靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

白帝城 ふたたび

かなり前のことだけど,ある人の『三国志』の紀行に,「漢は,五行思想によって火を意味する赤をイメージカラーにしているのに対し,火よりも強い水を意味する白を旗印にしたことから,その城を白帝城と名づけたのだという」とあるのを見つけて,がっくりしたというようなことを書いた。で,今回また似たようなものを見つけました。『漢詩観賞事典』早発白帝城の語釈中に「五行相剋説によれば,漢は土徳で,これに勝つには金徳でなければならない。そこでその象徴の色の白にちなんで,自ら白帝と称し,とりでを白帝城と呼んだ」とある。前の紀行の筆者は画家だから,まあ,一般の知識はせいぜいこんなところかと思うだけだが,『漢詩観賞事典』の編者は勿論中国文学の専門家ですよ。しかも,相当の大家だよ。いいのかね。「これを受け継ぐには」と書くべきだと思うがねえ。

もっとも,司馬遷の『史記』にしてからが,始皇本紀には「周は火徳を得ていたので,周に代わった秦は,火徳にうち勝つ水徳に従わねばならないとした」と言いながら,高祖本紀では老嫗が「わたしの子は白帝の子で,化身して蛇となり,道に横たわっていたのですが,いま赤帝の子(つまり,漢の高祖の劉邦)が斬ったのです。だから哭くのです」と言ったとするエピソードを紹介している。なにがなんだかわかりませんね。今われわれが常識だと思っている五行説が,当時の人にとっては別に常識では無かったということ。

白帝と赤帝の話は,西の秦を,南の楚の出身を誇りとする劉邦が滅ぼす,という話だと思う。つまり,お偉いさんは,周の火徳に勝つには水徳で,秦の水徳に勝つには土徳であるから,漢は土徳でなければならない,なんて考えるんだろうけど,民衆レベルでは,白帝の子の金よりも,赤帝の子の火のほうが強いはずだ,という素朴なことで充分だったんでしょうね。

Comments

神麹斎
顧頡剛先生といえば擬古派の大立者である。擬古派というのは,例えば先秦の諸子の著作について,伝承を鵜呑みにせず,その内容を仔細に検討して,ほとんどが後代の偽作であると言った人たちである。だから,私のような疑い深い人間には好みであった。
ところが最近,その胡散臭い著作が,先秦に埋葬された墓から続々と出土してしまった。そうなると,擬古派は形無しである。後代の偽作が先秦の墓から出るわけがない。だから,最近では顧先生への尊敬の念はやや薄れている。
王莽らの初期の説になら叶うと言う見事な主張にも,あんまり感動できない。ここはやはり劉邦は,中国南部の出身者として蚩尤の赤旗を掲げて,戦いを挑むという素朴な意気込みと解したい。「聞くところによると,五行説では南の赤は,西の白に勝つそうな,ちょうどいいじゃないか!」
2009/05/04
菉竹
顧頡剛『中国古代の学術と政治』小倉芳彦他訳 大修館書店
125p この故事は彼ら(劉歆ら)によって『史記』(高祖本紀)に挿入された。……高祖が赤帝の子として白帝の子を斬るというのは,漢が秦を滅ぼすことを象徴している。しかし秦が水德であることは,これはもう極めて確かなことである。水の色は黒なのに,どうして白帝の子に変ったのだろうか。……王莽の土德は相生説によったのだから,彼に禅譲したのは火德(赤帝)のはずである。漢の火德は相勝説によったのだから,漢に征誅されたのは金德(白帝)のはずである。従ってこの秦を金德とする説も,やはり王莽土德説を出発点としているのである。(これは王莽らの初期の説であり,後になると彼らも秦を金德だと主張しなくなった。=⇒これについては,下章を参照。)
2009/05/01

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