(べんたむ Bentham, Jeremy)
[片目の男] For our own part, we have a large tolerance for one-eyed men, provided their one eye is a penetrating one: if they saw more, they probably would not see so keenly, nor so eagerly pursue one course of inquiry. Almost all rich veins of original and striking speculation have been opened by systematic half-thinkers.
[法学の科学化] He [Bentham] found the philosophy of law a chaos, he left it a science: he found the practice of the law an Augean stable, he turned the river into it which is mining and sweeping away mound after mound of its rubbish.
[後期思想の急進化] [I]n the early part of his life Bentham did not devote as much attention to the constitutional branch of law as he did to the penal and civil branches; in his late, democratic phase he was apt to suggest that in his younger days he had been naive in neglecting the political dimension and in imagining that those in power `only wanted to know what was good in order to embrace it' (B x 66).
---John Dinwiddy
[自由主義的傾向] Bentham's vision is of a society where each individual can live his life in security, with adequate subsistence, the prospect of abundance and an ever-increasing equality. [...] The security that he seeks to establish is not enslavement, but a realm of personal freedom where each person can define and pursue his own idea of happiness so long as he does not endanger the security and subsistence of others.
---Fred Rosen
ベンタムの功利主義は道徳的内容を欠いていたので、 その主唱者たちは各人、好きな内容を補った。
---Shirley Robin Letwin
ベンサムの功利主義に対する最も広範にわたる批判は、 当時の偉大な文学者の何人かによってなされた。 これらの批判はしばしばベンサムの思想の大きな誤解に基づいている。 ベンサムは、最大化されるべき功利を快楽や幸福と同一視したが、 快楽や幸福が生ずる要因にはいろいろなものがある--これらは、 感覚から生ずる以外に、理性や友情や名誉などからも生ずる--と考えたのに対し、 彼を批判した人々のある者は、これを単なる感覚的快楽と同一視した。 そして、 ハズリットやカーライルやディケンズといった他の批判者たちは、 功利が単に苦しい労働の代価として生産される物質的財産のみを意味するかの如く、 功利を生活の喜びや幸福とは別のものとさえ見なしたのである。 ディケンズは、功利主義的精神とは、冷酷な現実に人間の精神をがんじがらめに することである、と述べた。
---H・L・A・ハート、 『権利・功利・自由』、小林公・森村進訳、木鐸社、1987年、50頁
私は、語彙ではなく、観念を翻訳した。
---E・デュモン、 J・ベンタム著/E・デュモン編、『民事および刑事立法論』、 勁草書房、1998年、 3頁(緒論)
わたしが研究している英国の思想家(1748-1832)。 一般にあまり偉いとは思われていないが、 もしかするとその通りかもしれない。
くわしくはこのページを参照せよ。 ベンタム入門のページも参考になる。
04/May/2001更新; 17/May/2001更新
道徳の科学を目指したベンタムは、 何でも足し引きできると考えているふしがある。
たとえば、ベンタムによれば、 社会はその構成員の総和によって成り立っている (『序説』第一章)。 この主張はそれほど問題ではないが、 「社会全体の幸福は、その構成員全体の幸福の総和である」 となどと、ロールズが怒りだして、 「功利主義は個人の個別性を真面目に考えていない」(『正義論』第5節) と批判されることになる。
それだけではない。 ベンタムに言わせれば「世論は個人の意見の総和」であるが、 多様な意見が予想されるなか、 どうすれば世論を足し算できるのか謎である。
また、人々の快あるいは幸福の総和最大化を実現するためには、 ある行為によって生じる快苦の量を各人ごとに正確に計り、 他の人々の快苦と比較する必要があるだろう。 しかし、ここには大きな問題が二つあり、 (1)太郎くんの快の量を正確に計ることはできない、 (2)たとえ太郎くんの快の強度と花子さんの快の強度をそれぞれ計ることが できたとしても、二人の快の強度を比べることはできない、と批判される。 とくに後者は(個人間の効用比較の不可能性という 名前で呼ばれる有名な問題である。
さらに、総和最大化--あるいは加藤尚武流に言うと 「どんぶり勘定」--の考え方は、「幸福の配分」という問題を無視しており、 そのため少数者の犠牲が正当化されてしまう、という批判もある。 たとえば、奴隷制を認めることによって社会の幸福が促進されるならば、 功利主義によれば奴隷制が認められる。また、無実の人を処刑することによって 暴動が防げるという事態が生じた場合、それも許されることになる。しかし、 これらは個人の人権を無視した考え方である、と批判される。 以下はハートの文章である。 ここでハートが引用している「人間の間の区別を真剣に尊重していない」というのは、 ロールズが『正義論』で用いた表現である。
