知的に謙虚であるために、平明で勿体ぶることのない言葉で語ることが大切であり、 特にすべての知識人の義務になると言う。 ところが、ポッパーの認めるように、 この点が多くの知識人によって忘れ去られている点なのだ。 単純なことを複雑に、瑣末なことを重々しく表現するというこのひどい遊びは、 伝統的に多くの社会学者や哲学者などによって、 自分たちの正当な仕事であるとみなされている、というのだ。
「知識人には、学問をする特権と機会が与えられているのですから、 仲間(社会)に対して自分の研究成果を、 もっと簡潔でもっと明瞭に、 かつもっと謙虚な形で説明する責任があります。」---矢島杜夫、『ミル『自由論』の形成』、
御茶の水書房、2001年、486頁諸君は永久に生きられるかのように生きている。 諸君の弱さが諸君の念頭に浮ぶことは決してない。 すでにどれほどの時間が過ぎ去っているかに諸君は注意しない。 充ち溢れる湯水でも使うように諸君は時間を浪費している。 ところがその間に、諸君が誰かか何かに与えている一日は、 諸君の最後の日になるかもしれないのだ。 諸君は今にも死ぬかのようにすべてを恐怖するが、 いつまでも死なないかのようにすべてを熱望する。
多忙な人間には何ごとも十分に成し遂げることは不可能である。 弁論の勉強にしても学問の教えにしてもそうであるが、 心が雑事に追われていると何ごとをも深くは受け入れられず、すべてのものを、 いわば無理に詰め込まれたもののように吐き出してしまうからである。 実際多忙な人にかぎって、生きること、すなわち良く生きることが最も 稀である。
---セネカ、『人生の短さについて 他二篇』
茂手木元蔵訳、岩波文庫、1980年、15頁、22頁「論文は、水虫や痔などのタチの悪い病気と似ていて、 なかなか人に見せにくい。 だから、〆切ギリギリに人に見せに行くと、たいていの場合、 『なんでこんなになるまで相談にこなかったのか』とか、 『残念ながらすでに手遅れです』とか、 『残念ながらすでにお亡くなりになってます』 とかいうことになります。 早期に発見していれば簡単に治療できていた誤りも、 〆切まぎわまでほっておくと論文のいたるところに広がっているために、 とりかえしのつかないことになっていることがしばしばです。 そこで肝心なのは、 たとえ恥ずかしくても早目早目に人に見てもらうことだと言えます」
---『リンリー教授講演集』より
他人の意見に対してれわれが提出する異論に彼の耳を傾けさせるには、 「前には私も同じ意見をもっていたのだが……」 という言い方ほど適切なものはない。
---ショーペンハウエル、『知性について 他四篇』
細谷貞雄訳、岩波文庫、1961年、28頁「原発の金は確かに麻薬のようなものかも知れない。 しかし、今を生き延びないと将来を語れない。 そのために原発が必要だ」
---藤村達司、三重県海山町の原発推進団体
「豊かな海山をつくる会」委員長
朝日新聞朝刊、09/Nov/2001
ちょっとウトウトしていたら、日付が変わってしまった (ついでに月も変わってしまった)。勉強勉強。
う〜、まいったなあ。 さっさと先々週のGuardian Weeklyを読んでしまわないと、たまってしまう。
そういえば、朝日新聞の昨日の広告を見ると、 慶應組が作ったビジネスエシックスの翻訳が先に出版されるようだ。 某名誉教授、どうするつもりなんだろうか。
翻訳。今夜はけっこう筆の進み具合が良いが、 明日朝から古本市に行き、ついでに本棚も二三竿買うことになったので、 そろそろ寝よう。
goodsって訳しにくい。 「財」って落ちつかないし、 「よい物」とするわけにもいかないし、 グッズというのも変だし。 まあ、何にでも使えるあいまいな言葉だからstuffとかthingsと同様に「事物」「もの」 程度に訳してしまえばいいのか。
朝起きて、某君と一緒に古本市へ。少しだけ本を買う。締めて千円。 某君にも遭遇する。
それから本棚を買うために某元セブンに行くが、 売っているスチール棚は今ひとつか、ということになり、 運送費も一品1000円だというので、見送ることになった。
ついでに某ルネにも寄り、少し本を買う。
