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こだまの世界

---倫理学者のふしぎな日記---
コーンクリームスープの飲み方

98年2月前半号

2月前半の主な話題


ご意見のある方は、 kodama@socio.kyoto-u.ac.jpまたはメイルを 送るまで。


02/01/98(Sunday/dimanche/Sonntag)

真夜中

夕方に洗濯機を回している間に銭湯に行ってから、 夜まで再び院試対策の勉強。 某嬢の名訳に思わずうならされる。(「うなされる」ではない)

ところで、タオルを忘れたので銭湯で買ったら、 何の変哲もない小さなタオルが210円もした。やられた。


久しぶりにベンタムの勉強。あ、一昨日も勉強したか。


夜更け

独りになったので、こないだ友達に返してもらった アコースティックギターをかきならす。

オープンEにしてスライドごっごするも楽し。

弦の錆びて音の響かぬはわろし。

早晩に張り替るべし。


夜明け前

前回終わらせていなかった倫理学入門書読書会の準備を ようやく終わらせた。

ウウム。レポートハイツニナッタラデキルンダ?


時間の都合上、研究室の椅子で仮眠していた。不健康。

ロック読書会の準備。


お昼

院試対策勉強会。眠い。


お昼過ぎ

今日の読書会でようやくロックの『人間知性論』の第2巻第21章 「力(力能)について」が終わるのではなかろうか。 途中に休みが入ったので、 三ヶ月くらいかかってしまった。長かった。

しかし、大変面白い章だった(読みかえす必要あり)。 ぼくがもしロックで卒論を書いていたとすれば、 おそらくこの章に関して書いていたのではないかと思う。

レポートヲカキタイガ、ネムクテシニソウ。


バンドの練習終わり。眠い。


ロック読書会終わり。眠い。


コーンクリームスープを飲みつつ考えること

最近、わたしは研究室で某社のコーンクリームスープを飲むことが 多いのだが、パンと一緒に食べるときは、パンをスープに 浸して食べることがある。これは確かアメリカにいたときに 覚えた食べ方だったと思うのだが、もしかすると映画か なにかを見て覚えたのかもしれない。

そこで問題は、これははたして (い)上品な食べ方なのか、 (ろ)下品な食べ方なのか、 あるいは (は)上品とはとても言えないにせよ、 かといって下品とも言えない普通の食べ方なのか、 ということである。

このパンとスープの食べ方は、 日本の慣習に翻訳して考えると、 (1)「ごはんにたまごをかける」食べ方(以下「たまごはん」と表記)か、 あるいは (2)「ごはんにミソ汁をかける」食べ方(以下「ミソごはん」と表記)に 近いと思われる。

他に、(3)「ごはんに納豆をかける」というのもあるが、 通常納豆はごはんにかけて食べるものと 考えられているので、 (日本に初めてきた人や生粋の関西人でなければ) (3)を下品と考える人はいないと思われる。

すると、(1)たまごはんと(2)ミソごはんは どちらが上品な食べ方なのだろうか。

これはかなり難しい質問であるが、考えてみるに、 「大好きな彼/彼女との初デートでの食事の折に、 どうしてもごはんにたまごかミソをかけて食べざるをえない 状況に追いこまれたときに自分はどうするだろうか」と 自問自答してみれば、おそらく泣く泣くたまごはんを選ぶ人の 方が多いのではないだろうか。

したがって、いや、すると、いや、さて、 どうやら論理的な議論を進めているつもりで 全く無関係な話をしていたようである。 問題はパンをスープに浸して食べるのが上品なのか下品なのか それとも普通(なんで「中品」という言葉はないのか。不便である。 そこで以下は普通といわずに「中品」ということにする)なのか、 ということであってたまごはんやミソごはんはこの際どうでも よい枝葉末節である。

しかし、思うに、こういったことはアンケートを通じて 良識(bon sens)のある人々に教えてもらうのが一番適当であろう。 デカルトもそう言っている。 わたしを含め、今後パンとスープを食べる予定のある すべての人に関わる重要な問題であるので、何をばかなことを、 と言わずにぜひお答えいただきたい。

(ここまで読まれた方の中には、 わたしが日本においてこの問題がどう考えられているのかを 問うているのか、それともヨーロッパ諸国などの他の国において どう考えられているのかを問うているのか、 どちらかわからない、と考える方もおられると思う。 それももっともな話である。 だが、わたしとしては、みなさんがコスモポリタン(世界市民)になったつもりで、 あるいは世界の常識を代表するつもりで、 思い切って答えていただきたいと思う)

上品
やや上品
中品(普通)
やや下品
下品

ひと言


回答


02/02/98(Monday/lundi/Montag)

お昼前

超睡。半日以上寝ていた。

コーンクリームスープの飲み方について、 一緒に考えていただきたい。


ううむ。一般に、 下品であればあるほど快楽は増えるのだろうか。

当倫理学研究室修士課程大学院入試試験一次専門試験問題(長い)を、 1976年から(1990年度の試験を除いて)全部 オンライン化してみた。 院試を受ける人も受けない人も参考にしてください。 そのうちいいかげんな答案を作るかもしれない。


昼下がり

久しぶりに生協食堂(ルネ)で食べた。378円。ううむ。健康のためにも エンゲル係数(消費支出における食料費の割合)を下げるためにも なるべく生協で食べるべきか。

院試対策勉強会。


夕方

ううむ、そういえばぼくもスープに クラッカーを入れて食べたことがある気がしてきた。

生協で、
出隆・岩崎允胤訳、『エピクロス--教説と手紙』、岩崎文庫、1997年
を購入。わざわざ新品を買ったのは、 新しいからなかなか古本で出なかろうと思って。


久しぶりに研究室にいらした某氏に夕飯をごちそうしてもらう。 食事中、いろいろとスケールの大きい話を聞いて、 最近の自分が考えていることのスケールの小ささを思い知らされる。

途中、「竜巻の目」「手一本触れない」などの新慣用句が生まれる。 楽しい晩餐だった。


なにゆえに処女は子供を生むことができないのか、 牝鶏は雄鷄がいなくては卵を生まないであろうか。 誰がそれらのものを外見的にこれらのものと区別しうるか、 そうして誰が牝鶏は雄鷄と同じように胎種をつくることはできないと 我々にいったろうか。 (パスカル、『パンセ』、津田穣訳、新潮文庫、1952年、149頁)