現代におけるこのような批判的攻撃の要点は、 功利主義は「人間の間の区別を真剣に尊重していない」という主張にある。 というのも、功利主義は個々の事例において、もしそれが集合的福祉を 促進することが立証されうるときは常に、個人に犠牲を課することを 許容するからである。この見解によると、個人の人格は如何なる内在的 価値をも有してはおらず、内在的価値を有するのはただ集合的福祉であり、 個人は単にこの内在的価値を増大させたり減少させたりする諸経験の 受容器にすぎない。
H・L・A・ハート、『権利・功利・自由』、小林公・森村進訳、木鐸社、 1987年、53頁
また、ハートはベンタムの奴隷制反対論を次のように説明している。
彼[ベンサム]は普遍的権利の如何なるドクトリンにも左袒せず、 奴隷制に対しては、ミルならば「普通の便宜」の理由とでも 呼ぶであろうような理由による反論を加えるだけで満足していた[…]。 だからベンサムの反論は奴隷制という状態それ自体に対するものではなく、 大規模な奴隷制に対するものであり、特に、奴隷労働は安全を欠き 労働意欲を減退させるので、有給の自由な労働の方が生産的だ、 というものだった。彼の主張は、奴隷一人の状態の悪はそれ自体としては 甚大ではないことがあるかもしれないし、功利主義的理由によれば奴隷所有者 にもたらす利益によってそれは帳消しにされることがあるかもしれないが、 奴隷制は一旦確立されてしまうと多数の人々を捲き込むことになりがちだ、 というものだった。「もし奴隷制の悪が甚大でないとしても、 その広がりの故にそれは重大なものとなるだろう。」
H・L・A・ハート、『権利・功利・自由』、小林公・森村進訳、木鐸社、 1987年、85頁
とはいえ、功利主義がまったく平等に価値を見出さないわけではない。 ミルが『功利主義論』の 第5章で 論じるところによると、ベンタムは「誰でも一人として数え、 誰も一人以上として数えない」と言ったとされる。 ただしこれは、功利計算をするさいに、各人の利益は平等に計算に入れると 述べているだけで、上で述べたような少数者の犠牲が生じないことを保証す るものではないと批判される。
功利主義は、よい意味において、「人によるえこひいきをしない」 (no respector of persons)[…]。 そのわけは、もし正と負の価値の要素が快楽と苦痛、 あるいは欲求の満足と不満足の経験以外にないならば、 集合的幸福を最も増大させるものを決めるに当っては、 異なる人々の同一の快楽と苦痛、満足と不満足には同じ重さを与えなければ ならないからである。 身分や人種や性や宗教や年齢や知性の相違は、人間の行動によって惹き起される 快楽や苦痛の量や強さに影響する--時にはそんなこともあるかもしれない--ので ない限り、道徳上意味を持たない。 苦しみはそれが誰の苦しみであろうと苦しみである。 そして苦しみが等しいなら、相手が黒人であろうが白人であろうが、 女であろうが男であろうが、ユダヤ人であろうがキリスト教徒であろうが、 愚か者であろうが賢い者であろうが、それを加えることは同様に悪いのである。 「誰でも一人として数えられる。」 (中略)
しかしベンサムの功利主義のこの平等主義的な側面は、 善悪の尺度としての一般的福利の計算から無関係な偏見を排除するには役立つが、 個人権の基礎づけとしては役立たない。 功利主義に敵対する今日の数多い哲学者たちが明らかにしようと努めてきた通り、 功利主義は原理上、正味の福利の集合を増大することが示されうる限り、 罪のない個人に犠牲を課することを許すのである。H・L・A・ハート、『権利・功利・自由』、小林公・森村進訳、木鐸社、 1987年、86-7頁
功利主義の大きな問題とされるのは、「社会の一般的福祉」という概念が あいまいなために、個人の権利を無視したあらゆる残虐な行為が 「公共の福祉」の名のもとで正当化されてしまう可能性がある、 という点である。たとえば、「社会の一般的福祉」のために信仰の自由を 禁止すべきだ、など。多くの哲学者は、 二十世紀前半の残虐行為はすくなからず功利主義的思考に原因があると考えており、 それゆえ人権の重要性を主張するに至っている。次もハートからの引用である。
H・L・A・ハート、『権利・功利・自由』、小林公・森村進訳、木鐸社、 1987年、55-6頁
最近の半世紀の間、人間が他の人間に対しどれほど非人道的な態度をとったかは、 例えば、最も基本的で根本的な自由や保護が数えきれない人々に対し拒否されて きたことに示されている。(中略) そしてしばしば彼らに対する自由や保護の拒否は、これが社会の一般的福祉の ために必要であるというもっともらしい主張に基づいてなされてきた。 それ故、国家が市民に対してなしうることを制限する基本的人権の理論の擁護こそ、 まさに我々自身の時代の政治的問題がきわめて緊急に要請していることと思われ、 あるいはいずれにしても、一般的功利を最大化すべきであるという要求よりも はるかに緊急に、政治的問題は上記の理論の擁護を必要としているのである。
最後に、ベンタムは基本的に人間は利己的だと考えているが、 (1)どうしてこういう人間が集まって社会をつくるのか、 (2)なぜこういう人間が「最大多数の最大幸福 を促進せよ」という功利主義に従うのか、 また(3)どうしてこういう人間が民主主義社会でうまくやっていけるのか、 さらに(4)なぜ利己的な人間が集まって意見を言い合うと、 社会の利益を重んじる世論が形成されるのか、 いろいろと疑問が生じる。
10/Jun/2001更新; 11/Jun/2001更新
Worksはバウリング版全集、 CWは新版全集のことです。
Obey Punctually, Censure Freely
Under a government of laws, what is the motto of a good citizen? To obey punctually; to censure freely.
--A Fragment on Government, in Works I, p. 230 and CW: A Comment on the Commentaries ..., p. 399Want Is Not Supply, Hunger Is Not Bread
In proportion to the want of happiness resulting from the want of rights, a reason exists for wishing that there were such things as rights. But reasons for wishing there were such things as rights, are not rights; -- a reason for wishing that a certain right were established, is not that right -- want is not supply -- hunger is not bread.
--Works II, p. 501; cf. Works III, p. 221Nonsense upon Stilts
Natural rights is simple nonsense: natural and imprescriptible rights, rhetorical nonsense, -- nonsense upon stilts.
