仁和寺蔵古巻子抄本『黄帝内経太素』に見られる日本的な誤りについて
2004年11月4日韓国ソウルに於ける大韓韓医学原典学会国際学術大会で発表

日本内経医学会 左合昌美

 唐の高宗の時代(7世紀の後半)に活躍した楊上善¹ の撰注による『黄帝内経太素』が、日本に伝えられたのは玄宗の時代(8世紀の前半)であろう。² この後、『太素』は中国では宋代にはすでにほとんど失われ、日本でも次第に伝承が明らかで無くなっていったが、江戸時代の末になって京都の仁和寺の書庫から再発見された。したがって、今日見ることができるまとまった内容の『太素』は、全て仁和寺蔵古巻子抄本(以下では仁和寺本と略称)に由来する。この抄本は直接的には、1165~1168年に丹波頼基が書写したものであり、そのもとになったのは、一世代前の丹波憲基が書写したものである。³
 8世紀の半ばまでに日本に伝来してから、12世紀の半ばに書写されるまでの間に、どのような経過をたどったかは必ずしも明らかではないが、何度もの転写が繰り返されたことは想像できる。中国の著名な文献学者・銭超塵教授はかつて日本の京都における講演で、「日本人の国民性としての生真面目さが『太素』の古形の保存に寄与している」という意味の発言をされた。⁴ 確かに俗字の保存状態などをみるとそうした点は実感できるが、何と言っても数百年にわたる転写の課程で多量の誤りを発生していることは否めない。その中には、抄者が日本人であることによる限界あるいは特性が見受けられる。その情況について一端を以下に紹介する。
1. 楊上善の活躍年代は、太子文学に任ぜられていることや、注中で老子を玄元皇帝ということから、唐の高宗の時代であることがほぼ定説になっている。
2. このことは唐制に準じて定められた医学教育に関する最初の法令(702年の『大宝律令』を踏襲した712年の『養老律令』「医疾令」の逸文)に『太素』の書名が無いことと、757年に孝謙天皇が発した勅令では、医学生が学ぶべき書物の筆頭にあげられていることによってほぼ確実である。
3. 各巻末に、丹波頼基が書写し終わった年月日が記されており、その書写の原本に有った丹波憲基が書写した年月日も転写されている。憲基の父と頼基の祖父とが兄弟である。
4. 1994年の日本鍼灸臨床文献学会学術大会における特別招待講演の席上での発言。
 1.語順
 巻3陰陽大論「故壽命無窮與天地終,此聖人之治身也」の楊上善注中に「廣成子語黄帝曰:吾以目无見所,耳无所聞」云々とある。この「見所」は「所見」とすべきで、日本語では「見る所」と言うことからの誤りである。このことは江戸末期に、『太素』の楊上善注を参考にして『素問』を読む試みをした多紀元堅の『素問参楊』¹ においてすでに指摘されている。なお、下の「所聞」は誤ってない。
 同じく陰陽大論で、天地陰陽の不全を論ずるところの楊上善注中に「……則天地隂陽,有所不全。人法天地,何取可其全。……」とある。この「取可」は「可取」の誤りである。これは日本語で、「取る可き」と言うことに引きずられたものである。
 巻22五藏刺「耶在肺,則病皮膚寒熱、上氣、喘、汗出、欬動肩背」の楊上善注に「肺病五有」とある。この「五有」は、日本語で「五つ有る」と言うのに引きずられた誤りで、「有五」とすべきである。下の肝については正しく「肝病有四」とする。これは最も典型的な例であって、漢語では述語(謂語)の後に目的語(賓語)が続くが、日本語では目的語が前にくることによる。
 このように、仁和寺本には誤倒の例が甚だ多いが、そのかなり多くの部分が、日本語との語順の違いによると考えられる。
1. 多紀元堅の『素問参楊』オリエント出版社「続黄帝内経古注選集」1988。
 2.同訓
 巻3陰陽大論「故清陽出上竅,濁陰出下竅」の楊上善注中に「起於中膲,並有於胃口,出上膲之後」云々とある。この「有於」は漢語としては奇怪である。そこで、最近の中国で発行された鉛印本¹ では「行于」としている。しかし、上の文字は中央が少し剥落しかけているとはいえ、明らかに他の箇所で「有」と判断されている形と同じである。その真相は「在」とすべきとところを、日本語の「ある」の同訓字「有」と取り違えたものと考えられる。²
