「情報と倫理」のレポート

チェイン・レターと情報と倫理

All men by nature desire to know. --Aristotle
He that increaseth knowledge increaseth sorrow. --the Bible
Daremo shiranai, shirarecha ikenai. --Devilman

目次

はじめに
1. 情報・情報主体・情報処理活動
2. 情報処理活動の六つの側面
3. 情報を流布する際の条件
おわりに


はじめに

先日、ぼくが「情報と倫理」のレポートのテーマ探しに苦しんでいるときに、 ある友人から、以下のようなEメイルが届いた。メイルの冒頭には、 「友人から次のようなメイルを受け取ったので、念のために転送します」 という主旨の文が添えてある。


From: Ken Anderson
Sent: Wednesday, January 21, 1998 8:15 AM
To: Everyone - All
Subject: Internet Virus Alert

If you receive an email titled "JOIN THE CREW" DO NOT open it. It will erase everything on your hard drive. Forward this letter out to as many people as you can. This is a new, very malicious virus and not many people know about it. This information was announced yesterday morning from IBM; please share it with everyone that might access the internet.

Also, do not open or even look at any mail that says "RETURNED OR UNABLE TO DELIVERY" This virus will attach itself to your computer components and render them useless. Immediately delete any mail items that say this. AOL has said that this is a very dangerous virus and that there is NO remedy for it at this time. Although we currently have anti-virus programs configured to scan local hard drives and also the server, the contents of Internet mail may not get scanned. We are purchasing a special Anti-Virus product which works with Microsoft Exchange. Please be cautious!

Ken Anderson
MEMCO Barge Line, Inc.
Mgr. Network & Workstation Support


ぼくは以前に何度かこの手のメイルを受け取ったことがあったので、 最後まで読むまでもなく、すぐにこれがデマであることがわかった。

周知のように、 この手のメイルは(インターネット・)チェイン・レター chain lettersとかチェイン・メイル1 とか呼ばれるもので、 「手紙の受け取り手に複数のコピーを送るように指示する手紙。 その結果、その指示が守られる限り、出回る手紙の数は幾何級数的に 増加する」などと説明される2。 また、メイルの内容が実在しないコンピュータ・ ウィルスに関するものである場合には、 特にウィルス・デマvirus hoaxと呼ばれたりもする。

実はぼくも以前に一度、この手のチェイン・レターにまんまとだまされて、 某氏にメイルを転送してお叱りを受けた経験がある。

そこでこの友人にメイルを送ってこの手のメイルを人に回してはいけないと 注意しようと思ったが、その理由について書く段になって、 キーを打つ手がはたととまってしまった。

なぜチェイン・レターを人に回してはいけないのだろうか?


(1)チェイン・レターに書いてあることは多くの場合デマであり、 誤った情報を他人に知らせるのは不正だからだろうか。

たしかに、今回の"JOIN THE CREW"や"RETURNED OR UNABLE TO DELIVER"という ウイルス情報は、いろいろなセキュリティ関係のサイトに載っている 有名なデマ情報である3。 だから、もし上のメイルを送ってくれた友人があらかじめこれらのサイトを 知っていれば、 おそらくこの友人はぼくにこのメイルを転送することはしなかっただろう。

しかし、この説明では、 「明らかにデマであるチェイン・レターを人に回すのはいけない」 ということは言えても、「まだデマかどうか明らかでないチェイン・レター」や 「明らかにデマでないチェイン・レター」 を人に回すのはいけない、ということは言えていないのではないだろうか。

たとえば、新しい種類の内容のチェイン・レターである場合は、 どこを調べてもそれが果してデマであるのかそうでないのかが わからないときもあろう。 また、いわゆる「不幸の手紙」や「幸福の手紙」がデマかどうかは、 まさに「神のみぞ知る」ところである。

さらに、たとえば災害時の生存確認情報のチェイン・レターや、 大至急必要な臓器提供者を求めるチェイン・レターなどは、 --途中で情報を変更される可能性があるので、本来そういった用途で Eメイルを用いるべきではないとは言え、-- 「明らかにデマでない」と判断できる場合もありうるだろう。

