体験談(投稿手記) 米本 亮
「回復を伝えられる自分であり続けるために~薬物にまつわる経験を通して学んだこと~」
1 はじめに
はじめまして、覚醒剤依存症の米本 亮と申します。
私は現在39歳で、精神科に特化した訪問看護ステーションでピアスタッフとして働いています。
主な業務は事務と、依存症の利用者への同行訪問です。
覚醒剤で底をついた際に医療機関につなげてくれた所長の力になりたい、と思ったのがきっかけで現在の職場で働くようになりました。
現在依存症で苦しんでいる方やそのご家族のお役に立てればと思い、薬物にまつわる経験を通して得たことや学んだことをお話したいと思います。
2 薬物を使用したきっかけ
私は中学から大学までエスカレーター式に進学できる学校に入学したものの、素行が悪く大学へは進学できませんでした。
そんな時に親戚の勧めでオーストラリアに留学することになりました。
私が初めて薬物を使用したのは高校卒業後オーストラリアに留学した際、ホストブラザーに勧められた「大麻」でした。
高校を卒業して一週間もたたないうちに単身渡豪し、温かいホストファミリーに迎えられました。
初めての海外生活で心細い思いでいるなか、ホストブラザーから誘われ好奇心半分、仲良くなりたい気持ち半分で誘いに乗りました。
「大麻」を吸うとどんなくだらないことでも面白く感じられ、食欲が湧き上がり、何を食べても大変おいしく感じられました。
間もなくほぼ毎晩、ホストブラザーと一緒に「大麻」を吸うようになりました。
オーストラリアは「大麻」に関しては比較的鷹揚で、ホストファミリーや学校の先生や校長に「大麻」の使用が露見しても注意を受ける程度で、処分を受けたり通報されたりということはありませんでした。
語学学校の友人やスケート仲間と日常的に「大麻」を吸うようになりましたが学校には通えていたし、依存しているかどうか考えることもなく特に問題だとも思っていませんでした。
その後語学学校を卒業し大学に入学したのをきっかけにシドニーに転居しました。
シドニーにはバーやクラブ等夜遊びする場所がたくさんあり、毎晩遊び歩くようになりました。
プールバーで声を掛けられた裕福な家庭の一人息子と仲良くなり、彼から「MDMA」や「LSD」をただでもらえるようになり、毎日薬物を摂取して遊びまわる生活が始まりました。
学校にも行かなくなり大学は中退し、一部返金された入学金も遊びに使いました。
学生ビザだったためすぐに専門学校に入学しましたが、学校にも「LSD」を使った状態で通い、夜も遊びまわっていました。
専門学校はなんとか卒業して、日本に約三年ぶりに帰国しました。
親元での生活に加え、お金を出して薬物を買う習慣がなかったので全く薬物を使用しない生活に戻りました。
この時、特に離脱症状や薬物への渇望が無かった為、自分は薬物依存症ではないと思い込んでいました。
3 仕事のために「覚醒剤」を
日本に帰国後アルバイトを経て、父親の経営する会社に入社しました。
その会社は長年続く老舗の建設会社で、当時父が社長兼関東支店長、兄は既に父と共に関東支店で働いていました。
最初は私も支店に勤めましたが、当初はあまり仕事には真剣に取り組んではいませんでした。
関東支店に入社して4年程経った頃に関西にある本店から、兄か私のどちらかを本店に転勤させるよう指示があり、兄は繊細な性格で親元から離れた経験がなかったため私が本店に転勤することになりました。
この時父親に「本店に転勤するのが嫌なら会社を辞めろ」と言われ、仕方なく関西に転勤しました。
関東支店では社長の息子ということで甘やかされていましたが、本店では大変厳しく指導を受けました。
しかしながら真剣に仕事をすることで誰かの役に立てる喜びを感じることができ、人々の熱い想いに触れ責任感や情熱をもって仕事をするようになりました。
もともと何かに真剣に取り組むと完璧主義で妥協ができない性格で、先輩や同僚等仕事仲間の想いや長年続く会社の歴史の重みを背負いこみ、休暇を取ることができなくなりました。
仕事以外で自分の時間を過ごすことができず、やがて睡眠時間も3〜4時間程度しか取れなくなりました。
その頃、趣味の音楽関係の知り合いと会う機会があり、仕事についての悩みを相談した際に「寝ずに仕事ができる薬物がある」と「覚せい剤」を勧められ売ってもらうようになり、徹夜で仕事をしたい時に使用するようになりました。
同時に「大麻」や「MDMA」を売ってもらい、遊ぶ時にはそれらを使って遊ぶようになりました。
「覚せい剤」は寝ないで仕事をしたい時に使っていたため罪の意識はなく、むしろ仕事のために「覚せい剤」を買うお金を使い、体も酷使していたため、自分を犠牲にして会社に奉仕しているような意識でした。
