原題は、 George Orwell, Nineteen Eighty-Four (1949) で、ハヤカワ文庫の初版は1972年(新庄哲夫訳)。
1984年、世界は三つの超大国に分割されていた。
その一つ、オセアニア国では〈偉大な兄弟〉
に指導される政府が全体主義体制を確立し、
思想や言語からセックスにいたるすべての人間性を完全な管理下に置いていた。
この非人間的な体制に反発した真理省の役人ウィンストンは、
思想警察の厳重な監視をかいくぐり、
禁止されていた日記を密かにつけはじめるが……
社会における個人の自由と人間性の尊厳の問題を鋭くえぐる問題作。
(裏表紙から引用)
第一部がわりとつまらなかったので、 しばらく読みさしのままだったのだが、 第二部から俄然おもしろくなり、 第三部まで一気に読めた。
第一部はオセアニア国とそこに住むウィンストンの暮らしの紹介。 オセアニア国は全体主義国家で、市民はテレスクリーンを通じて、 国家により一日中行動を観察されており、日記も自由に書けないほどである。
第二部はウィンストンとジューリアの恋愛が主題になっている。 オセアニア国のように、 普通に恋愛することすら禁じられている国においては、 不自由さがかえって恋心も激しくすると思われる。
第三部は、ウィンストンが思想警察に捕まって、 おそろしい拷問で苦しめられた末に、 ついにオセアニア国の思想を心から信奉し、 「偉大なる兄弟」を愛するようになるまでの過程を描く。 しかもその途中で、ジューリアへの愛も失なってしまう。 第二部の幸福な感じとはうって変って、非常に残酷な展開である。 特に、「ジューリアにやってくれ!」というくだりを読んだときには、 胸をえぐられる思いがした。 そして最後にこんな希望のない結末を向かえるとは。すごい。
それにしても拷問怖い。 ぼくだったらすぐになんでも自白しちゃうだろうなあ。 爪とかはがれたら痛いだろうなあ。 ああ、怖い怖い。
ダブルシンク(「AはBである」と「AはBでない」というような相矛盾した考えを 同時に受け入れる思考法)とか、 ニュースピーク(オセアニア国の思想に適した人工言語)とかは、 大変おもしろい発想。刺激を受けた。
ちょっと長くて、特にでだしがつまらない感じがするが、 古典的名作であることは間違いない。 恋愛小説が好きな人、 自分はどんな拷問によっても決して思想を変えることはない、 と自負している人、 全体主義国家が好きな人、 「ビッグブラザー」って何?って思ってる人、 唯我論(ソリプシズム)に興味がある人、 などなどの人におすすめ。
サイム 「美しいことだね、言語の破壊というのは。 むろん最高の浪費は動詞と形容詞にあるのだが、 同じように始末すべき名詞も何百とあるね。 同意語(シノニム)ばかりじゃない。 反対語(アントニム)だってそうさ。 結局のところ、ただ単にある言語と正反対の意味を持つだけの言葉なんて、 一体どんな存在価値があるというのかね? 一つの言葉はそれ自体、正反対の意味も含んでいなくちゃならん。 例えば、"good"(良い)の場合を取り上げてみよう。 "グッド"みたいな言葉があるなら、 "bad"(悪い)みたいな言葉の必要がどこにあろう。 "ungood"(良くない)でじゅうぶん間に合う--いや、その方がましだ、 まさしく正反対の意味を持つわけだからね。 もう一方の言葉は、そうじゃないんだ。 あるいはまた、もし"グッド"の強い意味を持った言葉が欲しければ、 "excellent"(優秀な)とか "splendid"(見事な) といったような曖昧で役に立たない一連の単語を持っていても仕方がない。 "plusgood"という一語で間に合う。 もっと強い意味を持たせたければ"doubleplusgood"といえばよい。 もちろんわれわれはこれらの方式をすでに使っているが、 しかし新語法の最終的な表現では、 これ以外の言葉は存在しなくなるだろう。 結局、良いとか悪いとかの全体的な概念は僅か六つの単語で-- 実際にはたったの一つの単語で表現されることになるだろう。 君には分らないかね、そうした美しさは、ウィンストン? もともとはBBのアイディアなんだよ、断わるまでもないことだが」(66-7頁)
ジューリア 「わたし、次の世代に興味なんかないわ。 いまのわたしたちにしか興味がないのよ」(203頁)
ウィンストン 「僕は自白のことをいってるんじゃない。 自白は裏切行為じゃない。 君が何をいおうと何をしようと、 そいつは問題ではない。 ただ感情だけが大切なんだ。 もし彼らが僕に君への愛情を失わせたら--それこそ本当の裏切りといえる」(218頁)
オブライエン 「ウィンストン、訓練された精神の持主だけが現実を認識することができるのだよ。 君は現実とは客観的なもの、外在的なもの、自律的に存在するものだと信じている。 君はまた、現実の特性とは自明の理だと信じている。 自分には何か見えると思い込むような幻覚に取り憑かれたら、 他の人たちも自分と同じように見えるだろうと想定することになる。 しかしはっきりいって置くが、ウィンストン、 現実というのは外在的なものではないのだよ。 現実は人間の、頭の中にだけ存在するものであって、 それ以外のところでは見つからないのだ。 それは過ちを犯しがちな、 ともかくやがては消え失せるような人間の頭の中には存在しないのだよ。 集団主義体制の下、不滅である党の精神の内部にしか存在し得ないのだ。 党が真実だと主張するものは何であれ、絶対に真実なのだ。 党の目を通じて見る以外は、現実を見ることはできない。 これがもう一度、君の学び直さなければならない点なのだよ、 ウィンストン」(323-4頁)
オブライエン 「われわれは精神を支配しているからこそ物質も支配しているのだ。 現実というのは頭蓋骨の内部にしか存在しないのだよ。 君も段々に分って来るさ、ウィンストン。 われわれに出来ないことは何一つない。 姿を隠すこと、空中を浮遊すること--何だって出来る。 その気になりさえすれば、私はこの床上からシャボン玉のように浮揚できる。 しかし私はそれをやりたくない。党がそれを望んでいないから。 自然の諸法則に関する十九世紀的な考え方は放棄しなくちゃいけない。 われわれが自然の諸法則を造るのだ」(346頁)
ウィンストン 「ジューリアにやってくれ! ジューリアにやってくれ! 自分じゃない! ジューリアにだ! 彼女をどんな目に合わせても構わない。 顔を八つ裂きにしたっていい、 骨だけにしたっていい。 しかし、俺にじゃない! ジューリアにだ! 自分じゃない!」(375頁)
ジューリア 「どうかすると、ある事で脅かされるの--とても耐えられない、 夢にも考えられないようなことなの。 すると、つい口走ってしまうんです。 『自分にじゃない。誰かにして。誰かさんにやって』 その後で、それが嘘にすぎないこと、 そう口走ったのは彼らを止めさせるためで、 本気でいったのではないという振りをするかも知れないの。 けど、それは本当じゃない。 そう口走っている時は本気なの。 自分の助かる途はこれしかないと思って、 そのやり方で自分だけは助かろうとするんです。 自分じゃなくって、誰か他の人にやってもらいたいと心から願うの。 その人がどんなに苦しもうと一向に構やしない。 自分のことしか頭にないんだわ」 (382頁)
04/18/98-08/02/98
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