も抄写を許したとは思えません。)
小島宝素本で「望欲」となっているのを、奈須恒徳(もしくは田沢仲舒)が「望以」と見間違えたのではなく、仁和寺本を見た二人のうちの一人は「望以」と判断し、もう一人は「望欲」と判断したとすると、小島宝素本の少なくとも一部は仁和寺本からの直接の抄写であったことになりそうです。そして、奈須恒徳本は何故だか小島宝素本からでなく、浅井氏抄本からの再抄であったことになりませんか。
なんだか通説と違うような気がするのですが、私の誤解でしょうか。
Re:頭以下汗出不可止 神麹斎 2005/02/11
考えてみれば、浅井氏抄本ひいては小島氏抄本が、ごくごく丁寧な模写であれば、そこから書き写す際に、独りは止と見、独りは也と見る、ということも有り得無いことでは無いのかも……。でもねえ。
Re: 凡六刺? 神麹斎 2005/05/26
『素問識』:〈高〉云「左刺右右刺左六字。衍文」。〈簡〉按。下文嗌中腫云云。亦邪客於足少陰者。故以此六字爲衍文。然嗌中腫二十八字。〈王〉所移于此。未可果爲衍文。
『素問攷注』眉注:「凡六刺」。古來不疑。可咲。此三字後人旁記之誤入者。可刪正。若曰「凡六刺」。則非繆刺偏病法。
Re: 凡六刺? 菉竹 2005/05/26
「各三痏」について,黄龍祥先生は「三回」と考えています。(『針刺研究』1998年第三期「腧穴概念的演変」→翻訳:季刊『内経』2004年冬号(157号)44~46頁)
Re: 凡六刺 神麹斎 2005/05/27
郭靄春『黄帝内経素問校注語訳』繆刺論の語訳を翻訳すれば:
「邪気が足少陰の絡脈に浸入すると、人に咽が痛んで、食事が取れず、理由も無く怒り、気が胸膈に逆上するといった症状を発生させます。これには足心の涌泉穴を刺すべきであり、左右おのおの三度、合わせて六刺すると、たちどころに効果が有ります。刺法は左の病には右を刺し、右の病には左を刺します。」
また「各一痏」もおおむね「左右各刺一次」と語訳しています。そのくせ「左刺右,右刺左」です。まことに「笑う可き」であります。
ただし、よく考えてみると、上の「耶客於足少陰之胳」の症状のどこに左病とか右病とかが有るのでしょう。そもそも繆刺というものの概念を再考する必要が有るのかも知れません。
Re: 凡六刺? 神麹斎 2005/06/04
今、島田隆司先生の『素問』講義のテープ起こしをしていて、瘧論のところへさしかかっているんです。で、私も最終段階で原稿のチェックをしてるのだけど、島田先生の繆刺の解釈が有りました。
…… 「誤謬」の「謬」というふうにとって「間違える」、「互い違いになる」っていうふうに解釈したのが大きな間違いですね。これはね「束ねる」っていう意味しかないんです、原義は。「束」。だから繆刺っていうのはどっかを縛って束ねて、それで浮き上がったところを血を採るという、そういう方法ですね。……
いや面目ない。聴いたことは有るはずなんだけど、記憶に残ってない。これ正解かも知れません。少なくとも魅力的な説です。定説になるためにはもう少し理詰めに考察を深める必要が有るでしょうが、この「左右おのおの三度、合わせて六刺する」も突破口の一つとして期待できませんか。
精抄本 七面堂 2004/09/16
巻25瘧解「隂與陽爭不得出是以間日而作」の楊上善注の3行目と4行目の長さは不揃いである。(25-54)(1行目と2行目が短いのは経文が行末にせまっているから。)
其耶
氣因
衛入内内薄於隂共陽交爭
不得日日與衛外出之陽故間日而作也
そこで、『泰素後案』では3つの空格を置く。しかるに、『素問参楊』にはそのようなものは無い。影印を調べてもきれいなもので、剥落など有りそうにない。これは単に総字数の見当を誤って、最終行が長くなっただけのことだと思われる。よって案ずるに、浅井氏による最初の影抄本、そして少なくともその再抄である小島宝素本は、一行の字数に至るまで仁和寺本と同じになるように、丁寧な作業がなされていたと思われる。上で田沢仲舒が「原本三字之位也」と言っているのも、つまり原本通りに文字が配置されているのを前提にして言うのだろう。
Re: 疽音且,内熱病也。 菉竹 2005/07/06
『後漢書』華佗傳 廣陵太守陳登忽患匈中煩懣,面赤,不食.佗脉之,曰:「府君胃中有蟲,欲成內疽,腥物所為也.」即作湯二升,再服,須臾,吐出三升許蟲。
ここの「疽」も「疸」の誤りなのでしょうか。「疽」は体表上にできるもののみをいうのでしょうか?あるいは,華佗の時代は『内経』の時代とはこの言葉の用法が変わってしまったのでしょうか?
Re: 疽音且,内熱病也。 神麹斎 2005/07/06
これは疽で良いんだと思います。
『諸病源候論』九蟲病諸候中の三蟲候に:
……蟯蟲至細微,形如菜蟲也,居胴腸間,多則為痔,極則為癩,因人瘡處,以生諸癰、疽、癬、瘻、瘑、疥、齲蟲,无所不為。……
と有ります。
こういうものも尽く「疸」の誤りという恐れも無くは無いけれど、「癰、疽、癬……」などと列挙してくる中のものは、やっぱり「疽」でしょう。