4月下旬号 / 5月中旬号 / 最新号

こだまの世界

2001年5月上旬号

「大きくなったらピエロになるよ」とディルは言った。

ジェム兄さんとあたしは足を止めた。

「そう、ピエロさ。 人々に対してぼくがやれることと言ったら、笑うことぐらいだけだもの。 だからサーカス団に入って死ぬほど笑ってやるんだ」

「それじゃ逆だよ、ディル」とジェム兄さんは言った。 「ピエロは哀れで、笑うのは人々だろう」

「だったら新手のピエロになるさ。 舞台の真ん中に立って、みんなを笑ってやるんだ」

-- Harper Lee, To Kill a Mockingbird, ch. 22.


主な話題


01/May/2001 (Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中 (午前)

日記の整理

メイデー

さて、今日ロンドンは燃えるのか。

寝坊して朝食を見逃してしまう。

勉強勉強。

朝2

「死ね」についての考察

「え〜、今日のテーマは、こだまの日記に現われる『死ね』 という表現についてです。

「まず、この言葉がどこから伝播してきたかというのは、 こだま日記学における大きな問題の一つで、 最初の用例は98年3月上旬の、 『もう最悪。こんな******の議論に付き合ってられるかっ。アホボケカスッ。 し、死ね。死ね。死ね死ね死ね死ね死んでしまえっ。ききっ、消えてなくな れっ。一生で一度のお願いやっ。頼むから死んでくれっ』 というものだと思われます。

「この用例の特徴は、 (1)『死ね』をちょうど二度繰り返す『死ね死ね』 という印象的なフレーズがまだ明確には現われていないことと、 (2)『頼むから死んでくれ』という表現が使われていることです。

「後者の表現について先に述べると、 これはバンドの友人がよく使っていた表現に影響を受けているという 研究があります。

「前者の表現、『死ね死ね』というのがどこから伝わってきたかというのは、 (1)某師匠説と(2)筒井康隆説がありますが、 (1)については、比較日記学的な問題のほかに、 今後の検索技術の発展を待つ必要があるため、 今回は(2)の影響を強調したいと思います。

「わたしがとくに指摘したいのは、 こだまの日記にも引用されている筒井康隆の『腹立半分日記』の用例で、 『書きたいことを書いておきながら、文句を言われると「わし病気や。言わんと いてくれ」児玉誉士夫ではないか。まったくこの世代の人間は……。役人崩れ の糞じじい、死ね死ねと、約三十分わめき散らす』 (98年10月下旬)。 このような用例からこだまが大きな影響を受けた --あるいははっきり言ってしまうと、パクった--のは明白です。

「ただ、次のような自分について自虐的に『死ね』を用いる例が見られますが、 『あ〜。しばらく勉強してないんで頭が腐りそうだ。くだらん映画観たりして 時間を浪費して。自己嫌悪。自己嫌悪。ああ。なんてありがちなんだ。死ね死 ね。頼むから勉強しろってば。禁欲禁欲。ストア派万歳。エピクロス退散』 (99年7月下旬)、 この表現法がどのような過程を経て生じたのかについては、 今後の研究が必要とされます」

「最後に、『死ね死ね』という表現の衰退についてですが、 99年の後半にひんぱんに使用されたあと、 こだま自身が99年12月下旬に次のように書いています。

兄に、日記に「死ね死ね」と書くのは人格を疑われるので良くない、 と指摘される。そういうことを書いていると、 こないだのフシ○区の小学生を殺害したのはおれではないのかと 警察に疑われかねない、とまで言われる。 いや、もちろん冗談半分にであるが。

しかし、「死ね死ね」については同様なことを某氏にも指摘された記憶がある。 大いに反省。これからはもう少し自己規制を強めて、 より政治的に正しい (PC=politically correctな) 学業日誌になるよう心がけよう。

「この後も、『四根四根』などの派生的表現がときどき現われますが、 徐々に衰退に向います。この原因としては、通説では、 一つには流行語の不可避的な衰退というのと、 また一つにはこだまの性格の温厚化というのが指摘されています。

「以上で考察を終えますが、何が質問はありますか。あ、ない、 そうですか。それでは今日はこの辺で。 次回のテーマはこだまの日記における対話の役割についてです。 ではまた」