…すると、実はあの女性は鶏だったのか。絵画や彫像で見たかぎりでは、 てっきり人間なのかと思っていたが。


さああ、今夜こそはレポートを書くぞお。


02/03/98(Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中

夜食を食べに出かける。

そのあと、某師匠に教えてもらっていろいろ設定。 カウンターの色や形をいじってみたが、結局元に戻す。


そういえば、英語でも特に濃いスープは 「スープを食べる(eat thick soup)」と言うんでした。 濃いスープは飲み物ではなく食べ物なんでしょーか。

ということは、スープとパンの関係は 「おぜんざい」と「もち」の関係に似ているんじゃないだろーか。 というのも、「おぜんざい」と「もち」もそれぞれ単体で食べることも可能であり、 また合体させて食べることも可能であり、さらに「おぜんざい」も 「スープ」と同様に飲み物というよりはむしろ食べ物だからである。

Bread is to soup what rice cake is to zenzai.

ところで、単体で食べるといえば、 ぼくの小さいころの友人の友人は、 「ああお腹減ったなあ」と言いながら、 スプーンで砂糖を食べていたんだそうな。


夜明け前

うわっ。レポート、「はじめに」だけですでに規定の4000字を超えてしまった。 む。む。


う。アコギのチューニングしてたら弦が切れてしまった。 しろうとわざ炸裂。


予期せずviに入ってしまい、しばらく狂乱状態に落ち入る。

「わああっ、きっ、きっ、キーボードが狂ったあああっ」


お昼すぎ

眠い。


久しぶりに中央食堂で食べる。

一口食べて二度と来るまいと誓う。


院試対策勉強会終わり。

02/04/98(Wednesday/mercredi/Mittwoch)

早朝

すごく健康的な時間に寝て、 すごく健康的な時間に起きる。

昨日古本屋で買った本。(今ほんとにお金ないんだけど…)

…。

……。

日本の倫理思想も勉強しようかと思って。


以下は『わたしたちの使命』(上廣榮治、社団法人実践倫理宏正会、1975年)という、 倫理普及活動における心得やよくある質問(FAQ)に対する 模範解答と解説などについて書かれた本の中にある、FAQの数例。 参考までに。


〔C〕実践倫理についての解答例と解説

21(実践倫理は)高校で教える倫理社会や、大学の倫理学とどう違うのですか?

〔適切な解答例〕

イ、大学や高校で教えている倫理学は、倫理思想の理論であり、歴史です。 誰が、いつ、どのような教えを説き、 それがどう変化したかを教えるのが主たる目的であって、 それによって、倫理は知識として身につくかもしれませんが、 直接一人ひとりの魂に働きかける生きた倫理道徳となっているかどうかは疑問です。 それに比べて実践倫理は、 わたしたち一人ひとりの現在ただいまの生活を正しく見る目を養い、 それを日々の具体的な生活の中でどう生かしたらよいかを導いてくれる生活の知恵 であり、人生の教えなのです。

ロ、学問としての倫理は、単なる知識・教養で、実践を伴いません。 これでは倫理を学ぶことによって、人間としての真の幸せはつかめません。 それに対して実践倫理は、あくまで行なうことを主体とした生きた学問で、 これを踏み行なえば必ず幸せになれるという生きた思想であり、すじみちなのです。

ハ、大学で難しい倫理学を学んでいませんので、 残念ながら学問的な内容の違いはご説明しかねますが、 ただひとつだけはっきりと言えますことは、 学問としての倫理学をどれだけ知っていても、 それが現実の生活の中で生かされなければ、意味がないと思います。 その点、わたしたちの実践倫理には、難しい理屈などなく、 人間として守り行なえば必ず幸せになれることばかりです。 倫理とは、本来そのようなものでなければならないと信じています。

〔不適切な解答例〕

イ、学校で教える倫理学は、あくまでも旧道徳を中心とした理論で、 実践倫理は現代の生きた思想です。
(実践倫理が生きた思想であるのは真実ですが、 学校の倫理学を旧道徳と断定してしまうのは言い過ぎです)

ロ、高校や大学で教えている倫理学も、すべて本会の実践倫理の教えです。
(いいかげんな推量で答えてはいけません。 実践倫理は、あくまで本会独自のものです)

〔解説〕

高校で教える倫理は、 社会人としての基本的な倫理意識を育てるためのもので、 それは現在小学校や中学校で行なわれている道徳教育の延長と考えればよいでしょう。 それに対して、大学の倫理学はある意味では専門的な学問で、 哲学や宗教学と同じように、倫理を歴史的、思想的に分析研究するものです。 ですからこうした学校教育の中での倫理学は、 どうしても実践面での指導はできませんし、 また学校という場では困難が多いのです。(121-124頁)


〔D〕入会についての解答例と解説

35夜遅い仕事で、朝起会に出られそうにないのですが、 朝起きしないで入会できないでしょうか?

〔適切な解答例〕

イ、夜遅いお仕事では大変ですね。 昼間に比べて夜のお仕事ではお疲れでしょうし、 たしかに朝が辛いのはよくわかります。 でも、そこを思い切って、一度朝起会に出席してごらんになりませんか。 すがすがしい冷気の中で朝露を踏み、 日の出に向かって今日一日の倫理実践を誓うことは、 何物にも代えがたい喜びであることが、おわかりになりますよ。

ロ、お仕事柄、たしかに初めのうちは大変だと思います。 しかし、そこを修業と思って、やってごらんなさい。 必ずや朝起きしてよかったと思うようになります。 よく八時間は眠らなければ、十分ではないといいますが、 あれは本当かどうか疑わしいことです。 人間の睡眠は、長さよりも眠りの深さが大切なのです。 ですから、どんな人でも、少し慣れれば四時間の睡眠で十分になります。 わたしどもの会長先生は、 「朝起きひとつできない者に、何ができるか」とおっしゃいました。 まことにその通りで、大自然によって生かされている人間は、 太陽とともに起き、太陽のもとで、今日一日倫理実践に励んでこそ、 大いなる大自然のめぐみを得ることができるのです。

