日々のことなど

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2016年7月30日(土)

色々と詰まっていて苦しい。大丈夫なんだろうか。

2016年7月27日(水)

くるりのアルバムPierを(いまさらながら)聴いた。あまりの素晴らしさに驚いた。正直、ここ最近、くるりの新譜は取り込んでもほとんど聴いていなかったので、Tsutayaのお兄さんに「10枚借りるとお安くなりますよ」と勧められなかったら借りることもなかった。お兄さん、ありがとう。

2016年7月20日(水)

法律の文献を読んでいると、たまに「特定の倫理観を持ち込んでいるのでダメ!」みたいな意見を目にする。しかし法律だって倫理を前提としなければ成り立たないのだから、ダメではない倫理があるのだろうな、それは一体どういうものだろうか…と疑問なのだが、論じられることはあまりない。まぁ…倫理学者の仕事ということか。

2016年7月19日(火)

ドイツの認知症研究に関する記事を探していたら、ヘッセン州で外来診療を扱う倫理コンサルテーションサービスが始まるという記事をみつけた。「この間、病院の倫理コンサルテーションは定着したが、外来の場面ではサービスが十分に行われていない」とのこと。ドイツにおいて外来を扱う診療所 (Praxis) に対するコンサルテーションサービスということか。そういえばドイツの倫理コンサルテーションを調べてから半年以上経つな。もうそろそろ情報をアップデートしておかないと。

2016年7月18日(月)

ベッケンフェルデの水門概念 (Schleusenbegriffe) のことを知る。これは興味深い。

2016年7月17日(日)

自分の研究テーマにとって重要な本と思ったが、内容は残念なものだった。章立ても文章も支離滅裂で、研究書として成り立っていない。長年このテーマに取り組んで来られた方の研究書だけに、非常に残念。まぁテーマ自体が書き手を混乱させる部分もあると思うのだけど…。

2016年7月10日(日)

今日の午後、ようやく自分の原稿に復帰。そしてさんざんのたうち回った箇所について、納得できる文章をぽつぽつと書くことができるようになってきた。が、明日からはまた諸事に忙殺される。今週はとにかく忙しいので、しっかり時間を管理しないと。

Zeitに、今回の参院選に関する記事が掲載されていた。タイトルは、「民主主義——お払い箱になるかもしれないもの」。現政権がしてきたこと、今回の選挙で2/3の議席を獲得したあとにするであろうことについて、批判的に取り上げている。FAZや南ドイツ新聞を中心に、明日以降同じ調子の記事がでることになるだろうな。日本のマスコミはどうか。

2016年7月7日(木)

夕食後、ZDFの「ドイツの22m2 とても小さな部屋での生活」という番組を観た。元々警察学校の宿舎だった集合住宅に住む、さまざまな事情を抱えた人びと——夫の家庭内暴力から逃げてきた人、バーンアウトをした人、不十分な年金しか受け取れない人——を取り上げたもの。もちろん気持ちが明るくなるわけではない。それでも知らないでいるよりはいい。

2016年7月6日(水)

引き続き坂口先生の著作に取り組む。坂口先生の哲学に対するスタンス、おそらく10年前ならおよそ理解できなかったスタンスに、今なら深く共感できる。そして坂口先生が描き出す、こうしたスタンスとヒュポスタシスの思想との結び付き——それは自分にとって、とても、というか<とてつもなく>重要な意味をもつ。

しかし、中世の思想家たちがしばしば私たちに注意をうながしたように、厳密に、明晰には語れないことの方が、人間にとって重要であり、価値あることがらである場合も多い。だからプラトンはあえて神話を語り、中世のある神学者たちは、神学はopinioつまりドクサだが、もっとも尊貴で重要なことがらについては、人はドクサしか語りえないと言った。ドクサを語るまいという純粋で禁欲的な態度は、哲学の良心のあり方かもしれないが、人間がものを考え、語る営みはそういう潔癖さを逸脱したところでも、それがドクサであることを意識しているかぎり、意味をもつのではあるまいか(224頁)。

2016年7月5日(火)

読まなければと思いつつ放置していた本を、ようやく読み始めた。広範な哲学史の知識に支えられた議論を理解するのは容易ではない。しかし生命倫理学を——理論的にも実践的にも——実り豊かなものにするためには、こうした議論を踏まえることこそ必要なのではないだろうか。

論理と分析は形を与えて守る武器であるが、解体する武器でもある。表現しがたい、まったく個的なもの、動的なもの、香りのようなもの、多様なものを、ロゴスはしばしばとらえそこなう。しかしそれでも、ロゴスを捨ててしまうことは、さらにもっと危険なことだと思われる。ロゴスのつねにめざさなければならない仕事は、ちょうど微積分の手続きのようなものだろう。論理の扱う直線性をのがれることを本質とする、多様で柔らかい現実の曲線をとらえるには、直線の細分という近似の努力によるほかない。その限界を知りながらも、もしそれを放棄すれば、とらえること自体が不可能になり、別の、より深い誤謬に陥りかねないことも、知っていなければならないだろう。坂口ふみ『〈個〉の誕生——キリスト教教理をつくった人びと』, 岩波書店, 1996年, 107頁.

2016年7月4日(月)

アメリカの5才の女の子が病院での治療ではなく、自宅での最期を希望し、最終的にその子の意思が尊重されたというニュース。Weltで知ったが、CNNの日本語サイトに詳細な記事が掲載されていた。

ニューヨーク医科大学の医療倫理部門を率いるアート・キャプラン氏は、「ジュリアナさんは非凡な女の子だった」「幼い子どもでも難しい病気のことをよく理解し、思慮深い意見を述べることができることを私たちに教えてくれた」と話す。
読者や視聴者の多くは一家の決断を支持したが、神経疾患を抱える一部の患者はこれに異を唱え、フェイスブック上で「親愛なるジュリアナ」と題したキャンペーンを展開した。

このケースを通じて、生命倫理学と障害学の溝はまた広がるだろうか。(ちなみにアート・キャプランって、あのアーサー・キャプランでいいんだよね…。)

2016年7月3日(日)

稲垣先生の『人格《ペルソナ》の哲学』を読み始める。「存在」の形而上学にどこまでコミットできるかは分からないが、生命倫理をも含めた現在の議論に対する批判には傾聴すべきものがある。

個人は個人として尊重されるべきである、という主張において、個人はたんに他のすべての個人から区別された「この人間」として、いわば三人称の或る特定の存在として捉えられるに留まっている。言い換えると、「この人間」は、様々な情報を外へ向けて発信するひとつの「点」にすぎず、その人間が「わたし」と言うときに意味しているはずの存在、すなわち「自己」についてはなんらあきらかではない。17頁