お昼すぎ

午前中は昨日の新聞を読み、ラジオでプロテストの様子を聞きながら、 法哲学の予習。今日は比較法学の話のようだ。 とくに最近の論点は英国法とEU法の関係にあるようだ。

夕方

法哲学の授業に出てきた。 最近の比較法学は、A国とB国の法制度を比べるというよりは、 それぞれの法体系が互いに与えあう影響に焦点があるらしい。 倫理学でもこういう研究はなりたつだろうか。

6000人もの警官を投入したおかげで、 今日のプロテストはこれまでのところ平和裡(?)に行なわれている様子。

風邪気味。ちょっとしんどい。

アンチ・キャピタリズム問答

「この反資本主義、 反グローバライゼーションというのはいったいどういう運動なんですか? 資本主義もグローバライゼーションもいいものとばかり思ってましたけど」

「きみはほんとに何も見えてないな。 資本主義のプロパガンダに完全に犯されている」

「いや、だから教えてくださいって言ってるんですよ」

「ようするに、グローバライゼーションというのは、強者である先進国が、 弱者である後進国を搾取し、環境を搾取し、動物を搾取するということだ」

「え、なんでそんなことになるんですか」

「資本主義の論理とは、大企業の論理だ。 先進国の民主主義は、市民の意志ではなく大企業の意志によって支配されている。 この大企業が、自国の市民を搾取するのにあきたらず、 第三世界の国々の貧しい市民をも搾取している。 大企業による第三世界の植民地化、 それがきみの言うグローバライゼーションの実体だ」

「そんな大げさな」

「なにが大げさか。製薬会社、ナイキ、マクドナルド、スターバックス、 すべての多国籍企業が国際間の貧富の差を広げるのに貢献している。 きゅ、吸血鬼だやつらは。WTOやIMFや世界銀行はみな大企業のあやつり人形だ。 だから、貧しい国の借金を帳消しにしようとしない。 ブッシュも大企業のあやつり人形だから、 環境破壊でも健康破壊でもなんでもやって企業の利益を守ろうとする。 そういえばきみはフリードマンを支持して、 企業に道徳的責任はないなんてのたまわっていたが、 膨大な権力を一手にした大企業の力を理解していない証拠だ。 レッセフェールなんて古典経済学の神話だ。 実体は、大企業が自分たちの都合のいいように規制を作り、規制を廃止している。 このまま大企業を野放しにしておくと地球が滅びる」

「けど、どうしたらいいんですか? だからといって、資本主義を全廃せよとか、 街に出てマクドナルドの支店を破壊せよ、 なんていうのはノンセンスでしょう。 こないだの国際世論の圧力による製薬会社の訴訟引き下げなんてのは すばらしい事例だと思いますけれど。 やっぱり世論や法によって大企業の暴走をくいとめるというのが筋でしょう」

「ぜんぜん甘いな、きみは。 法は大企業のロビー活動によって作られているんだぞ。 ブッシュが大統領になったとたん、米国のタバコ訴訟は闇に葬られただろう。 これも大企業の論理が働いている証拠だ。 それにきみはベンタムにならって世論世論というが、 新聞を牛耳っているのはこれまた大企業やメディア王だ。 タイムズとサンの所有者はだれだ? 英国人でもないメディア王のマードックだ」

「しかし、BBCとか赤旗とか信頼できるメディアもあるじゃないですか」

「ほんとに尻が青いな、きみは。 世界はきみが思っている以上に悪人が多いということだけ言っておこう」


02/May/2001 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

真夜中 (午前)

鼻が止まらない。

今日の授業のために、ミルの『自由論』について勉強中。

今日は朝食にありつけた。

引きつづき『自由論』の勉強。

某先輩に苦痛の質について メイルで尋ねたところ、さっそく返事をいただく。感謝。

苦痛に質を認めるとすれば、 人間本性からして、質の高い快を経験できる人間は、 質の高いに対する感受性も持つことになるだろうとのこと (たとえば、共感の快苦、恋愛の快苦)。 すなわち、苦痛に対する感受性を意識的に陶冶しなくても、 快に対する感受性を高めると一緒にレベルアップするというわけだ。 勉強すればするほど絶望感が深まるとかいうやつだな。