すると、人に回してはいけないチェイン・レターはそれが「明らかにデマである」 場合だけで、デマでないと思われる場合には人に回してもよいのだろうか。 そうであれば、今回、ぼくの友人はデマでないと思ったからこそぼくに このメイルを送ってよこしたわけだから、友人にはなんの落度もない、 ということになるのだろうか。


(1)の説明は、チェイン・レター一般が不正である理由としては不十分 であるように思われる。そこで別の説明を考えてみよう。

(2)チェイン・レターを出すのがいけないのは、 みながチェイン・レターの指示にしたがってメイルを転送すると、 --皆が一斉に自動車に乗って出かければ途端に交通渋滞が起こるように、-- インターネットのトラフィックが麻痺し、場合によっては各所のサーバが 機能を停止してしまうかもしれないからだ、 という風な説明がされることもある。(普遍化可能性を用いた議論)

たしかに、この説明であれば、チェイン・レター一般を 流すことがいけないことになり、 こう理由を書けばぼくの友人を説得できるかもしれない。

けれども、よく考えてみると、 この議論にもいくつか問題があるのではないだろうか。

まず、「みんながやれば」という仮定がくせ者である。 たしかに皆が皆、チェイン・レターに反応して自分の友人にメイルを転送 すれば大変なことになるかもしれないが、 別にみながやると仮定する必要は必ずしもない。 それではまるで、「みんなが一斉に自動車に乗ると 交通が麻痺するから」という理由でだれも自動車に乗っては いけない、と言うようなものである。自動車交通に限らず、 世の中にはみなが同時にやったら困ることというのは、 少からずあるのではないだろうか4

また、たとえみんながやったとしても、 チェイン・レターで流される情報量は、 画像のそれに比べれば圧倒的に小さいので、 インフラの整備が進んでいる今日においてはもはや そのような理屈は説得力を持たないのではないか、 という意見もある。(とはいえ、もし一つのサーバが 一時にそれはそれはすごい量のメイルを受けとったとしたら、 おそらくそのサーバは正常に機能しないであろうが)

さらに、ぼくの友人が(ぼく同様に)SF好きだったとして、 「じゃあ、もし近い将来、技術がさらに進んで、 いくら大量のメイルを送ってもトラフィックやサーバに 支障が生じたりすることがなくなったとしたら、 チェイン・レターを送ることはいけないことでは なくなるのか」と聞いてきたら、 ぼくはそのとおりだと答えればいいのだろうか。

いったい、チェイン・レターがいけない理由は 単に技術上の制約から来るものに過ぎないのであろうか。 もしそうだとすると、その制約が克服された暁には、 晴れてみな胸を張ってチェイン・レターを出すことが 許されるようになるのだろうか。

いや、そうではなくて、 チェイン・レターを人に転送してはいけない理由が、 --しかも「情報と倫理」のレポートに関連するような理由が、-- 何か存在するのではないだろうか?


ずいぶんと前置きが長くなってしまったが、 以上のようなことを考えた末に、 ぼくは「情報を転送する際の条件とは何か」という問いを検討することによって チェイン・レターが不正である根拠を考えてみよう と思い立ったのである。

それではまず、主としてリチャード・メイソンによる 情報処理活動information handling activitiesの諸側面と そのそれぞれの側面における倫理問題の分類 5を紹介しつつ、 情報を扱う上でどのような問題が生じうるかを考察し、 そのあとでもう一度チェイン・レターの問題に戻ってくることにしよう。


1. 情報処理活動の分類

まずメイソンの、情報と情報主体と情報処理の定義を見ておこう(p. 679)。

情報information
記号的手段symbolic means。 それにより一つの精神が別の精神に影響を与える。

情報主体information agent
意図的な行為ができて、また情報活動を行なうことのできる当事者。

情報処理information handling
情報を獲得したり、加工したり、蓄積したり、 流布したり、使用したり、 また受けとったときに共生(=抱えて生きること)したりすること。