薬物を再使用するようになってから半年程経った頃、薬物を一緒に使用していた仲間が警察に保護され、私が一人暮らししていた部屋に警察が来て出頭命令を受けました。
すぐに社長である父に薬物を使っていたことと警察から出頭命令を受けたことを話すと、その晩東京から父が私の部屋に来て「出頭し、罪を認めて逮捕されてくるように」と言われました。
この時私は父に見放されたように感じました。
出頭し正直に罪を認める条件として「会社内で私が覚せい剤を使用することになった経緯を話し、異常な仕事量や労働環境の改善をするきっかけにして欲しい」と父と約束しました。
しかしその約束は守られることなく、逮捕されたことを含め全て隠されてしまいました。
逮捕され刑事の取り調べを受け全てを正直に話し、薬物の使用に至った経緯に同情の余地があること、初犯であること等から実刑1年半執行猶予3年の判決を受けました。
逮捕され裁判を受けながらも未だ自分が依存症であるとは思っておらず、薬物を使用すること自体は悪いことだとは思っていませんでした。
善悪は使用する理由による、と思っていました。
そのためか執行猶予判決を受ける際に、実家で生活し親の監視下で常識的な生活をすることが条件とされました。
4 仕事の再開~兄の死~強制入院
判決後会社を退職し東京の実家に帰り、ハローワークに通い職探しをすぐに始めました。
建築関係以外の資格は特になく、両親の希望で建築関係以外の仕事を探したためなかなか仕事は見つかりませんでした。
何十社も履歴書を送っても一社も面接すらしてもらえず、その度に自分は社会にとって必要の無い人間なのではないか、という想いを強く感じました。
職探しを始め半年ほど経った頃、兄が父に働きかけてくれて兄の担当する現場の監督をさせてもらうことになり、関東支店で再雇用されることになりました。
兄の想いに報いるため、会社への償いのため一所懸命働きました。
やがて現場監督としての功績が認められ関東支店に正式に再雇用となり、以前と同じように数箇所の現場を担当するようになりました。
関東支店では社長である父と後継ぎである兄と一緒に仕事をするため、家庭の話題も自然と仕事に関することが中心となり、仕事漬けの日々に逆戻りしてしまいました。
兄と私は長年続く会社の古い体質に懸念を抱き、将来に強い不安を感じるようになり、兄弟で力を合わせ会社の体質改善を図ろうと誓い合いました。
やがて保守的な父と改革を進めたい兄と私で対立するようになり、自宅でも仕事に関して言い争いをするようなことが増えました。
それから数年後兄は結婚し、実家を出て新婚生活を始めました。
兄は結婚後も仕事漬けの毎日で、家庭の時間が持てない不満や将来への不安は募り、父を含む保守的な同僚や役員達に改革を阻まれ続けた結果、結婚から一年もたたないうちに兄は自分で命を断ちました。
その後ずっと我が家は普通ではありませんでした。
母は兄のお骨のあるリビングで寝起きをし、出掛けることもなくなり笑わなくなりました。
父は私と共に会社の体質改善に乗り出してくれましたが保守的な役員や社員はなかなか変わらず、二人で途方に暮れる毎日でした。
その後夜間工事や大規模工事を担当していた社員が退職し、私は社内の統括業務と夜間工事を含めた現場担当を兼務せざるを得なくなりました。
そして以前と同様に寝ないで仕事をするため、薬物を再使用するようになりました。
この頃は「脱法ハーブ」(現在の危険ドラッグ)が流行していて、眠気を覚まして仕事をするために「覚醒剤」を使用し、仕事の合間で寝る時間があるときは「脱法ハーブ」を使用して眠気を誘い眠るようにしていました。
段々と記憶力も弱くなり思考がまとまらず、様々なことに被害的に考え仕事にも支障をきたすようになりました。
そんなある日、会社のトイレに覚醒剤を炙る道具を置き忘れ、それを上司が発見したことで退職となり、両親から病院に入院するよう説得されました。
入院時に面会できるのは家族のみということもあり、当時付き合っていた女性と入院直前に入籍し、静岡県内にある病院に入院することになりました。
しかし私には全く病識がなく、あくまで両親や妻に入院させられたという認識でした。
入院期間は三ヶ月で病棟は閉鎖病棟、様々なプログラムに参加しましたが「自分は病気じゃないから関係ない」「家族にのけ者にされた」「他の患者と自分は違うんだ」という気持ちが強く、全て「やらされている」としか受け取れませんでした。自分が不在でも家族も会社も変わりないことから「自分には生きる意味も存在意義もない」と思うようになり、鬱状態になり毎日「死にたい」と口にするようになりました。
退院後もしばらく鬱状態が続き、以前と同様に職探しをしても職が見付からず自信もなくなり落ち込んでいました。