また、苦痛に質があるならば、 ミルの論理からして、われわれは常に (といっても意志の弱さや、 老化による感受性の退化という例外があるが) 高級な苦痛よりも低級な苦痛を選択するだろうとのこと。 ということは、たとえば、孤独と絶望の苦しみよりも飢えと渇きの苦痛を、 他人が拷問される姿を見て苦しむよりは自分が代わって拷問される苦痛を 選ぶというわけだ。これはどうなのかなあ。 おれなら1984年のウインストンのように 「ジューリアにやってくれ」 と叫ぶと思うけど。それとも、そう考えてしまうのは、 老化による感受性の退化が原因なのか。

(追記: 「苦痛に質を認めるとするならば」「苦痛に質があるならば」の部分は、 「ならば」を強調して読んでください。 というのは、上の議論は快苦の間に対称性があるとしての話であって、 これをミルが認めるかどうかは疑わしいからです)

昼下がり

雨のちくもり。

授業

功利主義の授業に出る。『功利主義論』と『自由論』について。 功利原理の証明、言論の自由のあたりでもめる。

人数が少なく、先生が学生の意見を聴き、 学生もある程度予習していると、議論が活発になるようだ。 あまりハイレベルな議論をしているわけではないが、 こういう授業が一番楽しいのかもしれない。

買った本

授業のあと、ひさしぶりに本屋で本を買う。 新聞は昨日のをまだ読んでいないため、今日は買わないことにした。

夕方

新聞。すこし昼寝。夕食。

真夜中

食後は『代議政治論』の勉強をしたり、テレビでニュースを見たり。

明日のロンドン地下鉄(チューブ)のストライキはぎりぎりで中止になったようだ。

快楽説の問題点

「関嘉彦氏は、 ベンタムの心理的快楽説に対する批判を説明するさいに次のように述べています。

人間はすべて快楽を求め苦痛を避けて行動するという事実判断の命題は、 人間の行為をあまりに単純化している。昔の日本人は、 はずかしめを受けると切腹したが、切腹は快楽であるか。 もしそれをすら快楽というなら、その快楽というのは、 その人が選ぶものまたは意欲するものと同じことではないか。

『ベンサム、J.S. ミル (世界の名著49)』 (関嘉彦責任編集、中央公論社、1979年、27頁)

人間はすべて快楽を求め苦痛を避けて行動するという事実判断、 これが心理的快楽説ですね。しかし、この批判によれば、 われわれはかならずしもこのようには行動しないわけです。 その一例が切腹であり、 切腹というのは快楽ではなく苦痛を欲して行動しているわけで、 もしベンタムが切腹という行為すら『快楽を欲して行為している』 と言うのであれば、ベンタムは定義上、『欲求するもの=快楽』 とみなしていることになる、というわけです」

「まあ、そういう批判があるから現代の功利主義者は『快楽』 という言葉を用いずに『選好』 という言葉を用いるんだろう」

「しかし、この批判は皮相的だと思いませんか」

「どうしてだ」

「だって、『切腹は快楽であるか』というような批判は、 そんなことベンタムだってミルだって考えたに違いないでしょう。 たとえば『安楽死は快楽であるか』という問いを考えた場合、 もちろん安楽死そのものは快楽ではなく、苦しいものに決まってますが、 それ以上の苦しみを避けるために安楽死を選ぶんでしょう?」

「それはそうだろう」

「三島由起夫だって、 切腹そのものが快楽だと思って腹を切ってみせたわけじゃないでしょう。 『お国のため』とかその他のある高い目的があって、 それに対して貢献しなければいても立ってもいられないから 腹を切ったのではないですか。ミルが言うように、

せんじ詰めれば、この自己犠牲はなにかの目的のためでなければならぬ。 自己犠牲は自己目的になれないのである。 幸福ではなく、幸福よりもさらに善い徳が目的だというのなら、 私はたずねよう。英雄なり殉教者なりは、 他人に同じような犠牲を免れさせると信じたからこそ犠牲となったのではないか。

(同、477頁)

というわけです。また、 のちに快楽説のパラドクスとして 定式化されるように、禁欲的な生活も、間接的な仕方で快を追求していると 見なすことができるわけです。ミルはこう言っています。