〔不適切な解答例〕

イ、朝起きひとつできないで、たとえ入会しても、 実践倫理が身につくはずがありません。
(不親切な言い方です。もっと相手の立場になって考えてあげるべきです)

ロ、結構ですとも。朝起会にご出席になられなくても、 入会することはできますよ。
(実践倫理の基本は、あくまで朝起会です)

〔解説〕

現代人、とりわけ都会に住む人たちの中には、 最近夜型の人が増えているようです。 そんな人たちは、どうしても朝起きが苦手で、 朝起会と聞いただけで、尻ごみするものです。 そこでそうした人たちには、自分、 または自分の身近かな人たちの、 入会当時の体験談などをまじえるなどして、 相手の不安感を少しでも取り除き、 「それなら自分も朝起きできるかも知れないな」 「よし、やってみよう」という気持を起こさせることが大切です。(162-165頁)


〔E〕いろいろな理由で断わられたときどう答えればよいか

50倫理で一日中しばられる生活では、遊ぶこともできません。 わたしはすべてのものから、自由でありたいのです。

〔適切な解答例〕

イ、自由でありたいと願うあなたのお気持はよくわかりますし、 わたしもそういうあなたの自由を奪うつもりは毛頭ありません。 しかし、一歩進めて考えますと、いったい人間の自由とは、 どういうことでしょうか。 人間の自由とは、倫理や道徳を守らない生活のことでしょうか。 いいえ、違います。 人間は自由である前に、社会の中で生かされ、 大自然の力によって生かされているのです。 倫理とは、そうした社会や大自然が、 人間に与え教えたすじみちなのです。 ですから人間は、自分を生かしてくれる、 この社会や大自然のすじみちに従って生きなければ、 自由そのものもないのです。

ロ、自由とは、人間なら誰しも願うことです。 しかし、たとえば、スポーツを例にとって考えてみますと、 彼らが自由にスポーツを楽しめるのは、 ルール(規則)があるからです。 ルールに従うから初めてスポーツに自由があり、 楽しさがあるのです。 それと同じように、わたしたちの社会にはルールがあり、 毎日の生活にもルールがあります。 そして、そのルールこそ、実は倫埋の実践なのです。 ですから、倫理はあなたの人生を縛るものでは決してなく、 あなたに真の自由とは何かを教えてくれる、人生のルールなのです。

〔不適切な解答例〕

イ、倫理は決して、あなたの自由を奪うものではありません。 その証拠に、わたしをご覧なさい。 自由を奪われている人間に見えますか。
(観念的な言い方です。もっとわかりやすく、 具体的な例をあげて説明すべきです)

ロ、あなたのおっしゃる自由と、倫理で言う自由は違います。 本当の自由とは、倫理を守り行なうことによって、 得られるのです。
(一見よい答えのように聞こえますが、 これは倫理を体験した人にして初めてわかることであって、 一般の人には、実感としてはわかりにくい答え方です)

〔解説〕

倫理実践の喜びを知らない人たちは、 組織に入れば、大きな規則や制約があり、 それに縛られてしまうのではないかという不安を、 漠然と感じているものです。 それに、これは若い人たちに、 とりわけ多い考え方ですが、 本会のような組織に入れば、人間が一律に類型化し、 個性を失ってしまうのではないかという不安感です。 実際、こうした世間一般の反応には、 まったく理由がないわけではなく、 たとえば狂信的な宗教団体とか、 一部の思想集団の人たちの言動を見ていますと、 そうした世間一般の印象を裏づけるような部分が、 随所に見受けられるからです。 しかし、わたしたち実践倫理宏正会は、 断じて会友のみなさんの自由を奪ってはいませんし、 個人の思想を否定するようなことも、 いっさいしていません。 そのなによりの証拠に、会友のみなさんはすべて、 常に自由闊達であり、豊かな個性と、 すぐれた思想を持っておられます。 ですから、わたしたちは、日々の頒布普及活動の中で、 このことを訴え、堂々と胸を張って歩かなければなりません。


昼下がり

今日は修論の試問の日なので、 修論を提出した人が緊張した顔で研究室にきて試問の行われる部屋に行き、 しばらくすると憑きものが落ちたような顔をして戻ってくる。 来年はわが身。 (憑きものが落ちたような顔をしてるかどうかはわからないが)

某嬢欠席のため、ロック読書会は中止。


今日は研究室がさわがしかったので疲れた。 えらそうなことを言えた義理ではないが、 勉強をしている人がいるのに 大声で話をするのはどうかと思う。 まあ、 「勉強するやつは閲覧室に行け。研究室は議論の場だ」 と考えている人もいるのかもしれないが。

(わ、また学級代表みたいな発言をしてしまった)


院試対策勉強会

(telos--Greek for the end.という文について説明しているとき)

こだま「このforというのは、『〜を表す』、という意味なんですね」

匿名希望「ふんふんふんふん。あ、なるほどぉ、そうなんですかぁ」

こだま「だから、例えば…、UN stands for the United Nations.っていうのは どう訳しますか?」

匿名希望「え〜っとぉ、『UNはアメリカ合衆国を表す』 ですねっ」

こだま「えっ…(5秒絶句)」

匿名希望「え、なんかおかしいですか? じゃあ、ん〜とぉ、『UNはアメリカ合衆国を意味している』」

こだま「……。…あの、UNっていうのは?」

匿名希望「アメリカ合衆国!!」

こだま「……」

匿名希望「え、どうしたんですかこだまさん?」

不安でしかたがない。

(注: 上で登場した匿名希望の方からのクレームにより、 これは実在の事件および人物とは一切無関係のフィクションだと判明しました)


疲れてとてもレポートを書く気になれない。


02/05/98(Thursday/jeudi/Donnerstag)

真夜中

そいえば、もう銀行に預金がほとんどない。
しかるに、奨学金の受給日まではあと×日ある。

♪ぷりずぎみまぁ〜ねぇ〜(ざっつ、わらいうぉん)