これは授業でも言われたことであるが、 情報という言葉はとかく定義しにくいもので、 「情報」をどう定義するかは、 いわゆる「これだけで一本論文が書けてしまう問題」である。

そこで今回のレポートでは情報の定義に関しては あまり深入りしないことにするが、 今後の議論に関わりがあるかぎりで少しだけ寄り道しておく。

メイソンの定義をOED(第2版)の定義と比較してみると、 メイソンは「情報」をかなり広い意味で定義していることがわかる。 OEDの定義はこうである。

情報
3. a. ある特定の事実や事柄や出来事に関して伝達される知識knowledge。 人が知らされたり、教えられたりするもの。諜報intelligence、知らせnews。 特に、データdataと対比される6

OEDの定義では、情報とデータは別のものとして取り扱うのが普通であるように 読めるが、メイソンの定義はごくおおざっぱに言うと、 「情報とは意思伝達のための記号である」ということであり、 情報はデータをも含むような広い意味を持たされている。 それゆえメイソンが「情報処理活動」と言う場合には、 一般には「データを集める」と言われるような行動も 含まれることになるわけである。

しかし、メイソンはそのように「情報」を広い意味で扱う一方で、 「情報は抽象的な記号symbolから成り立っている。 技術はこれらの記号を操作し、蓄積し、 移動させるための機械や方法や技能から成り立っている」(p. 679) という説明からもわかるように、 「情報」を「情報を加工し伝送する技術」からはっきりと区別してもいる。

察するに、彼が情報と情報を伝達する技術をそのように峻別するのは、 この論文(正確には事典の項目だが…)が、 ある特定の情報を伝達する技術 (たとえば書籍やテレビやインターネットなどのメディア) に生じるそのメディア特有の問題を扱うのではなく、 より一般的な--どの技術を持ちいるにせよ、 情報を取り扱う限り生じてくるような--問題を扱うことを明確にするためであろう。

さて、上述の定義でメイソンは情報処理活動を大きく六つに分類した。 すなわち、

  1. 情報の獲得
  2. 情報の加工
  3. 情報の蓄積
  4. 情報の流布
  5. 情報の使用
  6. 情報との共生
である。そこで次にこれらの情報処理活動に関する彼の説明を検討する。

2. 情報処理活動の六つの側面

a. 情報の獲得

まず、何はともあれ、情報が収集されねば情報処理活動は始まらない。 そこで、情報処理活動の最初の段階は情報の獲得acquiring informationだと言える。

メイソンによると、情報主体はこの段階で二つの重大な道徳的な問いに直面する。 すなわち
(1)「この情報は収集されるべきか?」と、
(2)「収集されるべきならば、どのような手段で収集すべきか?」
という問いである(p. 680)。

たとえば、(1)は、ある個人のプライバシーに関わる情報を得ようとすべきかどうか、 という問いであり、(2)は、仮にその情報を獲得すべきだと考えられる場合、 その人の了解を受けてから情報を得るべきなのかどうか、 という問いである(インフォームド・コンセントの問題)。


b. 情報の加工

情報が獲得されたら、次に、情報は手を加えられmanipulate、比較され、 そこから結論が引きだされる。メイソンはこの段階を情報の加工 processing informationと呼ぶ(p. 680)。データという言葉を使って良いならば、 「データ処理」と言った方がピンとくるかもしれない。

一つ一つの情報は何でもないようなものでも、それらをまとめてパターン分析を 行うと、非常に重要な情報になりうる例としては、 CIAなどの諜報機関の活動(よくは知らないが…)や 刑事の聞き込みなどが考えられよう。

そこで、当然ここで生じる道徳的な問いは、 「この情報に対して、この分析や比較や解釈が行なわれるべきかどうか」 というものである。


c. 情報の蓄積

獲得され、加工された情報は直ちに消費consumeされるか、あるいは蓄積されうる。 この段階の情報処理活動が情報の蓄積storing information と呼ばれる(p. 680)。

