カント

(かんと Kant, Immanuel)

人間は、いわば曲った木である、この曲木から真直ぐな材木を切り出そうとしても、それはできない相談である。

---カント

カントが生きているあいだ、 妹たちはずっとケーニヒスベルクに住んでいた。 ケーニヒスベルクは当時、わずか人口五万人の小さな街にすぎない。 それなのに、カントは結局、二五年以上ものあいだ、 妹たちの誰とも会わなかった。
たまりかねた一人がカントのもとを訪れると、 カントは相手が誰なのかすら、分からなかったという。 妹が名乗ると、今度は居合わせた人たちに、 妹の教養のなさを詫びたという。 カントがようやく手にした教授の地位を鼻にかけていたわけではない。 よく知られているように、カントは「馬鹿」に我慢ができなかったのである。 たとえ身内であっても、「馬鹿」は許せなかった。 ただそれだけなのだ。

---ポール・ストラザーン

カントは科学の崇拝者であった。カントは厳密な、 きわめて透明な精神の持ち主であった。 彼は理解し難い書き方をしたが、厳密さを欠いたことは滅多にない。 彼は自身、卓越した科学者であった(彼は天文学者であった)。 彼はおそらく、他の誰よりも深く科学的な原理を信じていた。 彼は、 科学的論理と科学的方法との基礎を説明することを自らのライフワークと考えていた。 彼は、どんな点においても熱狂的で混乱したあらゆるものを嫌った。 彼は論理を好み、厳格さを好んだ。 彼は、これらの性質に反対する人々をたんに精神的に怠惰な者とみなした。

---バーリン

性的共同態[commercium sexuale]とは、或る人間が他 の人間の生殖器および性的能力についてなす相互的な使用[usus membrorum et facultatum sexualium alterius]であって、それは、自然的な 使用[これによって同人と類似のものが産出される]であるか、あ るいは不自然な使用であるかのいずれかであり、そして後 者は、同性の人格に対して行なわれるか、あるいは人類以外の動物に対して行 なわれるかのいずれかである。これらの(不自然的使用という)法則侵犯は、口 に出すのもはばかられるような反自然的背徳[自然に反する肉欲の罪crimina carnis contra naturam]であって、われわれ自身の人格のうちなる人間性の 侵害として、全く何らの制限や例外もなく、全面的な断罪に値するものである。

---カント

エンサイクロペディア・ブリタニカでは、次のように述べられている。「彼[カ ント]は一度も結婚しなかったので、彼は若い頃の研究熱心な習慣を老年まで保 ち続けた」。この項目を書いた人は、独身者だったのだろうか、既婚者だった のだろうか。

---ラッセル


ドイツの偉い学者(1724-1804)。 他人や偶然的な(あるかないかわからない)事柄に依存するのを極度に嫌い、 自律の倫理学を説いた。

理性の公共的使用

カントは「啓蒙とは何か」(1784年)において、 啓蒙とは人が未成熟の状態から抜け出すことであるとし、 「理性の公共的使用」によって社会全体に啓蒙がもたらされると主張した。 理性の公共的使用とは、 「教養のある人が読者層全体に向けて自由に発言すること」である。 (それに対して、理性の私的使用とは、 「特定の役職に就いている人の理性の使用」のこと。 この場合は、上司の命令を批判する自由は制限されてよいとカントは述べている) 要するに、表現の自由を通じて批判的な世論が形成されることによって 啓蒙がなされていくわけである。 それだけでなく、 カントは武力ではなく理性的な討論によって議論が調停されることにより、 永遠平和がもたらされると考えていたようだ。

なお、思考は素材としての直観と形式としての思惟の二つが必要であることを説いた 「内容なき思惟は空虚であり、概念なき直観は盲目である」というカントの有名な 一文は、「〜なき〜は空虚であり、〜なき〜は盲目である」という形で、 いろいろな風に用いられる。

2002年度の授業のPPTファイルも参照せよ。

(27/Nov/2002); 09/Jan/2003追記; 22/Jul/2003; 26/Sep/2004


参考文献


冒頭の引用は以下の著作から。


KODAMA Satoshi <kodama@ethics.bun.kyoto-u.ac.jp>
Last modified: Sun Jun 25 12:08:28 JST 2017