パーソン論

(ぱーそんろん the person theory)

「人格」という言葉を使うことは、 残念ながら誤解を生み易いところがある。 というのは、 「人格」はしばしば「人間」と同じことを意味しているかのように 使用されるからである。 しかしこれら二つは同じではない。 我々の種の構成員ではないような人格が存在しうるからである。 また、我々の種の構成員のうちには人格ではないようなものがいることもありうる。

---ピーター・シンガー


一般に、「人格とは何か?」という問いをめぐる議論のことを指す。 生命倫理学でこの問いが重要になるのは、 この問いの答え方次第で、胎児、 植物状態や脳死状態の患者などをどう取り扱うかが変わりうるからである。

たとえば、人格というのを「自己意識を持った存在」と定義づけるならば、 ある時期までの胎児や脳死状態の患者は人格とみなされないことになるだろう。 すると、これらの「人格を有しない者」に対しては 「人格を有する者」とは別の取り扱い方が許されることになる。


マイケル・トゥーリーのパーソン論

トゥーリーは、 `Personhood' (in A Companion to Bioethics, Helga Kuhse and Peter Singer ed., Oxford: Blackwell, 1998)で、 「人格を殺すことは不正である」という主張はみなが認めるとしたうえで、 次のような問いを提起している。

  1. どういう条件がそろえば、ある生物(または無生物)が「人格」 とみなされるのか。
  2. 人格があるかないかは、程度を認めるものなのか、 あるいは1か0かというものなのか。
  3. 潜在的(可能的)な人格(たとえば受精卵)を殺すことは不正か。

(1)の問いに対してトゥーリーは、 この論文では明確な答を述べておらず、 一般的な見解として1.自己意識を持っていること、2.合理的思考能力があること、 3.道徳的存在者であること、4.長期的な利害関心を持つ主体であること、 5.記憶を通じてある程度の連続性(自己同一性)を保っていること、 6.単純に意識を持っていること、 などがそれぞれ人格を持つために十分な条件として考えられていると言う。 だが、たとえば6.を人格の有無の基準にすると、 多くの動物が人格を持つことになると指摘している。

(2)については、トゥーリーは次のように述べている。 もし1.人格を殺すことの不正さが、 本人にとっての自分の生の価値と関係しており、 2.さらに本人にとっての自分の生の価値が、 (1)で述べられたような人格の条件となる特徴の程度によって異なるならば (たとえば、合理的思考能力の程度に応じて、 生の価値が増減するならば)、 人格があるかないかは程度の問題であることになる。 この議論を認めるならば、動物にもある程度人格を認めなければならないかも しれないし、また、通常の人間も小さな頃や老いた頃にはより少ない人格を 有するということになるかもしれない。

(3)に関しては、さらに受動的な潜在性と能動的な潜在性を分け、 能動的潜在性は人格と等しい扱いを受けるべきだと主張する人がいるが (たとえば、受精卵は能動的潜在性を持つが、まだ結合していない 卵と精子は受動的潜在性しか持たないという風に論じられる)、 トゥーリーはこのような区別は成り立たないとし、 直観的な例を用いてそもそも潜在的な人格は道徳的には重要でないとする。 (より詳しくは『実践哲学研究』に掲載されている 「ヒトのクローニングの道徳上の地位」を参照せよ)

また、トゥーリーは、 特定の生物種(たとえばヒト)に属しているすべての個体に人格を認めるという 議論も成り立たないとし、無脳児やアルツハイマー病の人を、 単に「人間だから」という理由で人格を認めることに反対する。

これらの考察から、 トゥーリーは人間の胚、胎児、新生児は人格を持たない (ので場合によっては殺すことが正当化される)か、 あるいは人格を認めるならば多くの動物に人格を認めなければならない と結論している。

09/Nov/2001追記


関連ウェブサイト


関連文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue May 14 11:11:38 JST 2013