ただし、ここでメイソンの言う「消費する」とは、 「(情報を)使用する」という意味ではなく、 たとえばシュレッダーなどを用いて、情報を破棄destroyしてしまうことである。 それに対して「蓄積する」とは、今後の使用や検索のために、 情報を保存preserveしておくことである。

ぼくなどはもったいながり屋なので、 一般に「何かを捨てる」という行為は「捨てないで取っておく」という行為に 比べて道徳的に劣っている、と思っている。 だから情報の場合でも、--まだ役立ちそうであればもちろん、 たとえ今後役立つときが来るようには思えないときでも--捨てるよりは 取っておいた方がよい、とこれまでよく考えもせずに思い込んでいた。 (捨てると「もったいないお化け」が出てくる)

けれども、メイソンの言うように、とくに情報の場合は 「捨てるべきか捨てざるべきか」ということが大きな倫理問題に なりうる。というのも、情報を破棄せずに蓄積するという行為は、 その情報を後々使用する可能性があることを含意しているわけであり、 ある状況で集められた情報やある目的のために集められた情報を 別の状況や目的で使用してよいかどうかは、 十分に検討すべき事柄だからである。

そこで、情報の蓄積という段階で生じる道徳的な問いは、 「この情報は保存されるべきか破棄されるべきか?またどのぐらいの間 (保存されるべきか)またはいつ(破棄されるべきか)?」というものである。


d. 情報の流布

情報の流布disseminating informationとは、 情報を広めること、情報を流すことである7。 メイソンに言わせると、「止まっている情報inert informationは、 大抵の場合、潜在的な倫理的価値しか持たない。だが、 流れ始めると、その情報は有益あるいは有害な価値を放つ」(p. 680)。 またメイソンは、情報の流布に関する問題として、 表現の自由(これは情報の流通は有益という信念に基くとされる)や 検閲(これは情報の流通は有害という信念に基くとされる)などを挙げている。

そこでここで生じる道徳的な問いは、 「この情報の流通は限定され、せき止められるべきであろうか? それともこの情報は流れるままにすべきだろうか。もしそうであれば、 誰に、いつ、どのような条件で(流すべきなのか)?」というものである。


e. 情報の使用

メイソンによると、情報の流布と情報の使用 using informationとは微妙な違いがある。すなわち、情報の流布とは 情報を公開し広めることで、また広められた情報そのものによって どのような利益と害悪が生まれるかが問題になっているのに対し、 情報の使用とは情報を通じてある行動を起こすことで、そこで問題に なっているのは情報そのものではなくてそれを用いた行動である。(p. 681)

上の説明では少しわかりにくいかもしれないが、要するに、メイソンが言いたいのは、 情報の流布に関する道徳的な問いが
「今、ある情報が流れようとしているのだが、わたしはこの流れをせき止めるべきか、 あるいはそのまま流すべきか」
というもの(つまり、情報に関してどう行為するか)であるのに対して、 情報の使用に関する道徳的な問いは、
「今、わたしはある情報を持っているのだが、わたしはこの情報を使うべきか、 無視するべきか。もし使うのならば、どのように使うべきか。 それをどう扱えばよいのか。どうしたらそれと共生できるのか」
というもの(つまり、情報を通じてどう行為するか)である。


f. 情報との共生

メイソンによると、もっとも深刻な倫理的問題のいくつかは 「情報を積極的に使用することによって生じるのではなく、 それを使わずにいることや、 その知識と共生しなくてはいけないことによって生じるのである」(p. 681)。 これが情報との共生living with informationである。

メイソンの挙げている例によると、不治の病にかかっていることを知った患者や 患者の家族や担当医は、 その情報を直接に「使用」して(たとえば)治療を行なうことはできないので、 その事実と共生し、事実を現実として受けいれなければならない。