研究室で夜中に仮眠していると、某師匠に急襲される。 倫理のサーバのメンテに来られたそうで、早朝までかかって システムを再インストールされてお帰りになる。

一句: 人知れず働く正義の味方かな

ぼくは倫理学入門書読書会の準備をしている。


ねむいのねむいの、とんでけーっ。


うう、やっと倫理学入門書読書会の準備がひとまず終了。眠い。


昼下がり

うう、お腹こわした。体力消耗。ふらふら。貧血か。


倫理学入門書読書会(『一見自明な義務』その3)終わり。調子悪し。 その後みんなで夕ごはん。


人生ってこんなに辛かったのか

今日は完全に厄日。 仏滅と13日の金曜日と黒猫と霊柩車が 手をつないで一緒に来たようなさわぎ。

夕方。お腹の調子が悪いし、 最後に風呂に入った日の思い出も忘却の彼方へと消えさりつつあったので、 読書会の前に銭湯に行って少し寝ておこうと思い、 下宿に戻った。

あいにく銭湯に行く時間がなさそうだったので、 下宿の一階のガレージに備えつけてある共同の簡易シャワーを 使ってみようかと思い、銭湯グッズ一式を脇に抱えて 三階にある部屋から出て階段を降りて行った。

すると一階に降りる寸前、 なにを思ったか突然右足のくそったれが階段を踏みはずしたせいで、 3、4段ほど尻餅を 突きながら階段をずどどどどんとすべり落ちてしまった。ぐわあああっ。

相当派手な音を立てて落ちたらしく、 すぐに大家さんが玄関から出てきて 心配そうに尋ねた。

「大丈夫、こだまさん?」

「ええ、ええ、大丈夫、全然大丈夫です。いや、ほんとに。 は。ははははは。いやいや。びっくりしたなあ。はは。 いやいや、心配ないです。ほんとに。全然痛くないですから」

などとひきつった笑みを浮べて応対したが、 本当は尻がめちゃくちゃ痛くて、 某氏が長く患っていたあの世にも恐しい腰系の病気に すでにかかってしまったのではないかと思って、 内心気が気でなかった。


まあ、このくらいなら「ちぇ、今日はついてないなあ」 ぐらいで済むのだが、格言にもあるように、 「災いはしばしば農協のお年寄の方々のように団体でぞろぞろやってくる」ものだ。

とにかく、それでもめげずにシャワーを浴びようと思って、 一階のガレージに設置してある簡易シャワー室に (よろよろと)歩いて行った。


ここでちょっと今ぼくの住んでいる下宿の構造を説明しておくと、 まず、道路に面して三階立ての長方形の鉄筋建築物があり、 一階は全面ガレージで、二階と三階とがそれぞれ独立した ドアを持つ下宿になっている。下宿というよりは アパートと言った方がいいのかもしれない。 だからいわゆる貸間というやつではない。 ぼくはその三階に住んでいる。

それで一階のガレージを突き抜けて奥へ行くと、 部屋に上がるための鉄製の階段(事故現場)と 大家さんの一戸建ての家の玄関がある。

したがって、ガレージにある簡易シャワー室は 道路に面しているわけで、 一応脱衣用に(シャワー室を囲む形で) カーテンがついてはいるものの、 登下校中の小学生は歌をうたいながら通るは、 自転車や自動車は始終通行してるはで、 日中ここでシャワーを浴びるのには 相当な勇気と覚悟を要する。
(しかもカーテンは少し透けている)


で、財布から100円をとりだし、 ガスコンロかなにかを作動させると思われる コイン投入口にチャリンと入れた。 大家さんに以前聞いた話では、 お湯は「100円で7分」出るんだそうだ。
(ちなみに、水はただで出る)

そこでカーテンを引き服を脱いでからシャワー室に入り、 お湯を出してまず頭を洗い始めた。 頭にシャンプーを振りかけてから 蛇口をひねってお湯を止め、 「こないだ洗ったのは何月頃だったっけ」などと考えながら、 頭をごしごし洗う。

(若干誇張表現が入ってるので真に受けないこと)

それから再びお湯を出してシャンプーを流し、 流し終わったらまた蛇口をひねって止める。 んで、リンス。リンスを流すのにお湯を出すのは面倒なので、 そのままにしておいて、タオルにセッケンを 付けて身体をごしごし洗う。ごしごしごしごし…。

さて、ようやく無事に身体を洗い終ったので お湯を出そうと蛇口をひねると。

出ないんだな、これが。

「聡は世の中を恨んだ。 邪悪なコイン・シャワーのシステムを恨んだ。 無邪気に大声を出しながら下校する小学生たちを 恨んだ。 そして何よりも愚かな自分自身を最も恨んだ」とかいう ナレーションがどっか上の方から聞こえて来ましたよ。 ほんと。

つまり「100円で7分」というのは、 お湯を出そうが出すまいが、 コインを入れた時点から計って 7分だったのだ。

蛇口を締めている間は 時間を計るのを止めてくれる、 などと言うような高性能なしろものでは なかったのだ。

あああ、ぼくはなんて世間しらずで頭でっかちな 人間だったのだろう! 世間に出た途端、 こんな簡単な罠にひっかかってしまうなんて!

…などなどの考えにふけっている間は、 セッケンの泡も消え徐々に冷えつつある身体のことも 忘れて、怒りと情けなさと諦念のまざりあった 思考にしばし浸ってしまった。

われに返って、とにかくなんとかこの状況を打破しなければ ならないと考えた。 しかし、 まさかこの寒いのに水を使うわけにもいかないので、 脱衣用カーテンよりもさらに外にある コイン投入口にもう100円入れるために、 シャワー室のドアを少し開けてきょろきょろと あたりを見まわし、通行人(特に小学生)や他の下宿人が 付近を通っていないかどうかを確かめた。 そして頃合いを見計らって、えいやっとシャワー室から出て いそいで財布から出したお金をコイン口に投入し、 またシャワー室に戻った。

この行動がどれほど情けなかったか! もういっそのこと一思いに爪かんで死のうかと思った。

そうして再びお湯が出たので身体と髪を洗い流し、 時間がまだまだあったのでお湯を出しっぱなしにして しばらくぼーっとしながら、 ウェブ日記になんて書こうかなどと思案していた。


それから無事に部屋に戻り、1時間ほど寝てから読書会に来たのだが、 さらに苦難は続いた。尻もいまだに痛いし。

しかし、そのさらなる苦難についてはまたの機会に書く(かもしれない)。

それにしてもほんとに今日は仏滅。なんなんだいったい。


02/06/98(Friday/vendredi/Freitag)

