靈蘭之室 茶餘酒後

   ……休息している閑な時間

唯佛明言

『太素』巻6首篇の「兩精相摶謂之神」に対する楊上善の注は,新校正では次のようになっている。(ただし,俗字は新校正の脚注に従っておおむね正字に改めた。)
即前兩精相摶,共成一形,一形之中,靈者謂之神者也,斯乃身之微也。問曰:謂之神者,未知於此精中始生?未知先有今來?荅曰:案此《内經》但有神傷、神去,并無神之言,是知來者,非同始生也。又案,釋教精合之時,有神氣來託,則知先有,理不虛也。故孔丘不荅。有知無知,量有所,唯佛明言,是可依。
中国の新式標点はよくわからないから棚上げにするとして,いくつかの文字は原鈔と異なると思う。「并無神灭之言」の「灭」は実は「死」であろうし,「量有所由」の「由」にはいささか疑問が有る。問答の部分を推測を交えて訳せば,次のようになるはずである。
問:これを神と謂うというけれど,それはここではじめて精の中から生ずるものなのか,それとももともと有ったものが今来るというのかがわからない。
答:この『内経』をしらべてみると,神が傷なわれるとか神が去るとかは有るけれど,神が死ぬという言葉は無い。だから来るというのは,ここではじめて生ずるというのと同じではないことがわかる。また釈教(仏教)をみてみると,精合のときに神気が来たり託すといっているから,つまりもともと有ったのだと考えるほうに,理があることがわかる。だから孔丘が,有るとか無いとかを答えないのには,たぶん理由が有るのだろう。ただ仏だけがこのことを明らかに説明している。これには従ってよい。
思うに,「神が死ぬという言葉は無い」では文意がよく通らない。新校正が誤り甚しいという蕭延平本の「生」には捨てがたいところが有るように思う。また「たぶん理由が有るのだろう」よりは「思うに理解の及ばないところが有るのだろう」のほうが良いだろう。「由」は何かの誤りではないか。如何。

なぜこれを話題にするかと言うと,楊上善は本物の道教の信者なのか,それとも建前としての道士なのかという疑問が有るんです。だってここでは仏教を持ち上げているみたいでしょう。
唐室は老子を遠祖として崇めたてまっていたから,出世の方便として道士になったのも結構いたようですからね。上善というのは『老子』第8章の「上善は水の若し,水は善く万物を利して而も争わず」から取ったのだろうから,ばりばりの道教的な名前だけれど,だから逆にあやしいような感じもする。もっともあの数多くの老荘哲学の研究は,生半可な態度では無理だろうがね。

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