以上がメイソンによる情報処理活動の6つの分類だが、 今回のチェイン・レターの問題と大きく関わるのは d.の「情報の流布」であろう。 また、そこでの道徳的な問いは
「この情報の流通は限定され、せき止められるべきであろうか? それともこの情報は流れるままにすべきだろうか。もしそうであれば、 誰に、いつ、どのような条件で(流すべきなのか)?」
というものであった。

すると一体、ぼくの友人はどのような条件がそろえば チェイン・レターを転送すべきだ(あるいはすべきでない)と言えるのか。 あいにくメイソンは情報を流布する際の特定の諸条件にまでは立ち行って 述べてくれていないのだが、彼の言も参考にしつつ、 この点についてもう少し詳しく考えてみよう。


3. 情報を流布する際の条件

功利主義の立場からすると、 自分がある情報を持っていて、それを他の人に流す場合、 気を付けなくてはいけないのは、その情報を流すことによって だれにとってどのように有益・有害となるかである。

そこで試みに、メイソンの言う情報主体を「ある情報に対してどのような 関係を持つか」によって分類してみよう。

さて、チェイン・レターを受けとった友人は、 当該の情報に関する情報受信者であり、情報所有者である。 また、そのメイルの内容が自分に関するものでないのであれば、 友人は情報指示者ではないし、 さらに自分がその情報を作ったわけでもないので 情報作成者でもない。

もし友人がそのメイルを他の人に送るのであれば、 友人は情報送信者となり、その際に内容に手を加えれば、 情報加工者にもなる。 (加工を加えずに送信するのであれば、 その友人は「情報転送者information forwarder」と呼べる)

すると、この友人が当の情報を転送した場合、 以上の情報主体の分類のどれに対して、 どのような利益と害悪が生じうるだろうか。


まず、当の情報がデマだとしたらどうだろうか。


では、当の情報がデマでないとしたらどうだろうか。

この場合は、情報がデマである場合よりも害悪は少ないように 思われるが、とはいえやはり利益ばかりではなく、 いくつかの害悪も生じうる。


そこで情報を流布する際の条件についてのぼくの考えを述べよう。

情報がデマである場合は、その情報を転送することはほとんど 「百害あって一利なし」なのだから、チェイン・レターを受けとった 友人はその情報がデマでないかどうかをくれぐれもよく調べてから 人に転送する必要がある。 言い換えれば、情報送信者は情報を送る前に、 情報の精度accuracyや信頼度reliabilityを確認しなくてはならない。 したがって、今回、もしぼくの友人がその作業を行わなかったのであれば、 その点に関して友人は非難に値する(かもしれない)。 (ちなみに、当の情報がデマかどうかを調べるには、 セキュリティ関係のホームページで確認するか3、 あるいは自分の使っているメイルサーバの管理者に聞くのが良いとされているようだ)

さて、もし友人が当の情報の精度や信頼度を確認したうえで、 その情報がデマではないと判断したのであれば、次に、 その情報を転送することによる利益が害悪を 上回るかどうかを考えなくてはならない

そしてもし友人がその情報を送ることは全体的に見て有益だと判断したのであれば、 --その判断は十中八九正しくないであろうが、 ひょっとすると正しいこともありうるかもしれない--、 ぼくとしては友人の行動を非難する理由は特にないように思われる。 ただしその場合でも、別のメディアを使った方が効率的だ、 ぐらいは言えるかもしれないが。


おわりに

以上、メイソンの情報処理活動の紹介も兼ねて 「チェイン・レターを転送することは不正かどうか」について 考えてきた。 結論は、--いかにも功利主義者らしく--、 「基本的には不正だが、状況によっては不正でない場合もありうる」 というものである。

しかし、よくよく考えてみれば、 チェイン・レターによって情報を回した場合の情報の精度・信頼度は、 --皮肉なことにインターネットという最新のメディアを使いながらも-- ほとんど伝言ゲーム並のものでしかなく、 おそらく回覧板にも劣るであろうことがわかる。 そこで、このような手段を用いて有益な情報を伝達をしようとすることは 基本的に誤りであることを強調してレポートを終わることにしたい。