真夜中

懸案のレポートも書かず、 以前に別の本に関して書いた 須原一秀氏の『超越錯覚--人はなぜ斜にかまえるか』(新評論、1992年) を読んでいた。

お昼前

尻が痛い。


昼下がり

まだ痛い。

某教授室のプリンタがうまく動かなくなったらしいので点検に行く。 (某師匠のいつも言われる)分析的手法で無事解決する。めでたし。


夜中

院試対策勉強会、ベンタム読書会終わり。


本当にあった恐い話

('Any choice, person, relationship or situation is said to be morally good when it seeks or inclines to reasonable action which serves the ultimate good of persons: happiness.' という一文を説明している時)

こだま「え〜と、主語がA or Bの形になっているときは、 動詞は単数形になるんです。A and Bだったら複数形なんだけど」

匿名希望「ふんふんふんふん、主語がA or Bの形になっているときは 動詞は単数形で、A and Bだったら複数形ですね」

こだま「いちいち人の言ったことを復唱しなくてよろしい」

匿名希望「あ、ごめんなさい」

こだま「ま、だからここでも、A, B, C or Dと主語が続けられた後に、areでは なくてisが来てるんです」

匿名希望「ふんふんふんふんふんふんふん。あっ、そっかぁ、なるほどぉ」

こだま「え〜、じゃあたとえば、これはどうですか(と言って紙に問題を書く)」

(以下に現れる個人名は実在の人物とは一切関係ありません。ご注意下さい)


  1. Yama@@@@ and Oku@@ ____ happy.

  2. Yama@@@@ or Oku@@ ____ happy.

こだま「それぞれ下線部に何を入れたらいいですか」

匿名希望「ええとぉ……。あっ、わかった。こだまっ

こだま「ええっ?こだま?」

匿名希望「やま○○、おく○、だから、こだまっ

こだま(あかん、こ、壊れてる…)

匿名希望「え、どうしたんですか、こだまさん?」


(以上の話は一切フィクションで、現実とは無関係です。ご注意下さい)


引越し

読書会が終わった後、某嬢と夕ごはんを食べて、それから 引越し先を見に行った。友人との待ち合わせに遅刻する。悪い悪い。

友人と一緒に行ってみると、川のほとりの一軒家で、 辺りは(夜のせいもあるだろうが)すごく静かなところである。 今住んでいる人の話では、川の音だけが少し気になるぐらいで、 それ以外はかなり静かなところらしい。 某君の下宿もすぐそばのような気がする。

中に入ると、一階はすべてフローリングで、 思った以上にきれいなところである。 玄関と階段と廊下とダイニング・キッチンと、 8畳間ぐらいの部屋と3畳ぐらいの部屋と、 風呂とトイレと洗面所と、 コタツとテレビと机と本棚と、 プラトン全集とアリストテレス全集等々がある。

二階は疊敷で、6畳間ぐらいの部屋が二つ。 なんだか旅館の部屋みたいな感じである。 東側の窓を開けると川の流れているのが見下ろせる。

冬はかなり寒いんだそうだが、 おそらくぼくの今の部屋とどっこいどっこいであろう。 夏は窓を全開にしておけばかなり涼しいとのこと。

特に壊れているところもないし (ただし、2年間で一度だけ雨漏りがあったとのこと)、 トイレもきれいだし、 町内の自治会からは完全に無視されていて 何の義務もないらしいし、 いたれりつくせりとはまさにこのことである。

なんでこんなに良いところがこんなに安いのか、 と今の住人に聞くと、 なんでも大家さんは四国で病院を開いていて、 この家には一年に一度ぐらい電話をかけてくるだけなんだそうである。 どうもかなり裕福な大家さんらしい。 博愛精神に満ちあふれた方なのだろうか。

以前は一家族が住んでいて、そのあと今の住人の先輩が 入居し、それを彼が引き継いだんだそうだ。 それも大家さんに電話して手紙を一通出しただけなんだそうで、 おそろしくいいかげんな話である。

ま、とにかく断わる理由があるはずもなく、 引越すことは確実になった。 あとは2月末までに荷物をまとめて転居の準備をするだけ。


帰りに
フランク・ハーバート、『デューン・砂の惑星4』、矢野徹訳、ハヤカワ文庫、 1985年(改訂版)、105円
を買う。これで最初の4巻がそろった。


02/07/98(Saturday/samedi/Sonnabend)

真夜中

し、しまったっ。他のことをしながらアコースティックギターの弦を 張りかえていたら、弦を張る順番間違えたっ。ばばばばばかっ。


強烈に眠い。


うんうん、その気持ちもよくわかる

(以下の文章は、最近アリストテレスに凝っているせいか、 なんだかカチコチの文体になってしまった)

ところで、ある人の不作為(行為をしないこと)が、 今自分の困っている状況を生み出す遠因になっているとき、 すなわち、今自分が困っている状況は確かに自分の選んだものであるが、 しかしその選択をした背景にはその人の不作為が 大きく関わっているとき、 その人の不作為を責めるのは筋違いなのかも知れないが、 それでも「あの人があのときこうしておいてくれたら」 というような思いを抱かずにはいられないものである。

たとえば、親が銀行の仕送りをしなかったために貧乏学生がお金に困って 万引をして、その結果警察に捕まる場合のその学生の心境を考えてみよう。

この学生が 「わたしが万引をしたのは親が銀行の仕送りをしなかったからだ」と言って 自分の行為を正当化するならば、 --そうやって親を責めたくなる気持ちはよくわかるにせよ--、 この正当化はもっともらしくない(必ずしも正しい推論ではない)。

なぜなら「親が銀行の仕送りをしなかった」場合、 学生には「万引をする」という選択肢の他にもいろいろな選択肢が あったはずで、「親が銀行の仕送りをしなかった」という事実と 「万引をする」という事実の間に必然的な結びつきはないからだ。

(「親が銀行の仕送りをしなかった。だから万引をした」 というときの「だから」という結びつけ方は疑わしいということ。 もしこの学生がこのような正当化をすれば、 警察に「親が銀行の仕送りをしなかったからといって、必ずしも 万引をせざるをえない、というわけではない。 君はほかにもできることがあったはずだ」と言われるだろう)