逆説を弄するようだが、意識的に幸福なしでやろうと努力することは、 人間の力で達成できる幸福を実現してゆくうえで最善の見とおしを与えるものだ といおう。というのは、この意識こそ、人間に、最悪の宿命や悪運でさえも 人間を屈服させる力をもたないと感じさせ、 人生のめぐりあわせに超然たらしめるものだからである。 いったんこう感じれば、人は人生の諸悪についてくよくよすることから解放される。 そして、ローマ帝国の最悪の時期にめぐりあわせた多くのストア派の哲人のように、 平静のうちに手近な満足の源泉を開発し、それに避けがたい終局があることに 心を悩まさず、さらにそれがいつまで続くかについても思い わずらうことがなくなるのである。

(同、477頁)

というわけです。したがって、 切腹のような身体的・精神的に大きな苦痛であっても、 切腹をしないことによって生じるより大きな苦痛を 避けるために行為していると理解すれば、 『人間はすべて快楽を求め苦痛を避けて行動するという事実判断の命題』 は成り立っていると言えると思います」

「う〜ん、なんだかだまされた気がするなあ」

「この議論についての再批判もありますが、 それはまたにしましょう。あと、ついでに言うと、関氏は上の引用に続いて、

その場合、その快楽が善であるとすれば、人は自分の好むままにすることが 善であるということになり、道徳の必要も法律の必要もなくなってしまう。

(同、27頁)

と述べていますが、これは行為の『善さ』と行為の『正しさ』 を区別しない甚しい誤りで、 結果としてこの批判はベンタムに倫理的利己主義の立場を帰していることになります」

「よくわからんぞ」

「たしかに、この批判にあるとおり、ベンタムの考えでは、 各人は常に自分にとっての善を追求しているわけですが、 ある人にとっての善は他の人にとっての悪になりうるわけです。 たとえば、マシンガンを学校に持っていって発砲するというのは 当人にとっては至高の善かもしれませんが、 他の人にとっては考えられるかぎり最悪の事態であるわけです。 もちろんベンタムはこのような場合に『道徳の必要も法律の必要もない』 などとは言わないわけで、各人の善悪すなわち快苦を合計して、 やって良いこととダメなことを決めるわけです」

「なるほど、あんたにとってどんなに善いことでも、 全体の利益に反するなら、あんたの行為は正しくない、 というわけだな」

「そうです。だから、 ベンタムは『各人は常に自分にとっての善を追求している』ことは認めますが、 だからといって、各人の行為が常に正しい、とは言わないわけです」


03/May/2001 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

お昼前

おもいっきり寝てしまった (って、8時間だけど)。 朝食を見逃す。

昼下がり

なんてことだ。お昼に某教授と会う予定だったが、 教授の部屋に行ってもいなかった。こ、困った。

夕暮れ

夕暮れといってももう8時半なのだが。

例によって仮眠、夕食、プラス洗濯。


04/May/2001 (Friday/vendredi/Freitag)

真夜中 (午前)

あああ。勉強も書類書きもはかどらない。 水曜日には『代議政治論』の発表もあるのに。あああ。

眠い。また朝食を見逃す。

昼下がり

眠い。午前中はいろいろ作業をした。

まず某先生に会い、 ベンタム全集の編集作業をちょっと手伝わさせてもらう相談。

そのあと本屋で本を購入。

それから、昨日会えなかった某教授に会い、 ベンタムの民主主義論についての研究がどの程度進んでいるのかについて 話を聞く(中国旅行の話も聞く)。

さらに帰り道、道端で某に会ったので、一緒に図書館に行き、 本を借りたりコピーをしたりする。 某は一枚5ポンドもするコピーカードを二枚買って二枚ともなくしてしまった。

ひさしぶりに中華料理屋で昼食を食べる。 今週はよく本を買ったので、来週は節約せねば。

真夜中

夕方、友人の友人の友人が、この寮のゲストルームを使いたいというので、 手続きなどの世話をする。

夕食後、すこしテレビを見て(フレンズその他)、ベンタムの勉強。 今夜は科研費の書類を完成させてから寝るべし。


05/May/2001 (Saturday/samedi/Sonnabend)

真夜中 (午前)