--Works II, p. 501.Natural Right Is A Son That Never Had a Father
Right and law are correlative terms: as much so as son and father. Right is with me the child of law ... A natural right is a son that never had a father...
A natural right is a species of cold heat, a sort of dry moisture, a kind of resplendent darkness.
--Supply Without Burthen in Nonsense Upon Stilts (Jeremy Waldron ed.), p. 73, and Jeremy Bentham's Economic Writings (Werner Stark ed.), p. 334; cf. Works II, p. 523.Securities, Instead of Rights
If in place of the words securities and misrule, you employ such a word as right, a cloud, and that of a black hue, envelops the whole field. The attitude you take is restless, hostile, and menacing. You shew that you are in discontent, but you shew no clear grounds for your discontent. What you give intimation of is--though even to this no explicit expression is given--that some rights of yours have by somebody or other been violated, and that a determination has been formed by you not to sit still and see them violated any longer. But these rights the violation of which is thus declared, from what source is it that they are derived? To any such word as right no clear conception can ever be attached, but through the medium of a law, or something to which the force of law is given: from a really existing law comes a real right: from a merely imagined law nothing can come more substantial than a correspondently imagined right. Lay out of the case the idea of a law, and all you get by the use of the word right is a sound to dispute about. I say I have a right: I say you have no such right. Men may keep talking on at that rate till they [are] exhausted with vociferation and rage, and when they have done be no nearer to the coming to a mutual conception and agreement than they were before.
Securities against Misrule, p. 23.
Proportion between Crimes and Punishments
Establish a proportion between crimes and punishments, has been said by Montesquieu, Beccaria, and many others. The maxim is, without doubt, a good one; but whilst it is thus confined to general terms, it must be confessed it is more oracular than instructive.
in Works I, 399.Utility and Equality
Each man has an equal right to all the happiness that he is capable of. Or to say the same thing in other words and to evade the obscurity which is attached to the idea of right: given any assemblage of men, any independent superior being who is benevolent enough to interest himself in their condition and to find pleasure in the idea of their well-being without having any personal interest which would lead him to prefer one among them to another, will naturally find an equal pleasure in contributing to the happiness of any one among them as well as another. The happiness of any of them has no more value in his eyes than the equal happiness of any other. Nevertheless, any greater happiness obtained by any one among them has more value, in proportion to its quantity, than a lesser happiness obtained by another.