しかし、もしも親が銀行の仕送りをしていればこの学生が万引をすることは まずなかったはずで、この学生は自分が万引をして捕まったあとに 「親が銀行の仕送りをしてさえいれば、わたしは万引をしなかったはずだ」 と考えて、親をうらむかもしれない(これは一応正しい推論と言える)。

隠れた前提を加えてもう少し厳密に言いかえると、 「わたしは(仕送りの)お金があれば万引はしない。だから、 もし親が銀行の仕送りをしていれば、(わたしにはお金があったはずだから) わたしは万引をしなかったはずだ」というのはもっともらしい。


(もっともらしい三段論法)

  1. わたしは(仕送りの)お金があれば万引はしない。
  2. もし親が銀行の仕送りをしていれば、わたしにはお金があったはずだ。
    ------------------------------
  3. わたしは万引をしなかったはずだ。

しかし、「わたしは(仕送りの)お金があれば万引はしない。だが、 親が銀行の仕送りをしなかった。だからわたしにはお金がなかった。 したがってわたしは万引をしたのだ」というのは もっともらしくない。


(もっともらしくない三段論法)

  1. わたしは(仕送りの)お金があれば万引はしない。
  2. 親が銀行の仕送りをしなかったので、わたしにはお金がなかった。
    ------------------------------
  3. わたしは万引をした。

というのも、この結論を出すためには「お金があれば万引をしない」 という前提だけでは不十分で(この前提ではお金がないときの場合については 何もわからない)、「お金がなければ万引をする」という前提が必要だからだ。

すなわち、「わたしは(仕送りの)お金があれば万引をしない。 また、わたしは(仕送りの)お金がなければ万引をする。 ところで、親は銀行の仕送りをしなかった。したがってわたしは 万引をしたのだ」といえば、(道徳的には問題があるかもしれないが) とりあえず推論の仕方は正しいことになる。


(再び、もっともらしい三段論法)

  1. わたしは(仕送りの)お金がなければ万引をする。 (また、わたしは(仕送りの)お金があれば万引をしない)
  2. 親は銀行の仕送りをしなかった。
    ------------------------------
  3. わたしは万引をした。

だが、「お金がなければ(必ず)万引をする」という前提を是認する人は (特に警察の方々の中には)あまりいないと思われるので、 学生がこのような正当化をしても説得的ではありえず、 「君のそのそもそもの前提がおかしいんだよ」と言われるのがおちであろう。

う。結局なにが言いたかったのか忘れた。 あ、「親が仕送りをしなかったから万引をした」という推論は 厳密に考えれば間違っているが、 「親が仕送りをしていれば万引をしなかったはずだ」と言って 親を責める学生の気持ちもいくらかはわかる、と言いたかったのだった。


(上の具体例は適当に考えただけで、こだまの身の回りでそのようなことが あったわけではありません。また、こだまが万引をする予定もありません。本当)


雨の降る夕方

院試対策勉強会終わり。

今日はバンドの練習が中止だったが、友達が一人、 それを知らずにわざわざ大阪の方から出向いてきたようだ。もうしわけない。

今日こそはレポート。(そればっかり)


そろそろ次の日

(ウ〜〜、ウ〜〜)しもやけ再発、しもやけ再発。総員指定の位置に付け。 臨戦態勢、臨戦態勢。くりかえす、しもやけ再発、しもやけ再発、…。


02/08/98(Sunday/dimanche/Sonntag)

真夜中

わ〜ん、コピーの枚数が西暦の年数より多くなって、 すでに21世紀に入っちゃったよ〜(まだ近未来)。

何をコピーしてたかというと、下宿にあるダンボールを漁って、 去年の院試関係のプリントを探し出して来たので、それをコピーしてたのだ。

ぼくの手書きの過去問の答案やら、某君っちの答案やらも残してあるので、 まじめに勉強していた往時が偲ばれ、 「ああ、あのころは某君っちともあんなに仲が良かったのになあ」 などと回想してしまった。

(注: 現在も某君っちとの仲は良好かと思われます)


昨日は夜になってから銭湯に行き、 その隣の某定食屋で長野オリンピックの開会式を見ながら 夕食をとった。(あれは録画だったのかな?)

それから下宿に戻って寝た。 しかし、疲れているはずなのだが、なぜか数時間で目が覚めて 研究室に来てしまう。悲しい性。


一部の人々から「狼少年こだま」と言われて久しいが、 絶対に今夜中にレポートを完成させる。


♪すい〜〜〜〜っ、いっも〜〜〜〜ぉしょ〜〜ん。 は、いかんいかん、エアロ聴きながらギターを弾いている場合ではないのだ。 レポートレポート。


さらに真夜中

うう。疲れた。進まん。意気沮喪。逃げたい。


天気の悪い早朝

ああ、つい別の事してた。まだまだできてない。とにかく今日中にやる。


tarとgzipと格闘。状況不利。


割と暖かい昼

う、遅刻すると思ったので研究室に書き置きを残して下宿に戻ったら、 案の定勉強会に遅れてしまった。というか、書き置きを書いたから 寝坊したのか。(書き置きのパラドックス)


風は強いがずいぶん天気のよい夕方

院試対策勉強会終わり。しだいに某嬢の名訳が減ってきて残念。

02/09/98(Monday/lundi/Montag)

しんしんと凍てつくような夜明け前

少し雪が降ったようだ。寝てたので気づかなかったが。


レポートが完成せずに明ける朝

わ。下界の屋根がみな真っ白。路上には積もってなかったようだが。


…ついでにこの研究室も禁煙を始めるか。


お昼前ぼたん雪だよおやじさん

窓の外が白いというか灰色。

レポートを書かねばならないのだが、先日アメリカ人から 「なんであなたは死刑廃止論をノンセンスと呼ぶのですか? 手短かに説明してください」というメイルが来たので、

ばかやろうてめえで日本語勉強しろ

と思いつつも、 今年の始めに発表したレポートのアブストラクトらしきものを、 怪しげな英語を用いて今の今まで書いていた。 せっかくだから 掲載しておく。 変な文があれば教えていただきたい。