科研費の交付申請書と一太郎

「科研費の交付申請書を書いてメイルしました」

「あれ、えらく仕事が早いな」

「いえ、過去の書類を流用すればよいだけで、 そんなに頭を使わなくて済む書類だったんです」

「ああそう」

「しかし、 交付申請書をメイルで出せるのはけっこうなんですが、 そのフォームが一太郎形式でしか用意されていないというのは ちょっとすごいですよね」

「ん、どういうこと?」

「ええと、事務に頼むと、申請書のフォームを送ってくれるんですよね、 メイルで。しかし、そのファイルは一太郎で作ってあるんですよ」

「なるほど。それでそれのどこがすごいの?」

「いや、一太郎を馬鹿にするわけではけっしてないんですが、 事務以外でワードではなく一太郎を使っているのは もはや国文ぐらいじゃないかと思うんですよ。 だから、この、なんというか、 ベータ版のビデオしか貸し出していないビデオレンタル屋に入った気分になる というか」

「おいおい、一太郎をベータビデオに例えるのはちょっとかわいそうだろう。 某名誉教授も一太郎を愛用してたじゃないか」

「いや、そうなんですけど。 けど、実はぼくは事務とこの手のやりとりするために一太郎を買ったんですけどね。 ぜんぜん使ってないんですよね。 あ、シュリケンという附属のメールソフトにはちょっとお世話になりましたけど」

「まあ日本純正のソフトなんだから、すこしは大切にしてやったらどうだ。 ワードばっかり使ってないで」

「いや、ワードもエッセイを書くときだけで、普段はMeadowなんですけど…」

お昼前

午前が終わる寸前に起き、またもや朝食を見逃す。

昼下がり

げ。ヒゲを剃っているときに、ふと気まぐれに眉毛をすこし剃ってみたら、 思わず剃ってはいけない部分まで剃ってしまった。や、やばい。

夕暮れ

ハムステッドヒース

天気がよかったので友人とすこし遠出をして、 ハムステッドヒース (ロンドン郊外にある荒地)を散歩してみる。

地図を持っていかなかったので、 マルクスの墓は見つけられず。

夕食はソーホーの韓国料理屋で。


06/May/2001 (Sunday/dimanche/Sonntag)

お昼すぎ

わ。ひさしぶりに半日以上寝てしまった。なんてことだ。

夕方

To Kill a Mockingbird

友人からもらったTo Kill a Mockingbirdを読み終わる。 それでなくても読むべき本が多いので、 人からもらった本はたいてい読まずじまいになってしまうのだが(すいません)、 この本はめずらしく読み終えた。

「それで、どういう話なの」

「ええと、1930年代の米国南部の黒人差別をですね、 白人弁護士の娘の視点から描いたものです。 まだ偏見の少ない少女とその兄や友人の視点から、 白人市民の欺瞞が浮き彫りにされています」

「いつ出た本なの、それ」

「ええと、初版は1960年のようです」

「じゃあ、やっぱり市民権運動なんかとも関係するの」

「ええ、たぶんそうだと思います。 しかし、この本は黒人差別問題だけでなく、 南部の小さな町でのいろいろな出来事が描かれており、 それを読むのも楽しいです。 とくに、作者が少女時代の思い出を述べる形で話が進むので、 読み終わるともう一つの幼年時代を体験したような気分になります」

「もう一つの幼年時代って、きみは少女じゃなかっただろう」

「まあ、そういう問題はおいといて。とにかく、 構成もよくできたおもしろい本なので一読を勧めます。B+」

う、だめだ。逃避してないで学振の書類書かねば。


07/May/2001 (Monday/lundi/Montag)

真夜中 (午前)

あ〜、学振の書類遅れています。もうすこし待ってください。

研究計画、来し方行く末

「しかしあれですね、もうすこし計画性を持って研究しないといけませんね。 過去を振りかえってみると、 これまでの研究の行程にはほとんど必然性のかけらも感じられないのにもかかわらず、 書類を作成する段になって、 あたかも今日まで世界精神か何かに導かれていたかのような話をでっちあげるのでは…」

「良心が痛むってか?」

「いや、というか、ふりかえってみると何もしてなかったという恐怖が」

「まともな論文書いてないもんな、きみ」

「いや、これから書きます。これから書きます。しかし、 今後の研究について考えると頭が痛いですよ、ほんと。とくに博論とか。 カモメになりたいとか思っちゃいますよ」

「なに弱音を吐いてるんだ。立派なベンタム学者になるんじゃないのか」

「そうですねえ、立派なベンタム学者になって、民主主義について一家言持ち、 東に自由主義の議論があれば、つまらないからやめろといい、 西に平等主義の議論があれば、おもろいからもっとやれといい、 南に…」