 この種の誤りは後々までしばしば見られる。例えば江戸末期に仁和寺本を影抄した人は、巻5陰陽合の「故在上者為陽」を「故有上者為陽」と誤ったらしい。田沢仲舒『泰素後案』³ ではわざわざ指摘して訂正しているが、仁和寺本はやや剥落しているとはいえ、もともと「在」だろう。
 この他に日本漢字音が同じであることからきた誤りも有るはずであるが、具体的な適例は見いだしていない。「大」と「太」、「小」と「少」の混用などはそのような印象であるが、これらはもともと古代漢語においては同音であったことが有り⁴、直ちに日本的な誤りとは言い難い。
1. 王洪図・李雲増補点校『黄帝内経太素』科学技術出版社 2000。 2. 巻28九宮八風「太一在春分之日在變」も全く同様の例である。この場合は前後の例が「有變」であることからも明らかである。
3. オリエント出版社 続東洋医学古典注釈選集2 1998。
4. 王力『同源字典』商務印書館 1982など。
 3.模写
 文字知識の不足から、わからないなりに模写したのではないかと疑われる箇所が有る。例えば:
 巻3陰陽大論「神明之府也」の楊上善注の中に「化陰陽以為神,通窈冥以忘知」とある。この「窈冥」は様々な考証のすえの判断であって、実際の文字の形は、上は、下はである。銭超塵教授は上を穴冠に勿に近いと見て「寂」、下は「冥」と判読されたが、また「寂冥」という熟語は無いとして、最終的な判断を保留しておられる。¹ そこで私は一時期、寂莫(寂寞)ではないかと考えた。意味上はここのところで問題ない。ただ、底本の下の字形と莫(寞)との差はやや大きい。また、「寂」の音と問題の字形の旁に書かれた反切「烏了反」とは齟齬する。そこで我々の会の荒川緑は「窈冥」と判断した。『竜龕手鏡』² で、「窈」の反切は烏了切である。この「窈冥」という熟語は、『太素』の他処にもしばしば見える。荒川説の弱点は、仁和寺本のそこでこの字形を用いてないことくらいである。ただ、穴冠に勿という「窈」の異体字は諸字書に発見できなかった。とは言っても、穴冠に勿というのはそう見えるというだけのことで、それに近い別の字形ということは有りうる。そこで思い至ったのは「幼」の字素(幺と力)が左右に並ぶのではなく、上下に配置された異体字の可能性である。あらためて問題の文字を拡大して見てみると、ややつぶれた形ながら幺に相当する筆画が有るようにも見える。また『医心方』³ 巻28玉房指要に出てくる「窈窕」の「窈」の字形もそれに近いことが分かった。これは模写の精度の問題から発生した紛糾である。
 巻14四時脈診「夏日在膚,沉沉乎萬物有餘」に対して、森立之『素問攷注』は、「沉」ではなく「汎」か、むしろ『素問』の「泛」と考えたほうが良いと言っている。楊上善注の「如水流溢沉沉盛長」からみてもそのほうが相応しいということである。ここの「沉」は底本でも明らかに「沉」である。ところが巻2順養の「腎氣濁沉」の「沉」はと書かれる。また、仁和寺本では「凡」は一般に「凢」と書かれ、時には「」と書かれる。したがって、もとの抄者が「汎」(或いは氵に)と書いたつもりの文字を、この抄者が見誤って「沉」と書く可能性はかなり高いと思われる。
1. 銭超塵『黄帝内経太素研究』人民衛生出版社 1998。
2.『竜龕手鏡』中華書局 1985。底本は高麗版影印遼刻本。
3. 国宝半井家本『医心方』、1991年、オリエント出版社影印。
 4.日本独自の校正符号
