倫理学

(りんりがく ethics)

哲学的能力に関するかぎり、 われわれの大半は小学校を卒業したとは言いがたい。 われわれの思考は、懐疑主義、相対主義、 さらにはニヒリズムへの強い傾向を持つが、 しかしこうした傾向があるのと同時に、 普遍的な道徳的基準を強く信じる傾向もある。 われわれのほとんどは神について懐疑的だが、 倫理が神なしに存続しうるか確信が持てずにいる。

---Ben Rogers

たいていの道徳家は--宗教的信念を持っている道徳家なら明らかにその全員が--、 生徒たちは学校で「価値観を教えこまれる」べきだと考えているが、 しかし彼らの意図は、 科学や歴史や他の学問がどういう含意を持つかについて生徒が そうした価値観を用いて思考できるようにする、というのではなく、 生徒が彼ら(道徳家)の容認する仕方で行動するようにしむける、 ということにある。 だが、倫理について考えられるよう人々を教育する主眼は、 ある党派的な諸原則を彼らに押し付けるというのではなく、 彼らの批判的な思考能力を高め、 起こりうることと選択肢を彼らに教えることにより 彼らが自分で思考できるようにすることにある。

---AC Grayling

たいていの人は、倫理を、 あれこれのことをするなと命じる規則の体系と思っていて、 私たちがいかに生きるべきかを考える基礎であるとはみなしていないのである。 …。倫理的な反省をする生き方は、 すべきことやすべきでないことを規定する一連の規則を遵守することではない。 倫理的に生きることは、自分がどう生きているかを一定の仕方で反省することであり、 反省して得られた結論に従って行動しようと努めることである。

---ピーター・シンガー

現代では、倫理が各所で崩壊しているから、その再建が必要だという声を聞く。 そういう発言をする人は、どこかに倫理性を生み出す教育のノウハウがあって、 それを多くの人が使用すれば、社会全体の倫理性が向上し、規範性の機能が 回復されると信じているらしい。哲学者の中にも、 自分の倫理学がそのような社会の倫理化に寄与すると信じている人もいる。

---加藤尚武

倫理学は教義学であり、いうなればひとつのイデオロギーなのである。 イデオロギーとは、ことがらの実態を明らかにするようなふりをして、 実はある何かを正当化するためにできている説明体系のことだ。 このイデオロギーは「なぜ悪いことをしちゃいけないのか」 といった問題そのものを認めない。それは、根本前提だからだ。 だから、この学問を学んでも、何かが明らかになることはない。……。 つまり、倫理学は道徳というものの本質を究明する学問なのではなく、 それ自体が道徳的な学問なのである。 道徳についての真実を語ろうとする学問なのではなく、 道徳について道徳的に語ろうとする学問なのだ。

---永井均

よく知られたステレオタイプとは異なり、 倫理学の目的はお説教をしたり、 なすべきことを単に命じたりすることではない。 その目的は、難しい事柄について考えるためのいくつかの道具を提供し、 取りうる方向を示すことにある。

---Anthony Weston

「投資家にとって邪道かどうかは関係ない。 ずるいと言われても合法だったら許される。 倫理観は時代で変わるから、ルール以外に(よりどころは)ない」

---堀江貴文、ライブドア社長

哲学の先生: 倫理学はいかがですか?
ジュールダン氏: 倫理学?
哲学の先生: さよう。
ジュールダン氏: どんなことをやるんです。その倫理学は?
哲学の先生: 倫理学は至上の幸福を探求し、 情熱を抑制することを人間に教えるのです。そして……
ジュールダン氏: いや、そいつは願いさげにしよう。 わしはものすごく怒りっぽい性分(たち)でしてな。 倫理学なんか、くそくらえ、その気になったら、 思う存分怒ってみたいんで。

---モリエール

「倫理について熟考するだけでは善人にならない。 倫理について熟考するだけでは、非常に悪い人間にもならないだろうが、 たいして善い人間にはならないであろう。 善い人になるためには、有徳な人格を確立しなければならず、 これは思考だけではできない。しかし、倫理についてよく考えることは 人をより善い人にする手助けをすることができるし、 そうすることは最高の種類の道徳的善さを達成するのに必要でもあるのだ と固く信ずる」

---ウィリアム・K・フランケナ、 「道徳的生活は倫理学について熟考することによって成就されるのか」 という質問に対して

The moral teacher's doctrine should be the light of day, which gives us a full view of our path--not a hand stretched to us to guide us blindly in the dark.

---William Whewell

倫理についての古代人の考えは、 (たとえば)物理科学についての彼らの考えよりも、 勉強する価値がある。 倫理学はまだ厳密な推論になじむものになっていないため、 近代人は「古代人の思想はもう古くて役に立たなくなった」 と誇らしげには言えないのだ。

---ラッセル

知的な遊戯としてのみ探究されるような倫理学は、 他のあらゆる知的な娯楽と同様、ほとんど価値がない。

---セオドア・ルーズベルト


自己紹介のときに「倫理学をやっています」と言うと、 ときどき「倫理学って何ですか」と訊かれてたいへん困る。 ふつう、「法学をやってます」とか「経済学をやってます」と言うと 「あ、そうですか」で感心されて終わると思うし、 「哲学をやってます」と言うと、「あ、そう。あなた人間じゃないんですね」 と言われてそれで会話が終わる(と思う)ので、 「〜とは何か」というむつかしい問いに答える必要がない。 しかし、倫理学に限ってこの手の説明を要求されることがある。

さて、「倫理学って何ですか」と訊かれてなんと答えればいいか。

すぐに思い浮かぶ答えは「哲学の一種です」、 「倫理を研究する学問です」、「道徳哲学のことです」 などというほとんど意味のない答えだが、 これではあきれられてしまうのでもう少し内容のあることを言わなければならない。