下宿に戻ったあと、ツナカレーを食べる。作るのは若干めんどくさいが、 一度作ると3食ぐらい食べられるので楽だ。
そういえば、国民年金を二ヶ月分払った。来月も二ヶ月分払う予定。 電話代も早々に払おう。
う〜ん、Windows 98だとメモリ管理がうまくいっていないようで、 せっかくメモリを倍増したのにあいかわらずたくさんのアプリケーションを 開いてしばらくするとメモリ不足だと言われる。
というわけでVectorでメモリ管理用のフリーソフトを探してみた。 どうも定番がないようなのでいろいろ試したところ、 Memory Recoveryとめもりくりーなー Lightが使えそうだ。 あんまりタスクトレイに常駐させたくないが、 めもりくりーなーの方が初心者には使いやすそうだから、 こっちからしばらく試してみる。
3時間ほど寝てしまう。 新聞に目を通したら勉強せねば。
カレー食べる。明日は早起きしてYシャツをクリーニングに出す必要あり。 散髪する必要あり。ネクタイを買う必要あり。熨斗袋買う必要あり。
ついテレビでやっていた『羊たちの沈黙』を途中から観てしまう。
日付が変わる前に河原に行き、すこしギターの練習。 くもっているが満月だったようだ。
戻ってきたあと、某君の助言を受けながら、保険料控除の書類を作成。 しばらく今後の研究計画について相談したり。 「こだまさんは安定指向だ」と指摘される。 就職願望強いからなあ。 いや、できればもう一年ぐらい留学したいけど。
翻訳翻訳。
あ〜、だめだ。翻訳してるが眠くて調子が出ない。
いろいろお金使てしまた。
クリーニング。古本。散髪。郵便。ハモニカ。ネクタイ、シャツ。熨斗袋。食料品。 カバン。
大学に行くときに古本市に立ち寄った。 14冊700円。 帰りもすこし覗いたが何も買わず。
育英会は、学振の特別研究員が免除職に当たるので、 さっさと免除職届を出さないといけないようだ。
大学のそばの某床屋で散髪してもらう。 ついでに顔も剃ってもらう。 鼻がなくなってすっきりした(ウソ)。
それから応用倫理学の授業に出る。 ウェブのアクセシビリティ(利用可能性)の話。 見やすいページや、どんなブラウザでも見れるページが一般に望ましいのは わかるが、問題はそれを強制すべきなのか、という点だと思う。
たとえば、個人的には2ch語(ドキュソとか)のようなジャーゴンは わかりにくいし日本語的にもやめてほしいと思うが(視覚障害者、 聴覚障害者が理解しにくいという点でも望ましくないだろう)、 しかしそういう言葉を好きで使っている個人に対してどのように 説得(あるいは強制)すべきかを考える必要がある。 もちろん、政府のウェブサイトなどは(ウェブを使える人なら) 誰でも見れるように極力努力すべきだとかなり説得的に論じることができると思うが。
そのあと某所で店のおばさんの指導を受けて、 ネクタイやらシャツやらを選ぶ。 えり回りは37-8cm、 ゆきは82cmとのこと。要暗記。 熨斗袋も店員さんの指導を受けて選ぶ。 カバンもないとみっともないかと思い、 某所に行き「ビジカジ」(ビジネスカジュアルの略らしい)のカバンを買う。
そんなこんなでお金を浪費してしまう。緊縮財政中なのに。
お好み焼きエビ玉を作ってみる。そこそこ。
今日の天声人語に引用され ている漱石の 「或る香をかぐと或る過去の時代を憶起(おもひおこ)して広々と眼前に浮んで来る。 朋友に此事を話すと皆笑ってそんな事があるものかと云ふ」という言葉。 おれもときどきこういう経験をするが、最近はどちらかというと、 写真などで懐しい風景を見ると匂いが蘇えってくる方が多いかもしれない。 音楽で風景が蘇える場合もある。連想心理学。
昨夜、某友人が大阪から車で泊まりにくる。スタジオに行ったが、 かなり悲惨であることが判明。やばい。 明日朝から河原で練習する予定。
昨日も勉強できなかった。
朝起きる。雨が降っていたが、橋の下でギターと歌の練習。 たいへんなことになりそうだ。
これから結婚式。雨で気の毒。
神戸で開かれた友人の結婚式に行ってきた。 披露宴ではギターを弾き、 二次会では古今東西というゲームと腕相撲大会に参加させられた (そして驚くべきことに腕相撲で一勝した)。