半年ほど無職の状態が続き、父が見兼ねて知人に口利きをしてくれて別の建設会社に勤めることになりました。
路頭に迷っているところを拾ってもらった恩に報いたい、という気持ちからまたがむしゃらに働くようになりました。
この会社の社長は、私をあくまで父の会社の跡継ぎとして三年という期限つきで預かり、跡継ぎとして育て上げてお返しすると言って下さいました
しかし受ける恩や気持ちが強ければ強いほど、恩に報いなければ、期待に応えなければという気持ちが強くなり、やがて歯止め無く仕事をするようになり、再度「覚醒剤」を使用するようになりました。
それでも私には病識がなく、仕事を言い訳にし自分を正当化して「覚醒剤」を使用していました。
5 「自分の無力」を認め、自分の意思で入院
二年前のクリスマスイブの日、兄の墓参りに行こうと妻と出掛けた際にささいな事から妻と言い争いになりました。
千葉県内のコンビニの駐車場で妻に刺されそうになり、観念して警察に通報し逮捕となりました。
妻と薬物を使用するに際の約束事として、どちらかの身に危険が及びそうな場合は躊躇することなく通報し警察に保護を求める、と決めていたのです。
振り返るとこの時点ではまだ当然、「覚醒剤」の影響下にありましたが、初めて薬物に対し「自分の無力」を認められた瞬間だったように思います。
逮捕後に弁護士を選択する際には費用の関係で国選弁護士に弁護を依頼していましたが、古くからの友人でもあり現在の上司でもある佐藤所長からの紹介で、薬物事案に詳しい私選弁護士に弁護を依頼することになりました。
取調べも済み拘置所へ送致され、数日が経った頃佐藤所長が面会に来て私に入院加療を勧めてくれました。
その頃の私はまだ薬物依存について理解しておらず「薬物を使用し家族や会社や友人に迷惑をかけるのは、自分がだらしなく、意思が弱く、責任感がないからだ」と毎日自分を責めていました。
しかし面会の際の所長の「繰り返すのは意思が弱いのではなく薬物依存症という病気のせいで、ちゃんと治療すれば回復する」という一言で心から救われました。「薬物をやめたい、依存症の治療をしたい」という意思を所長に伝え下総精神医療センターへの入院手続きを取ってもらい、保釈を受け自宅には戻らずそのまま入院することになりました。
自発的に選択した二度目の入院生活は強制的に入院させられた前回の入院生活とは対象的で、非常に前向きに取り組めました。
主治医である平井愼二先生による条件反射制御法で薬物への欲求を消し、内観療法等で自分の感情を詳細にふり返ることで感情のコントロールを身につけることができました。
退院した後、保釈期間中ということもあり実家で何もせず退屈な毎日を過ごしているとき、佐藤所長が会いに来てくれて「新しく精神科に特化した訪問看護ステーションを開設した」と言いました。
事務業務が追いつかず苦労しているとのことだったので手伝いを申し出て、保釈期間中ながらアルバイトの事務員として現在の訪問看護ステーションに勤めることになりました。
過去に業務過多が薬物への引き金となった経緯があったため、就労に際し無理な残業はしないことと定期的な外来通院と薬物検査の継続を約束しました。
やがて判決日を迎え、入院加療し治療を継続していること、既に就労し社会復帰を果たしてしていること、家族や職場の上司等理解のある人々の支援があること等が評価され、執行猶予付きの判決をいただくことができました。
6 私が薬物を通して学んだこと
判決後すぐに正規雇用していただき、現在は運営事務を二店舗兼務しながら必要に応じて訪問看護に同行し、薬物依存から回復した経験を生かした仕事をさせていただいています。
普通ならマイナスでしかない薬物依存症や逮捕された経験を生かすことができる今の仕事は、自分にとって天職だと思っています。
近頃は自分の薬物による失敗や回復している経験を伝えることによって、現在薬物依存で苦しんでいる当事者や周囲の方々の一助になりたい、という思いが強くなりました。
また自分にとっても「回復を伝えられる自分であり続けたい」と思うことが薬物の再使用に対する抑止力となっていると感じています。
薬物を通して、自分の弱さを認めることができるようになりました。
薬物を通して、自分ではどうにもならない事があることを知りました。
薬物を通して、自分で変えられるのは自分だけであることを知りました。
薬物を通して、自発的でないと何も身に付かないことを知りました。
薬物を通して、理解してくれる人の大切さを知りました。
薬物を通して、失敗した経験も、乗り越えて人に伝えることで誰かの役に立つことを知りました。
回復している今だからこそ言えますが、薬物を通して色々な経験をし、多くの人に支えられ、薬物をやって本当に良かったと思っています。