3月末にイギリス人ベンタム研究者と議論しないといけないので、 英会話の勉強もしなきゃなあ。


雪もやみいつのまにやら昼下がり

院試対策勉強会。

一説によると、クラムチャウダーとは、
野菜と魚介類の入ったクリーム味のスープで、 コーンクリームスープなどに比べておかず度が高い
らしい。


昼からの勉強会は夜まで続く

(以下の話は創作です。御注意下さい)

匿名希望嬢「まてりありずむ、まっちゃにずむ、 あんど、へどにずむ」

こだま「は?え?『抹茶にずむ』?」

匿名希望嬢「え、だってほらここ、マッチャニズムって……」

こだま「……これ、mechanism、メカニズムじゃないですか」

匿名希望嬢「あっ、ほんとですね」

こだま「…」

(あとから聞くと、mechanismとmerchant(商人)を混同していたらしく、 「商業主義」と訳していた)


(原文) The common idea of Epicureanism is summed up in the epithet: Eat, drink and be merry; for tomorrow ye dieth.

(こだま訳)
エピクロス主義についての常識的な考えは、 次の悪意ある決まり文句に要約されている。 「食べよ、飲めよ、騒げよ。明日に汝は死ぬるのだから」

(匿名希望嬢訳)
エピキュロス主義の一般的な観念はエピティス人 によって支持される。すなわち食べる、飲む、結婚するである。 あなたが明日死んでしまう前に。

こだま「(爆笑)。…こ、ここ、この、くくくくっ(爆笑)、こ、このエ、 『エピティス人』って(爆笑)、いったいどこの、 くくくくくっ(爆笑)、ひ〜、くっ、くるし〜(爆笑)」

匿名希望嬢「(爆笑)。あ〜、また日記に書かれる〜っ(と言いつつ爆笑)。 あっ、紙に写さないで下さい。写さないで下さいってば〜。 だめです〜(と言いつつ爆笑)」

こだま「(爆笑)。だ、だめです。こ、これほど有益な情報を秘匿するのは罪悪です。 残念ながらこれはもうすでにパブリックドメイン(公共財)です。 あなたの著作権は存在しません。エ、エ、エピティス人(爆笑)」

(繰り返しますが、以上の話は純粋な創作です。本気になさらないように 御注意下さい)


今日は卒論の試問があった。 それで、試問を終えた卒論提出者から御礼のプレゼントをいただいた。 卒論を指導した--というと偉そうに聞こえるが、 草稿を読んでいくらかコメントをした--ことに対してらしい。感謝。
(某君っちにもありますのでお早めに)


もう真夜中レポートレポートすぐやります

夕食の帰りに古本屋で買った本。

ついでにゲームセンターに立ち寄って『ドルアーガの塔』 という昔なつかしのゲームをやった。 が。やってみるとめちゃくちゃつまらなかった。 昔大好きだった女の子に出会ったらなんだかひどいことになってた、 という感じか。


♪あ〜はうすっ、いざべりべりべりふぁいんはうすっ…


02/10/98(Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中に研究室で眠るやつ

今夜こそはレポートを、と思ってはいるのだががっ。 誠意はあるつもりなのだがががっ。

昨日、あるアメリカ人から来たメイルに答えるつもりで、 以前発表した死刑廃止論の要約を英語で書いたと書いたが、 そのアメリカ人からまた返事が来た。

そのメイルには、 その人がどうしてぼくにメイルを送る気になったのかだとか、 自身の死刑廃止論に対する立場だとか、さらなるお願いだとか が書いてあったのだが、最後にこう書いてあった。 --これは、ぼくが「慣れない英語で作文したから間違っている ところがあれば直してほしい」と書いたことに対する返事だと思われる。

あなたの英作文は一部のネイティブよりも上手に思えるので、 朱を入れるなんておこがましいことはできません。

「うむ、なかなかあっぱれなアメリカ人だ」と思いましたね:-)。 前言撤回。もっとも、 アメリカ人の教養の幅は日本人に比べて圧倒的に大きいだろうから、 もしかしたらこの「一部のネイティブ」というのは 字の読み書きができない人達のことを指していたり、 小学校低学年の児童のことを指していたりするのかもしれないが。

けど、やっぱ英語って字面からは男性が書いてんのか女性が書いてんのか 日本語ほどははっきりわかんなくて、 ぼくみたいな、男性への手紙か女性への手紙かで 内容から文体から人格まで別になってしまう人間には非常に不便である。

う〜む。(プロファイリング中)
今回のメイルの少し上品めな書き方を見ると、おそらく女性かなあ。 性別や階級による文体や言葉の違いとかを勉強してれば もっと正確な推測ができるんだろうけど。 しかし、まさか「こんにちは。あなたの性別はなんですか?」 とも書けないし、困った困った。 名前にしても男性も女性も使える名前みたいだし。

メイル・アドレスからするとロー・スクールの学生、 しかもベンタムを詳しく知らないらしいから、まだ学部生にあたる 学年の人のようだ(ほんとか?)。それ以外はなぞ。

あ、相手が日本語を解さないことをいいことに好き勝手書いてしまった。 もうこのくらいでやめておこう。


レポート終わらん〜。


ギター弾くな〜。


早朝

ね、眠い…。

異国アメリカにおられる某先輩に先の死刑廃止論の 要約を添削していただいた。 感謝感激。

…しかし、またそのアメリカ人に英語で返事を書かなきゃいけないんだよな。 英作文って結構楽しいけど(うまい表現を思い付いたときとかね)、なにしろ時間が かかるからなあ。


あらららら。今日もレポートできなかった。いかん。あかん。

(あ、明日までには必ず…)


お昼

寝坊。いかん。


夕方

院試対策勉強会。


ロック読書会終わり。やっと「力について」が終わった。力尽きた。


02/11/98(Wednesday/mercredi/Mittwoch)

早朝

熟睡。

レポートを書きたいところだが、午前中は院試の予想問題を作ることにする。


院試まで後2日か…。 「時間が足りない」なんて甘えたことを言うつもりはないけど、 この限られた時間内で何をすれば最も効率的と言えるだろうか。


お昼前

椅子に座ったまま爆睡。よく寝たはずだったんだけど…。


お昼過ぎ

院試の予想問題を作ってみた。 一つでも当たればおなぐさみ。


昼下がり

う〜、『走れテロス』ってどーかな?