つかれた。 しかし、神戸まで自動車で送ってくれて、 しかも京都まで一緒に帰ってきてくれた(今となりで寝ている)某友人は もっとつかれているはず。ひたすら感謝。
それと、新郎さん新婦さん、お幸せに。
某友人に感謝の意を示すため、 帰りの車の中で聴ける用のCDを、朝までかかって作る。もう寝よう。
早朝からさっきまで爆睡する。かなりつかれていたようだ。 腕相撲のせいで右腕も痛い。某友人は早朝に帰ったようだ。
そういえば、昨夜の二次会で古今東西というゲームをやったとき、 「古今東西、世界の国々」というやつで、「アフリカ」と答える人がいたり、 「古今東西、アメリカ合衆国の州」で、 「ロサンジェルス」と答える人がいたりしたが、 これはカテゴリーミステイクの例として興味深いと思う。
(ちなみに、ライルが挙げているカテゴリーミステイクの例は 「オクスフォードでコレッジや食堂や図書館を 見てまわりましたが、大学はどこにあるのですか」「クリケットで道具や 選手やルールについて教えてもらいましたが、チームスピリットというのは どれを指すのですか」とか。あと軍隊の例もあったが忘れた)
夕方、終わるまぎわの古本市にちょっと顔を出したあと、 買物をして下宿に戻る。
英国に行く前にダンボールにまとめた荷物の発掘作業をする。 哲学書など段ボール五箱分発見。ハヤカワSFなど小説類は回収を断念。 また、CDが一箱分発見される。 「こんなの買ってたのか」というCDが多数出土したが、その一方で、 ストーンズの『メインストリートのならず者』などの重要なCDが見つからず。 まだ発掘作業を続ける必要あり。
あ、オースティンパワーズ3が現在撮影中で、英国では来年に放映されるらしい。
昨夜は本をダンボール箱から出して片付けていたら終わってしまった。 夕方はうどん、夜中は海親子丼。夜食はおにぎり二つの予定。
来週には英国から送った本も来るため、 本棚がないとどうにも立ち行かないので、三竿ほど購入することに決めた。 科研費で買っても大丈夫だろうか。
ところで、 炭疽菌によって世界中に起きたパニックは、ベンタムが『序説』で説明している 「有害な行為の帰結」のうち、「警戒alarm」という二次的な害悪にあたる。 一次的な害悪というのは犯罪によって直接被害を受ける個人やその家族、 またその事件を新聞で読んで心を痛める人々が受ける苦痛のこと。
二次的な害悪というのは、 その事件を知った不特定多数の人々に同様な事件が起こりうることから生じる 苦痛のことで、人々が「自分にも同じことが起きるんじゃないか」と心配する ことから生じる苦痛が「警戒の害悪」で、そういう信念とは無関係に、 たとえば模倣犯罪が起きるなどによって現実に苦痛が生じうる という害悪は「危険dangerの害悪」と呼ばれる。
炭疽菌の例に当てはめて考えると、 炭疽菌を送りつけられて病気になったり死んだりした人々や家族、 そしてそのニュースを聴いて心を痛めた人が受けた苦痛が一時的害悪で、 世界中に起きたパニックによって多くの人が警戒あるいは心配することから 生じる苦痛と、 模倣犯やいたずら犯を生みだしたり、 これに引き続きさらなる犯罪が生じうることによる危険が、 二次的害悪と考えられる。
当然ながら、功利主義者ベンタムは、犯罪に対する刑罰を考える場合、 一時的害悪だけでなく二次的害悪をも考慮する必要があると考えていた。 特に重要なのは、彼は、犯意があるかないかによって刑罰の重さが変わるのも、 この区別によって説明しようとしていることである。 すなわち、犯罪を意図的に犯したわけではないことが明白ならば、 (模倣犯が生みだす二次的害悪の可能性はあるものの)その犯罪によって 引き起こされる警戒や危険はないに等しいから、 加害者は被害者に民事的に補償する必要はあっても、 刑罰を受ける必要はないということになる。