 巻2調食「血氣與鹹相得則血涘」の楊上善注中に「涘音俟水厓水義當凝也」とある。義釈は『説文』に「涘,水厓也」とあるから特に問題は無い。「水厓」の下で句読して、以下を「水義當凝也」として良いのかがいささか不安である。仁和寺本影印の「水」の左には「冫」もしくはカタカナの「ヒ」と見える書き込みが有る。「冫」であればつまり「冰」、「ヒ」であれば問題の字は実は「氷」であって「ヒョウ」(氷の日本漢字音)と読めという指示かと考えた。『説文』に「冰,水堅也」とあり、「凝」は「冰」の俗と言うから、「氷義當凝也」である可能性は確かに有る。しかしその解釈の対象である「氷」字が前文に見あたらないのは不審である。最近になって、巻13経筋「治之以馬膏,膏其急者,以白酒和桂,以塗其緩者」の楊上善注中の「…急桂酒洩熱故可療緩筋也」の「急」字の左脇にも「ヒ」が有るのを見つけた。江戸末期に仁和寺本の影抄に携わった人は、この符号を抹消の意味に取ったようで、その再抄整理本である喜多村直寛の『黄帝内経太素九巻経纂録』には「急」字は無い。¹ もし、「ヒ」に見える符号が一般に削去の指示であるとすれば、巻2調食の楊上善注は「涘,音俟,水厓。義當凝也。」で、何の問題も無いことになる。「涘の音は俟で、(もともとの意味は)水厓。ここでの意味は凝のはずである。」²
 ここで、今年の春に参加した上海における学術研討会³ での、日中交流の際に沈澍農氏から拝領した『中医古籍用字研究』⁴ を繙いてみたところ、「日本の漢字読音では否と非はどちらもヒと読み、ヒを用いて削除の意とするのだろう」とあった。これで疑問は氷解したわけである。日本独自の校正符号と考えられるが、中国の文献と格闘しているという意識の日本人にはかえって気づかれず、日本人が書写した文献であるという観点から研究している中国の学者に指摘されたことになる。これは我々にとって、日中学術交流のごく最近のごく具体的な成果の一つと言える。
 逆に振り仮名の「ト」を、中国の学者が伝統的な校正符号「卜煞」と誤った例は有る。⁵ 巻2順養「胃中寒腸中熱則脹且洩」の楊上善注中に「以上腸胃俱熱俱寒,此乃胃寒腸熱俱時也」云々とあり、「俱時」の「俱」の脇に「ト」とあるが、これは「トもに」と訓ませたいということに過ぎず、「卜煞」などではない。
1. 前の「水義當凝也」の「水」字については、『黄帝内経太素九巻経纂録』も削去してない。
2. 森立之は、ここの「涘」は、実は「凝」の右旁を省いた俗字だろうと言っている。
3. 第七届全国中医文化与臨床/第十三届全国医古文 学術研討会。
4. 沈澍農氏は、南京中医薬大学教授。『中医古籍用字研究』は、氏の博士学位論文で近々公刊の予定である。
5. 范登脉・頼文「蘭陵堂本『太素』誤録挙例」医古文知識1999年第1期。(しかも煞を致と誤植している=荒川緑指摘)
 5.之字の贅用
 仁和寺本『太素』には「也之」という漢語としては奇怪な文字の連なりがしばしば見られ、その圧倒的多数は楊上善注の末尾に出現する。銭超塵教授などは、明快に誤りと言いきっておられるが、古代日本史の専門家の中には、同様の例が古代韓国人の漢語ひいてはその影響下にあった古代日本人の漢語においては、さして珍しいことではないという意見も有る。¹ 実のところ、中国でも戦国期の竹簡には、その竹簡の右に寄せた「∠」のような形の墨鉤と呼ばれるものが使用され、句読点や篇章の末尾を表していたらしい² ので、必ずしも古代韓国人あるいは古代日本人の漢語の特徴とは言い切れないところも有ろうが、我々の先祖の間ではこれが「之」あるいは「也」字に変形して、長く愛用されたという可能性は言えるだろう。
1. 森博達『日本書紀の謎を解く』中央公論社・中公新書1999。
2. 浅野裕一・湯浅邦弘編『諸子百家〈再発見〉』岩波書店2004の附録。
 以上のような情況からみて、仁和寺本『太素』の整理には、そもそも抄写の誤りを考慮する必要性が、一般の古医籍以上に高いと言えるし、『素問』、『霊枢』との異同についても、単なる仁和寺本『太素』の書き誤りに過ぎず、もともと校記する必要の無いものを指摘できるはずである。そのかなりの部分は日本的な誤りと言える。そうしたものはやはり日本人によって正されるのが便利であると考える。ただ、古代日本における大陸からの文化移入には、古代韓国人の力に負うところが多い。したがってまた逆に、『太素』抄本にも「日本的な誤り」の他にあるいは「古代韓国的な誤り」を含んでいる可能性は有ろうかと思われる。今後のご協力ご指導を期待する。

2004年11月10日 荒川緑氏の指摘により一部修正。