  1. WWWで調べたところ、どうやらチェイン・メイルは和製英語のようである。 和製英語だからだめというわけではないが、 チェイン・メイルには「鎖かたびらchain mail」という意味がすでにあり、 サーチ・エンジンで「チェイン・メイル」を検索した場合に RPG関係のサイトが山のように検索されてしまって困るので、 チェイン・レターという名称を用いることを提案したい。
  2. CIAC(Computer Incident Advisory Capability)のページ に引用されている Webster's II, New Riverside University Dictionary, 1984. の定義を訳出。
  3. たとえば英語では注2のホームページ、日本語では 情報処理振興事業協会(IPA)のページを参照。
  4. この比喩は適当でなく、むしろチェイン・レターを転送するのは、 「みんな一斉に自動車に乗ろう」と煽動するのに加担しているようなものだ、 という指摘を受けた。この指摘は正しいように思われる。
  5. Richard O. Mason, 'Information Management', Encyclopedia of Applied Ethics, Volume 2, Academic Press, 1998, pp. 679-685.
  6. OEDに挙がっていた例には次のようなものがあった。
    1970 O. Dopping Computers & Data Processing i. 14
    In administrative data processing, a distinction is sometimes made between data and information by calling raw facts in great quantity 'data', and using the word 'information' for highly concentrated and improved data derived from the raw facts.

    要するに、大量の未加工の事実が「データ」、未加工の事実から得られる 高く濃縮され改良されたデータが「情報」ということである。

    さらにOEDのdatum/dataの定義と例は以下のようなものである。

    d. pl. The quantities, characters, or symbols on which operations are performed by computers and other automatic equipment, and which may be stored or transmitted in the form of electrical signals, records on magnetic tape or punched cards, etc.

    1970 A. CHANDOR et al. Dict. Computers p. 99
    Data is sometimes contrasted with information, which is said to result from the processing of data.

    つまり、データが加工されると情報になるわけである。 これも上のと同様に情報とデータの区別に「加工基準」が用いられている。

    ついでに、knowledgeの定義も記しておこう。

    11. In general sense: The fact or condition of being instructed, or of having information acquired by study or research; acquaintance with ascertained truths, facts, or principles; information acquired by study; learning; erudition.

    つまり、知識とは「研究によって得られた情報」であり、 ここでは情報と知識の区別に「研究基準」あるいは「努力基準」 とでも言えるものが用いられている。

    ちなみに、Simon Rogerson, Computer Ethics, Encyclopedia of Applied Ethics, Volume 2, Academic Press, 1998, pp. 565-566.では、情報とデータは「受け手に対する価値」という 基準で区別されている。

    情報は受け手にとって価値のあるメッセージを伝達することに関わっている。 だから情報は明確でclear、手短かでconcise、時宜を得ていてtimely、 関係がありrelevant、正確でaccurate、また完全completeでなくては ならない。受け手にとってまったく価値のないメッセージは単にデータと 呼ばれる。

    すると、あるメッセージが情報かデータのいずれなのかを判断するには、 そのメッセージが受け手に対して価値があるのかないのかを 知らなければならない、ということになる。
    また、あるメッセージはある受け手にとっては価値があるので「情報」 であり、別の受け手にとっては価値がないので「データ」である、という ようなやっかいなことにもなる。
    したがって、この基準にしたがう区別よりは、ロジャーソンの言う 「メッセージ」そのものを「情報」(もしくは「データ」)と呼んだ方が 簡潔で便利だと思われる。

  7. 'disseminate'は元々「種を散く」という意味で、英和辞書には 「散布する、流布する」などの訳語が載っているが、国語辞典や 漢和辞典を調べる限り、「情報が流布する」とは言えるが、人を 主語にして「わたしがこの情報を流布した」という言い方はできない ようである。だが、disseminateという言葉は後者のように用いられるので、 disseminateを「流布する」と訳すのはあまり適切でないように思われる。 しかし、他に適当な二字熟語が見当たらなかったので、とりあえず このままにしておく。

KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Feb 17 07:59:13 JST 1998