(Mack, M. P., Jeremy Bentham: an odyssey of ideas 1748-1792, London 1962, p. 449)Each has an equal desire for happiness. Although some differences were found in this respect, these differences, not being susceptible of any proof or measure ... [cannot be drawn up in an account]. In any case, this general proposition is found approaching closer to the truth than any other which can be put in its place.
(Mack, M. P., op. cit., p. 450)What are the advantages to be expected from equality? [It] ... has qualities which are within the radius of all minds, which serve to recommend them to all hearts. They are so simple to grasp, they agree so well with the theory, or if one wishes, the fashion of speaking, of imprescriptible rights. This theory, though considering how obscure and founded on the hollow base of ipse-dixitisim it is, is not the less alluring.
Any unequal plan whatever, whatever were its good points otherwise, would always have this disadvantage over the equal: in order to show its utility, it requires demonstrations less capable of being presented to everybody in a successful fashion....
Inequality of law (of right): there is at least an inequality of dignity, inequality of consideration: inequality of that pleasure which depends upon the esteem and love of others; and is that pleasure nothing? ...
(Mack, M. P., op. cit., pp. 450-1)On Fallacy
The more abstract - that is, the more extensive the proposition is, the more liable is it to involve a fallacy. Of fallacies, one of the most natural modifications is that which is called begging the question - the abuse of making the abstract proposition resorted to for proof, a lever for introducing [...] the very proposition which is admitted to stand in need of proof.
(Anarchical Fallacies, Preliminary Observations)Bentham on Animals
Under the Gentoo and Mahometan religions, the interests of the rest of the animal creation seem to have met with some attention. Why have they not, universally, with as much as those of human creatures, allowance made for the difference in point of sensibility? Because the laws that are have been the work of mutual fear; a sentiment which the less rational animals have not had the same means as man has of turning to account. Why ought they not? No reason can be given. If the being eaten were all, there is very good reason why we should be suffered to eat such of them as we like to eat: we are the better for it, and they are never the worse. They have none of those long-protracted anticipations of future misery which we have. The death they suffer in our hands commonly is, and always may be, a speedier, and by that means a less painful one, than that which would await them in the inevitable course of nature. If the being killed were all, there is very good reason why we should be suffered to kill such as molest us; we should be the worse for their living, and they are never the worse for being dead. But is there any reason why we should be suffered to torment them? Not any that I can see. Are there any why we should not be suffered to torment them? Yes, several. See B. I. tit. (Cruelty to animals.) The day has been, I grieve to say in many places it is not yet past, in which the greater part of the species, under the denomination of slaves, have been treated by the law exactly upon the same footing, as, in England for example, the inferior races of animals are still. The day may come, when the rest of the animal creation may acquire those rights which never could have been withholden from them but by the hand of tyranny. The French have already discovered that the blackness of the skin is no reason why a human being should be abandoned without redress to the caprice of a tormentor. It may come one day to be recognized, that the number of the legs, the villosity of the skin, or the termination of the os sacrum, are reasons equally insufficient for abandoning a sensitive being to the same fate. What else is it that should trace the insuperable line? Is it the faculty of reason, or, perhaps, the faculty of discourse? But a full-grown horse or dog, is beyond comparison a more rational, as well as a more conversible animal, than an infant of a day, or a week, or even a month, old. But suppose the case were otherwise, what would it avail? the question is not, Can they reason? nor, Can they talk? but, Can they suffer? (IPML, pp. 282-3 note)
What farther limitations the apparent intention of the legislator may receive from the consideration of any other circumstances that may present themselves to view is not to the present purpose. From the practice of most nations and the disposition of most legislators it would indeed be a very natural conclusion to make that the protection afforded by this law was not meant to extend to any more ample class of beings than that which is composed of human creatures. But such a conclusion though a natural would not like the former be a necessary one. Take for instance for your legislator a Pythagoras, and to make him a little more consistent let him be as studious to preserve his friends of the brute creation from being killed as from being eaten: and if this be not enough, tincture him with a spice of Quakerism, and let him be as averse to the destroying of the lives of his fellow-animals as that inoffensive sect are to the shedding of the blood of their fellow-men. Even now, absurd as the opposite conclusion might appear in Europe, it would hardly appear equally so in Hindostan. (Of Laws In General, pp. 48-9 note)