あれ、おれなんでこんな話してるんだ? ああ、炭疽菌テロについての記事にあった 「引き起こされた恐怖は物理的損害よりもはるかに大きい」 (The Washington Post, Oct 17, quoted in The Editor (The Guardian supplement), Oct 20, 2000) という一節で、ベンタムのこの区別を思い出したんだった。 さらに続けて訳すと「しかし、 誰がやったのか、あるいは次はどこが狙われるのかを誰も知らないというまさに その理由から、みなが不安がっている。 この不安がさらに大量の根拠のない警戒心を生み、 また抗生物質をパニック買いを生み出すのだ」。 ベンタムに言わせればこれらはすべて犯罪の二次的害悪ということになる。 また、警戒の害悪を適正レベルに保つのは主にメディアの役割で(注)、 危険の害悪を最小限に抑えるのは主に警察の役割だと言える。
(注: 「60%以上の米国人がテロによって死ぬか怪我をするのではないかと心配している。 これは、ある個人がテロに巻き込まれる確率についての、 馬鹿馬鹿しいくらいに悲観的な見方である」(The Sunday Telegraph, Oct 14, quoted in The Editor (The Guardian supplement), Oct 20, 2000))
一次的・二次的害悪の区別はわかりにくいが、このように説明するとまあ そこそこうまくいってるように思える。
上のEditorに引用されている、ある米国諜報員の発言。 「ビンラディンを取り除くことで、問題が解決するわけではない。 テロを防ぐために彼を追いまわすのは、 KFCを攻撃するためにカーネルサンダースを追いまわすようなものだ」
昨夜は『エヴィータ』を観ながらCD-Rを焼き、朝になってから寝た。 CD-Rを焼いていたのは、Windows2000に再び移行する準備。 PackedCDが読めないので、普通になんとか9600という形式で焼き直している。
お昼すぎに目覚めて、ふたたびCD-Rを焼きはじめたが、 一部うまくいかないので手間取ってしまう。 今夜またWindows 2000をインストールする予定。 98はどうも不安定なので。
アルゼンチンのペロン大統領の奥さんのエヴィータを扱ったミュージカルを 映画化したもので、マドンナ主演。 歌は良いし、内容も感動ものなのだが、 片手間に観ていたせいかあまり感動しなかった。 ちょっと後半の展開具合に問題があるのかもしれない。 あるいはマドンナの演技力か。 いつかミュージカルを見る機会があったら見てみたい。 C+。
あ、やっと復活した。
昨夜、某元セブンで購入したスチール本棚を作成しながら、 Windows 2000の再インストールを始め、 えんえん朝までかかって設定を整えた。 しかし、meadowが立ち上がらないことに気付き、 cygwinから入れ直しているあいだに眠りはじめてしまう。
起きると第二演習が始まる時間なので、急いで授業へ。 ヘアの話を聞く。
夜、買物をしてから下宿に戻り、 それからddskkなども入れ、ようやく復活する。 なんか先月からこんなことばかりやってるな。
あ、関倫から論文掲載決定の知らせが来ていた。めでたい。
あれ、コタツでうとうととしているとまた一日が終わってしまった。 う〜ん、人生を無駄づかいしている。 セネカ先生に怒られないように勉強しよう。
『倫理学研究』に掲載予定の論文を見直していると、 繰り返しが多いし、文章も拙い。もっとわかりやすく、 おもしろく書けるはず。がんばれ。 って、こないだの9月末に書いたばかりだが。
そういえば、 学振の方もめでたく採用が内定したので、 今年の春ごろに書いた応募書類をウェブに上げておく。 参考にするなり、こきおろすなりしてください。
宮崎哲弥編著の『人権を疑え!』(洋泉社、2000年)を読んでいる。 この新書はおれが批判する人権思想を批判しているので喜ばしいかぎりなのだが、 内容的に怪しいものが多く、ときどき破りたくなる。
たとえば、某佐伯氏による「法哲学者のドゥオーキンは、 社会契約論の考えを使って基本的権利を導き出そうとする。 かれは財産権の絶対性を導き、市民的自由の哲学的な基礎を与えようとする」 という記述(28頁)。 ドゥオーキンが財産権の絶対性を説いたという話は聞いたことがない。 ノージックと混同しているのではないか。 (ドゥオーキンの権利論は平等な尊重と配慮を受ける権利を基礎にしており、 そこから派生する権利に関しては、絶対性を認めていないはず)