「宮沢賢治ネタはやめろってば」

「ああ、すいませんすいません、つい無意識に」

「まあとにかく、あまり変なことに手を出さずに、 ベンタムの研究をしっかりやって土台を築いてだな…」

「いや、そういうのではだめで、 いろいろ手を出さないといけないと思うんですよね、 新聞を読みテレビや映画を見、現代の政治に憤り理想の民主主義を構想し、 ヘーゲルとロールズに共通点を見出し 情報倫理や生命倫理に哲学の根本問題を垣間見…、という風に。 すべての思想は有機的につながっているというか、 ベンタムばっかり勉強していると木を見て森を見ずになるというか」

「なにを偉そうに。まあ勝手に言ってくれたらいいが、 そういうことを学振の書類に書くわけにはいかんだろう。 もうすこし計画立った研究予定を立てないと」

「そうなんですよね。目標をはっきりさせて、 そこにたゆむことなく近づく手段を提示しないと。 ちょうどこれから登る山とそのルートを示すようなもので。 しかし、どの山に登ればいいんでしょうね、ほんとに。 なるべく高い山に登りたいんですけど、頂上はみな雲の上に隠れているようで」

「いや、けっきょくのところ山は大きいのが一つで、 きみはどうやって二合目三合目に辿りつくかを 考えているようなものなんじゃないか」

「あ、なるほど、そういう風にも見れますね。 まあ、たまには一息ついて、来た道を振りかえり、 そして上を見上げてこれからどこにどうやって行くべきかを 考えるのも有意義かと思います」

「せいぜい精進したまえ」

お昼すぎ

朝食を食べたあと、ふたたび寝てしまう。

あかん、かか書けっ。

昼下がり

うう。がんばれ。

今日はバンクホリデー (国民の祝日、メイデーの振替休日)。 水曜日の発表の準備をする予定だったのだが…。

empathy & sympathy

そういえば、昨日、友人にempathyとsympathyの違いを尋ねられて困った。 いくつかの辞書を調べてもまちまちな内容が述べられている。 empathyはEinfuelungの訳語として英語に入ってきたらしいので、 「感情を共有する」というsympathyにくらべると、 「相手の立場に立つ、感情移入する」という側面が強調されているのだろうか。

夕方

あああ。あっというまに日が暮れたり、 業績を見返して途方に暮れたり。と、とほほ。


08/May/2001 (Tuesday/mardi/Dienstag)

真夜中 (午前)

いちおう一通り書いた。 あと二時間かけて見直ししたら…いったん寝よう。

あ、日曜月曜と丸二日寮から一歩も出ていない。

真夜中2 (午前)

メディア王による政治

「う〜ん、ぼくはアンチ・キャピタリストではないですけど、 この、大企業が政治に及ぼす悪しき強大な力というのは、 おそらくベンタムが見逃していたもっとも大きな問題ですね。 とくに、今回のイタリアの場合のように、 哲人王ならぬメディア王が大統領選に出馬するという悪夢のような事態に対して、 どういう処置をすべきなんですかね」

「メディア王は出馬できないとか、いろいろ法律で禁止すればいいんじゃないの」

「しかし、立法権の大部分をメディア王が握ってしまうと、 いかんともしがたいわけで」

「いや、じゃあ憲法レベルで禁止してさ、 メディアと政治家の権力分権」

「ベンタムは法律がすべて悪者の為政者に差し押さえられてしまった場合でも、 世論が最終的な悪政に対する武器になると考えてたんですよね。 しかし、メディア王が大統領になって、 メディアのほとんどを押えてしまうという状況になると、 ベンタムの最後の望みも失われてしまうわけで…」

「まあ、実際にはそんな状態はそんなに長く続かないだろうしさ。 国際世論とかいうのだってあるわけで。 そんなに悲観的になる必要はないんじゃないの」

「いや、ぼくは理論的な問題をですね…」

「ま、しかし確かにでかい企業は恐いよね。 とくに現在の米国の状態なんかは。 まあ、企業にも情報公開とか義務づけて、 あとは良心的なメディアとかジャーナリストとかががんばるしかないんじゃないの」