銀行に行って残高を照会したら、大金が入っていたので驚く。 どうやら二ヶ月分の奨学金が振り込まれたらしい。 気を付けて使わないと来月苦しむことになりそうだ。

今週号のマガジンの『はじめの一歩』、おもしろいなあ。 心臓がどきどきしてしまう。 定食屋さんで『うる星やつら』の単行本をちょっと読んだが、 すでにノリが古くさくなっているように感じた(あたりまえか)。 昔からあのマンガを読んで笑うことはまずなかったが。


夕方

OS8にしてから、ネットスケープ(ver. 3.04)がやたらにフリーズするようになった。 困った。


院試対策勉強会。


真夜中

大変眠い。ふらふら。ふらふらふらふらふら。


ぐわああああああああっ。また尻を打ったぁっっっっ。 今度はあるべき位置に椅子がなくて (キャスター付きの椅子なので知らない間に後方へ転がっていってた)、 床に思いっきり尻餅を付いてしまった。うううう。

実はぼくの尻痛はまだ完治してなかったのだ。 今回、その痛みがかなり悪化したようだ。 ほんっとに痛い。 いや、実に痛い。 痛すぎます。 苦しい。 これはひょっとすると病院行きかもしれない。


02/12/98(Thursday/jeudi/Donnerstag)

真夜中

倫理学入門書読書会の準備。


爆睡。これから倫理学入門書読書会の準備など。がんばれがんばれ。


お昼過ぎ

さっき、「扶養家族」を出すつもりで「ふようかぞく」を漢字変換をしたら 「不要家族」と出てきた。ううむ、言い得て妙だ。


昼下がり

外に出ると風が生暖かいのでびびる。もう春なのか?


現在、こだまの作った英単語テストを、 院試を明日に控えた匿名希望嬢が解いているのだが、 その答案の一部をお見せしよう。 (おっと、これはフィクションであるのでご注意)

問題:
explain, explanation

正解:
説明する、説明

匿名希望嬢の答案:
説明、爆発

…ううううむ。明日だぞテストは。


倫理学入門書読書会終わり(『帰結主義』の巻、その壱)。難しい。


真夜中

まだ院試対策勉強会。

現在、 コプルストン(匿名希望嬢によれば「コルプストン」)の哲学史の目次をコピーして、 英語で書いてある哲学者の名前をちゃんと訳せるかどうかをチェックしている。

途中、デスクリトスDescartes(デカルト)だとか、 ベルケリリーBerkerly(バークリ)だとかいう珍訳が炸裂。 チェックしておいて良かった。


02/13/98(Friday/vendredi/Freitag)

早朝

今日は院試(一次試験)の当日。


今頃みんな英語の試験を受けてるはず。がんばれがんばれ。

加藤先生の「 イラクの空爆と戦争倫理学」という論説を加藤HPに掲載。


お昼

があああっ。専門試験予想問題が全部外れたっ。 ごめんっ(と言って闇に逃げ去る)。


夕方

ロック読書会終わり。


ベンタム読書会終わり。疲れた。


真夜中

眠い。


02/14/98(Saturday/samedi/Sonnabend)

お昼すぎ

昨夜は半日ほど爆睡。いろいろ怖い夢を見た。


夕方

ベンタムの勉強。今日明日中にレポートを仕上げないとやばい。

バンドの練習終わり。

そういえばそろそろ引越しの準備もしなきゃいけない。 だれかダンボール余ってるって人いませんか〜?
(コンビニで訊けばくれるらしいが、小心なのでいまだ果せずにいる)


02/15/98(Sunday/dimanche/Sonntag)

真夜中

レポートが進まない。


お昼すぎ

レポートっ。


蕎麦について一言

ぼくはこれまでほとんど蕎麦なる食べ物を食べたことがなくって (年越し蕎麦くらい)、また、 蕎麦について詳しくなれば「美食家」というステータスが得られる、 ということもついぞ知らなかった。

どちらかといえばぼくはラーメンも好きではない。 うどん好きなのだ。 しかし、「うどん好き」というのは「蕎麦好き」や「ラーメン好き」に比べて 公言するのがどこか恥ずかしい趣味であることも最近知った。

以下は最近読んだ須原一秀の『超越錯覚』(新評論、1992年)からの引用である。

隣近所に猫嫌いで犬好きの人、しかもそのことを強い口調でやたらと吹聴 してまわる人がいないでしょうか。このような人は犬が好きであるばかりでな く、自分が犬好きであることもまた好きなようです。(中略)

同じことはそば好きの人にも言えます。しかし、なぜかうどん好きの人や 猫好きの人にはあてはまらないのです。これは心理学的理由(自己愛的性格)が あるようですが、そのことには深入りしないでおきましょう。とにかく、うど ん好きでそのことを強い口調で吹聴してまわっている人を想像してみてくださ い。どこかこっけいであまり恰好が良くないと感じませんか。

(中略)そば好きでそのことにやたらとこだわる人には若干禁欲的で形式を 重んじる傾向があり(乃木大将はそば好きでした)、そば好きであることは(少 なくとも本人の意識では)恰好が良くて、その恰好良さを意識しているのです。 つまり、メタ意識は美とか形式に敏感なのです。(乃木大将は詩人であり、恰 好良く十文字に腹を切って殉死した)。つまり、犬と人間、そばと人間の関係 には強固な形式とか美が感じられるのですが、猫とうどんにはそれほど感じら れないのです(その理由は、ちょっと難しいけどそれぞれに考えてみてくださ い)。(35頁-36頁)

文脈を無視して引用したのでこれを読んだだけでは内容がわからないと思うが、 ここで言われているのは要するに、「犬好きの人や蕎麦好きの人は、 自分が犬好きあるいは蕎麦好きであるということもまた好きであり、 自分の美的センスに対して意識的、敏感である」ということである。

ううむ。そういうもんなのだろうか。世の中なんだか理不尽だなあ。 「うどん友の会」でも作るか。


バンドの練習終わり。


久しぶりに某師匠と夕ごはん。まだ禁煙を続けられているようだ。


Satoshi Kodama
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Last modified: Fri Jan 22 08:04:11 JST 1999