さらに、宮崎某と呉某は、 両方とも人権を自然や人間本性によって基礎づけることを嘲笑 (「本質主義的誤謬」70頁)し、 人権というのはローカルな人為的取り決めに過ぎないと論じているにもかかわらず、 その一方で、「人間らしい暮らしをしたい」という「人類共通の本性」 から自然法が導き出せるかもしれない(92頁)とか、 「人間が誰でも本来持っている復讐権を国家権力は何故奪ったのか」(119頁) などと、明らかに矛盾する発言をしている。 片岡某も、法の裏付けのあるものだけが本物の権利だとして人権(自然権)を 否定しながらも、「反乱を起こす権利を留保したい」と述べている(190頁)。 なんなんだいったい。
キムチと納豆でご飯を食べる。
Windows 2000の方がメモリの管理がずいぶんいいようだ。
をビデオで観る。ちょっと古いダンスあり、 香港ばりのカンフーあり、裏切りと改心ありの一大叙事詩。 豪傑のヒーロー、美人のヒロインで見せる。 まあたまにはこういう映画もよい。B-。
つかれた。寝よう。
ASEANプラス3(日中韓)による東アジア共同体はありえるんだろうか。 おもしろい話だ。
昼下がりに起きる。
キムチ雑炊を作ってみる。なかなかいける。
クリーニング屋に預けておいたスーツを取りに行ったあと、 河原ですこしギターの練習。
そういえば、ベルギーでも安楽死法が通過したようだ。
昨夜はThe Guardian Weeklyを読んでいるとあっという間に 一日が終わってしまう。
そばを食べる必要があったので、キムチを使ってキムチそばを作る。 そこそこ。
「最近あまりに勉強していないので、頭がパーになりつつある気がします」
「まあいいんちゃうの、たまには」
「いや、アルジャーノンみたいに不可逆的だと困るんですけど」
「君は忙しくしてへんと良心の苛責を感じるワーカホリックなんやねんな。ほんまに。 ヒマなんやったらそれをありがとう思て、 美術館に行くなり小説を読むなりしたらええやんか」
「いや、読むべき本はたくさんあるんですよ。 買ったままつんどく状態になってる本やら、まだ読んでない必読文献やら」
「そういう義務感を持つからよけいに読めへんわけでさ。 まあそういうことは忘れて、小説二、三冊抱えて温泉にでも行ってきたら。 ヒマなのは恵まれてるんやから」
「いや、やっぱり勉強しないと」
「あかん、君は話にならんわ。どうせ締切がないと勉強せえへんくせに、 強迫観念的に勉強せんとあかんと思ってんねんから」
わ、半日寝てたっ。
夕方、某学相に行き、実哲研合評会用の部屋を予約し、 ちょっと研究室へ。
夜、某君の発表原稿の草稿を読ませてもらう。
うどん食べる。
Robbie Williamsが歌っている`She's the One'という曲は、 もともとWorld Partyというバンドの曲らしい。
ニーチェ研究者のRJ Hollingdaleが最近死んだそうだ。
また新聞を読んだりしていたら一日が終わってしまった。 いや、そう考えるべきでなく、 これからまだ6時間ほど勉強する時間があると考えるべきなのか。
チンゲンサイ炒めを作って食べる。味はぜんぜんだめ。 中華料理の道は険しい。 お茶漬も含め、一食で一合半食べてしまう。
ついテレビでやっていた映画を観てしまう。
60年代後半のスウィンギン・ロンドンの様子を、 ジョアンナという若き美術学校生の視点から描いた映画(1968年)。 フリーセックスを実践し退廃的な暮らしをしていた彼女は、 友人の死に直面してコミットメントの重要さに気付く。 人生の意味について説いた映画。C+。
しかし、この映画を観たらなんだか妙に落ち込んでしまった。 『黒いオルフェ』のような暗さがある。 気分が沈んでしまったので、 とりあえず整頓中の本棚にあったマルクス・アウレリウスの『自省録』 を手にして読んでみる。
すこし翻訳をする。調子上がらず。姿勢が悪いのかすぐ肩が痛くなる。
起きる。Amazon.co.jpからCDが届いていた。 ABBAのリマスターシリーズは一枚1410円と安い。