「う〜ん、もうすこし考えてみます」

真夜中3 (午前)

う、そろそろ夜が明ける。眠らねば。

お昼前

なんとか朝食に間に合う時間に起きる。

それからすこし法哲学の授業の予習をする。

夜中

法哲学の授業は(しんどかったので)前半の1時間だけ出席。 判例を用いて法的推論に道徳的判断がどのように係わるのかという話をしていたが、 今ひとつ関心が湧かず。

夕食後、友人とすこし散歩する。 テレビなどを見ていると明日の発表の準備が進まず。困った。

あ、英国の総選挙は予定通り6月7日に決まったようだ。


09/May/2001 (Wednesday/mercredi/Mittwoch)

真夜中 (午前)

ミルの『代議政治論』を、和訳の助けを借りて通読中。 非常におもしろいが、あまりおもしろがっている時間はない。

奴隷と呼ばれるのにふさわしいのは、自助ということを知らない人々である。 奴隷は疑いもなく、未開人よりは一歩進んでいる。(中略) [しかし、] 彼らは命令されたことを、命令されたときにすることしかできない。 彼らが恐れている人がうえに立って、刑罰で脅かしていれば服従するが、 その人が向こうを向けば、仕事はなげやりになってしまうのである。 (世界の名著、381頁)

人類のうちでもっともねたみ深いのは東洋人である。 東洋の道徳家や東洋の物語には、ねたみ深い人が目立って多い。 (同、399頁)

朝食にまにあうように起きる。眠い。

今日の発表は、 有機的政治観と機械的政治観に対するミルの回答→ 文明の発展段階とそれに適した統治形態→ 最終的な理想としての代議制民主主義と、 多数者の専制に対する予防措置というふうに進めるつもり。

昼下がり

『代議政治論』についての発表

ベンタムの授業に出席して、無事に発表してきた。 実際の発表は上の順序とは違い、

  1. 善い統治の基準は、市民の利益を守り、市民の自己実現を促進すること。 その意味では代議制民主主義が理想的。
  2. しかし、文化レベルによっては、民主主義は不適当。 (父ミルとマコーレーの論争) 市民が満たすべき3条件。
  3. 代議制民主主義の詳細。普通選挙とその制限条項。 普通選挙によって生じかねない「多数者の専制」 (the ignorant manyによるthe intelligent fewの抑圧) に対する予防措置(比例代表制、複数投票、上院の設置など)。

という順序で発表した。 発表後は、普通選挙の制限条項と、予防措置の是非を中心に議論がなされた。 このあたりをテーマに今週末にエッセイのドラフトを書く予定。

6月末までに、ベンタムのエッセイ(ミルの代議民主論で書くつもり)、 政治哲学のエッセイ(ドゥオーキンの平等論について書くつもり。たいへん)、 法哲学のエッセイ(ベンタムとハートの法理論の比較について書くつもり。 7000語なので超たいへん)を書かねばならず、 しかも一方でディサテーションの計画も立てないといけないので、 予定を立てて真剣に勉強しないとやばい。

重大な〆切がこれほどいっぺんに来るのは、 人生においてはじめてかもしれない。 自愛の思慮が問われている。

夜中

某ノルウェー人が誕生日を迎えたので、 某イタリア料理屋で誕生日ディナー。 楽しいひとときを過ごす。

あ、今日郵便で届いた古本。


10/May/2001 (Thursday/jeudi/Donnerstag)

真夜中 (午前)

今日は、ミル・エッセイに必要な論文を集めること、 また、学振の書類の完成稿を作ること。

よく寝て、朝食を見逃す。

昼下がり

午前中は昨日の新聞を読む。ひさしぶりにデイリー・テレグラフを買ってみる。 社説はあいかわらず反EU、反移民、反労働党、親保守党。

お昼に図書館に行くが、コピー終わらず。明日も行くべし。

ひさしぶりに某ブラジル人と昼食を食べる。 近くに引越してきたそうだ。

夜中

昼下がりから夕方まで、 某図書館で勉強する。

労働党と自民党に先立ち、 保守党がプラットフォーム(政党綱領)を発表した。 減税による小さな政府、および反EUを基調とした内容は、 予想以上に市民の受けがよく、 労働党は強力な反撃が必要とされる。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Tue Jun 28 21:41:08 JST 2016