「価値について研究する学問です」というのもピンとこない。

「どう生きるべきかについて考える学問です」では、 新興宗教と勘違いされてしまう。

「われわれは日頃から 『約束を守るべきだ』とか『人工妊娠中絶を行なうことは正しくない』とか 『死刑制度は廃止すべきだ』といった発言をしますが、 倫理学とはこうした価値判断の根拠を問う学問です。 たとえば、『何で約束を守らないといけないのか』、 『なぜ死刑制度を廃止すべきなのか』 という問いに対する答えを吟味するわけです。 また、その過程で、こうした判断において用いられる表現、 たとえば「善い」とか「べし」とか「正しい」などの意味を分析を 行なったりもします。 素人さんも気軽に参加できる楽しい学問です」

というのでどうだろうか。

道徳と倫理の区別については「道徳」を参照せよ。

(21/Oct/2000書き直し。以前の説明はここ)


追記。倫理学と他の学問との区別について。

異なる畑の研究者は、同じ問題にたいして異なった方法で取り組む。 たとえば、「死刑は廃止すべきかどうか」という問いを考えてみる。 社会学者ならば、世論調査をして、 一般市民あるいは政治家などの特定の階層の人々の意見について 調べようとするだろう。 法学者ならば、現行の法制度に照らして、 死刑制度が法的に許されるか (たとえば、死刑が憲法第36条が禁止する残虐な刑罰にあてはまらないかどうか) ということを考えるだろう。 あるいは、死刑制度が犯罪の抑止に有効かどうか、 ということを考えるかもしれない。 経済学者ならば、 死刑制度が終身刑と比べて金銭的に割にあうかについて分析するかもしれない。

では、倫理学者はこの問いにどのように取り組むか。 倫理学者が上で述べたような社会学者や法学者や経済学者と同じ試みをすることは 十分に考えられるが、これらは倫理学に固有の研究方法ではない。 倫理学では、これらに加えて、 「死刑を廃止すべきかどうか」という問いそのものの意味を考えたり、 この問いに対してどのように答えれば適切なのかを考えたりする。

たとえば、上の問いに対して、 「死刑は残虐だから廃止すべきである」という答えがなされた場合、 倫理学者ならば、 「すべての残虐なものは禁止されるべきなのか、あるいは例外はあるのか」 「なぜ残虐なものは禁止すべきなのか」 「どういうものが『残虐』なのか、そもそも『残虐』は定義できるか」 という問いを矢継ぎばやに問うだろう。 これらの問いは一見あたりまえで馬鹿げているように見えるが、 たとえば、ガン治療の研究のための動物実験や、 自衛のための戦争などを考えると、簡単に答えることはできない。

このように、倫理学では、 「〜すべきだ」「〜すべきでない」という判断の背後にある 道徳原則(たとえば「一般に残虐なことは行なうべきでない」)を明るみに出し、 そうした原則がもっともらしいかどうか、 他の原則(たとえば「人間の利益のために動物を犠牲にすることは許される」) と衝突しないかどうか、 あるいはそうした諸原則をまとめる高次の道徳原則 (たとえば、カント定言命法や、 ベンタム功利主義)があるのかどうかということを研究する。

また、それと同時に、哲学一般について言えることだが、 倫理学では「べきである」「善い、悪い」「正しい、正しくない」 などの言明の意味を研究する(概念の分析)。 たとえば、「嘘をつくことは悪いことだ」というのは、 「わたしは嘘つきは嫌いだ」という意味だろうか、あるいは、 「嘘をつくと神さま(親、友人)に嫌われる」という意味だろうか、はたまた 「日本社会(世界)では、嘘をつくことは悪いと考えられている」 という意味だろうか、という主張の言いかえなのか。 このように、倫理学では「善い」や「悪い」など、 道徳的議論においてしばしば用いられる言葉の用法の研究も行なわれる。

まとめると、倫理学では、 「死刑は廃止すべきである」のような主張の根拠になる 道徳原則について研究すると同時に、 道徳的議論で用いられる言葉についての分析も行なう。

(13/Feb/2001)

品川哲彦氏の倫理と倫理学の違いも参考になる。(04/Jan/2002 追記)


さらに追記。上に引用した永井均氏のコメントについて。

永井氏は、自分が「なぜ悪いことをしてはいけないのか」と問うとき、 「哲学」をしていると理解しているようだ。この「哲学」は、 大学で行なわれている哲学(思想)研究とは違うと述べ、 本来の哲学は大人が忘れている深遠な問いを考え抜くという作業という風に 理解しているが、 なぜか「倫理学」は彼が某K大学で学び失望した(と思われる)研究と同一視され、 「本来の倫理学は大人が忘れている深遠な問いを考え抜くという作業」 というような好意的な理解はなされないようだ。

しかし、ここまでの説明を読めば、 倫理学は永井氏が考えているよりも懐の深い学問であることは明白だろう。 もちろん、永井氏のような倫理学の定義もありえるし、 倫理学をそのようなものとして理解している人も大勢いるかもしれないが、 ここではそのような一つの(たとえば現代の日本社会で優勢な)道徳観を「倫理」 と呼び、永井氏が行なっているような、 「なぜその道徳に従うべきか」あるいは、「なぜ道徳一般に従うべきか」 という問いも含めて研究する学問を「倫理学」と規定した。 (Graylingやシンガーの引用における区別も、 この点を問題にしていることに注意せよ)

以上、 倫理学を学びたい人が永井氏の一文を読んで倫理学を軽蔑するようになり、 その結果あやまって哲学の講座(やそれ以外の講座) に流れてしまうのを防ぐために書いておく。

22/Jul/2003


関連文献


上の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sun Apr 12 17:41:34 JST 2015