某ルネに寄って本を買ったあと、 生命倫理学読書会に出てきた。 トゥーリーの パーソン論について。 次回はおれが「イギリスの生命倫理事情」 という題目で発表することになった。 最近遅刻が続いているので、 今度こそは遅刻しないようにしなければ。
シーチキン、エビ入りお好み焼きを作る。うまい。 それだけでは腹がふくれなかったので、 さらにキムチ雑炊も作る。ちょっと食べすぎ。 ミカンも買った。 栄養のバランスには気をつけよう。
話すつもりはないの
今までの二人のことは
まだ心が痛むけれど
もう過去の話だから
切り札はすべて出したわ
それはあなたも同じこと
言うべきことはもう何もない
エースももう持ちあわせてない
勝者がみんな奪っていく
敗者は立ちつくすだけ
勝利の脇に小さくなって
それが彼女の運命なのね
あたしはあなたの腕に抱かれて
そこが自分の居場所と思ってた
当然のことと考えて
垣根を作り
家を立て
これで大丈夫と思ってた
だけどあたしがバカだった
ルールは守っていたけれど
神はサイコロをお投げになる
神の御心は氷のように無情
そしてこの世に暮らす誰かさんが
大切な人を失なうの
勝者がみんな奪っていく
敗者はただ倒れるのみ
単純で明白なこと
文句を言ってもはじまらない
だけど教えて彼女のキスは
あたしのキスと似てるのかしら
同じように感じるの
彼女に名前を呼ばれたら
心のどこか奥深くでは
あたしにはあなたが必要だって知ってるんでしょ
けどあたしにはどうしようもない
規則は守らなきゃならない
判事は判決を出さなきゃならない
あたしと同じ境遇の人は規則を守り
この見せ物の観客は
いつでもじっと見つめてる
ゲームがまた始まる
恋人でも友人でも
大きなものでも小さなものでも
勝者がみんな奪っていく
話すつもりはないの
あなたを悲しませるのなら
あたしはわかっているつもり
あたしと握手しに来たんでしょ
あやまるわごめんなさい
あなたに嫌な思いをさせたなら
あたしはこんなに張りつめていて
これっぽっちの自信もない
だけどおわかりの通り
勝者がみんな奪っていく
勝者がみんな奪っていくの
Sung by ABBA
「『グローバル』という言葉は、 『国際的』という言葉とどの程度意味が異なるんでしょうか。 もしほとんど変わらないとしたら、 せっかくベンタムが作った『国際的』 という言葉を廃れさせないように努力しなければならないと思うのですが」
「いや、国際的とか国際化というのは、 あくまで国と国との交流のことを指すんでしょう、一般には。 しかし、グローバライゼーションというのは、国を超えたというか、 国民国家の枠組を無視したような交流のあり方を指してるんじゃないんですか。 もっとこう、国境がなくなって一つの世界になってしまうというような、 そんな感じの」
「はあ、なるほど」
ちょっと河原にギターを弾きに行く。 今晩は先客がいて、 タンバリンをばしばし響かせながらキイキイ歌っている。 いや、けっして人のことは言えないが。
「♪グロ〜リアっ、GLORIAっ、グローリアっ」。ヴァン・モリソンいかす。
げ。某君と議論したりゆっくりしていたらもうこんな時間。 もうすぐ関倫に出るために大阪に出発しないと…。
猛烈な寝不足のまま、某阪南大学で開かれた関倫に出席してきた。 電車でゆられて約2時間。 午前中に発表を2本聞いた以外は、 『実践哲学研究』の販売作業をしたり、 発表会場で爆睡したりしていただけ。 明日はシンポジウムでもうすこし貢献するつもり。
懇親会は若手研究者がほとんど出席していなかったので寂しいかぎりだった。 この学会も過疎化が進み、 すでに老人人口が全体の約8割を占める高齢化学会と化して…、 いや、冗談冗談。 この日記を見ている研究者はちゃんと懇親会に出ましょう。 学生も容赦なくぼったくられますが(院生割引は認めるべきだと思う)、 一応唯一の社交の場なので。
明日も朝から行く予定。 会場はけっこう寒かったので明日は厚着していこう。
下宿に戻ったら今年春のUtilitasが届いていた。 今朝からの停電で落ちていたciceroも順調に復活している様子。